活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

損得の道理1

2019年08月21日 | 法理

経営者は経営者に成り切る、商人は商人に成り切る。

それが「仏道」です。


そのために「坐禅」をするなら大いに結構なことです。


しかし、「坐禅」をするといつの間にか「仏心(ほとけごころ)」が出て来て

しまうものです。


「仏心」が出て来ますから、経営者は経営者に、商人は商人として本当に

「個」に成り切れないのです。


それで、失敗するのです。


「商人」とは、損をしたとか得をしたとかということは第二、第三の問題

なのです。

いかに自分が「商人」に徹するかということだけなのです。


「坐禅」も同じです。


このことは道元禅師も「坐禅は坐禅なり」とおっしゃっています。

説明を要しません。


「坐禅は坐禅なり」とならないといけないのです。


「坐禅をする時どういう気持ちで坐ったらいいのか」というようなことは

「不必要」なことなのです。

 


聞思修6

2019年08月20日 | 仏教

もし、これからも引き続きおシャカ様(仏)の道を究めようとされる方は

世間の法を眺めて「世間の法も仏道も一緒だ」というような考えを持たずに、

おシャカ様(仏様)のおっしゃる言葉の中から、自分が十分理解をして判断

するように努力をしていただかないと、本当に労多くして効なしになって

しまいます。


一所懸命努力しても半分はおシャカ様(仏)の法、半分は世間の法ということに

なると、自分自身がいちばん困った存在になるということをよく考えて励んで

頂きたいと思います。


聞思修5

2019年08月19日 | 仏教

仏道というのは、仏教(仏の教え)を、「聞思修(もんししゅ)」-聞いて、

あるいは読んで、よく考えて実行に移すことです。


実行するというのは「仏法僧の三宝(さんぼう)」に帰依することです。

つまり「同化」するということですが、自分(自我)があっては同化はできません。


ですから、自分の思うことを仏の法によって判断していくように努めて

いただかないと「実相は無相」というおシャカ様の教えを、世界の相対認識の

教えに合わせようとしても、これはとても無理なことです。


不妄語戒

2019年08月18日 | 

「不妄語戒(ふもうごかい)」とは、「五戒」ならびに「十重禁戒」の中に

ある戒法です。


「妄」という字には嘘という意味がありますから、「不妄語戒」を字のままに

読むと「嘘をついてはいけない」ということになります。


しかし、仏法では「実相は無相」と説いていますように、この世には実相(本当)

も無相(嘘)も存在しません。


その意味からすると、現在の世の中で真実とされることを「そうだ、その通りだ」

と受けとってはいけないし、まして嘘とされることはもっと受け取ってはならない

ということになります。

 


無、空2

2019年08月17日 | 法理

例えば「鼻」に何も匂いを嗅ぐなと命令してみたところで、そうはいきません。


そんなに「鼻」は「無、空」から離れて自由なのです。


又、「三途の川」は場所があるのではなくて、私たち衆生にあるのです。

私たち衆生が作るのです。


そういうふうに「三途の川」は出来ているのです。


私たち衆生は「夢」を見る習慣がついているのです。


その夢にしたがって、その人に夢を与えてでも一応「楽」にする「道」が

あると示すのです。


それを「応病与薬(おうびょう よやく)」といいます。


無、空1

2019年08月16日 | 法理

多くの人が思想的に「無」とか「空」とかというと「ない」と決めてしまう

ものです。


ところが「無」とか「空」とかというものは、そういうものではなくて、

必然な自由性のものであるのです。


「空」というのは、「ない」のではなくて決まった場所がないから

どんなにでも自由に動ける、それが「空」なのです。


それから、多くの人は「無」というと「ない」と思い込むのです。


そういうところに「無」や「空」に対する誤りがあります。

 


見を息(や)むべし4

2019年08月15日 | 語録

本当に「今の事実」を自分のものにしなければ、例えば、「只というものの

中で生活」していると、寂しさが出たり、「こんなことしていてどうなる

のだろうか」ということを思ったり、様々な思惑(おもわく)が出て来る

ものです。


それは、先に「只という言葉」を知(識)って、その言葉にしたがっていこう

とするからそういう「空虚」なものが出て来るわけです。


どうか、ひたすらに「今の事実」に徹して頂きたいと思います。




見を息(や)むべし3

2019年08月14日 | 語録

「真を求ることを用いざれ 唯須(ただ すべか)らく 見(けん)を息(や)む

べし」という、お言葉があります。


「何が本当のことだろうか、何が真実のことだろうか」というような

「真を求ること」を用いてはいけないのです。


そういう「ものの見方考え方」ということから離れなければなりません。


ですから「今の事実に徹する」、ただそれだけです。


見を息(や)むべし2

2019年08月13日 | 語録

「何故この時期にこういうことをしなければならないのか」ということを

考えたら「結論」は出ません。


すべてのことがそうです。


「何故」ということが出たら、これはもう混乱するだけです。


ですから「道」に向かって自分が進んでいる間は「出来るだけそういう

見(けん)を用いない」ということです。




心を整える3

2019年08月12日 | 仏教

「本来整っているのに何故、整わせていかなければならないのか」という

ことの方が問題にならないといけないわけです。


「いわれたからやる、こうしなさいというからその通りにやる」ということ

だけでは「この道」というのはなかなか成就するものではありません。


「道が成就しない」のは、「問題が自分の問題にならない」という事が一番の

「元」になっていると思います。