坐禅と言うのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)=私たち衆生の日々の生活そのもの」です。
平常心是道(へいじょうしんぜどう・びょうじょうしんぜどう)」であり、「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」は即ち、「身と口と意(こころ)の煩悩」も坐禅なのです。
「菩薩は煩悩を以って悟りと為す、凡夫は悟りを因って煩悩と為す」というお言葉が在ります。
同じものですが「自分が空に成ってからと、空になる以前」というのは、それだけの相違が出て来るということです。
有名な趙州(じょうしゅう)禅師は、「昔は十二時(時間)に使われていたが実際自分が目醒めてみると、十二時を使うようになった」と語っています。
「身口意の坐禅」ですが、「身業、口業(くごう)、意業という三業』が在りますが、今こうして静かに心に起滅する物を一切相手にせず、邪魔にせずして坐っている様子が「身の坐禅」です。
作務(仕事)も身の坐禅です。
ただそれを禅と名付けないだけの話で、坐禅を知(識)らない人でも知(識)っている人でも、みんな坐禅を行じているのです。
知(識)らずに「禅の真っ只中に居る」という事です。