私達衆生は「念、念」と言っていますが、念とはどういうものかという説明は出来ません。
あるいは、「心 (しん、こころ)」も説明出来るものではありません。
白隠禅師の「坐禅和讃 (ざぜん わさん)」の中で「無念の念を念として」という御言葉がありますが、「無念の念」とは、【誰も名前を知らない】のです。
そこで、【わからないうち】は “自我である” と名前をつけたけれども、【わかってみれば】“それがそのまま悟りであり、道であ、法である”という事になるわけです。
このことを「修証不二 (しゅしょう ふに)」といって、修そのものが証拠である、悟りであると説明しています。
ですから、念を起こさない「今の事実」に徹すれば、本当に自分が満足する事が出来るのです。
あるいは、「心 (しん、こころ)」も説明出来るものではありません。
白隠禅師の「坐禅和讃 (ざぜん わさん)」の中で「無念の念を念として」という御言葉がありますが、「無念の念」とは、【誰も名前を知らない】のです。
そこで、【わからないうち】は “自我である” と名前をつけたけれども、【わかってみれば】“それがそのまま悟りであり、道であ、法である”という事になるわけです。
このことを「修証不二 (しゅしょう ふに)」といって、修そのものが証拠である、悟りであると説明しています。
ですから、念を起こさない「今の事実」に徹すれば、本当に自分が満足する事が出来るのです。