活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

般若心経を考える 2

2016年01月06日 | 般若心経

「般若心経」は「心経」というように、心がどこにあるかという問題を説いています。

 

物には真ん中に芯があります。

「人間(にんげん)の芯は「心意識」です。

これがいちばん問題のあるところです。

 

ひとつの心の働きで、あるときは騙し騙され、またあるときは悩まされるわけです。

心意識はたくさんあるものではありません。

ただひとつだけです。

 

それをそのままにしておくことです。

どんなことを思い、どんなことを教えても、心の働きをそのままにしておくことです。

 

別の言葉で言えば、つまらないことを考えても、なくそうとも忘れようともせず、そのままの状態で心に映じさせておけばいいのです。

しかし、そう聞くと「思ってはいけない、考えてはいけない」と手をつけるから、また問題が生じてくるのです。

 

その辺のところを、道元禅師の「普勧坐禅儀(ふかん ざぜんぎ)」に、

「心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ」

と、示されています。

 

これは何かをやめて静かになれば仏に成れるだろうということを、自分でつくってはいけないという意味です。

最初のうちは法理として一応理解して、その理解したものを持ってはいけないということは、よくおわかりになると思います。

そうしたら、それを放す修行が自分で自然(しぜん)にわかってくると思います。

 

しかし、執着心というものはなかなかなくならないものです。

執着というものは、ひとつの病です。

 

病は病で治す以外にありません。

ですから、自分のどんな考えも粗末にしないようにしないといけません。

 

既にいつでも「空(から)」になっているのに「空(から)に成ろう」と意識することが執着です。

これらは、すべて「因縁生(因縁果)」によって生じます。