仏教語に「八不中道(はちふちゅうどう」というお示しがあります。
八つの「不」ということです。
その中に「不生不滅」があります。
不は絶体ですから、生まれる時は宇宙皆生まれるものなのです。
死ぬ時は宇宙悉く(ことごとく)死ぬということになります。
ですから、笑って死ぬことが出来るのです。
正念坊の狂歌に、
「また来ても また来てみても、同じこと ちょっとここらで
死んでみようか」
とあります。
仏教語に「八不中道(はちふちゅうどう」というお示しがあります。
八つの「不」ということです。
その中に「不生不滅」があります。
不は絶体ですから、生まれる時は宇宙皆生まれるものなのです。
死ぬ時は宇宙悉く(ことごとく)死ぬということになります。
ですから、笑って死ぬことが出来るのです。
正念坊の狂歌に、
「また来ても また来てみても、同じこと ちょっとここらで
死んでみようか」
とあります。
死んだものが生まれたのではありません。
生まれる時は生まれる世界なのです。
死の分子は少しもないのです。
堂々たる生まれ方です。
何もついていないのです。
つまり、生まれるものは「今の不生」です。
「不生」というものは、絶対的なものです。
「不の生」です。
「不生(生まれず)」というのは語弊がありますから、「不の生」
と言えばよく分かると思います。
生まれた世界ですから「生まれた因縁生」です。
生まれたものが死ぬのです。
死ぬ時は死ぬ世界です。
「滅」というのは、「生(しょう」に対する「滅」です。
私たち衆生は死ぬ時は死ぬ世界ですので、死ぬ時は生まれる
という分子は少しもないのです。
堂々たる死に方です。
不満足だという感じを受けるものも、本当に満足したという
感じを受けるものも、こちら側(自分自身)で受け取るものは
「同じところのもの(心意識)」です。
しかし、そういうことになかなか気づかないために、「迷い」
というものを生じさせているわけです。
そういういわゆる「迷い」というものを人類で初めて「解脱」
されたお方を「おシャカ様(仏陀)」といっています。
この方が初めて「迷い」というものから目醒められて「悟り」を
開かれたのです。
人間にはどうしても「煩悩」があって、いくら「事実のまま」
と言われても満足(納得)出来ないのです。
ですから、どのようにしたら今のこの働きのままの自分(事実このまま)
というものを、満足(納得)させることが出来るだろうかという
生き方を探ることになるのです。
これは、「貪顚痴」という「三毒」の煩悩の中に入ってしまう
わけですけれども、本当は「生き方」というものは探れるもの
ではありません。
「生き方」を求めて一体何を満足(納得)させるのでしょうか。
いわゆる「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という人の機能
というものを「生き方」によって満足(納得)をさせるのか、
という当然そういう問題になってこなければなりません。
私たち衆生が「生きている」ということは、「説明」なのです。
説明するにはものの実体というものがなければなりません。
その実体というのは何かというと「此の物」です。
説明のために自分自身を指し示せば、こういうもの(此の物)です。
「此の物(こういうもの)」は、「見聞覚知(けんもんかくち)」
する、そういう働きだけのものです。
物に執着する働きだけのものです。
「生と死」の区別はどこでつけるのでしょうか。
これは大問題だと思います。
今までも仏教以外では「生と死」の区別をつけているものは
ありません。
私たち衆生は、お父さんお母さんの因縁を借りて現実にこのように
ありますが、こういう状態を人間(にんげん)は「生きている」と
いっています。
ものが見える、音が聞こえる、話が出来るわけです。
これはあくまで、「生きている」ということの説明の域を
脱しません。
旧稿「自然(しぜん)と自然(じねん)」〈2015/04/06〉
でも論考しましたが、「今の教育」で「自然(じねん)」を
教えて頂きたいのです。
そして、「差別(しゃべつ)と差別(さべつ)」の違いを
教えて頂きたいのです。
そうしないと、現代社会が問題視している「格差社会、人権問題」
も根本的な解決にはならないと思います。
「此の物(自分自身)」には社会的存在として人格を中心に考えた
「人(ひと)」という塊りを何処にも認める(見つける)ことは
出来ません。
人間(にんげん)が「人間(じんかん)”人の世、世間”」で
「人間(にんげん)」を「観念的な自己」として「個(自我観)」を
育てることが「教育」だと思っているのです。
「人間到処有青山(じんかん いたるところ せいざんあり)」
「人間万事塞翁馬(じんかん ばんじ さいおうが うま)」
とはっきり「人間(じんかん)」と「教育」して頂きたいのです。
ですから、「今の教育」は人間(にんげん)を本当に造る「教育」
ではないということです。
極論すれば、「人間を混乱させる教育」なのです。
「個人(自我観)」を盛んに、「私(わたくし)」という観念を
育てていくから世の中騒動が起きるのが当たり前なのです。
起きないのが「不思議」なのです。
そういう意味において「今の教育」は人間(にんげん)を
教育する教育ではありません。