小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

ニュールンベルグ裁判

2014-01-15 17:24:26 | 政治
東京裁判、同様、ナチス首脳を裁いたニュールンベルグ裁判も国際法からすれば違法と言わねばならない。

新しく作った法律でもって過去の出来事を裁く、という行為が誤りであることは、明白である。

(そんなことをされたんでは、たまったものではない)

ユダヤ人を500万人も殺したホロコーストも、それが、戦争と関連して、戦争に勝つために、国家が行った行為である以上、それは個人の殺人罪とは言えない。

ドイツ兵士の中でも、ユダヤ人を殺すことが、正義の行為だと思っていた兵士は、多く、いるはずである。

仮に、殺人罪として裁くのであれば、ナチス首脳に限らず、ドイツ兵士、全員を殺人罪として、裁かねばならない。

戦争の犯罪性の難しいところは。戦争による殺人は個人の犯罪とはならい。が、たとえば、アメリカ軍のグラマンによる、日本の民間人の機銃掃射が、人を殺す快感をともなっている点である。

戦争の犯罪性の難しさ。それは「人を虫ケラのように殺すことを楽しい遊びとしてする」これは、明らかに個人の殺人罪である。しかし、それが、国家が認めた、戦争という国家利益の追及ための行為の中で行われた、という点で正当化される、という点にある。

アメリカが日本に原子爆弾を落としたことは、殺人罪として、全く裁かれていない。

ナチスのホロコースト、つまりユダヤ人をガス室に入れて毒ガスで殺す、行為は、非人道的の極みだが、原子爆弾を投下して、無辜の民間人、罪のない女子供を大量に虐殺し、死ななかった人達には、原爆の後遺症で、死ぬ以上の、生き地獄を味あわせることは、やむを得ない、仕方のないことだったというのか?そんなのは連合国の勝手な言い分である。

残虐性を比較することは、意味のないことだが、死ぬより苦しい、生き地獄の後遺症に悩まされながら生かされるより、スッパリと殺される方が、まだ、むごたらしく苦しませない分、原子爆弾より、ナチスのホロコーストの方がまだ、まし、とも言えるはずだ。

東京裁判。原爆を落とした国が、何が、「平和に対する罪」だ。

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原子爆弾

2014-01-15 11:38:56 | 政治
アメリカは、太平洋戦争で、日本の広島、長崎に原子爆弾を落とした。

昭和天皇は、戦後の記者会見で、これは、「戦争であるから、やむを得なかったこと」と発言した。

日本は、一億玉砕、最後の一人まで戦う、と(特に精神主義の強い陸軍は)言っていた。

しかし、はたして、そうだろうか。

日本の内閣、軍部の首脳陣の数名を戦時中に、外交で、アメリカに連れて行き、原子爆弾を落とす実験を見せていれば、日本は、とても、この新兵器には、かなわないと停戦を申し出た可能性もある。日本も、原子爆弾の研究はしていたのだから。

あるいは、アメリカが原子爆弾を開発したことを日本に告げ、原子爆弾の実験のフィルムを日本政府に送っていても、日本は停戦を決定した可能性はあり得る。

アメリカには、日本に対し、そういう外交的な働きかけをしようとする人物はいなかったのか?

アメリカ大統領ルーズヴェルトに、そういう気持ちは全く起こらなかったのか?

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大川隆法

2014-01-15 05:28:43 | 考察文
幸福の科学の大川隆法は、田原総一郎との対談で、

「戦争とは、イデオロギーの対立であり、人類が進歩するために、より優れたイデオロギーの方が側が勝つ」

と言っている。氏はアドリブの発言なので失言が多い。これは全く間違っている。

なぜなら、戦争は、確かに、宗教対立(カトリックとプロテスタントなど)のように、イデオロギーの対立で起こる戦争もあるが、基本的に、

「戦争とは、基本的に、国家の利益を拡大(あるいは、守る)するために行うもの」

だからである。戦争の動機は国家のエゴであり、また、人類は、(大きな流れとしては進歩しているが)進歩ではなく、退歩することも、いくらでもある。

「歴史は繰り返す」である。

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予定調和

2014-01-15 04:41:10 | 考察文
ライプニッツの予定調和は、単純に同感できる。もちろん私も予定調和説を信じている。

しかし、ルネッサンスの宗教改革者のカルヴィンの予定調和の考え方には、疑問がある。

あらかじめ、人間の一生や、この世は、神の意志によって決定されている、と考えるのならば、その説を人に主張したり、働くことが大切だから、熱心に働け、と主張する必要もないことになる。なぜなら、人間の一生や、この世は、あらかじめ、神の意志によって決定されている、のであるから、何もカルヴィンが熱心に自分の意志で他人に働きかけて、影響を及ぼそうとする必要もない、ことになる。からだ。カルヴィンが自分の意見を主張しても、主張しなくても、人間の人生は、影響を受けないことになるからだ。予定調和は、(あらゆる)人間(特に思想家)の行動や教えが、人間の運命を変えない、という考えなのだから。

しかし、カルヴィンが、この世に生まれた事、カルヴィンの他者への働きかけの行動や教えも、あらかじめ神が計画したものであり、カルヴィン自身の行動や教えも、神の予定調和として、あらかじめ神の予定調和の中に組み込まれていた、とも考えることも出来るわけだから、矛盾はない、とも言える。

予定調和は、自由意志の否定につながる。もちろん私は、(これだけは絶対、自分の物であると、全ての人間が信じている)自由意志はないと絶対的に確信している。

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芥川龍之介

2014-01-15 04:09:51 | Weblog
「阿呆は他人を阿呆と思っている」とは、芥川龍之介の箴言であるが、昔は、これを素直に芥川が(軽い気持ちで)自嘲的に自分のことを言っている箴言だと思った。しかし、今は、この意味がわからなくなった。芥川ほど博学で教養があり、小説の文章も完璧で、他人の文学作品に対する評価も正確で、侏儒の言葉、のように、物事の本質を見抜く能力も優れている。どこをどうとっても、芥川が阿呆である点は見つからない。だから、これは芥川の自嘲の格言ではなく、一般論ではないか、と考えを切り替えた。一般論なら、この格言は正しい。しかし、さらに考えてみると、芥川は、「ある阿呆の一生」と題して、自分の一生を小説的に述べている。なので、やはり、「阿呆は他人を阿呆と思っている」とは、芥川自身のことである、と捉えるしかない。はたして芥川は自分の何をもって、自分のどの点をさして、自分を阿呆と考えたのか。これはわからない。芥川は、思ってもいないのに、謙虚卑下する性格ではない。むしろ、芥川ほど読者を阿呆よばわりした度胸のある作家はいない。芥川は文壇へのデビューから、死ぬまで、小説を通して、読者、世間一般の人間との戦いだった。

芥川龍之介が、自分を阿呆と思った理由を芥川が言っていないので、こっちで、なんらか解釈するしかない。

私の解釈。「阿呆は他人を阿呆と思っている」という芥川の作り出した格言を、芥川は、普遍的に当てはまる、ほとんど絶対的な格言だと自信を持っていたのだろう。そして、芥川は、死ぬまで、人間を阿呆と見なし続けた。だから、人間を阿呆と思っている芥川自身も阿呆である、ということになる、という芥川の理論からではなかろうか。

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菊池寛(論)

2014-01-11 20:47:25 | Weblog
論、というほど、大げさなものじゃないが。菊池寛の文学は、非常に素晴らしい。しかし、菊池寛は、自分が小説家になれるか、どうか非常に悩んだ文学志望者だった。自分の作品が売れるか、というか、文学者として生活していけるか、に、学生時代、非常に悩んだ。

菊池寛にしてみれば、売れなくてもいいから小説を書きたい、という思いはなく、文学部に入ってしまった手前、小説家になろうと思ったが、小説家というものを職業選択の一つとして考えていた。食べていけないのなら、別に小説家にならなくてもいい、と思っていたのである。非常に現実的な人間である。

そう思うのも無理はない。なぜなら、菊池寛は、(読書は非常に好きで、膨大な日本の歴史知識を持っていたが)性格が、非常に善良であったからである。善良な性格というのは、言い換えれば、「人がいい」「お人よし」などとも言える。いわゆる、「人がいい」人には、小説は書けない傾向があるのである。心の中に「善」と「悪」の両方が激しく、あって、葛藤しているような人でないと、小説は書けない傾向があるのである。さらに、何が何でも表現したいもの、も菊池寛には無かった。だから、菊池寛が、自分が小説家として、生活していけるか、どうかに、悩んだ、のは、至極、当然のことである。

しかし、結果としては、菊池寛は文学者として大成した。この理由は、一言でいって、菊池寛は、善良な性格であるとともに、「悪」を憎む気持ちも非常に強かったからからである。

菊池寛が、最初に文壇に認められたのは、「無名作家の日記」である。これは、誰が、どう見たって、芥川龍之介がモデルである。大学で同期だった、芥川龍之介のことを、徹底的に悪人として書いている。小説としても面白いし、おそらく、フィクションは、少なく、事実にかなり忠実に書いているように思われる。あまりにも、芥川らしさ、や、当時の文壇の様子が正確に書かれている。

菊池寛は、芥川龍之介が昭和二年に、自殺して死んだ時、友人代表として弔辞を泣きじゃくりなから読んだ。はじめは嫌っていた芥川を、菊池寛が、いつから、どういう理由で、無二の親友に変わったのか、それは、知らない。

菊池寛は誠実な作家で、その作品は、どれも、読者を満足させる。手を抜いていない。

それと、菊池寛は、小説も面白いが、評論的な文章も、とても面白い。

「芥川の事ども」も読んで面白いし。

「小説家たらんとする青年に与う」も読んで面白い。これには私は内容的に多少、異論もあるが、菊池寛の理論が理路整然としていて、それが面白いのである。もちろん菊池寛の主張していることも、80%は、その通りだな、と私も思う。

これらの評論文は、心地いいので、疲れた時、再読までしてしまう。これは、菊池寛の人間性の優しさを感じてしまい、気持ちいいからである。

それと、「二千六百年史抄」や「日本合戦譚」などは、小説ではないが、面白い。

氏にあっては、小説だの、評論だの、のジャンルに関係なく、氏の書くものは、ほとんど全て面白い。

結局、人間性というか、性格の面白い人の書くものはジャンルを問わず、面白いのである。

逆を言うなら、人間性というか、性格のつまらない人の書くものは、つまらないのである。

ここで一つの、粗削りな文学論を思いついた。

要するに、読んで面白ければ、それでいいのである。

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出会い系サイト

2014-01-11 00:01:12 | Weblog
慈恵医大の関連病院の清川遠寿病院で働いていた時、上司に嘉村という慈恵医大出の医者がいた。

彼は、製薬会社のMRの女の誘いに乗って、一緒に食事するような、デレデレしたナンパ野郎だった。

慈恵医大から、慈恵医大出の、きれいな研修医の女医が来ると、デレデレにやついて、話しかけていた。

彼は、出会い系サイトで、女とのメル友のやりとりをしていて、その女と会うことが決まって、毎日、フワフワと心地いい自慢話をしていた。そして、とうとう、ある日、その女と出会った。

しかし、会った後で、「相手の女はブタ以下」と不機嫌そうな顔で言っていた。

バカなヤツである。出会い系サイトで、男との交際を求めているような女は、ブスに決まってるじゃないか。そんなことも、わからないのか。

人をブタ以下と言っている、嘉村自信も、たいした、ご面相では全くない。人格も知能も低級である。

さて。男は、残念なことに、どうしても、女の魅力を、容貌ぬきには、考えられないものである。

(これをテーマにした小説が人道主義者、菊池寛の小説、「慎ましき配偶」である。素晴らしい作品なので一読を勧めたい)

しかし、女の容貌、という問題に苦悩する感性のある男が、ほとんどいないのも、かなしく残念なことである。

だから私は、女とメールのやりとり、などしないのである。

しかし私は、偽善的な発言ではあるが、本心なので、あえて言う。

「神はブタ以下の女を決して作ったりはしない」

・・・

2015年4月16日に書いた、聖マリアンナの精神科、指定医の不正について、具体的に書きます。

まず、端的に書くと。
清川遠寿病院の常勤医だった、杉村共栄医師が、一人で、ある小児精神病の患者Aを、入院した時から、担当医となって、同医師が、診断、し、治療薬、治療方針、を決め、退院まで、一人で担当しました。
御園生篤志医師は、その時、精神保健指定医の、国家資格を取るために、厚生省に、8症例のケースレポートを提出しました。しかし、御園生篤志医師の、提出した、レポートのうち、小児のレポートは、杉村共栄医師が、一人で担当し診療した、患者Aの、症例を、杉村共栄医師が、レポートとして、まとめて、書いたものです。御園生篤志医師は、患者Aの診療に、全く関わっていません。関わっていませんから、レポートも、自分では、書けません。その時、杉村共栄医師は、すでに、精神保健指定医の資格を取っていました。ですから、レポートの書き方のコツも、わかっているのです。精神保健指定医のレポートは、厳格なもので、正しく書かないと、レポートを厚生省に、提出しても、厚生省は、OKにしてくれません。というより。正確に言うと。レポートの書き方、が難しい、のではなく、通るのに、いい症例であることが、重要なのです。暴れて、入院したけれども、治療によって、症状が改善していき、通院治療しても、いいほどまでに、症状が改善し、そして、退院した、という症例が、厚生省に提出して、通る症例なのです。入院期間は、問題ではなく、症状が改善して、退院した症例なら、入院期間が、一ヶ月でも、かまわないのです。そして、増田直樹院長は、それらのことを、全て知っているうえで、平気で、そのレポートを、御園生篤志医師が担当して、そして書いたレポートと、認めて、サインしたのです。これが、不正でなくて、何でしょうか。

これを、書いていて、思いついたことがありがます。ケースレポートの8症例のうち、措置入院、と、小児精神病、と、器質性精神疾患、の3つの症例、で、通りやいすレポートに出来るような、いい症例は、なかなか、見つかりにくいのです。
清川遠寿病院は、神奈川県の、はずれにあり、なかなか、医師が集まりにくいのです。
院長の増田直樹医師は、慈恵医大出で、常勤医は、慈恵医大の医師が、ほとんどです。しかし、聖マリアンナ出の医師も、半数くらい、いるのです。これは、慈恵医大の、精神科教授だった長谷川和夫、教授が、聖マリアンナの精神科の教授になってから、聖マリアンナの精神科は、慈恵医大の精神科の傘下に入った、ということを、この耳で、慈恵医大の医師から、聞きました。全ての慈恵医大系の病院で、そうなのか、その真偽は、分かりません。しかし、少なくとも、清川遠寿病院が、聖マリアンナの精神科と、つながりを持っていることは、間違いありません。私が勤めていた時は、半分近くも、聖マリアンナの、医師が来ていたのですから。もちろん、夜の当直のアルバイトも、慈恵医大か、聖マリアンナの医師です。
ならば、精神保健指定医に通る、いい症例を、やる、ということを、聖マリアンナの精神科に、言って、聖マリアンナの医師を、集めている、ことは、十分、考えられます。指定医のレポートが欲しい医師を、呼んでも、その医師、本人が、指導医の指導の元で、ちゃんと、患者の診療に当たって、本人が、レポートを書くのであれば、問題は、ありません。
私が見た、不正は、一度だけですが、あそこまで、ひどい不正を、平気でやっているのなら、他にも、何回も、不正をやっている、ことは、可能性として、十分、考えられます。つまり、余罪です。一人に対する方針は、万人に対する方針です。聖マリアンナの精神科の教授に、指定医にしてやるから、二年くらい勤務してくれる常勤医を送ってくれ、という、取り引きをしている、のでしょう。これは、病院の医者集めの構造的なものです。今でも、行われている可能性は、十分、あります。
万引きをして、捕まった人は、「ほかで万引きをやったことは、一度もありません。これが初めてです」と言うのは、当然です。

精神保健指定医の資格を取るという条件で、病院に就職した、私には、指定医を取らせたくない態度だったのも、納得できます。私は、病院の医師の数を増やして、病院の点数を上げる目的のためだけに利用された採用であり、増田直樹院長は、聖マリアンナの精神科との、つながりを、強めることしか、考えていない、ことも、十分に推測できます。

なお、また、旧館の5病棟の、ベテラン婦長が、「私たち(看護婦)は、みんな、院長にだまされて、採用されたのよ」と言ったことも、間違いない、事実として、つけ加えておきます。どういう事でだまされたのかは、知りませんが、採用でだまされた、というのなら、それは、待遇面や、勤務時間などでしょう。

さらに、嘉村という、院長と同じ慈恵医大出の医師がいました。彼は、年齢も、院長に近く、院長と腹蔵なく、何でも、話し合える間柄でした。しかし、事情は、知りませんが、嘉村医師は、院長と、激しい口論をして、ケンカ別れして、病院を辞めていきました。母校が同じで、医局も同じで、親しい間柄なのに、ケンカ別れして、辞めていく、ということは、普通は、ありえないことです。よほど、院長は、ひどいことをしたのでしょう。

私が見ていても、院長の人格の、ひどさは、目に余りました。

なぜ、私が、この不正の事実を知ったか、の、経緯も書いておきます。
私は、余所者なので、全く相手にされず、まさに傍若無人(かたわらに人なきが如し)であり、飲み会も、一度も、誘われず、仲間外れ、なので、院長も、慈恵医大や聖マリアンナの常勤医も、私を雑役夫と見ていて、相手にもしませんでした。ですから、医局会議の時も、私の存在など、いないも同然の感覚ですから、御園生篤志医師は、私の存在など、頭にありませんから、増田直樹院長も、常勤医もいる時に、口が軽くなって、こう言ったのです。
「精神保健指定医の小児のレポートは、杉村共栄先生が担当した患者の症例を、杉村先生に、書いてもらった」
と。増田直樹院長は私を見ると、ヘラヘラと誤魔化し笑いをしました。院長は、陰で、もっともらしい理屈を私に偉そうに、説教し続けたのに、陰では、こんな不正を知りながら、御園生篤志医師の、小児のレポートには、堂々とサインをしていたのです。私は、怒り心頭に達しました。ぶん殴りたい気持ちを必死で我慢しました。この病院で勤務した三年間は、一体、何だったのでしょうか。時間を返して欲しい。最初から精神保健指定医の資格を、取らせないと、わかっていたのなら、私も、院長との、共同診療で、必死に、書いていた、ケースレポートを書く時間を、小説を書く時間に当てられました。これは、全くの事実です。

これは、御園生篤志医師の小児のレポートとして提出した、患者Aのカルテに、彼の病状記載が、全くないことで、証明できます。しかし、カルテの保存期間は、医師法第24条第二項で、5年間と決められているので、もう5年、経っていますので、厚生労働省が調べても、病院は、不正隠蔽のため、カルテは、処分しているでしょう。また、厚生労働省の方でも、提出した、レポートも、通ったら、いつまでも、保管しておくとは、考えられません。大学入試試験と同じで、レポートは、合否を決めるのが目的ですから、合否が決まったら、処分するでしょう。ただ、間違いない事実だけは、書いておきます。

黙認は悪を助長します。ので、あえて、紛れもない「事実」を書きました。


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パソコン音痴

2014-01-10 20:03:21 | Weblog
私は自分がパソコン音痴である、と思っている。私は、Windows98から、パソコンを使っている。音痴、といっても、これは、いささか、謙遜した言い方で、一般の人と較べたら、パソコンの知識が少ないだろう、という意味である。私は、いまだにエクセルの使い方を知らない。

しかし、それでいいと思っている。(面が、かなりある)パソコンや、iPad、色々なソフト、など、無数にこれから便利な機能が出てくる。パソコンは、自分にとって必要な機能だけ、使えばいいのである。新しく開発された、面白いものに、どんどん、飛びついていくと、要するに、新し物欲しがり屋だと、機械に自分の生活を支配されてしまって、自分が何をしたいのかを、見失ってしまう。さらには、自分を見失ってしまう。機械、というか便利な物は、あくまで、自分の目的のために、利用するものである。

自分のことをパソコン音痴などと、言っているが、私は、かな入力を(信じられないだろうが)一日で覚えた。(もちろん、必死で頭を酷使したが)今では、かな入力でしか、入力出来ず、両手のローマ字入力は忘れてしまい、ローマ字入力は、横になって、片手で入力する時に使っている。

だが、自分に必要な機能の動向には、いつも関心を持っていて、必要なものは、すぐに覚えてしまう。

You-Tubeの動画を保存するソフトもあるが、私は、意図して、これを買わないでいる。なぜなら、それを買ったら、You-Tubeの動画を収集して、見ることに、ハマッてしまい、時間を無駄にすると思うからである。そんなことは、いくらでもある。

yahooメールは、持っているが、私は、出会い系サイトだのには興味が全くない。し、メル友も一人もいない。というか、作らない。大体、出会い系サイトで、男との交際を求めている女は、そのほとんどが、全員くそドブスだろう。顔が、それなりに、まともな女なら、出会い系サイトなど、使わずとも、彼氏が見つかるはずである。からである。

便利な物、気持ちのいい物は阿片、麻薬である。それは両刃の刃である。阿片、麻薬も手術や、ペインクリニックの時に麻酔として使うのはいいが、使い方を誤ると、阿片中毒患者となって、人生を無意味に過ごす。

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警察の捜査(の実態)

2014-01-10 16:06:34 | Weblog
ちょっと前に、ネットの成りすまし犯罪が行われた。ことは記憶に新しい。IPアドレスまで、他人になりすましてしまう犯罪である。

IPアドレスは、ほとんど完全なパソコン所有者の同定の証拠である。しかし、「絶対」ということは、決して言えない。し、言ってはならない。パソコンの所有者であっても、所有者の知らない間に、兄弟や友達や親や知人が、パソコンを使ってしまうことだって十分、あり得るのである。さらには、本人が留守の間に真犯人が入ってきて、パソコンを操作する、ということだってあり得るのだ。犯罪者というのは、悪いことをする人間なのだから、そういうことをする人間だって、いる可能性は十分あるのである。さらには、今ではIPアドレスがパソコン所有者の背番号であることくらい、ほとんど誰でも知っている。プロバイダと契約した時にIPアドレスを知らされるし、インターネットを使い出して三ヶ月以内には、ほとんどの人がIPアドレスが自分のパソコンの背番号であることは理解する。だから、そんな、すぐばれる幼稚な犯罪などまずしないのではないか、と疑うべきなのである。私もパソコンを使い出してから、そうとうな期間になるが、いまだにパソコン音痴である。しかし、IPアドレスの意味は、パソコンを使い出して、一週間以内に、その意味がわかった。パソコンには難しい知識が無限にあるが、IPアドレスなどというものは、誰でも知ってるパソコン用語、基本知識である。

警察は、バカの一つ覚えの、IPアドレスこそ、絶対的な証拠、として、そのIPアドレスのパソコンの所有者から、四人の容疑者を調べ、警察署に連れてって尋問した。

そのうち、なんと二人が数日で犯行を認めているのである。犯行に全く関与してない無実なのに。

「無実の人間が、自分がやってもいない犯罪を数日で認める」?

こんなバカなことは、常識的に考えて、あり得るはずはないはずである。

しかし、実際には、それが平然と行われているのである。

これからして、警察の取り調べが、どんなものだか、十分、推測できる。

つまり、ずさんな、恫喝的な、決めつけの、精神的拷問によって、被疑者の精神状態をおかしくして、被疑者に、ただただ、もう、この苦しい取り調べから解放されて楽になりたい、という精神状態にしてしまうのである。

ヤツラの取り調べは、「てめえ、このやろー、お前がやったんだろ、しらばっくれても、わかってんだそ、いい加減、白状しろ」と机をぶっ叩き、被疑者の襟首を掴む、だけである。ヤツラは国家権力を傘にきて、威張り散らすだけの知性のカケラもない白痴集団である。

こんな、取り調べ方法だから、日本には、数限りない冤罪が出来てしまうのである。し、これからも、警察は冤罪をつくり続ける。

警察とは、冤罪作成組織である。

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川崎で逃走 杉本容疑者を横浜市内で発見、逮捕 神奈川県警

2014-01-09 13:56:06 | Weblog
「川崎市川崎区の横浜地検川崎支部で同市多摩区宿河原の無職、杉本裕太容疑者(20)=強盗や集団強姦などの容疑で逮捕=が逃走した事件で、神奈川県警は9日、横浜市泉区で杉本容疑者を発見、身柄を確保し、同容疑で逮捕した。県警によると、警戒中の警察官が発見したという。」

(産経新聞)

泉区なら私の藤沢市の隣である。私のアパートに来たら、かくまってやったものを。

さすがに、国民の血税を大量に、注ぎ込んいでるだけあって、無駄で暇な警察官が、うじゃうじゃ、うろついている日本である。

あいつらの数は、どぶねずみ、の数より多いんとちゃうか。

あいつらの、やっていることも、どぶねずみ、と、ほとんど同じだが。

いや、どぶねずみ、より、はるかに、たちが悪い。

警察庁は、どぶねずみ、というか、国の番犬どもの、しつけ、を、ちゃんと徹底してやらなくては駄目である。

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天皇制は甘えを作り出す

2014-01-09 02:20:19 | Weblog
日本が民主主義国家であるべきことは、否定する余地はまずない。(絶対とは言わないし、思わない)民主主義政治は、言葉をかえれば衆愚主義政治であり、絶対権力者がマハトマ・ガンジーのような人なら、独裁政治というか哲人政治の方が絶対いいのである。

ここで、日本において、天皇制のある民主主義と、天皇制の無い民主主義と、どちらがいいかということが問題になる。

ともに、メリット、デメリットがある。

しかし日本人のほとんど全員は、(現体制の)天皇制のある民主主義国家の方がいいと、信じて疑わない。しかし、そう思うのは歴史を知らないからである。

では、何で、天皇制のある民主主義国家の方がいいという理由を説明、出来る人がいるだろうか?おそらく、いまい。

天皇制のある民主主義国家のデメリット。

それは、一言でいって、甘え、迷信である。日本には天皇がいるから、そして天皇がいる限り、他国に侵略されない、経済が破綻しない、国家が潰れない、という迷信を、ほとんど全ての日本人は持っている。だから、危機感が起こらないのである。安閑としているのである。やる気が起こらないから、精神が、ふやけて、ダメになって、フリーターやニートがどんどん増えていくのである。

これは卑近な例で、いくらでもある。大学のグループ学習でも、グループの中に、一人、並はずれて、やる気のある熱心な生徒がいると、他の生徒は、「あいつにまかせておけばいいや」という気持ちが起こって、だらけてしまうのである。

太平洋戦争でも、山本五十六がいる限り、日本は負けない、という迷信に国民は甘えていた。

では。天皇制のない民主主義国家のメリット。

それは、日本以外の全ての国、中国にせよ、ヨーロッパ諸国にせよ、アメリカにせよ、天皇という、迷信的な絶対者がいないから、つまりは並はずれて、やる気のある熱心な生徒、がいないようなもんだから、自分たちで、やらなくてはならないから、また、やるしかないから、やる気、が、否応なく、起こるのである。国民は、腐敗した政権に対し、革命を起こす勇気があるのである。日本以外の他の国の歴史は、革命につぐ革命の歴史である。古代ギリシアでは、紀元前から、共和制、民主主義国家が起こっている。

では。天皇制のある民主主義国家のメリット。

それは。平和な時には天皇制のメリットは発揮されないが、戦時、や非常事態になると、神格的な天皇のため、日本を守ろうと、国民が一丸となって、団結することである。

つまり、平和な時には、天皇の存在に甘えて、精神が、たるんでしまうが、国家存亡の危機の時(明治維新や太平洋戦争など)になると、天皇を中心として、国民が一丸となって、まとまり、神風特攻隊や維新の志士達に代表されるように、命がけで日本をまもろうとするのである。

(ちなみに私は、左翼でも右翼でもない)

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いそがしい

2014-01-08 20:39:33 | Weblog
この二ヶ月くらい、忙しい。生活が充実している。読書に、勉強に、小説創作にと。

去年の夏から、ずっと体調悪くて、死のうかとも思ったが、死なないで良かった。

読書(小説)→太平記→十八史略→平家物語→古事記→中国の歴史→世界史の勉強、へと関心が続いてきた。

受験生ほどではないが、受験生に負けないくらい、一日中、勉強である。

テレビのニュースさえも、二ヶ月ほど全く見ていない。

ちっぽけなニュースなど、見ても(私には)意味がない。世界の大きなニュース、世界経済、これから、日本や世界がどうなるか、を知るためには、世界史を勉強しなければならない。世界史がわからないで、世界のニュースを見ていても、それは、表面をなでるように見ているだけの表層的な理解にしか過ぎない。

経済を知るためには、経済学を勉強しても、たいした効果はない。世界経済を知るためには、世界史を知っていなくてはならない。

そして、世界史を知っていると、日本にいながら、古今の世界旅行が出来る。のもいい。

世界史はほとんど全て、必然性によってきて動いてきている。小説よりずっと面白い。そして世界史がわかると、人間が、いかに汚く、ヘドが出るほど愚劣で、下等で、狡猾な、生物であることが、わかる。

人間の本性(本能)が歴史によってわかる。人間の本能は時代が進んでも変わらない。それを直視しないで、体裁だけの、きれいごとの教育などをするから、水面下で、陰湿な、いじめ、が、どんどん、多くなっていくのである。

日本史は、二年くらい前に勉強したが。

日本史は勉強しやすいのである。それは、日本が孤立した島国であるという地理的な条件から、他国との戦争がなく、他民族との、いさかい、いざこざ、が無いからである。それと、もう一つ、日本の歴史は世界に例のない特別な条件がある。それは、古事記という神話の世界から、2000年も、続いてきた天皇制である。

こんな特殊な歴史(今でもそうだが)の国は、世界で日本だけである。日本にいると、日本という国が、世界に例のない特殊な国であるということが、わからないのである。

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<川崎逃走>杉本裕太容疑者を全国に指名手配

2014-01-08 20:15:14 | Weblog
「川崎市川崎区宮前町の横浜地検川崎支部で、集団強姦(ごうかん)などの容疑で神奈川県警に逮捕され弁護士と接見中だった同市多摩区宿河原、無職、杉本裕太容疑者(20)が逃走した事件で、県警は同容疑などで杉本容疑者を全国に指名手配した。一夜明けた8日も現場区域を中心に約4000人態勢で捜索活動を続けた」

(毎日新聞 1月8日(水)13時8分配信 )

全国の普通の日本人、というか、正常な全国の日本人なら、100%全員、早くつかまって欲しいと思うだろう。

しかし私のアパートに入り込んできたなら、私は、かくまってやるぞ。(一ヶ月くらいなら)犯人隠匿罪になっても、かまわんぜ。(これは本心である。冗談ではない)しかし、私を監禁してキャッシュカードで、銀行から金を引き出したり、私に乱暴するなら、当然、もちろん、絶対、お断りだが。

だが、まあ、日本の警察の機動力からすれば、まず、絶対、一週間以内につかまってしまうだろう。

何日、逃げられ続けられるか、が、彼の、どれだけ頭がいいか、度胸があるか、の能力である。

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石川遼

2014-01-03 19:35:07 | 武道・スポーツ
もちろん私はゴルフに関しては素人である。ゴルフに興味を持てないからである。だが、全く知らないわけではない。私が、ゴルフのプロで関心を持っているのは、石川遼である。ランキングが、どうのこうの、ということには私は関心がない。石川遼は、非常に頭を使う、考えるプレーヤーである。単純に言えば、頭がいい。のである。頭を使う、というのは、プレーの時はもちろんのこと、日々の練習において、技術の習得に、頭を使って、考えて練習しているからである。彼の思考能力は非常に高い。

彼の思考する能力は、ゴルフという一つのスポーツだけにとどまらない。(と私は確信している)彼は非常に思考力が柔軟である。ゴルフに限らず、何事にでも、解決しなくてはならない問題、課題、が、起こった時、彼は、最善策は何かを考え出そうとするだう。あらゆる物事に対する問題解決能力が優れているのだ。

だから、彼は自分がゴルフが上手く出来るだけではなく、ゴルフの指導者になっても、どうすれば、生徒を上手くさせることが出来るか、ということを、相手の立場に立って、考えようとするだろうから、一流の指導者になれるだろう。

なにも石川遼に限らず、スポーツにおいては、頭脳的ファイターと機械的ファイターというものが、大体、別れてしまうものである。それはスポーツに限らず、将棋でいえば、羽生善治は、頭脳的ファイターの方である。

機械的ファイター(プレイヤー)が、頭脳的ファイターに変わることは、残念ながら、まず無い。なぜなら、この世の中には、無数の、役に立つ本やビデオや方法が、すでに、あるが、機械的ファイターは、経験によって出来るようになった自分の技術に満足して、それらの物には見向きもしないからである。

ぴったりの格言ではないが。

「多くの武道家は真実に気がつかない。その原因は、より一層、を好み、何か変わったもの、を求めるからだ。真実は、単純な日常の動作の中にこそある。触れ、感じ、見ることで手中に出来るはずの真実を、大半の武道家は、全体ではなく一点を探り掻き回すことで、知りそこなっている」
(ブルース・リー)

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スポーツの上達2

2014-01-03 15:33:27 | 武道・スポーツ
さて。スポーツの上達について、もう一つ書いておこう。

スポーツは、「やる気」がある人ほど上達する。それは、「やる気」のある人は、ノルアドレナリンの分泌量が多いから、神経細胞のシナプス結合が起こりやすいからである。

では。スポーツなど嫌いで、「やる気」の無い人が嫌々、スポーツをしたら、どうなるか?

答えは、ケースバイケースであるが、上達が全く起こらないわけではないが、上達するのに非常に時間がかかり、そして、上達して到達する技術の上限もレベルが低いか。あるいは、全く技術が上手くならないか、のどちらかである。(まあ、当たり前のことだが)

それは、なぜか。バスケットボールを例に出して説明しよう。それが、わかりやすいと思うからである。それに、私の母校の自由学園では、サッカー、バスケットボール、テニスのどれかをしなくてはならず、バスケットボールを選んだ人で、上手くなる人と、上手くならない人を私は見ているからである。

バスケットボールの基本はドリブルである。基本であると同時に、ほとんど基本の完成にも近い。このドリブルが、ドリブルをしている、という意識さえ、なくなるほど、上手くなることが、基本の全てなのである。初心者は、ボールを見てはいないが、視覚の中に入っている。というか、視覚の中に入れている。つまり、視覚をドリブルの手助けにしている。しかし、ドリブルは、位置感覚で、無意識のうちに出来るようになるのが、本当のドリブルである。だから、バスケットが出来る人は目をつぶっていても、目を開けているのと、全く同じようにドリブルが出来る。

ここで、「やる気」のある人は、何とか、位置感覚のみでやる無意識のドリブルを身につけようと、極力、視覚に頼らないようにしたり、あるいは、ボールから目をそらして、ドリブルの練習をしたりするだろう。位置感覚の無意識のドリブルが身につくまでには、そうとうな単調な訓練期間が必要なのである。なので、視覚に頼らないように意識したり、あるいは、ボールから目をそらしててドリブルの練習をしたりと、工夫するのである。なので、そういう意識を持って練習していると、いつか、無意識のドリブルが身につくようになるのである。

一方、「やる気」の無い人は、上手くなりたいという気持ちがないから、ドリブルは、いつまでも視覚に頼ってドリブルをしているから、(その方が楽だからであるが)いつまでも、位置感覚だけのドリブルは出来るようにならないのである。

これは、パソコンのキーボードを身につけるのと同じである。パソコンのキーボードも、はじめは視覚に頼っている。しかしブラインドタッチが出来るようになるには、出来るだけキーボードを見ないようにするべきなのである。ただ、パソコンを身につけるのより、バスケットボールを身につける方が、ずっと難しいのは、言うまでもない。

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