活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

迷いの始まり 1

2016年07月24日 | 道元禅師

「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれりといへども

いまだ修せざるにはあらはれず證せざるにはうることなし」

という道元禅師のお示しがあります。

 

「そなはれり」 とは言うものの

「修せざるにはあわはれず證せざるにはうることなし」

というのは、自分の今の姿には違いがないのですが

人間(にんげん)は今までの習慣で、つまり、考え方の

習慣がついているのです。

 

「考え方」 としての生活する習慣がついているので、

この習慣をしばらく止めてみると、

「実体が見えてくる」 ということなのです。

 

例えば「あれ(外の車の音)」一つでも思いの見方と

事実との違いがあるということです。 

「車の音」 を聞く時にも 「車の音だ」 という思いの見方を

しますが、「事実」はこれは「車の音」でも何でもないのです。

 

ただ、「これ(耳)」 と 「あれ(音)」 との関係でそういうことが

行われているだけなのです。

 

従って、これは思いの見方とは全然違うのです。

ここのところをよく 「知(識)って」 もらわなければ

いけません。