「分かる、分からない」は、「人の計らい」です。
自分というものが本当になくならないと、「分かること」は計らいではない、「分からない」方がおかしいと考え違いをしてしまいやすいものです。
「分からない」という事ほど、善い事はないのです。
ですから、「分からない」という事に徹していただきたい。
徹するとは、善い事も悪い事もなくするという事です。
「分からないもの」を「分からない」ままにしておく、という事ではありません。
「分からないもの」を「分からない」と、どう自分自身で証明するかという事なのです。
具体的には、自分の思惑を差しはさまないで、「今の事実」に一切手を加えないで生活することです。
「そのままでよかった」と言う事は、修行(今の事実に徹する)して、始めて知るのです。
それを仏教では「新帰元(しんきげん)」 “新しく元に帰る” と言います。