「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれりといへども
いまだ修せざるにはあらはれず證せざるにはうることなし」
という道元禅師のお示しがあります。
「そなはれり」 とは言うものの
「修せざるにはあわはれず證せざるにはうることなし」
というのは、自分の今の姿には違いがないのですが
人間(にんげん)は今までの習慣で、つまり、考え方の
習慣がついているのです。
「考え方」 としての生活する習慣がついているので、
この習慣をしばらく止めてみると、
「実体が見えてくる」 ということなのです。
例えば「あれ(外の車の音)」一つでも思いの見方と
事実との違いがあるということです。
「車の音」 を聞く時にも 「車の音だ」 という思いの見方を
しますが、「事実」はこれは「車の音」でも何でもないのです。
ただ、「これ(耳)」 と 「あれ(音)」 との関係でそういうことが
行われているだけなのです。
従って、これは思いの見方とは全然違うのです。
ここのところをよく 「知(識)って」 もらわなければ
いけません。