活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

不生3

2017年10月21日 | 仏教

仏教語に「八不中道(はちふちゅうどう」というお示しがあります。

八つの「不」ということです。

 

その中に「不生不滅」があります。

 

不は絶体ですから、生まれる時は宇宙皆生まれるものなのです。

死ぬ時は宇宙悉く(ことごとく)死ぬということになります。

 

ですから、笑って死ぬことが出来るのです。

 

正念坊の狂歌に、

「また来ても また来てみても、同じこと ちょっとここらで 

死んでみようか」

とあります。

 

 


不生2

2017年10月20日 | 仏教

死んだものが生まれたのではありません。

生まれる時は生まれる世界なのです。

 

死の分子は少しもないのです。

堂々たる生まれ方です。


何もついていないのです。

 

つまり、生まれるものは「今の不生」です。

「不生」というものは、絶対的なものです。

「不の生」です。


「不生(生まれず)」というのは語弊がありますから、「不の生」

と言えばよく分かると思います。


不生1

2017年10月19日 | 仏教

生まれた世界ですから「生まれた因縁生」です。

生まれたものが死ぬのです。

 

死ぬ時は死ぬ世界です。

 

「滅」というのは、「生(しょう」に対する「滅」です。

 

私たち衆生は死ぬ時は死ぬ世界ですので、死ぬ時は生まれる

という分子は少しもないのです。

 

堂々たる死に方です。


「生きている」ということ4

2017年10月18日 | 仏教

不満足だという感じを受けるものも、本当に満足したという

感じを受けるものも、こちら側(自分自身)で受け取るものは

「同じところのもの(心意識)」です。

 

しかし、そういうことになかなか気づかないために、「迷い」

というものを生じさせているわけです。

 

そういういわゆる「迷い」というものを人類で初めて「解脱」

されたお方を「おシャカ様(仏陀)」といっています。

 

この方が初めて「迷い」というものから目醒められて「悟り」を

開かれたのです。


「生きている」ということ3

2017年10月17日 | 仏教

人間にはどうしても「煩悩」があって、いくら「事実のまま」

と言われても満足(納得)出来ないのです。

 

ですから、どのようにしたら今のこの働きのままの自分(事実このまま)

というものを、満足(納得)させることが出来るだろうかという

生き方を探ることになるのです。

 

これは、「貪顚痴」という「三毒」の煩悩の中に入ってしまう

わけですけれども、本当は「生き方」というものは探れるもの

ではありません。

 

「生き方」を求めて一体何を満足(納得)させるのでしょうか。

 

いわゆる「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という人の機能

というものを「生き方」によって満足(納得)をさせるのか、

という当然そういう問題になってこなければなりません。


「生きている」ということ2

2017年10月16日 | 仏教

私たち衆生が「生きている」ということは、「説明」なのです。

 

説明するにはものの実体というものがなければなりません。

 

その実体というのは何かというと「此の物」です。


説明のために自分自身を指し示せば、こういうもの(此の物)です。

 

「此の物(こういうもの)」は、「見聞覚知(けんもんかくち)」

する、そういう働きだけのものです。

 

物に執着する働きだけのものです。


「生きている」ということ1

2017年10月15日 | 仏教

「生と死」の区別はどこでつけるのでしょうか。


これは大問題だと思います。

 

今までも仏教以外では「生と死」の区別をつけているものは

ありません。

 

私たち衆生は、お父さんお母さんの因縁を借りて現実にこのように

ありますが、こういう状態を人間(にんげん)は「生きている」と

いっています。

 

ものが見える、音が聞こえる、話が出来るわけです。

 

これはあくまで、「生きている」ということの説明の域を

脱しません。


今の教育4

2017年10月14日 | 法理

旧稿「自然(しぜん)と自然(じねん)」〈2015/04/06〉

でも論考しましたが、「今の教育」で「自然(じねん)」を

教えて頂きたいのです。

 

そして、「差別(しゃべつ)と差別(さべつ)」の違いを

教えて頂きたいのです。

 

そうしないと、現代社会が問題視している「格差社会、人権問題」

も根本的な解決にはならないと思います。

 

「此の物(自分自身)」には社会的存在として人格を中心に考えた

「人(ひと)」という塊りを何処にも認める(見つける)ことは

出来ません。


今の教育3

2017年10月13日 | 法理

人間(にんげん)が「人間(じんかん)”人の世、世間”」で

「人間(にんげん)」を「観念的な自己」として「個(自我観)」を

育てることが「教育」だと思っているのです。

 

「人間到処有青山(じんかん いたるところ せいざんあり)」

「人間万事塞翁馬(じんかん ばんじ さいおうが うま)」

とはっきり「人間(じんかん)」と「教育」して頂きたいのです。


今の教育2

2017年10月12日 | 法理

ですから、「今の教育」は人間(にんげん)を本当に造る「教育」

ではないということです。

 

極論すれば、「人間を混乱させる教育」なのです。

 

「個人(自我観)」を盛んに、「私(わたくし)」という観念を

育てていくから世の中騒動が起きるのが当たり前なのです。

 

起きないのが「不思議」なのです。

 

そういう意味において「今の教育」は人間(にんげん)を

教育する教育ではありません。