活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

分からないということ 1 「道とは」

2016年01月21日 | 法理

「分からない」から、「分かろう」とする、当然そういう観念が起きてくると思います。

しかし、「分からないもの」は、「分からないもの」なのです。

 

「分からないこと」を「分からない」と、分かった時が、本当に「分かった」時です。

「分かるという〈道〉」も、「分からないという〈道〉」もあるということです。

 

「分からない」というその事しかないのです。

比較対照して「分かる」という事ではありません。

一生懸命になればなるほど「分からない」という事が出て来るのです。

 

要は、「分からない」という事だけに成る事です。

「分からない」という事に成ってしまう事です。

 

「分かる、分からない」という事に全く関係ないことが、「道」なのです。

「道」は無くなりません。

何故ならば、もともと在るものではないからです。

ですから、無くなりようがないのです。

 

「分からない」という事は、「分からない」という事に因って、「分からない」という事をなくすることが出来るのです。

人の“癖” で、「分からないものがあってはいけない」、だから一生懸命に修行して「分からなくてはならない」と考えて修行してしまいます。


分かるということ 8 「空について」

2016年01月20日 | 法理

「道(法)」というのは、分かればいいというものではありません。

分かった事があるならば捨てないといけないのです。

分かった事を捨てるというのは、分からない人は、分からない事だけに成るという事です。

 

「捨てる」という事と、「いつまでも持っている」という事は、同じです。

ですから、「持っている」という事が分かれば、それを捨てなければなりません。

 

「私は全部捨てました」というものがあれば、それも捨てなければなりません。

 

私たち衆生は、いつも「空(くう、から)」になっているのです。

「空(くう、から)」というのは、何も無いという事ではありません。

比較するものがなくなった、という事です。

 


分かるということ 7 「分かる自分」

2016年01月19日 | 法理

自分の考えを用いて、知識として物事が分かると、分かった物と分かる自分とに、二つに分かれてしまいます。

そこで、自分の考えを用いないで「分かる自分」を見極める修行が必要になってくるのです。

 

私たち衆生は考えるという癖がついています。

これは癖です。

ですから、その癖を一度離れるためには、修行(今の事実に徹する)が必要なのです。


分かるということ 6 「現代の様子」

2016年01月18日 | 法理

私たち衆生が常々、「分かる」とか「分からない」とか言っている世界は、ものの本質ではありません。

「認識の次元、意識の世界の事」なのです。

 

本来、過去と未来を分け隔てる「今」とは何かという事が一番問題にならなければいけないはずなのです。

しかし、現代の世の中は、一見説明だけで十分間に合っている為、社会生活をしていく上において(それだけで一向に不自由がないという事で) ものの本質を知ろうとしないのです。

 

そういう所からいつでも無明(むみょう)に滞り、「今の事実」 「今の自己の様子」についての究明が疎かにされる訳です。

しかし、知るという事は、「道」を得るために一度はどうしても通らなければならない事なのです。


分かるということ 5 「空とは」

2016年01月17日 | 法理

「色受想行識」が縁に応じて瞬間に起こるのです。

これが縁にふれるという事です。

 

「自己の正体」を見極めれば、元より「色受想行識」というようなものがある訳ではなく、只その縁になるという事があるだけなのです。

ですから、ものの実体というのは元々あるはずのないものです。

 

「一切のものは実体のないもの」

「縁に因って集まって来たもの」

という事です。

 

これを、「無自性(むじしょう)」 「空」 と言っています。

分かるという事は、「事実の後にある事」です。

「分かるという事を認めた中」で、すべて追って行かないようにしなければなりません。


分かるということ 4 「摂めるとは」

2016年01月16日 | 法理

縁と一つになると言っても、怒りが出れば、怒りのまま怒っていてもよいではないかと言うと、そういう事ではありません。

特別に怒りをどうするという事ではなくて、怒りは怒りでなくては摂(おさ)める事は出来ません。

そのものに因ってそのものを摂める修行が必要なのです。

 

具体的には、そのままにしておく事です。

一切自分の考えを入れないで 「今の事実に徹する」 事です。

 

私たち衆生は、どうしても一度自分の考えというものを手放して見る必要があるのです。


分かるということ 3 「真実とは」

2016年01月15日 | 法理

「花の存在を確認する以前」に、花と自分とが必ず一体になった「事実」があるという事を理解してもらいたいのです。

 

今、「色受想行識」という働きによって認識した「花(過去のもの)」を「現実」にあるかのごとくに自分で想像してしまうのです。

 

私たち衆生は、「事実(真実)」というものを、そのまま受け入れているのですが、「色受想行識」の作用に因って、それが覆い隠されている訳です。

すべては縁に因って突然起こるものですから、その縁が消滅すれば消えてなくなるという事です。

 

例えば二つの意識を一度に意識する事は出来ません。

必ず「前の意識」が失くならなくては、次の意識は出て来ない訳です。


分かるということ 2 「色受想行識」

2016年01月14日 | 法理

私たち衆生(此の物)を、たとえば分けて言えば、肉体と精神ということです。

この機能の働きに因って、私たち衆生(此の物)の中に受け込む作用があります。

その働きを受けるものが「色受想行識」です。

 

1. 「色」とは、目に見えるもの肉体です。他の「受想行識」は精神作用、即ち心の働きです。

 

2. 「受」とは、向こうから受け込んで来るすべての物の感覚です。

先程の花の例のように見た瞬間に一つのものに成れなかった為に、その後に起こった感覚です。

 

3. 「想」とは、想像して是非善悪を判断する作用です。

 

4. 「行」とは、これは活動です。次々に起こしていく意識の作用です。

 

5. 「識」とは分別する作用です。

 


分かるということ 1 「道とは」

2016年01月13日 | 法理

「天上天下唯我独尊」 (てんじょう てんげ ゆいが どくそん)

というおシャカ様のお言葉があります。

 

私たち一人一人は差異のある存在です。

全世界の人口は七十三億人といわれていますが、私たち一人一人は他と比較することが出来ない、かけがえのない唯一人の存在です。

 

本当に自分の性(しょう)を見れば、何もないということが分かります。

時間、場所、距離もないのが「道」です。

 

本来、私たち衆生は 「道そのもの」 であり 「今の自分自身が道」 であるという事です。

ですから、修行の結果、「道」 が分かりましたというのは、本当ではありません。

 

「花を見て花を見ず」 という教えがあります。

説明を加えると、ここに花があるとします。

花を見た瞬間には花でも何でもありません。

 

花は見えませんし、色も分かりません。

自分の好みに合う合わないという感情も何も、最初は起きません。

 

ほんのわずかの間に九百回もの生滅があると仏教では説いています。

人間 (にんげん) の目ではとてもその変化を見ることは出来ません。

一切のものが何時も同じ状態であるということが ない ということです。

 

ところが、花を見た一瞬に自分の考えというものが働いて、この花とは全く関係なく、自分の判断材料の花、と見てしまうのです。

そして、次から次へと花とは無関係な感情が出てくるのです。


般若心経を考える 8

2016年01月12日 | 般若心経

般若心経の最後の呪に曰く

  ガテーガテー

    「やった やった」

  パラガテー 

    「確かに越えた、確かに成し遂げた」

  パラサンガテー   

    「自分一人の苦しみだと思っているけれども、すべての衆生とともに 越えることが出来た」

  ボディスワハ

    「万歳」

 

ここで私たち衆生が一番注目しなければならないことは、おシャカ様が

「一切衆生とともに渡りきることがことが出来た」

「一切衆生とともに越えることが出来た」

という、

「すべての衆生とともに」

と、おっしゃっている事です。

 

私一人だけがそういう状態になったというのではありません。

「すべての衆生とともに、そういう目醒めがあった」、という事です。

そうでなければ本当の「目醒め」、 本当の「悟り」という事はあり得ないことなのです。

 

この事実を本当に知る、別の言葉で言えば、

「結果と一つに成る」 という事が、私たち衆生の修行(今の事実に徹する) の課題です。