縁起 (因縁果)の 「法」 にしたがって、生滅と無常を繰り返しながら活動を続けている 「大宇宙の相(すがた)」 は、
「個」 の存在を認めることは出来ません (不識)。
「人間(じんかん)」 もまた、宇宙の活動体の中から生じた活動体ですから、「個」 即ち 「自我」 の存在を認めることは出来ません (不識)。
総ては 「自我」 の認識によって束縛や苦悩が生じるのです。
しかし、それらを認識する時間も空間も全く無い (空) が 「事実」 です。
その中にあって心の安らぎと自由を成就した覚者(本来の人)は、何時でも何処でも、一切衆生とともに
「到彼岸(とうひがん)」 「究竟(くぎょう)の地」 に在って修行を続け、停滞することを知らないのです(不識)。
「知らぬが仏」 ということばがあります。
これも同じく 「不識」 です。
覚者の 「不識」 と同じでしょうか、異なるでしょうか。
覚者曰く 「不識(識らざる) 最も親切」 と。