経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

3月14日礼拝

2021-03-15 11:28:17 | 礼拝
マタイの福音書26章36~46節「祈りによる勝利」

 イエス様は弟子たちとオリーブ山のふもとにあるゲッセマネという所に来て、弟子たちに(1)「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい。」と言われました。弟子たちをそこに残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてさらに奥に進んで行かれました。そのとき、イエス様は悲しみ悶えはじめて言われました。(38)「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」いよいよ十字架を目前にして悩み苦しみました。主はさらに一人で進んでいき、地面にひれ伏して祈り始めました。(39)「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」「杯」とは、罪に対する神の怒りであり、イエス様が受ける苦しみ、つまり十字架を表しています。イエス様は、ご自身がすべての人の罪のために身代わりとなり、十字架にかかって罰を受けることが、神様のみこころであることを知っていました。しかし、できることなら、このような罪の刑罰を受けなくてもよいようにしてほしいと願ったのです。また一方で、イエス様はすぐに、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」とも祈りました。自分が望むようではなく、神が望むままになされていくことを願いました。
 その後、イエス様がペテロたちのところに戻ると、三人とも眠っているのを見て言われました。(40~41)「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」イエス様は必死に祈っていたのですが、弟子たちは眠りこけていました。一時間も祈っていることができなかったのです。何のために祈るように言われたのでしょうか。霊は燃えていても肉体は弱いのだから、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っているようにと言われたのです。自分の力で誘惑を克服することはできません。祈りは肉体の弱さや誘惑から守ってくださいます。弱さを補うことができるのは頑張りではなく、祈りです。
 
 イエスは再び弟子たちから離れていき、二度目の祈りを捧げました。(42)「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られました。ここにはもはや自己主張による願いはありません。祈りで大切なことは、父なる神のみこころが何であるかを知ろうとする心です。神のみこころが何であるかを探り、それに従うことができるように、自分の心を神に明け渡していくことです。その後、主は再びペテロたちのもとに戻ってくると、やはり三人は眠っていました。イエス様は三人をそのまま置いておき、三度目の祈りをなさいました。一度目、二度目と同じように、同じことばを使って、神様のみこころを祈り求めたのです。それからイエス様は弟子たちのところに戻って来て、何か吹っ切れたように言われました。(45~46)「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」イエス様は三度目の祈りを終えて、自分の心が決まったようです。神のみこころを知り、ご自身明け渡し、それに従っていこうと決心されました。イエス様は祈りの格闘を通して、主のみこころを確信し、十字架の道を従順に従っていきました。祈りによって勝利されました。神の御子であるイエスが、祈る姿を見せてくださいました。私たちも自分を明け渡し、主のみこころに従っていけますように助けてください。誘惑多く、弱く、苦悩する私たちですが、祈りによって勝利させてください。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3月7日礼拝 | トップ | 3月21日礼拝 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝」カテゴリの最新記事