夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

伯耆路をゆく 再び

2015-10-20 20:40:34 | 短歌
これは今月初めの話になるが、「吟行短歌集 伯耆路をゆく」が郵送されてきた。
7月の日本歌人クラブ中国ブロック研修会の後で、その時の参加者たちが短歌5首をそれぞれ提出したものを集成した小冊子である。

日本歌人クラブ会長の三枝昂之氏は、「短歌の日記代わりの記録性、永久保存の意義」をよく強調されているとのこと。

確かに、歌詠む者にとっては、なまじの写真より、自分の実感実情に出た歌、思いを凝らして詠んだ歌の方が、はるかにその時、その場を思い出すよすがとなるにちがいない。

頁を繰り、参加者の皆さんたちの詠歌を読んでいると、旅の中で見聞きしたあれこれが脳裡に鮮やかに蘇る。
自分と同じものを見ても全く着眼点が違ったり、私の全く気づいていなかったものを取り上げていたり、グループで吟行する楽しさは、こんなところにもあるのだな、と思った。

先生のお歌も、「大山即時」と題した作があり、その中では特に、

  青山の奥より潺湲(せんかん)と来たる水また青山の中に消えゆく

  みどり濃き木賊(とくさ)の茎に殻を脱ぎゆきし蟬ありいまだ濡れ色

が印象に残った。

先生のお歌を読んでいつも感じるのは、その語彙の豊富さである。
「潺湲」は水がさらさらと流れるさまをいい、清流の形容に用いられる。
恥ずかしながら私は、国語の教員でありながら、辞書を引くまでこの言葉を知らなかった。

私は短歌に漢語を使うのが苦手で、歌の調べを損なうのが嫌なので、なるべくなら和語だけで済まそうとする傾向がある。
しかし、現代短歌では、漢語、俗語、卑語も含めて貪欲に歌に詠むべき言葉を求め、なおかつ格調ある歌を作らなければならない。
自分の知っている範囲の言葉だけにとらわれず、もっと歌言葉を開拓したり、あるいはあえて造語したり、表現の可能性を追求する必要があると思った。