活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

二重の迷い

2015年07月21日 | 法理
人間社会では子供の成長、すなわち物心ついた時を「知恵がついた」といいます。

しかしこれが一重の迷いなのです。

それは子供の時代には、「物心つく時の観念 (認識以前の存在事実) を観念だという自覚」がないからです。


そしてそのまま成長してしまい、観念に観念を生じ、思いに思いを重ねて社会生活を送るようになるのです。

普通、人はこのことを知る由もないし、たとえ知り得てもその源を知らないので、手のくだしようがないのです。

さらに、成人してからも「観念以前の事実 (本質)」を知ることが出来ないまま、「自己の現実と観念との間」に矛盾が生じてしまうのです。

これがもう一重の迷いです。


ですから我々は、本質 (認識以前の存在事実) を知らなければならないのです。

おシャカ様は初めて認識の発生したことを知り、「観念が錯覚を起こして迷うという事実」を見極めたのです。

業について 3

2015年07月20日 | 仏教
「自我」がものを認める事に因って「業、因縁、因果」というものが作られる訳です。

相手を認め、自分を認めれば溝が出来ます。

溝が出来るから苦しいのです。


その苦しみを「地獄」と言っています。

「地獄」とは亡くなってから行く所ではありません。


「道」という羅針盤を「思い出さずに忘れずに」精進して頂きたく思います。



『 草木すら 仏となると 聞くからは 心ある身の たのもしきかな 』

業について 2

2015年07月19日 | 仏教
自我意識の芽生えによって諸々の思想や迷いが必然的に生じます。

これらの二見相対の思想が縁となり、おシャカ様の教えを知り、その教えに導かれて、自我意識は自分の本来の本質ではないという事が次第に理解されて、求道の生活が自覚されるのです。


故に、無明を脱皮した「覚者」と、業を脱皮することの出来ない「無明の人間 (にんげん)」との明確な【相違】が存在することに気付かなければなりません。

「覚者」は方便を駆使して輪廻転生 (りんねてんしょう) を説き、宿業因縁を唱え、「無明業」からの脱皮をすすめるのです。


注意しなくてはならない事は、「悪業」も「善業」も共に自分を認める事から作り出されるものです。

ですから、【両方】とも持っていてはいけないのです。


全ての実相は無相です。

ものの本質は姿や形がないものです。

すなわち「空」に帰するものです。

業 (ごう) について 1

2015年07月18日 | 仏教
「今」という、ほんの短い瞬間の中にも「原因と結果」という因果の道理は必ずあるのです。

それでは何がその前後のものを引きずっているのかというと「業」というものです。


「業」というものは実体があるものではありません。

みんな自分 (自意識) が作っているのです。


「業」は 無明 ( むみょう〈自我意識〉) が生ずる妄想〈本来ないものを在ると認める事〉に依って起こる様々な行為です。

ですから、その「業」が「善業」であっても「悪業」であっても、妄想以外の何物でもありません。


妄想は自分に執着する自分 (自我意識) そのものですから、「業」を明確に理解する為には、おシャカ様の教えに依らなければならないのです。


何の理由や目的を持って、我々は今の世に出生した訳ではありません。

それが数年経過して、すなわち世間的に言う人間 (にんげん) らしくなってくるのです。

そして愛着、執着、行動という「業」を作り出すのです。


それ故に、生まれながらの「覚者」は誰一人として存在することはありません。


空とは 2

2015年07月17日 | 仏教
「此の物」は「空」なのです。

実体がなく、自性 (じしょう) がないものです。


一つのものというものは、ありようがありませんので、是を「空」といっているだけです。

この「空」も “認める事の出来ないもの” “実体のないもの” です。


ですから、縁に従って自由に変化して行き、その変化して行く活動が「業」というものです。


「修行によって自分が空になった」というような事がよく言われますが、それは間違いです。

【もともと「空」】なのです。


「空」というと、あるものが、ある時期において、ある縁によって欠落したと考えがちですが、そういうものではありません。

【空のままにものがある】という事です。


空のなかにものが、様々な「法」としてあるという事です。

別の言葉で言えば、それぞれのものが全て「空」 のままに【無いながらにある状態】を、仏教でいうところの「空」と説明している訳です。

空とは 1

2015年07月16日 | 仏教
ある人は私を「お坊さん」、ある人は私を「住職さん」と呼びます。

【「此の物自体」には特別な名称はありません。】


「此の物」は、様々な縁に応じて変化していきます。

本来そういう風に全く自由さを持っているものです。


何故これ程に自由活発に「此の物」が縁に従って「そのもの」になれるのかというと【「縁 そのものが “空” 」であり、「縁に応じる こちら側のものも “空”」だから】です。



「空」とは人間 (にんげん) 的思惑一切が切り除かれた状態なのです。

又、「空」とは全てのものがいっぱいにある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通しあっている姿を言います。



何か有るべきものが不在している状態をいうのではありません。

相対的に「空」に対する「有」を想定した上でのものでもありません。

空の空、空の縁、空の自分という事です。



何故「空」なのかと言うと、【有形 無形の一切のものは全て因縁によって出来ている】からです。

【「因縁の法則」は、最初から絶対的な法則として存在していた訳ではありません】。

「道、法、空」を理論的に説明しなければならない為に「因縁の法則」を立てたのです。

2015年07月15日 | 語録
「病は自信不及のところにあり」というお示しがあります。

「病」というのは、自分自身が確信していないという、【自分が自分になっていない】という事を言っています。


ですから、「自信不及 (自信が及ばない)」の、「自信」というのは、「自分はこういう自信を持っている」というような自信ではありません。


一番大きな病というのは、「仏法、道、悟り……」。

こういう事は皆、妄想だという事を多くの人は知りません。


「法というのは、正しいものだ」「道というのは、確かなものだ」というのは、皆 妄想なのです。

そういうものに引きずり回されているという事です。


【しばらくは仕方がない】ですが、そういう事は全部、自分自身を自分で確立する事が出来ないために、そういう病に冒されているのです。

何もないではありませんか。元は。

よく考えてみて下さい。

元は何もないのです。


すべて自分がそういうものを全部作っているという事です。

要は自分を確立する事です。

そうしてもらわなければ修行 (今の事実に徹する) にならないのです。



妄想は妄想のままに成りつぶれて行くことです。

取り除こうとすれば、取り除こうとする意識 そのものが邪魔になるので、永劫 (ようごう) に取り除く事が出来ないという事になります。


ですから、「そのままにしておく」という事です。

自分を忘れなければならないのに、自分という考えを出して、“静かになろう” ということを望むものです。

これを求心 (ぐしん) と言います。


求め心がやまないという事で、外道 (げどう) とも言います。

道を外に求めるという事です。



おシャカ様も昔は道を外に求めておられたのです。

そして、一見明星 (いっけん みょうじょう) して、【縁】と一つになられたという事です。

なので、妄想分別が流れ出るという事は、無駄ではないという事です。



みんな そういうものが【縁】になって、【縁と一つに成る】という事で、【間違いない事実】を お示しになっておられます。

苦楽について

2015年07月14日 | 仏教
修行 (今の事実に徹する) の結果、一応その人なりの苦しみから離れる事が出来たとしても、これで菩提を成就したという事にはなりません。

「苦しみから離れて、すっかり安心 (あんしん) しました」という状態になる人は非常に多いと思います。

ところが、数日或いは数年過ぎると、又同じ様な苦しみが出てくるものです。

これは、本当に自分というものが無くなってないのです。


楽になろうと思って出発した修行ですから、苦が無くなるともうそれで終わって、今度はその楽が又、苦の種になる。

そういう事を説明してくださる指導者がなかなかいないために、「楽になった、もうこれで私の修行が出来たんだ」というような誤った考えを起こすという事です。


重複になりますが、無くなったから楽になったというのは、大変な考え違いです。

相対的なものの見方・考え方からすれば、当然苦が無くなれば楽になり、煩悩が無くなれば菩提が殊るという事になります。

しかし、片方が無くなればもう一方の対象も無くならなければなりません。


そうでないと、本当の相 (すがた) を見る事も、つかむ事も、うかがい知る事も出来ないという世界には到着する事は出来ません。


無相というのは、かたちが無いという事です。

「本当の相 (すがた) は、かたちがないものである」 というのが、「実相は無相」という言葉なのです。


ですから、苦しみが無くなって楽になったというのなら、そこでもうひとつ楽になったという「楽」を消滅させていかないと、本当の苦楽の無い境地にはなれません。


人間の社会では、苦しみが無くなって楽になった世界を、極楽と言っています。

天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄という六道輪廻 (りくどう りんね) の中の「天上界 (迷いの世界の一番上)」です。

俗に有頂天と言っています。


これは、まだいつかその果報が尽きると三悪道 (地獄・餓鬼・畜生) という非常な苦しみの中に落ちなければならない生活のなかなのです。

慈悲とは

2015年07月13日 | 仏教
仏教でいう慈悲の「慈」というのは、楽を与えるという事です。

「悲」というのは苦悩を除くという事です。


お寺には一例として、本尊様の両脇に文殊 (もんじゅ) 菩薩様と普賢 (ふげん) 菩薩様をお祀りしてあります。

文殊菩薩は智慧、普賢菩薩は慈悲の菩薩様です。


日本では「知に働けば角がたつ」と、言われておりますが、知慧だけで「法 (道)」を説くと一辺倒に偏るために、知慧と慈悲がうまく組み合わされております。


真ん中の本尊様は「法 (道)」そのものですから、私達衆生が願い事をしても、何を申し上げても、一向に知らん顔をしていらっしゃいます。

そこで本尊様に代わって脇侍の文殊菩薩様と普賢菩薩様が「法 (道)」を説かれるのです。

それを三位一体 (さんみいったい) の「平等と差別 (仏教では “しゃべつ” と読みます)」によって、「法(道)が」円満に説かれていくということをあらわしています。


そして、本尊様と文殊菩薩様と普賢菩薩の三位一体兼ね備えているのが私達衆生の【今の自分の様子】なのです。

ですから、神仏に御詣りするという事は、偶像を礼拝 (らいはい) する事ではありません。


自灯明、法灯明 (じとうみょう、ほうとうみょう) で早くそのようなものに目醒めたいと願って、自分自身に礼拝する事が礼拝の真の意味です。

無常な世の中

2015年07月12日 | 法理
この世の中でも、自分の事でも、定める事は出来ません。

一般に、浮き世のならいといいますが、世の中はどんどん変化して定めの無いものだという事は、よく分かっているのです。

分かっているのに、ひとたび逆境にあうと悲嘆のあまり自分の命を絶つような事があります。

それは「ひと時も同じではない」という事が本当に分かっていないために、それに従っていけないからなのです。


自分の心は本当にあてになりません。

今、こういう事を考えたかと思うと、次の瞬間には変わっています。

「心というのは、コロコロと転げ回るものだ」と、言っている人がいますが、全くその通りです。


特に気を付けなければならないのは、善い条件の時のみに「自己の正体を見極められる」と、考える人が非常に多いのです。

これはプラスの時もマイナスの時も全く一つです。

マイナス面の時には、何時も考えが出てしまって、「もとに戻ろう、戻ろう」という努力を懸命にする人がいますがそうではありません。

【マイナス面はマイナスのまま】、それが “事実” です。


決してプラスの時ばかりが、善い条件という事ではありません。

順境、逆境ともに「自己の正体を見極められる」という事ですから、悪いことだからといって投げ捨ててしまって、善い方にだけに方向付けする必要は全くありません。


決して「プラスの面だけが修行 (今の事実に徹する) が進んでいる」なんて事を思わないで頂きたいと思います。

私達衆生の日常生活は、「法 (道)」の働きだという事を、よく理解しておいて頂きたいと思います。



ですから、損をしても得をしても、プラス面があってもマイナス面があっても、それは「法 (道) の働き」であるという事です。