みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Manifestation Of The Law Of Life, #12

2016年02月11日 | 聖書研究・信仰
これは確かに真実だ。

おしゃべりの例を見てみよう。

自分は言葉数がやたらと多いとしよう。

人と一緒にいる時もぶつぶつ言っていることが多い。

「さあどうしようか」

「私はクリスチャン」

「主の御名に栄光を帰するのなら、あまりしゃべらない方がシンプルでいい」

「さあ今日は、徹底的に自分をチェックしてみようか」

1~2時間経つがうまくいっている。

しかし、ちょっとしたはずみで自制心を失い、わけが分からずべらべらしゃべるのを抑えられなくなる。

意志など役に立たないことはすぐに判明する。

自分のおしゃべり癖を治そうと訓練を積みたいなら、キリストイエスにある命は要らない。

この世のくだらない宗教の方がよりお勧めだ。

再度考えてみよう。

終日静かにしていても、おしゃべりはおしゃべりのままだ。

彼を支配しているおしゃべりという「自然の」法則があるのだ。

桃の実が成っていようといまいと、桃の木は桃の木であるように。

キリスト者として、我々はうちに新しい法則を見出す。

それが命の御霊の法則だ。

この法則は他のすべてを超えて、我々をおしゃべりの「法則」からすでに解放してしまった。

主のことばを信じて、この新しい法則に従うなら、おしゃべりを止めるべき時を教えてくれる。

まだ喋りだすな、と。

命の御霊の法則によって、我々はそうする権威が与えられている。

これに基づくなら、友の家に出向いて行き、数時間あるいは数日滞在しても何ら問題は起きない。

この新しい命の法則に感謝しながら、帰途に着くことになるだろう。