私たち衆生は父母の縁を借りて生まれて来ましたが、何時生まれた事も知(識)らない中に名前が付けられ、自我が芽生え、自我から我見が起きて、知らず識らずの中に「本来保たれている戒」が離れてしまう為に「戒」を相対化して見るようになるのです。
「戒」は「懺悔(ざんげ)」に因ってのみ保つ事が出来ます。
仏教でいう「懺悔し尽くした状態(理の懺悔)」というのは坐禅です。
坐禅の姿は「懺悔し尽くした様子」です。
言い換えれば「坐禅は坐禅なり」です。
「そのままが結果」であるということです。
私たち衆生は何時も「戒」が保たれています。
病気の時も敬いを相対的に見ないで静かに病床に臥す事に徹底すると「病気で在りながら病人には成りません」。
何故ならば、「病気自体が仏法」だからです。
同様に、生(しょう)には生としての法があり、死には死としての法が在り、法から離れた日常生活は存在しません。