活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

鷺鷥立雪非同色

2021年04月09日 | 

「鷺鷥立雪非同色(ろしゆきにたつも どうしょくにあらず)」というお示しがあります。

 

これは「因縁生(いんねんしょう)」のことをいっています。

 

「鷺鷥(ろし)」というのは白鷺(しらさぎ)のことです。

 

鷺も白い、雪も白い、同じものであるけれども因縁によって一つは鳥、一つは雪という「差(しゃ)」が出来て来ます。

 

色は同じだけれども全然別のものであるということから、平等と差別(しゃべつ)ということを引き合いに出しています。

 

必ず平等だけでは有り得ません。

 

それには差別(しゃべつ)ということを引き合いに出しています。

 

必ず平等だけでは有り得ません。

 

それには、平等という添え物があります。

 

「鮎は瀬に棲む、鳥は木に留まる、人は情けの下に住む」という道歌があります。

 

鮎の季節になってくれば鮎は川の瀬に棲んで、鳥は木に留まっているもので、人は情けの下に住む、という一つのものですけれども「因縁生」に因って、鮎、鳥、人、みんな「住(棲)む」ところが違うのです。

 

「一つのものが縁に因って分かれていて、分かれながら一つのものである」ということを言っているわけです。


柔軟心を得たり

2021年04月07日 | 

道元禅師が中国から帰った時にどういう事を得たかと質問した人が在りました。

 

すると、禅師は只(ただ)、「眼横鼻直(がんのうびじょく)」と。

 

「抹香臭いものは何にも無い」と答えました。

 

別の言葉で言えば「何の不思議もなかりけりだ」とこたえました。

 

それでは何の効力が在るかと、又、問われたのに対して禅師は、「唯(ただ)少(しばら)く 柔軟心(にゅうなんしん)を得たり」と、「ただ近頃、心が軟らかになったぞ」と言ったのです。

 

柔らかに成らなければ駄目なのです。

 

「柔軟心を得たり」とは、「塊が無くなった」ということです。

 

「氷」が溶けて「水に成った」のです。

 

それが「修養の結果」です。

 

道元禅師は「心が軟らかになっただけだ」と言うのです。

 

それでなければ衝突します。

 

一人柔らかに成ったという事は、世界が柔らかに成るのです。

 

関係が大きいです。

 

「一人」は宇宙と種々に関係しているからです。

 

もし人が「我」を瞋(いか)らせようとする時、「我」はどういう覚悟をして防ぐかという事が在ります。

 

それには「大馬鹿者」に成らなければ成りません。

 

そういう時は笑って迎えるのです。

 

「とにかく一つの物」です。

 

このことに因って「貪欲」も「瞋り(いかり)」も出ないものです。

 

私たち衆生は「瞋らぬ(いからぬ)」という「柔軟心」を誓おうではありませんか。

 

それでなければ、唯(ただ)もの知(識)りになっても何にもなりません。


三乗次第演金言

2021年04月05日 | 

「三乗次第演金言(さんじょうしだいに きんごんをのぶ)」というお言葉があります。

 

「三乗」とは声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚乗、菩薩乗という階級です。

 

仏教を学びながらだんだんと「三乗」という物が「一つの物」であると知(識)らなければならないという事です。

 

おシャカ様が目醒められて最初にお説きになったお示しが華厳経(けごんきょう)という非常に難しい教えでした。

 

ご自分の深い境涯を高い処からお説きになったものですから、誰もそのことが分かりませんでした。

 

そこでおシャカ様も気が付かれて、七仏の先生という文殊菩薩に「一向にみんなが分かってくれないけれども、如何したらいいだろうか」と相談なさりました。

 

すると、文殊菩薩が仰るのに、「それは世尊(おシャカ様)だけではありません、過去の諸仏方もみんなそういう様子でしたから、二段三段と少し程度を下げてお説きになったらどうでしょうか」と進言をしました。

 

それからは、おシャカ様は声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という次第を説いてだんだんと人を導くようになさったと聞いたことがあります。

 

それが「三乗次第演金言(さんじょうしだいに きんごんをのぶ)」です。


随所に主となる

2021年04月03日 | 

臨済(りんざい)禅師のお言葉に、「随所に主となる」というものがあります。

 

「何時でも何処へ行っても自分が中心に成っている」と理解すると大変な間違いを生ずることになります。

 

「随所」というのは「客体(相手)」であり、「主」というのは「主体」のことですが、「主体と客体」と言うのは本当は元はありません。

 

ですから、「元の無い物に成りなさい」という事を「随所に主となる」といっているのです。

 

別の例を挙げていえば、「自分はもう修行が出来たから環境の中に入っても決して汚れません」という人が居ます。

 

これも間違いです。

 

修行歴に因って環境に左右されなくなる事ではありません。

 

「環境に左右されながらもその中に平気で居られること」が出来なければ修行をした事には成りません。

 

それを、「不染汚(ふぜんな)」と言っています。

 

知(識)っている人は何も言わないものです。

 

まだ能く知(識)らない人が説明をしたがるということです。

 

言えばそれだけ「疵(きず)」が付き、汚れ染まるという事です。

 

「そのままに成っていて下さい」ということです。

 

「今のままが一番善い」という事です。

 

 


無事禅(三つの禅)

2021年04月01日 | 

「坐禅の姿そのものが仏であり、坐っていることだけで足りるのであるから、悟りを求めたり、或いは自己を忘じるという事は間違っている」と説く人が居ります。

 

又、姿勢を正しくして合掌を上手にして礼拝(らいはい)の作法通りにと形式を整える、それらが全く美しい動作に成るように努める、それを「禅」と説く人も居ります。

 

それから、お寺とか僧とか法とか仏とかという事に執着せずに縁に任せて東奔西走する、そういう様な事を「禅」と説く人も居ります。

 

そういう「三つの禅」を「無事禅」と呼んでいます。

 

「無事」というのは、事が起こらなように静かな環境に自分を鎮めているという事です。

 

何故そういう「無事禅」が起こって来たかと言うと、「そのままで宜しい、柳は緑(みどり)花は紅(くれない)」をそのまま認識するという事から起こって来たのです。

 

ですから、「そのままという状態」を忘れてしまわなければ「本来の禅には成れない」のです。