どうしても私たち衆生は、「真の満足が得られないのだろうか」、と言ってそれを何時も思うものです。
「自己を認めた上から今の自分を眺めている」のでどうしても「真の満足」が得られないのです。
そこで「自己という物が元来無いものであるという真相に一度徹しなければ、その解決ということがつかないもの」なのです。
「坐禅は、ただそれさえ行じていれば、唯務(ゆいむ)として必ず解決がつく」のです。
どうして解決がつくのかと言うと、「坐禅そのもの自体がそのものの実証」だからです。
既にみなさんの「結果」です。
このことを「果満円成(かまんえんじょう)」と言います。
果満円成と言うと、何かこれから「果」を円満せしめなければならないと思うものです。
そういう事に為るから余計にいけないのです。
そうではありません。
一々(いちいち)が果満円成なのです。
「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)=一々の解脱」と同じ事です。
人間(にんげん)は何もかもその果満円成の様子に対して、どうしても変な考えを起こすから(手を付けるから)それでうまくいかないのです。