不生不滅 (ふしょう ふめつ) とは「涅槃」という事です。
「不生不滅〈生ぜず、滅せず〉」というものは、人が生きるとか死ぬという事ではありません。
私達衆生の今の目の前に見える形のあるもの、或いは、心の働きというものは全て「不生不滅〈生ぜず、滅せず」という事なのです。
「不生不滅〈生ぜず、滅せず〉」という事は、ものの究極の様子です。
究極というのは、「今の私達」です。
迷っている、不安があるという事は、本当に【それだけのものであって、何もない】。
それを平等といい、究極と言っています。
何もないところでは、何でもあります。
どんなものでも、そこに入り込んでくるだけのものがあるのです。
しかも【比較するものもない、それだけのもの】なのです。
仏教では因、縁、果 と言いますが、結果が直ちに原因になって、次のものを生じさせて来るのです。
ですから、【結果や事実に留まる事は出来ません】。
何故ならば、いつも変化の中にあることだからです。
おシャカ様や歴代の覚者の究極の御示しは、本来は「不生不滅〈ふしょう ふめつ〉」のものなのです。
【思ったときは思いそのものだけ】なのです。
しかし、そこに「人 (ひと) 」の介在があると、思いが思いだけに済まされなくなるのです。
善いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう意識が付着する事になってしまうのです。
「不生不滅〈生ぜず、滅せず〉」というものは、人が生きるとか死ぬという事ではありません。
私達衆生の今の目の前に見える形のあるもの、或いは、心の働きというものは全て「不生不滅〈生ぜず、滅せず」という事なのです。
「不生不滅〈生ぜず、滅せず〉」という事は、ものの究極の様子です。
究極というのは、「今の私達」です。
迷っている、不安があるという事は、本当に【それだけのものであって、何もない】。
それを平等といい、究極と言っています。
何もないところでは、何でもあります。
どんなものでも、そこに入り込んでくるだけのものがあるのです。
しかも【比較するものもない、それだけのもの】なのです。
仏教では因、縁、果 と言いますが、結果が直ちに原因になって、次のものを生じさせて来るのです。
ですから、【結果や事実に留まる事は出来ません】。
何故ならば、いつも変化の中にあることだからです。
おシャカ様や歴代の覚者の究極の御示しは、本来は「不生不滅〈ふしょう ふめつ〉」のものなのです。
【思ったときは思いそのものだけ】なのです。
しかし、そこに「人 (ひと) 」の介在があると、思いが思いだけに済まされなくなるのです。
善いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう意識が付着する事になってしまうのです。