仏教でいう慈悲の「慈」というのは、楽を与えるという事です。
「悲」というのは苦悩を除くという事です。
お寺には一例として、本尊様の両脇に文殊 (もんじゅ) 菩薩様と普賢 (ふげん) 菩薩様をお祀りしてあります。
文殊菩薩は智慧、普賢菩薩は慈悲の菩薩様です。
日本では「知に働けば角がたつ」と、言われておりますが、知慧だけで「法 (道)」を説くと一辺倒に偏るために、知慧と慈悲がうまく組み合わされております。
真ん中の本尊様は「法 (道)」そのものですから、私達衆生が願い事をしても、何を申し上げても、一向に知らん顔をしていらっしゃいます。
そこで本尊様に代わって脇侍の文殊菩薩様と普賢菩薩様が「法 (道)」を説かれるのです。
それを三位一体 (さんみいったい) の「平等と差別 (仏教では “しゃべつ” と読みます)」によって、「法(道)が」円満に説かれていくということをあらわしています。
そして、本尊様と文殊菩薩様と普賢菩薩の三位一体兼ね備えているのが私達衆生の【今の自分の様子】なのです。
ですから、神仏に御詣りするという事は、偶像を礼拝 (らいはい) する事ではありません。
自灯明、法灯明 (じとうみょう、ほうとうみょう) で早くそのようなものに目醒めたいと願って、自分自身に礼拝する事が礼拝の真の意味です。
「悲」というのは苦悩を除くという事です。
お寺には一例として、本尊様の両脇に文殊 (もんじゅ) 菩薩様と普賢 (ふげん) 菩薩様をお祀りしてあります。
文殊菩薩は智慧、普賢菩薩は慈悲の菩薩様です。
日本では「知に働けば角がたつ」と、言われておりますが、知慧だけで「法 (道)」を説くと一辺倒に偏るために、知慧と慈悲がうまく組み合わされております。
真ん中の本尊様は「法 (道)」そのものですから、私達衆生が願い事をしても、何を申し上げても、一向に知らん顔をしていらっしゃいます。
そこで本尊様に代わって脇侍の文殊菩薩様と普賢菩薩様が「法 (道)」を説かれるのです。
それを三位一体 (さんみいったい) の「平等と差別 (仏教では “しゃべつ” と読みます)」によって、「法(道)が」円満に説かれていくということをあらわしています。
そして、本尊様と文殊菩薩様と普賢菩薩の三位一体兼ね備えているのが私達衆生の【今の自分の様子】なのです。
ですから、神仏に御詣りするという事は、偶像を礼拝 (らいはい) する事ではありません。
自灯明、法灯明 (じとうみょう、ほうとうみょう) で早くそのようなものに目醒めたいと願って、自分自身に礼拝する事が礼拝の真の意味です。