活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

苦楽について

2015年07月14日 | 仏教
修行 (今の事実に徹する) の結果、一応その人なりの苦しみから離れる事が出来たとしても、これで菩提を成就したという事にはなりません。

「苦しみから離れて、すっかり安心 (あんしん) しました」という状態になる人は非常に多いと思います。

ところが、数日或いは数年過ぎると、又同じ様な苦しみが出てくるものです。

これは、本当に自分というものが無くなってないのです。


楽になろうと思って出発した修行ですから、苦が無くなるともうそれで終わって、今度はその楽が又、苦の種になる。

そういう事を説明してくださる指導者がなかなかいないために、「楽になった、もうこれで私の修行が出来たんだ」というような誤った考えを起こすという事です。


重複になりますが、無くなったから楽になったというのは、大変な考え違いです。

相対的なものの見方・考え方からすれば、当然苦が無くなれば楽になり、煩悩が無くなれば菩提が殊るという事になります。

しかし、片方が無くなればもう一方の対象も無くならなければなりません。


そうでないと、本当の相 (すがた) を見る事も、つかむ事も、うかがい知る事も出来ないという世界には到着する事は出来ません。


無相というのは、かたちが無いという事です。

「本当の相 (すがた) は、かたちがないものである」 というのが、「実相は無相」という言葉なのです。


ですから、苦しみが無くなって楽になったというのなら、そこでもうひとつ楽になったという「楽」を消滅させていかないと、本当の苦楽の無い境地にはなれません。


人間の社会では、苦しみが無くなって楽になった世界を、極楽と言っています。

天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄という六道輪廻 (りくどう りんね) の中の「天上界 (迷いの世界の一番上)」です。

俗に有頂天と言っています。


これは、まだいつかその果報が尽きると三悪道 (地獄・餓鬼・畜生) という非常な苦しみの中に落ちなければならない生活のなかなのです。