小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

エロティシズム

2016-01-18 00:18:26 | 考察文
エロティシズムという、女の裸や、セックスのことだと、思っている人が多い。

しかし、エロティシズムは、そんな物とは、無関係である。

エロティシズムとは、人間の、精神のことなのである。

そもそも、単なる、女の裸や、セックスには、エロティシズムなんて、全く無い。

特に、セックスなんて、エロティシズムなんて無い。

なぜ、セックスにエロティシズムが無いか、というと、それは、性欲の、完全な解放だからである。

単なる、肉体的な、快感を、当事者同士が、楽しんでいるだけに過ぎない。

なので、この頃の、エロ動画は、見ても、ほとんど、何も感じない。

それは、世間、社会が、「性」を解放しているからだ。

「性」が自由になると、エロティシズムは、死ぬ。

現代は、エロティシズムが、死んだ時代である。

禁欲的であることの方が、エロティシズムが生きてくるのである。

宗教、絶対者、タブーを破ること、神聖なものに対する、服従、あるいは、反逆。音楽の酩酊、そういった、日常の、あらゆる物にエロティシズムは、あるのである。

それでも、日本は、エロティシズムが、まだ、ある国の方である。

日本人は、「言いたくても言えない」、シャイな感性を持っているからだ。

六年前、一週間、ハワイに行ったことがあるが。

その時、つくづく、欧米人は、エロティシズムが、全く無い、人種だと感じた。

男も女も、恥じらいがないのである。

女が堂々と、セックスアピールするような、精神には、エロティシズムなど、全く無い。

エロティシズムとは、色々と、定義できるが、非常に粗削りに、大雑把に言って、「もどかしさ」、と言っても、いいと思う。

たとえぱ、音楽のエロティシズムとは、「もどかしさ」、があるから、エロティック、とも、言える。

「見たいけど、見れない」から、エロティックなのである。

だからといって、僕は、人間や、社会が、エロティックになるべきだとは、全く思っていない。

むしろ、エロティックな感性を持っていない人間の方が、健全だと思う。

これは、もう先天的な感性の問題である。

ただ、僕は、エロティシズムに、美しさを感じているだけである。

たとえば、映画を例にして、言うと、エロティシズム的でない、普通の人間は、結末がはっきり、わかる映画、特に、結末が、ハッピーエンドで終わる、映画を好みやすい。

しかし、エロティシズム人間にとっては、そういう映画は、つまらない。映画は、あるストーリーの物語を、二時間でまとめた、ものだが、「その後、どうなるのか、わからない」ラストの映画の方が、面白いのである。

「その後、どうなるのか、わからない」映画は、「わからない、もどかしさ」があり、その、もどかしさ、を、「面白いと思うか」、あるいは、「結末がわからないと落ち着かない」、と、思うか、という、感性の違いである。

わからない方が、色々と、想像力をめぐらせることが出来る。それを、面白いと思うか、落ち着かない、と思うかの違いである。


恋愛においても、相手の女の全てが、わかってしまうと、つまらない、と思う感性か、好きな女の全てを知りたい、と思うか、という感性の違いである。

まあ、しかし、風姿花伝には、「秘するが花」、ともあり、また、「魅力は不可知にあり」という、格言もある。

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