小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

2014-09-11 22:46:18 | 考察文
私は、よく強い人間と誤解される。しかし、私は強くない。むしろ、私ほど弱い人間はいないとさえ、思っている。

私が強いのではなく、私の神が、強いのである。私の「神」とは、マンガ「愛と誠」の「太賀誠」である。あるいは、梶原一騎のマンガの主人公、のほとんどである。あるいは、神風特攻隊であり、武士道である。

私は、キリスト教、イスラム教、その他、ほとんどの新興宗教など、バカげていると思っている。私は無神論者である。(天理教などは、キリスト教より害がない、いい宗教である)キリスト教は、子供の時から、親がクリスチャンで、教会へ行かされ、聖書を読まされ、讃美歌を歌わされ、中学、高校と自由学園という、毎日、礼拝があるミッションスクールだったし、私自身、キリストや聖書は、ほとんど知っているし、思想的、歴史的には興味もあるが、あんなバカげた宗教、など、私に何の影響も与えていない。

ただ仏教、釈迦は本物である。しかし、それらは、(キリスト教も)私にとって、思想であって、宗教ではない。

私の、もう、ほとんど宗教とも言えるほど、信仰しているものは、マンガ「愛と誠」の「太賀誠」である。私の信仰する「神」が強いので、一見すると、私が強く見えてしまうだけである。誤解もはなはだしい。この宗教は、二十歳のころから、信仰するようになって、おそらく死ぬまで、つづくだろう。

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著作権2

2014-09-11 22:45:33 | Weblog
後藤武士氏の「読むだけですっきりわかる日本史」が、よく売れているが。氏の文章の書き方は、子供っぽい。「××だよね」とか、子供を相手にしたような文章になっている。氏は、わかりやすくするために、わざと子供っぽい、文章にしているのだろうが、そんなことをしても、解りやすさには効果がない。子供っぽい、言い方をしたって、わかりやすくなるわけではない。かえって、アホらしく見える。

石黒広親氏や、菅野祐孝氏、その他の人の方が、わかりやすい。

さて、「事実」には、著作権がないのなら、高校の歴史教科書の内容を、丸写しして、出版しても、問題がないということになる。特に、国定教科書は、中立性が求められるから、事実と、その説明だけしか、書いていない。執筆者たちの思いというものは、述べられていない。

執筆者の思いを述べたのは、西尾幹二氏の、「新しい歴史教科書」である。あれは、執筆者の思いが入っているから、「事実」だけではなく、歴史に対する、著者の、独自の見解が、述べられているから、思想的付加価値が加わっているから、丸写ししたら、著作権にひっかかる。

高校の教科書は、一般書店では、売っていない。かろうじて、新宿の紀伊国屋とか、大型書店で、日本史、世界史の教科書だけが、売られているのに過ぎない。

だから、「もういちど読む山川日本史」が、内容は、高校の教科書と同じだが、山川出版から、出版されて、これは一般書店で売っていて、買えるので、かなり、売れている。

歴史書は、大まかな、流れ、が、わかっていれば、細かい所は、教科書や文献を見ながら、誰でも書けて、出版することが出来る。

高校の教科書では、文部科学省の規定があって、書く内容は、決まっている。その中には、つまらない記述も多ければ、面白い部分も、詳述されていないことも多い。

読者としては、歴史を、小説のように、ドラマチックな、物語り、として、読みたい人が多いだろうから、そういう風に、面白い所だけ、書いた方が、売れるのではないか。経済や、文化などは、歴史が好きになれば、自然と興味を持つようになるだろう。

奈良時代(に限らず)の、ドロドロとした権力争い、や、源平合戦も、物語りに、なっているのに、教科書では、必要最小限の出来事を述べているだけである。

なので、歴史小説は、誰でも書ける。面白く書いたら、結構、売れるかもしれない。

ちなみに、わかりやすい歴史、の類の本の、著者の価値は、何なのだろうか?細かいことまで、多く知っていて、それらが頭の中に入っていることには別に価値はない。

書かれた本が、面白いか、面白くないか、だけが、本の価値である。

歴史の細かい所まで頭の中に入っている人の強み。それは、歴史のクイズ番組で、全問正解できる、ということ、だけなのではないだろうか。

あとは、人に講義する時、何も見ないで、スラスラ即答できることだろう。しかし、歴史の流れを、ほとんど理解していれば、教科書を、サッと見ながら、(棒読みでなく)人にわかるように、スラスラ述べることは容易である。

あと、「事実」には著作権がない、からといって、ノンフィクションやドキュメンタリーの作品を、そのまま、(作者の推測の部分を消して)丸写しにしたら、これは、「著作権」にひっかかるだろう。これは、コロンブスの卵、でもあり、最初に書いた人は、資料を集め、構想を練り、苦労して書いた、のであるから、これには、「著作権」というよりも、特許権とでも、言うようなものがある。ように思う。ただ事実は、利用することが出来る。なので、膨大なノンフィクション小説を書いている大下英二氏のような人は、立派な人である。

また、わかりやすい歴史の類の著者も、なんら創作的付加価値はない、とは言っても、資料を集め、構想を練り、時間をかけ、苦労して書いた、ということに、「著作物」としての、「著作権」というものが生まれるのだろう。

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