活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

三昧 (ざんまい) 1

2015年07月25日 | 仏教
「三昧 (ざんまい)」というのは、成り切る事です。

修行 (今の事実に徹する) を自分のものにするには、【三昧に成り切る】ことです。


静かに坐る時間が取れない方は、坐らなくても結構なのです。

自分の仕事、考える事に時間を費やしている方は、一所懸命に考える事に成り切って頂ければ、それで結構なのです。


或いは、体を動かして労働している方は、一所懸命に労働に従事をする。

これらは皆、【形の変わった坐る事】なのです。

これを、「動中の修行」と言っています。


又、人によっては炊事や洗濯をするよりも、静かに坐って三昧になるほうが尊いのではないかと考えるかもしれません。

しかし、三昧という事から言えば、何をしていても全く同じです。


坐っていても三昧に成り切る事が出来なければ、その人は修行 (坐) になっていないという事です。

坐る事が出来ないからといって、決して「自分は修行が出来ないのだ」というような事は、言ってはいけないのです。


ですから、その事だけに一所懸命になって頂きさえすれば、それで構わないという事です。

出来る人と、出来ない人があるのではないかという心配が生じてくると思います。

しかし、そういう事は【絶対にあり得ません】。


自分の事です。

「今の自分の事実」を、そのままにうけがうという事ですから、出来るとか出来ないという事ではありません。

【気が付くか、付かないか】という事です。


ですから、正しい教えによって、正しい三昧に入れば必ず気が付く事は、間違いありません。