「調息の法」というものがあります。
これは「息を整える」ということです。
それは「自分の計らい」でもって呼吸を調えていかなければならない
ということではありません。
一応、自分を用いて「道」を修していくことも必要な時期もあるわけです
けれども、自分の考えでもって「こうしていかなければならない、ああして
いかなければならない」という意味での「整える」ということではありません。
「調息の法」というものがあります。
これは「息を整える」ということです。
それは「自分の計らい」でもって呼吸を調えていかなければならない
ということではありません。
一応、自分を用いて「道」を修していくことも必要な時期もあるわけです
けれども、自分の考えでもって「こうしていかなければならない、ああして
いかなければならない」という意味での「整える」ということではありません。
「果満円成(かまんえんじょう)」というお示しがありますが「自己の正体」を
見極めれば、すべていちいちが果満円成なのです。
「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」、いちいちの解脱と同じことです。
ですから、そうなれば心に余裕が出来て来て余念なく働くことが出来ます。
従って能率も高まります。
「知足」とは決して消極的なものではないのです。
遺教経(ゆいきょうぎょう)に「足ることを知れば地に臥(が)すといえども富めり
足ることを知らざれば天堂に坐すといえども貧す」とあります。
古人も「知ることを 足れば誰しも 福の神」と言っています。
全てに満足するからです。
お金がいくらあっても足ることを知らないものを、おシャカ様は「有財餓鬼」
といわれました。
足ることを知るということは、消極的であるように思われますがそうでは
ありません。
「足ることを知る」と、心を満足させているので不平がないのです。
ただお湯の中に入ったのです。
そうしたら自我もなにもないから、ただ入ったら入った、その温度通りに
なったのです。
これを「自己を忘ずる」といいます。
ですから、「道」というものは遠方にあることを教えているのではない
のです。
手元にあって自分にいつでも具わって動いているものを、みな捨てて、他へ他へと
求めるから、何年修行しても分からないのです。
お風呂に入ると、温かい(と思うから温かいのではありません。
入った途端に「只(ただ)温かい」のです。
不明瞭な方は、旧稿「観念と事実」、「観念と事実再考」を参照していただければ幸いです。
このように「此の物」は何なりとすぐに「一如になる」ように出来ているのです。
昔お風呂に入った途端、悟ったお方が居られました。
それを「水因三昧(すいいんざんまい)」といいます。
水の因縁による三昧ということです。
「此の物」は「自受用」なのです。
皆「此の物、私(わたくし)」の働き(活動)なのです。
他のものではないのです。
何方のものか、あなた以外のものがあるのではないのです。
別の言い方をすれば、あなた以外にものがあるのではないのです。
そういう自分を自分で体得してみる必要があるのです。
「私(わたくし)」というのは「此の物(これだけのもの)」が「私(わたくし)」
かと言ったらそうではありません。
ことごとく環境といわれるもの、即ち六境です。
「色、声(しょう)、香、味、触(そく)、法」ということです。
この「六境(環境)」と一つに成って自由に活動するように出来ているのが
「私(わたくし)、此の物」なのです。
皆そうなのです。
どこへ行っても行った先で環境に適合するように出来ているのが「私(わたくし)、
此の物」なのです。
皆そうなのです。
どこへ行っても行った先で環境に適合するように出来ているのです。
今の自分が自分を使っている様子を「自受用(じじゅゆう)」といいます。
ですから「此の物」は四大そのものの結合体としての作用体なのです。
この中に「種」はないのです。
みんなこの「四大」が結合しただけなのです。
「此の物」は一切の活動をしながらどんなに作用しても何にも作用した
跡形はないのです。
きれいさっぱりと只、その時その時に活動して、そして活動しっ放しで
終りです。
そこに「宗(しゅう)に帰す」という「無生」といわれる「法自体」の動きが
あるだけなのです。
「地水火風」とは「四大(しだい)」のことですが、詳しくは旧稿「地水火風」
及び「人間(此の物)の構造1.2」を参照して頂きたいと思います。
すべては「一々の法(六根と六境との関係)」において活動するのです。
六根は六根自体として耳は耳の活動をし、鼻は鼻の活動をし、各々が各々の
分野を保って、そしてついにそれを犯さずに純粋に活動しているのです。
しかし、「四大の性」というように「地水火風」この四つの条件において
「仏法」ではすべてのものが皆構成されているということです。
それ以外のものは何もありませんということなのです。
それですから「仏法」以外にこういう「道」を見付けた人はいないのです。
「仏法」というものは、人類に対して絶対になくてはならない教えなのです。
それに依らなければ人類というものは絶対にすくわれないのです。
満足できないのです。