経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

7月18日礼拝「山上の説教③-和解-」

2021-07-19 11:54:35 | 礼拝
 マタイの福音書5章21~26節 

 イエス様は、(21)「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」というユダヤ人の言い伝えを取り上げました。「殺してはならない」とは、イスラエル人たちが神から与えられた「十戒」の第六戒です。しかし律法学者やパリサイ人たちは、この教えに「人を殺す者はさばきを受けなければならない」を付け足したようです。そして次第に、人殺しさえしなければ罪に問われないと、理解されるようになりました。これに対して、イエス様は、(22)「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」イエス様は腹を立てることも本質的には殺人と変わらないとおっしゃいました。イエス様は表面的なことではなく、むしろ隠された人の心の部分を見ておられるのです。殺人という恐ろしい罪も、もとをただせば腹を立てることからです。このような根本的な原因を解決していかなければ真の解決には至らないとイエス様は言われるのです。

 (23~24)「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」礼拝はとても大切なことですが、それを後回しにしてでも、仲直りすることが大切だとおっしゃいました。どうしてでしょう?仲直りをしないまま、人を傷つけてしまったという気持ちを抱えたままでは、神様を心から礼拝することはできないからです。表面だけ敬虔そうに装って神を礼拝しながら、内心では兄弟を恨んでいたり、対立関係にあるなら、その礼拝は決して神に喜ばれるものではないからです。イエス様は、「ささげ物はそこに置いていいから、まず仲直りをしに行きなさい」とおっしゃいました。「ちょっと立ち止まって考えてみましょう」と言われているのかもしれません。なぜ恨みを買ってしまったのか、自分にも何か悪い点、相手に迷惑をかけてしまったことがあるのではないか。示されるならば、悔い改めて和解のために祈りましょう。

 (25~26)「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。」できるだけ早く和解するように勧めています。なぜなら、もし有罪になって罰金刑を科されると、全額を払い終わるまで投獄されるからです。一コドラントとは、ローマの最小額の貨幣で、現在の百円に相当します。最後の一コドラント支払うまで牢に閉じ込められることになると警告しています。このことは、最後の審判を比喩的に示したものと理解することができます。この世において私たちは人に対して多くの負債(負い目)を持っています。このすべての罪は最後の審判において訴えられるのですから、今のうちにその負債を払って和解しなければなりません。そうでなければ、必ず裁かれ獄に入れられるからです。でも、私たちには自分で自分を償う力がありません。イエス様が十字架にかかりすべての罪咎を償ってくださいました。私のために最後の一コドラントまで支払ってくださったから、裁かれず、神と和解することができたのです。ですから、神との和解を受けた者として、兄弟とも和解していけますように。時間がかかるかもしれませんが、和解の実が結ばれていきますように。

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