「般若心経」は「心経」というように、心がどこにあるかという問題を説いています。
物には真ん中に芯があります。
「人間(にんげん)の芯は「心意識」です。
これがいちばん問題のあるところです。
ひとつの心の働きで、あるときは騙し騙され、またあるときは悩まされるわけです。
心意識はたくさんあるものではありません。
ただひとつだけです。
それをそのままにしておくことです。
どんなことを思い、どんなことを教えても、心の働きをそのままにしておくことです。
別の言葉で言えば、つまらないことを考えても、なくそうとも忘れようともせず、そのままの状態で心に映じさせておけばいいのです。
しかし、そう聞くと「思ってはいけない、考えてはいけない」と手をつけるから、また問題が生じてくるのです。
その辺のところを、道元禅師の「普勧坐禅儀(ふかん ざぜんぎ)」に、
「心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ」
と、示されています。
これは何かをやめて静かになれば仏に成れるだろうということを、自分でつくってはいけないという意味です。
最初のうちは法理として一応理解して、その理解したものを持ってはいけないということは、よくおわかりになると思います。
そうしたら、それを放す修行が自分で自然(しぜん)にわかってくると思います。
しかし、執着心というものはなかなかなくならないものです。
執着というものは、ひとつの病です。
病は病で治す以外にありません。
ですから、自分のどんな考えも粗末にしないようにしないといけません。
既にいつでも「空(から)」になっているのに「空(から)に成ろう」と意識することが執着です。
これらは、すべて「因縁生(因縁果)」によって生じます。