音楽を愛してやまない私ではあるが、あえて問題提起の意味をこめて。
今日、先月のライブから数えて約1ヶ月ぶりくらいに、「仏滅らんじぇりいず」のリハーサルを敢行した。リハ自体は、まあいつものことなのでどうでもいいのだが、その帰路のことだ。
いつも結構荷物が多くなるので(というより、持って歩いて電車に乗ったりするのが面倒なので)、リハーサルには車で行くことが多い。車の中では自分の好きなCDをかけたり、CDに飽きるとラジオをかけたりする。今日はそのラジオの中で、名前は忘れたが、なんでもパリに在住の日本人のシンガーソングライターのことが特集として組まれていた。小野寺某という女性だったように思う。
彼女は現在、パリの老舗のジャズライブハウス(古くはマイルスもよく出演していたらしい)を根城として、自作曲を「日本語」で披露しているとのことだ。楽曲自体は非常に美しく透明感のあるものだった。
彼女曰く、「日本語は日本人である自分が一番自由に使える言葉である。また、リスナーとして、日本人である自分が聞く外国の音楽で、言葉がわからなくても感動を覚えるものが多くある。」主にこういう理由から、パリで日本語の音楽を演奏することにこだわり続けているようだ。ある意味、至極真っ当な意見だ。
パリでも名門のライブハウスで演奏できるくらいなのだから、恐らく認められているのだろうと思う。
うがった見方なのだとは思うが、パリジャン・パリジェンヌは彼女の音楽に魅力を感じているとは思うのだが、日本語という「言葉の響き」には魅力を感じているのだろうか?言い換えれば、評価しているのだろうか?
私も若い頃は、音楽は世界の共通言語だと信じてやまなかったし、今でも原則論としてはそう考えている。ただ、以前別の日記にも書いたことがあるが、コンテクスト感覚に優れているとされる日本人とその他の国の人たちを同じ感覚で論じることができるのだろうか、という疑問を最近感じることがたまにある。
コンテクスト(context)とは辞書で引けば「文脈」などという日本語があてはめられている英語だが、更に言えば、コミュニケーションに際して用いられる各種の道具という意味になることもある。道具だからいろいろある。「ことば」も当然そうだし、「表情」や「目線」、「ジェスチャー」なども含まれる。どうやら日本人は、欧米人などと比べると、コンテクストがはるかに豊かな民族の一つだそうだ。
コンテクストが豊かだと、「ことば」に頼らないコミュニケーションができるが、コンテクスト感覚が少ないと、どうしてもコミュニケーションの大半を「ことば」に頼らざるを得なくなる。
確かに、欧米のコミュニケーションの中心は「ことば」であるように思う。また自分の個人的な経験になってしまうが、彼らは基本的に「言わないと=事細かにことばで説明しないと=理解できない」人たちなのだと痛切に感じる。
もちろん、音楽に翻って考えてみると、例えばメジャー(長調)の楽曲は明るく楽しい感じ、マイナー(短調)の楽曲はもの悲しい感じ、フォース・ビルド(完全四度による和声)は不安定な感じ、こういった「誰しも感じるであろう共通の感覚」があるとは思うので、単純に音だけ聞けばある程度の感慨・感覚を共有できることは確かだと思う。しかし、「音」以上に雄弁なのが「ことば」であることも事実だ。
要は、日本人が言葉の意味もわからずジャズやロック、シャンソン、ボサノバなどの洋楽を楽しむのと同じ感覚で、例えばフランス人が日本語の音楽を楽しめているのだろうか、ということだ。
昔はそんなこと考えもしなかったが、今では、結論として少し否定的に考えている。
これって、やっぱりひねくれた考え方だろうか?
今日、先月のライブから数えて約1ヶ月ぶりくらいに、「仏滅らんじぇりいず」のリハーサルを敢行した。リハ自体は、まあいつものことなのでどうでもいいのだが、その帰路のことだ。
いつも結構荷物が多くなるので(というより、持って歩いて電車に乗ったりするのが面倒なので)、リハーサルには車で行くことが多い。車の中では自分の好きなCDをかけたり、CDに飽きるとラジオをかけたりする。今日はそのラジオの中で、名前は忘れたが、なんでもパリに在住の日本人のシンガーソングライターのことが特集として組まれていた。小野寺某という女性だったように思う。
彼女は現在、パリの老舗のジャズライブハウス(古くはマイルスもよく出演していたらしい)を根城として、自作曲を「日本語」で披露しているとのことだ。楽曲自体は非常に美しく透明感のあるものだった。
彼女曰く、「日本語は日本人である自分が一番自由に使える言葉である。また、リスナーとして、日本人である自分が聞く外国の音楽で、言葉がわからなくても感動を覚えるものが多くある。」主にこういう理由から、パリで日本語の音楽を演奏することにこだわり続けているようだ。ある意味、至極真っ当な意見だ。
パリでも名門のライブハウスで演奏できるくらいなのだから、恐らく認められているのだろうと思う。
うがった見方なのだとは思うが、パリジャン・パリジェンヌは彼女の音楽に魅力を感じているとは思うのだが、日本語という「言葉の響き」には魅力を感じているのだろうか?言い換えれば、評価しているのだろうか?
私も若い頃は、音楽は世界の共通言語だと信じてやまなかったし、今でも原則論としてはそう考えている。ただ、以前別の日記にも書いたことがあるが、コンテクスト感覚に優れているとされる日本人とその他の国の人たちを同じ感覚で論じることができるのだろうか、という疑問を最近感じることがたまにある。
コンテクスト(context)とは辞書で引けば「文脈」などという日本語があてはめられている英語だが、更に言えば、コミュニケーションに際して用いられる各種の道具という意味になることもある。道具だからいろいろある。「ことば」も当然そうだし、「表情」や「目線」、「ジェスチャー」なども含まれる。どうやら日本人は、欧米人などと比べると、コンテクストがはるかに豊かな民族の一つだそうだ。
コンテクストが豊かだと、「ことば」に頼らないコミュニケーションができるが、コンテクスト感覚が少ないと、どうしてもコミュニケーションの大半を「ことば」に頼らざるを得なくなる。
確かに、欧米のコミュニケーションの中心は「ことば」であるように思う。また自分の個人的な経験になってしまうが、彼らは基本的に「言わないと=事細かにことばで説明しないと=理解できない」人たちなのだと痛切に感じる。
もちろん、音楽に翻って考えてみると、例えばメジャー(長調)の楽曲は明るく楽しい感じ、マイナー(短調)の楽曲はもの悲しい感じ、フォース・ビルド(完全四度による和声)は不安定な感じ、こういった「誰しも感じるであろう共通の感覚」があるとは思うので、単純に音だけ聞けばある程度の感慨・感覚を共有できることは確かだと思う。しかし、「音」以上に雄弁なのが「ことば」であることも事実だ。
要は、日本人が言葉の意味もわからずジャズやロック、シャンソン、ボサノバなどの洋楽を楽しむのと同じ感覚で、例えばフランス人が日本語の音楽を楽しめているのだろうか、ということだ。
昔はそんなこと考えもしなかったが、今では、結論として少し否定的に考えている。
これって、やっぱりひねくれた考え方だろうか?