What Is Faith?: Basic Training with R.C. Sproul
訳出時間枠:最初から2分43秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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これも基本的で重要なテーマ。
前回のJohn MacArthur: Who Is Jesus?のメッセもそうだが、彼らが無償で提供してくれている基礎知識をしっかりとモノにして、御国拡大に役立てていきたい。
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最初のセッションで、使徒信条の公開陳述について考察しようと思います。
その内容の検討に入る前に、信条というものの歴史的背景について少しばかりお話ししようと思います。
creed(信条)ということばはラテン語のcredoから派生したことばであります。
これはどういう意味でしょうか。
ここに私が知っている牧師が何人かいますが、信条とは私は信じるという意味であります。
信条という概念は次のような背景から生まれました。
教会の信念や告白声明によって発生した多くの対立意見や敵意ゆえに、不愉快な感情を20世紀を生きてきたる多くの人々は持っていました。
まあ、信条なるものがなぜ必要なのかと多くの人は言うかもしれません。
新約聖書にさかのぼって調べられた初代教会の信条は極めてシンプルだったということは歴史が証明しています。
それは単純な確約、つまりイエスは主、というものでした。
イエスース ホ キュリオス。
イエスは主。
歴史の断片を組み合わせる時、すべての古代の資料が残存しているわけではないし、それらのいくつかは推論であったり、研究者の意見であったりします。
しかし、一般的コンセンサスとして、信条という考え方が徐々に現れてきたのは、新約聖書のごく初期、つまり初代教会時代であり、問答式の質問と決まり文句という形式でした。
教会に加わりたい人がいる。
その教会の洗礼のために、あるいは会員として受け入れられる前に、その人たちはある種の質問を受けました。
イエスが主であると信じますか。
あなたは唯一の神、万軍の御父を信じますか。
などなど。
つまり、初期クリスチャンコミュニティに加わりたい人々に与えられる洗礼や問答式決まり文句が、信条という声明だったのです。
それから、時が過ぎていくにつれ、教会は問答的な信条、すなわち質疑応答形式ではなく、ポジティブな意味合いを持つ信条を作るようになっていきました。
信条による教理的な告白の一致は、教会が関与するある種の問題によって引き起こされるのです。
例えば、2世紀に教会がグノーシス思想の攻撃下に晒された結果、聖書の列聖がもたらされたことなどが挙げられます。