現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

さよなら、シュウチ

2017-01-11 09:27:15 | キンドル本
 主人公とシュウチは親友です。
 二人はいつもつるんで、いろいろなことをやっています。
 今は、ラジコンカーのレースには、二人とも夢中になっています。
 二人は、いろいろなラジコンカーのレースに出場しています。
 ある日、ひょんなことから、主人公はシュウチの秘密を知ってしまいます。
 さらに、ラジコンカーの大きな大会の予選会で、シュウチはアクシデントに見舞われます。
 それをきっかけに、シュウチはラジコンカーをやめると言います。
 それは、秘密と関係のあることなのでしょうか?
 はたして、二人の関係は、これからどうなるのでしょうか?

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さよなら、シュウチ
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天野悦子「「だれも知らない小さな国」について」日本児童文学1974年10月号所収

2017-01-11 08:51:15 | 参考文献
 戦後児童文学の出発点のひとつとされている佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」(もうひとつはいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」)を、社会主義リアリズムの立場で否定的に評価した論文です。
 「だれも知らない小さな国」の具体的で明晰な文体と構造の「まぎれもない新しさ」は認めつつも、思想上の閉鎖性ゆえに、バッサリと切り捨てています。
 この論文が、1960年代(それも初頭)に書かれたのならば、まだ納得できたと思います。
 なぜなら、その時期は多くの革新側の立場の人たちが、民主主義や社会主義リアリズムに対してあまり疑いを持っていなかったからです。
 しかし、この論文が書かれたのは1974年です。
 すでに、70年安保の敗北を経験し、労働運動や学生運動も分裂を繰り返して退潮傾向にあった時期です。
 この時期に、この作品を、社会主義リアリズムの思想性の有無だけで評価することに驚きを隠せません。
 1974年は私は大学二年生のころで、児童文学研究会の幹事長をやっていたのですが、私のまわりにも学生運動崩れの先輩たちがたくさんいて、佐藤の作品について同様の批判をしている人もいました。
 しかし、仮にも日本児童文学者協会の機関誌にこういう論文が掲載されていたということは、いかに児童文学の世界が社会から遅れているかがわかります。
 ただ、この作品は現在ならばエンターテインメント(事実多くの読者を獲得していました)に位置付けて、思想性よりもその面白さについて批評するべきでしょうが、児童文学の世界で確固たる地位を築いたエンターテインメントである「ズッコケ」シリーズがスタートするのはこの論文が書かれた二年後の1976年ですので、天野が正しく評価できなかったのは、無理はなかったかもしれませんが。

だれも知らない小さな国―コロボックル物語 1 (講談社青い鳥文庫 18-1)
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講談社
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