Butzmetz LingerieZ Blog

Butzmetz社長による徒然音楽日記。

音楽は世界言語なのか?

2006-07-24 00:48:40 | Weblog
音楽を愛してやまない私ではあるが、あえて問題提起の意味をこめて。

今日、先月のライブから数えて約1ヶ月ぶりくらいに、「仏滅らんじぇりいず」のリハーサルを敢行した。リハ自体は、まあいつものことなのでどうでもいいのだが、その帰路のことだ。

いつも結構荷物が多くなるので(というより、持って歩いて電車に乗ったりするのが面倒なので)、リハーサルには車で行くことが多い。車の中では自分の好きなCDをかけたり、CDに飽きるとラジオをかけたりする。今日はそのラジオの中で、名前は忘れたが、なんでもパリに在住の日本人のシンガーソングライターのことが特集として組まれていた。小野寺某という女性だったように思う。

彼女は現在、パリの老舗のジャズライブハウス(古くはマイルスもよく出演していたらしい)を根城として、自作曲を「日本語」で披露しているとのことだ。楽曲自体は非常に美しく透明感のあるものだった。

彼女曰く、「日本語は日本人である自分が一番自由に使える言葉である。また、リスナーとして、日本人である自分が聞く外国の音楽で、言葉がわからなくても感動を覚えるものが多くある。」主にこういう理由から、パリで日本語の音楽を演奏することにこだわり続けているようだ。ある意味、至極真っ当な意見だ。

パリでも名門のライブハウスで演奏できるくらいなのだから、恐らく認められているのだろうと思う。

うがった見方なのだとは思うが、パリジャン・パリジェンヌは彼女の音楽に魅力を感じているとは思うのだが、日本語という「言葉の響き」には魅力を感じているのだろうか?言い換えれば、評価しているのだろうか?

私も若い頃は、音楽は世界の共通言語だと信じてやまなかったし、今でも原則論としてはそう考えている。ただ、以前別の日記にも書いたことがあるが、コンテクスト感覚に優れているとされる日本人とその他の国の人たちを同じ感覚で論じることができるのだろうか、という疑問を最近感じることがたまにある。

コンテクスト(context)とは辞書で引けば「文脈」などという日本語があてはめられている英語だが、更に言えば、コミュニケーションに際して用いられる各種の道具という意味になることもある。道具だからいろいろある。「ことば」も当然そうだし、「表情」や「目線」、「ジェスチャー」なども含まれる。どうやら日本人は、欧米人などと比べると、コンテクストがはるかに豊かな民族の一つだそうだ。

コンテクストが豊かだと、「ことば」に頼らないコミュニケーションができるが、コンテクスト感覚が少ないと、どうしてもコミュニケーションの大半を「ことば」に頼らざるを得なくなる。

確かに、欧米のコミュニケーションの中心は「ことば」であるように思う。また自分の個人的な経験になってしまうが、彼らは基本的に「言わないと=事細かにことばで説明しないと=理解できない」人たちなのだと痛切に感じる。

もちろん、音楽に翻って考えてみると、例えばメジャー(長調)の楽曲は明るく楽しい感じ、マイナー(短調)の楽曲はもの悲しい感じ、フォース・ビルド(完全四度による和声)は不安定な感じ、こういった「誰しも感じるであろう共通の感覚」があるとは思うので、単純に音だけ聞けばある程度の感慨・感覚を共有できることは確かだと思う。しかし、「音」以上に雄弁なのが「ことば」であることも事実だ。

要は、日本人が言葉の意味もわからずジャズやロック、シャンソン、ボサノバなどの洋楽を楽しむのと同じ感覚で、例えばフランス人が日本語の音楽を楽しめているのだろうか、ということだ。

昔はそんなこと考えもしなかったが、今では、結論として少し否定的に考えている。

これって、やっぱりひねくれた考え方だろうか?

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (仏滅社長)
2006-07-24 19:35:09
書き忘れましたが、これは私の書いたものです。
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Unknown (仏滅常務)
2006-07-28 22:32:09
社長のご意見について。



・評価する音楽が「歌付き」とすると判断は非常に難しくなりますよね。当然のことながら日本人には日本語の歌詞はわかるけれどもフランス人には歌詞は歌詞としては聞こえない。結果、歌付きの音楽は「共通言語としての音楽」の議論の俎上に上がるのか?というところに疑問を感じざるを得ません。



・では「共通言語としての音楽」の対象を「インスト」に限った場合。私見ですが、もちろん共通言語なのだろうけど、国や地域によって特色があり、これは料理と全く同じで、日本料理が好きなフランス人も居れば逆も居て、また日本料理が好きな日本人も当然居るのではないかというのが私の意見です。

 この話をする前にしておかなければならない話があって、それは、音楽の良し悪しを判断する際には、音楽以外に他の多くの要素が混在している場合が殆どであると思うのです。映像だとかルックス、ミュージシャンの名前や評価、などなど(歌詞もその一部といってもよいと思う)。

 私は昔、「自分は日本料理好きな日本人だ」と痛切に感じたことがあります。CD屋のジャズのコーナーで素晴らしいピアノが流れていた。「これは素晴らしい、世界一のピアニストだ。誰だこれは?」と思って店員に聞いたら小曽根真だった。小曽根さんは最も世界的な日本人ジャズミュージシャンだと思いますし、私自身も世界で一番好きなピアニストですが、世界を席捲した、という世の中の評価は未だ聞きませんよね・・・

 また私が高校生の頃、まだドラムを始めていないころに聞いたレコード(古!)で、「誰これ?上手いドラムやのう!」と思って調べてみたら、村上ポンタ秀一という、何やら日本で一番多忙なドラマーらしい(その頃はまだ彼の外見や「タレント性」については全く知らなかった)。その後そのドラムに心酔し、ドラムを始めてしまい、さらには暫くの間私を彼の追っ駆けにまでしてしまったのも、彼の日本料理的な美味さに私の味覚がシビレさせられてしまったためとしか思えません。



・欧米人は「言葉で説明しないとわからない人たち」というのはどうやら確からしい。「神がいるのかいないのか」、「神との契約を守るのか守らないのか」、「生かされれるのか殺されるのか」といった古代ユダヤ教が、ギリシャで「AはBである」と「AはBでない」が両方成立することはない、という形式論理学に結びついて(何故ユダヤ教がギリシャで・・・というのは疑問だが)、キリスト教に乗っかってヨーロッパに広まった、という議論があるようで、要するに欧米の思考の仕方には、「論理」というものが深く根差しているようです。

 一方、仏教には「空」という考えがあって、これは「有」でありかつ「無」である、仏教徒であっては「仏は無し」というようなことがまかり通る、形式論理学とは全く相容れない思想だそうです。そういったものが日本人の論理性の弱さ、また逆に社長の言うところのコンテキスト感覚の強さの基になっているのかも知れませんね。

 因みに論理(Logic)の語源はLogos(言葉)。言葉を的確に使い分けることが論理性に繋がるんだそうな。



 色々書きましたが、私が一番言いたいのは、「音楽(インスト)は共通言語かもしれないが、特色と嗜好には国民性があるのでは?」という仮説です。
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Unknown (仏滅社長)
2006-08-01 19:24:38
確かに常務がいってるように、歌ありの音楽とインストでは違うかもしれない。賛成。ただ、世の中のインスト音楽にも「ことば」が関与する部分がある。「題名」だ。

仏滅の楽曲にかなり適当な題名をつけているのには、実はそういうところにも起因する。私の理想としては、極力「音」だけでイメージをリスナーに膨らませて欲しいと思っており、正直、題名なんて不要、くらいに考えておる。
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