「分からない」から、「分かろう」とする、当然そういう観念が起きてくると思います。
しかし、「分からないもの」は、「分からないもの」なのです。
「分からないこと」を「分からない」と、分かった時が、本当に「分かった」時です。
「分かるという〈道〉」も、「分からないという〈道〉」もあるということです。
「分からない」というその事しかないのです。
比較対照して「分かる」という事ではありません。
一生懸命になればなるほど「分からない」という事が出て来るのです。
要は、「分からない」という事だけに成る事です。
「分からない」という事に成ってしまう事です。
「分かる、分からない」という事に全く関係ないことが、「道」なのです。
「道」は無くなりません。
何故ならば、もともと在るものではないからです。
ですから、無くなりようがないのです。
「分からない」という事は、「分からない」という事に因って、「分からない」という事をなくすることが出来るのです。
人の“癖” で、「分からないものがあってはいけない」、だから一生懸命に修行して「分からなくてはならない」と考えて修行してしまいます。