現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

2024-06-14 11:03:35 | 参考文献

 言わずと知れた青春文学の世界的ベストセラーです。
 特に、日本ではサリンジャーの母国のアメリカより有名なようです。
 四十年近く前に、アメリカにある会社の研究所に半導体の勉強をしに行っていた時、研究所で知り合ったアメリカ人の友だちにこの本のことを話したらまったく知りませんでした。
 もっとも、彼は博士号も持つガチガチの理系人間でしたが、この本は一部の州では悪書に指定されるなど迫害も受けていたようです(このあたりは、キンセラの「シューレス・ジョー」に詳しく書かれています。この本は日本でもヒットした映画「フィールド・オブ・ドリームス」の原作ですが、たぶんサリンジャーのOKが取れなかったのか、映画の中では六十年代の黒人作家テレンス・マンに代えてあります)。
 ネット上でも、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」についてはいろいろ書かれているでしょうから、改めてあらすじは述べません。
 ここでは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えた影響だけを考察したいと思います。
 その前に、なぜ「ライ麦畑でつかまえて」でなく、原題の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」としているかを説明したいと思います。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、1951年にアメリカで出版されたすぐ翌年に「危険な年齢」なんてすごい題名で日本語訳が出ましたが、一般的には1964年に出た野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」で日本でもベストセラーになりました。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は学生時代に原書でも読みましたが、野崎訳に大きな不満はありませんでした。
 ただ、題名だけはずっと違和感を持っていました。
 これでは、なんだか女の子が「ライ麦畑でつかまえて!」と男の子を誘っているような感じがしてしまいます。
 原題に忠実に訳せば「ライ麦畑の捕まえ手」とでもなるのでしょうが、日本語としての収まりはいまいちです。
 2003年に、村上春樹がこの作品の新訳を出して話題になりました。
 それを読んでも特に新しい感銘は受けなかったのですが、題名を「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にしたのには、なるほどこれだけ有名になった後ならばこの手があったかと思いました。
 なぜ私がこれだけ題名に固執しているかといいますと、この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という題名にはこの作品の本質があらわされているからです。
 これについては、後で詳しく述べます。
 さて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えた影響として、大きなものはふたつあると思います。
 ひとつは、饒舌な若者言葉で書かれた文体です。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の直接的な影響を受けている日本の文学作品として有名なのは、1969年に発表されて芥川賞を取り、これもベストセラーになった庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」があげられます。
 「赤ずきんちゃん気をつけて」は、文体だけでなく、作品に出てくる少女の扱いなど、たくさんの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に似ている点が指摘されています。
 この本は、現在ならばヤングアダルトの範疇の本として出版されたかもしれないので、児童文学作品と言ってもいいかもしれませんません。
 まあこれは別として、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の文体を、初めて現代日本児童文学に適用したと思えるのは、1966年の講談社児童文学新人賞を取って、翌年に出版されて課題図書にもなった後藤竜二のデビュー作である「天使で大地はいっぱいだ」です。
 この作品で使われた子どもの話し言葉で書かれた文体は、発表時には児童文学界ではかなり高く評価されたようですが、先に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでいた私にはそれほど新鮮には感じられませんでした。
 その後も、饒舌な子どもの話し言葉で書かれた作品は、現代日本児童文学でよく見られるようになりました。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えたもうひとつの大きな影響は、アイデンティティの喪失、生きていくリアリティの希薄化、社会への不適合などの若者の「現代的不幸」を鮮明に作品化したことです。
 この作品が出版されたころのアメリカは、「黄金の50年代」と呼ばれた繁栄の時代を迎えていました。
 貧困、飢餓、戦争(朝鮮戦争はありましたが遠い極東の事件でした)などの「近代的不幸」を克服したアメリカの中産階級の家庭の高校生、ホールデン・コールフィールドには、親の敷いた路線に従ってアイビーリーグの大学を卒業すれば、豊かな生活が保証されていました。
 しかし、ホールデンはそういった見かけだけの豊かさや大人の欺瞞に対して反発し、自分のアイデンティティを見失ってしまいます。
 この「現代的不幸」は、1960年代後半に入ってようやく豊かになった日本で、多くの若者が直面した問題でした。
 そのため、この作品が、そのころの日本でベストセラー(私の持っている本は1974年の第28刷です)になったのでしょう。
 それに対して、現代日本児童文学はこれら現代的不幸の問題に、すぐには対応できませんでした。
 その頃の日本の児童文学界は、階級闘争的な問題に力を入れていて、組合運動や学園闘争や市民運動などを無理やりに中学生や小学生を主人公にした作品に取り入れて、支配階級に対して労働者階級の団結や連帯で問題解決を図ろうとする作品が、後藤竜二や古田足日などを中心にして書かれていました。
「現代的不幸」を現代日本児童文学で描くようになったのは、70年安保の挫折とその後の混乱を経た1970年代後半になってからでした。
 その初期の代表的な作家は森忠明でしょう。
 森の初期作品、「きみはサヨナラ族か」や「花をくわえてどこへゆく」などには、「現代的不幸」に直面した日本の子どもたちの姿が描かれています。
 私自身も、この「現代的不幸」に直面した子どもたちを描くのをテーマにして作品を書き始めたのですが、それはさらに遅れて1980年代後半のことでした。
 今振り返ってみると、1970年代半ばの学生時代に自分自身がこの問題に直面し、実際に児童文学の創作を始める1980年代半ばまでの空白期間は、自分自身のアイデンティティの回復に必要な時間だったのかもしれません。
 さて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が日本で広く受け入れられた理由の一つに、彼の東洋的な思想への傾倒があります。
 この作品を初めて読んだ時に、私はすぐに宮沢賢治のデクノボーを主人公にした作品群、特に「虔十公園林」を思い浮かべました。
 サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の最後の方で、ホールデンに自分がなりたいものについて、妹のフィービーに向かってこう語らせています。
 以下は野崎孝の訳によります。
「とにかくね。僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない - 誰もって大人はだよ - 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖の縁に立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。 - つまり子供たちは走ってるときにどこを通ってるなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
 もちろん、作品の題名は、このセリフからきています。
 そして、サリンジャーがこの作品で最も重要だと思ったメッセージはこの部分だと、私は考えています。
 それは、宮沢賢治が「虔十公園林」で描いた「顔を真っ赤にして、もずのように叫んで杉の列の間を歩いている」子どもらを、「杉のこっちにかくれながら、口を大きくあいて、はあはあ笑いながら」見ている虔十の姿にピタリと重なってきます。
 そして、学生時代の、また児童文学の創作を始めたころの私自身にとっても、「ライ麦畑のつかまえ役」や「杉林でかくれて子どもらを見ている虔十」は、「僕がほんとうになりたいもの」なのでした。
 今はもう成人した二人の息子たちがまだ幼かったころ、時々彼らを連れていく大きな公園がありました。
 そこには杉林(虔十公園林とは違って、十メートル以上にも大きく育っていました)の中に、たくさんのフィールドアスレチックの障害物があり、いつも多くの子どもたちが遊びまわっていました。
 そのはずれに立って、自分の息子たちだけでなく、たくさんの子どもたちが歓声をあげて走りまわっている姿をぼんやりながめていると、いつのまにか頭の奥の方がジーンとしびれていくような幸福感を感じていました。
 あるいは、その時には、「現代的不幸」をテーマに創作を続けていくことの自分自身のモチベーションは、すでに失われていたのかもしれません。

 

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本田和子「境界にたって その3 「自己」の文学 ―― 無意識と意識のはざまに生まれるもの」

2024-06-10 08:27:35 | 参考文献

 「子どもの館」18号(1974年11月)に発表された論文です。
 ユング理論に基づいて、意識と無意識を含む心の全体として、「自己(self)」という概念を以下のように使っています。
「意識野の中心として意識の世界を統括するのが「自我(ego)」であるのに対し、「自己」は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように自我を縫合するのである。」
 著者は、1963年に刊行されたモーリス・センダックの「Where the Wild Things Are」(文中の邦題は「いるいるおばけがすんでいる」になっていますが、現在は「かいじゅうたちのいるところ」として日本でも有名になっています)を詳細に分析することによって、意識と無意識の両方にまたがる「自己」の文学について説明しています。
「この物語は、一人の少年の無意識への退行と、新たな統合を成就した上での意識への回帰を、あまりにも典型的に描き出していて説明の要もなく思えるほどである。」
と、著者は「かいじゅうたちのいるところ」を評しています。
 ご存知のように、その後「かいじゅうたちのいるところ」は、世界中で2000万部以上も売れたベストセラーになりました。
 著者が指摘しているように、意識と無意識が大人より不分明である子どもたちにとっては、両方の世界を象徴的に描いた「かいじゅうたちのいるところ」はすんなり受け入れられる作品なのでしょう。

 

かいじゅうたちのいるところ
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J.D.サリンジャー「ブルー・メロディ」倒錯の森所収

2024-05-21 08:50:17 | 参考文献

 二十歳の時に初めてこの作品を読んだ時、こんなにかっこいい短編は今まで読んだことがないと思いました。
 その感想は、五十年近くたって、読み直しても少しも変わりません。
 まず、これほど完璧な「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」的な作品は、他にはないでしょう。
 二人(ラドフォドとペギィ。11歳?)が出会うシーン(ペギィが噛みかけのガムを首の後ろのくぼみにさし込むところが格好良かったので、ラドフォドが声をかけました)。
 二人を強く結びつけた完璧な音楽的センス(ラドフォドが前から友だちだった酒場の黒人ジャズピアニストの演奏と、途中から彼の店へやってきた姪のジャズシンガーの歌声に対する二人の反応に対する描写は、音楽ファンなら誰でもしびれることでしょう)。
 二人の婚約(?)(ペギィが、ちょっと怪我しただけ(あるいはしていない)の額に、ラドフォドをだましてキスさせて、それで婚約が成立したと宣言します)。
 二人の別れと再会。
 こうした「ア・ボーイ・ミツ・ア・ガール」的ストーリーの中に、1927年当時の南部(テネシー州)の黒人差別(病院をたらいまわしにされて、黒人ジャズシンガーは急性虫垂炎で死にます)、二人が再会した1942年の雰囲気(第二次世界大戦中で、インターン(医者になろうとしたきっかけは黒人ジャズシンガーの死が影響しているかもしれません)のラドフォドは陸軍に召集されるところで、ペギィは海軍の航空兵と結婚しています)、1944年の戦地での様子(語り手(サリンジャーの分身でしょう)がラドフォドからこの話を聞きます)などが、簡潔にしかし印象的に描き出されています。
 だいたい「ブルー・メロディ」というタイトル自体が、すごくかっこいいですよね。
 ほとんどの創作を始める人が同様だと思いますが、私も好きな作家の模倣からスタートしました。
 私の場合の模倣する対象は、アラン・シリトー(「長距離ランナーの孤独」など)、ペイトン(「卒業の夏」など)と並んで、サリンジャーでした。
 サリンジャーの作品で、「笑い男」(その記事を参照してください)と並んで真っ先に模倣したのが、この「ブルー・メロディ」でした。
 その「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」的短編は、当時の雑誌「日本児童文学」の創作コンクールの選者の人たちはすごく褒めてくれたのですが、もちろんその出来が本家に遠く及ばなかったことは言うまでもありません。

 

 

 

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堀江敏幸「いつか王子駅で」

2024-05-07 16:11:06 | 参考文献

 2001年に「熊の敷石」で第124回芥川賞を受賞した作者の、初の長編作品です(それまでは短編集しか出していませんでした)。
 といっても、この作品も、一章から七章までは「書斎の競馬」という雑誌に掲載された連作短編で、八章から十一章までを追加したものなので、連作短編集的な味わいもあります。
 専門のフランス文学だけでなく日本文学にも造詣が深い作者は、昔ながらの「文士」的な雰囲気があり、若い(この作品を書いた時は三十代半ば)のに老成した印象を受けます。
 文章も擬古的で滋味があって、伝統的な文学ファンには魅力があることでしょう。
 出てくる人物は魅力がありますがすべて善人ばかりで、「なずな」の記事にも書きましたがユートピア小説の趣があります。
 作者の古風な(あるいはそれを装った)作品群は、時には鼻につくこともあるのですが、この作品には初めて読んだ時から児童文学に通ずるものを感じて、作者の中では一番好きな作品です。
 それは、主人公が家庭教師をしている中学生の女の子(その親が彼の住んでいる部屋の大家でもあるのですが)が非常によく書けていて、日本のどの児童文学作品に登場する女の子たちよりも生き生きと魅力的に描かれている点にあります。
 彼女は、主に後半の書き足された部分に出てくるので、この作品を長編として成立させているのは彼女を創造できたおかげだったかもしれません。
 この作品には、彼女の外に、主に前半活躍する主人公いきつけの小料理屋の女将も魅力的に描かれていて、主人公にとって対照的な二人のミューズになっています。
 この作品を好ましく思っているのには、個人的な理由もあります。
 まず、舞台になっている北区の「王子」は、私の育った足立区の「千住」と非常に近く、自転車でよく遊びにいっていました。
 また、曾祖母が住んでいたり、祖父が晩年に入院した病院があったりと、個人的になじみ深い場所でもあります。
 作品に頻出する都電荒川線も、学生時代に時々大学に通うのに使ったりしていて懐かしい路線です。
 もう一つの理由は競馬です。
 この作品が競馬関連の雑誌に連載されていたこともあり、タカエノカオリ(1974年の桜花賞馬で、前述した小料理屋「かおり」の名前の由来)を初めとして、ニットウチドリ(1973年の桜花賞馬)、テスコガビー(1975年の桜花賞(大差勝ち)とオークス(八馬身差勝ち)の二冠馬。当時は秋華賞はおろかエリザベス女王杯もない時代なので牝馬としてはパーフェクトな成績で、戦前のクリフジや最近のウォッカやアーモンドアイなどと並び称されるような最強の牝馬)、キタノカチドキ(1974年の皐月賞と菊花賞の二冠馬)、そして今では懐かしいフレーズになった「三強」(この三頭が一着から三着を占めた1977年の有馬記念は、史上最高のレースと言われています)のテンポイント(1977年春の天皇賞と有馬記念の勝ち馬)、トウショウボーイ(1976年の皐月賞と有馬記念、1977年の宝塚記念の勝ち馬)、グリーングラス(1976年の菊花賞と1978年春の天皇賞と1979年の有馬記念の勝ち馬)などの懐かしい馬名が頻出します。
 作者は私より十歳も若いのに、1970年代の競馬に精通しているので、私に限らず古い競馬ファンにはたまらない作品になっています。
 私が競馬に熱中していたのは、タニノムーティエ(1970年の皐月賞とダービーの二冠馬)のダービーからテンポイントの死(1978年1月22日の日経新春杯で小雪舞う中66.5キロという今では信じられないような過酷な負担重量(その後JRAではどんなハンデ戦でもこのような馬鹿げた負担重量にはしないようになりました)のために骨折し、JRAの総力を挙げての治療と子どもたちも含めた全国のファンの願いもむなしく3月5日に亡くなりました)までなので、この作品で取り上げられている名馬たちはまさにジャストフィットしています。
 それにしても、優駿(JRAの機関誌で今のように通俗化していませんでした)1978年2月号の表紙(毎年2月号の表紙は前年の年度代表馬の全身をとらえた写真でした)のテンポイントは、信じられないほど美しく、まさに神が舞い降りたようでした。

いつか王子駅で (新潮文庫)
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新潮社
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瀬田貞二「宮沢賢治」子どもと文学所収

2024-04-28 09:22:01 | 参考文献

 「子どもと文学」の他の論文とかなり趣が異なり、冒頭にグループ(「ISUMI会」といいます)で話し合いがもたれた時の実際の様子が紹介されています。
 この時の題材は「なめとこ山の熊」なのですが、そのやりとりを読んでいて懐かしい気持ちになりました。
 私も、大学一年の秋に、児童文学研究会の尊敬できる先輩(どういう経緯だったのかわかりませんが、私よりもかなり年長で、未成年だった私から見ると、立派な大人のように感じられました)に誘われて、児童文学研究会の分科会としてできたばかりの、「宮沢賢治研究会」という読書会に参加しました。
 それから、二年の間参加した毎週の読書会は非常に楽しいものでした。
 今振り返ってみると、参加していたメンバーの文学的な素質もかなり高かった(その後文学系の大学の教授になった女性が二名含まれていました)のですが、やはり非常に多様な作品(しかも、大半が読書会向きの短編)を持つ「賢治」でなければ、ただ作品を読んで感想を言い合うだけのあのような読書会を毎週続けることはできなかったでしょう(もちろん、読書会の後の飲み会やメンバーとの旅行も楽しかったのですが)。
 他の記事にも書きましたが、先輩はどういうコネを持っていたのか、当時の賢治研究の第一人者であった続橋達雄先生にお話を聞く機会を設けてくれ、会で花巻へ賢治詣での旅行(賢治のお墓、羅須地人協会、イギリス海岸、花巻温泉郷など)に行った際には、続橋先生のご紹介で、賢治の生家をお訪ねして、弟の清六氏(賢治の作品が世の中に広まることに多大な貢献がありました。その記事を参照してください)から生前の賢治のお話をうかがったりできました。
 その後の著者の文章は、評論というよりは、賢治の評伝に近く、賢治の童話創作の時期を前期(習作期)、中期(創作意欲にあふれ、一日に原稿用紙百枚書いたという言い伝えがあり、ほとんどの童話の原型ができあがった時期)、後期(完成期)に分けて、時代ごとに主な作品とその特徴や創作の背景を解説しています。
 著者が指摘している賢治作品の主な特長は以下の通りです。
「構成がしっかりしている」
「単純で、くっきりと、眼に見えるように描いている」
「方言や擬声音、擬態音をうまくとりいれ、文章全体に張りのあるリズムをひびかせる」
「四四調のようなテンポの均一な、踊りのようなリズム」
「日本人には不向きと言われているユーモア」
「ゆたかな空想力」
 こうした「賢治作品」の特長を育んだものとして、著者は以下のものをあげています。
「素質が狂気に近いほどに並はずれた空想力にめぐまれたこと(こればかりは他の人にはまねできません)」
「郷土の自然」
「郷土の民俗」
「宗教(特に法華経)」
「教養(社会科学、文学、語学、音楽)(著者は無視していますが、自然科学の教養も他の作家にない賢治作品の大きな特徴です)
 全体を通して、著者自身の賢治の評価はベタほめに近く、むしろ「賢治」を利用して、既成の童話界(「赤い鳥」、小川未明、浜田広介など)を批判するために書いているような感もあります。
 また、当時(1950年代)の賢治作品の評価が「大人のためのもの」に傾いていると、著者たちは認識していたようで、自分たちの実体験(彼らの子どもたちの感想)も加えて、繰り返し賢治作品は本来「子ども(作品によっては低学年の子どもたちも)のために書かれたもの」で、その上で「純真な心意の所有者」の大人たちも楽しめるものだということを強調しています。
 この文章が書かれてから六十年以上がたち、子ども読者(大人読者も同様ですが)の本に対する受容力は大幅に低下しているので、現在では、当時の著者たちの認識より二、三年はプラスしないと、読むのは難しいかなという気はします。

子どもと文学
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福音館書店
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石井直人「現代児童文学の条件」(「研究=日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」)所収

2024-04-26 11:36:22 | 参考文献

 1998年に出た日本児童文学学会編の「研究=日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」の巻頭を飾る「総論」の論文です。
 ここでいう現代児童文学とは、1950年代に始まって1990年代に終焉(または変質)したといわれる狭義の現代児童文学(他の記事を参照してください)ではなく、(同時代の)という意味の広義の現代児童文学です。
 論文は、以下の四部構成になっています。
1.「幸福な一致」
2.子ども読者――読書のユートピア
3.子ども読者論の変奏
4.楕円構造――児童と文学という二つの中心
 1では、現代児童文学の出発時にさかのぼり、作者の認識と読者の認識、さらには批評までが一致していた幸福な時代について、松谷みよ子の「龍の子太郎」を中心に述べています。
 2では、著者が戦後児童文学の批評における最大の書物とする「子どもと文学」を中心に、「子ども読者」の創造と読書のユートピア時代について語られています。
 3では、1978年の本田和子の「タブーは破られたか」、1979年の今江祥智の「もう一つの青春」、1980年の柄谷行人の「児童の発見」という三つのエッセイをもとに、「児童文学のタブーの崩壊」、「児童文学と一般文学の互いの越境」、「子ども論」などを中心に、「子どもと文学」が提示した「子ども読者論」がどのように変化し、現代児童文学が変遷していったかを考察しています。
 4では、児童文学が「児童」と「文学」という二つの中心を持つための特殊性と、それゆえの矛盾や葛藤を持つものであるかが示されています。
 全体を通して、「総論」らしく現代児童文学の概観について、文学論、読者論、児童論、心理学、哲学などの知見をちりばめてアカデミックに書かれていて、注に掲げられていた論文や文献も含めて読みこなすのにはかなりの時間がかかりましたが、非常に勉強になりました。
 

現代児童文学の可能性 (研究 日本の児童文学)
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東京書籍
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瀬田貞二「幼い子の文学」

2024-04-25 10:33:04 | 参考文献

 著者が、1976年6月から一年の予定で行った児童図書講座で、二十数名の児童図書館員を前にして話された各回一時間半の講演(残念ながら著者の病気のために六回だけで打ち切りになってしまいました)をまとめて、著者の没後に出版された本です。
 各回はそれぞれ、生きて帰りし物語、なぞなぞの魅力、童歌という宝庫、詩としての童謡、幼年物語の源流、幼年物語の展開、となっていて、それぞれ豊富な実例とともに興味深い内容が語られます。
 児童文学のもっとも源流に位置する幼年童話や絵本の構造や歴史について、主に日本と英米の本を中心にしてまとめられています。
 もし最後までこの口座が行われ著者自身の手でその内容がまとめられていたら、幼年童話に関するもっとも重要な本になっていたことでしょう。
 この本に掲載されている分だけでも、児童図書館員はもちろん、読み聞かせをされている方々や、幼年童話や絵本を実作されている人々にとっても、必読の本だと思われます。

幼い子の文学 (中公新書 (563))
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中央公論新社
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柄谷行人「児童の発見」日本近代文学の起源所収

2024-04-02 10:57:46 | 参考文献

 小川未明たちの「近代童話」が「子ども不在」であったと批判した「現代児童文学論者」が主張した「真の子ども」「現実の子ども」「生きた子ども」もまた一つの観念にすぎず、「子ども」(文中の用語では「児童」)という概念自体が近代になって発見された概念にすぎないと批判し、「現代児童文学論者」に大きな衝撃を与えました。
 アリエスの「<子ども>の誕生」に基づいて書かれていると言われていますが、内容は明治以来の日本の状況に合わせてあります。
 日本の「児童文学」の確立が西欧より遅れたのは、「文学」自体の確立が西欧から遅れたのだからだと述べていますが、それは日本の「近代」が明治期以降に移入されたものであって西欧より百年ほど遅れていたのですから、自明のことでしょう。
 「児童」を「風景」と同様に、疑いなく存在するがそれは見いだされたものであるという指摘は、現代児童文学者たちを「児童」という縛りから解放するのに有益でしたが、大半の「現代児童文学」の書き手はそれには無自覚で(柄谷やアリエスの指摘を、間接的にも読まなかったと思われます)、観念にすぎない「児童像」を追及し続けてていたように思えます。
 ただ、現在の子どもと大人(特に女性)に共有される一種のエンターテインメントとなった「児童文学」では、皮肉にもその「子ども」という縛りからは解き放たれているのかもしれません。
 しかし、その代わりに、「売れる本」という新しい観念に縛られているのでしょう。
 また、現在の年齢で横並びの学校制度にならうように、「低学年向け」とか「高学年から」と限定されて出版している児童書の出版社にはその固定化した「子ども」像が今でも見られますし、それに影響されて観念的な学年別の「児童」像に縛られて創作している「児童文学作家」が依然として数多くいることも事実です。

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)
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講談社
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尾崎秀樹「色川武大「離婚」」文春文庫版解説

2024-03-26 12:56:06 | 参考文献

 文芸評論家の筆者が、当時のこの作品の位置づけを解説していて興味深いです。
 戦前は、作家も発表雑誌もはっきりと区別されていた純文学(新小説、つまり既成の小説にないものを書く文学)とエンターテインメント(ロマンを志向する大衆小説)が、戦後は次第にあいまいになってきたとしています。
 そうした、純文学的資質をもっていながら大衆文学畑の中で仕事をしている当時の作家として、山口瞳(「血族」の記事を参照してください)、田中小実昌、向田邦子、村松友視などともに色川武大をあげています。
 彼らの小説の特長としては、「身辺のできごとや何気ない時代の風俗をうつしながら、そこに自己をつよく投影させ、人間心理の微妙なニュアンスを、きめこまかな文体で描き出す」とし、「一方で私小説の発想ともつながるものをはらみながら、瑣末な身辺小説の隘路にはまりこむことなく、不安定で不条理な人間存在の表裏をするどく凝視し、味わいふかい作品に仕上げたものが少なくなかった」と評しています。
 そして、この短編集に含まれた作品を、「一風変った男女の風俗小説として読んでもさしつかえないが、色川武大の文学的資質が、そこに顔をのぞかせていることもたしかなのだ」としています。
 この作品と同様に、1970年代から1980年代に書かれた「現代児童文学」(定義は他の記事を参照してください)においても、同様の味わいを持った作品が多く出版されました。
 それらの代表的な作家としては、森忠明、皿海達哉、梨木果歩、湯本香樹実、江國香織、丘修三、最上一平などがあげられるでしょう。
 そして、尾崎流の書き方でいえば、「彼らの作品を、一風変った児童文学として読んでもさしつかえないが、彼らの文学的資質が、そこに顔をのぞかせていることもたしかなのだ」といえます。
 そして、エンターテインメント全盛の現在では、すでに終焉した「現代児童文学」と同様に、一般文学でもこのような味わいを持った作品は死滅しようとしています。

離婚 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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立花 隆「サル学者の誕生 岡安直比」サル学の現在所収

2024-03-25 10:34:21 | 参考文献

 作者は、この雑誌の連載を始めるに際し、初めにサル学者になるにはどういったプロセスがあるかを紹介しています。
 対象が現役の大学院生でしかも乳児のいる女性であるがゆえに、長期の原野でのフィールドワークが必須のサル学者になるのが、いかに困難なのかがよくわかりました。
 ただし、この連載が始まってからすでに三十年以上がたち、短期的な実利の少ない学問への世の中の理解が得られなくなっている風潮を考えると、「サル学者」の誕生はますます難しくなっていることでしょう。
 人文学的な実利だけでなく、一般の人たちの知的好奇心を満たすこのような学問は、人間が人間として生きるために大事だと思うのですが、残念ながら世の中の傾向は違うようです。
 児童文学の世界でも、大学の文科系の学部の縮小に伴い、「児童文学者」の誕生もまた難しくなっています。

サル学の現在 (上) (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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さくらももこ「もものかんづめ」

2024-03-22 15:59:53 | 参考文献

 1991年に出版された、人気漫画「ちびまる子ちゃん」の作者のエッセイ集で、これもまたベストセラーになりました。
 ここで描かれている作者自身は、本人もあとがきで書いているように、ちびまる子ちゃんに重なる部分もありますが、もちろんかなり違っている部分もあります。
 ちびまる子ちゃんもかなり露悪的ですが、このエッセイではそれがさらに生な形で描かれています。
 「ちびまる子ちゃん」は、もちろんフィクションです。
 このエッセイもかなり事実がデフォルメされていてフィクション的な臭いをしますが、基本的には読者は事実として受け止めます。
 こうした露悪趣味が自分自身に向けられている時は、読者も安心して「ちびまる子ちゃん」的に楽しめるのですが、それが他者に向けられた場合は、素直に楽しめない題材もありました。
 対象が、父親や夫に向けられている時はいいのです。
 あとがきに書かれているように、作者が彼らに愛情を持っていることがわかるので、読者も安心して笑っていられます。
 それが、作者が嫌いな対象(祖父、週刊誌)に向けられた時は、単なる悪口、それもかなり辛辣な罵詈雑言とも呼べるような書き方なので、ギョッとさせられます。
 あとがきで、これらのエッセイへの読者からの苦情にも触れていますが、そこでは完全に開き直って、そうした読者はあっさりと切り捨てています。
 そうしたあたりには、超人気漫画家の驕り(何を書いても許される)と、担当編集者の媚びへつらい(売れているからいいじゃないか)を感じて、不愉快でした。


もものかんづめ (集英社文庫)
さくら ももこ
集英社
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大江健三郎「恢復する家族」

2024-03-17 16:18:01 | 参考文献

 1990年から1995年まで、日本臓器製薬の季刊誌に連載されて、単行本化されたエッセイ集です。

 主として、知的な障害を持つ長男(作曲家の大江光)と家族(特に作者と妻)の関わりを題材にしています。

 その過程で、困難に出会った家族(この場合は長男が知的な障害を持って誕生したことです)が、そこからどのように恢復していくかを描いています。

 特に、家族を恢復させるための主体が、作者や妻にあるばかりでなく、長男の存在やその成長する姿にあることを描いた作品群は非常に感動的で、作者の主張する家族観(相互に、恢復させる対象であり、恢復させる主体でもある)に共感を持ちました。

 その半面、題材がその他の作者に関係する人物(文学者や医師など)の場合は、想定読者が医者などの医療関係者だったりすることも影響したのか、内容や描き方がややスノッブに感じられることもありました。

 それにしても、終盤のザルツブルグ・ウィーンへの三人(作者、妻、長男)の旅は、テレビ局によるお膳立てという一般の障害者の家族には得られない状況だったとはいえ、非常に感動的で、この家族にとっての一生のハイライトだったと思われます。

 長男による二枚目のCD発表や妻の挿絵画家としてのデビューは、作者の威光によるものが多々あるにせよ、この家族が恢復した姿を象徴するものでしょう。

 

 

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村上春樹「騎士団長殺し」

2024-03-11 12:56:30 | 参考文献

 2017年に出版された久々の長編です。
 最後に東日本大震災が出てくるので、2000年代の日本が舞台らしいのですが、例によってそのへんのリアリティには作者は無頓着なので、時代を類推させるような事象は、作者の都合のいいものしか登場しません。
 ただ、そのころに三十代であった主人公にしては、音楽や文学や絵画などの趣味があまりにも古すぎて、明らかに作者個人の嗜好をそのまま書いているとしか思えません。
 このあたりは、彼のファンにはたまらない点であろうし、きっと作中で使われた音楽、文学、絵画、食べ物、飲み物、車などを追体験して悦に入っているファンが多数いることが想像されます。
 そう、この作品は、彼自身と彼のファンのために書かれた一種のエンターテインメントなのでしょう。
 作者は団塊の世代なので、純粋な教養主義ではなく、哲学や文学よりも、音楽、絵画、映画などの影響が強いのですが、やはり一種の教養主義のしっぽをひきづっているといえます(私は彼よりは下の世代ですが、ここで取り上げられた音楽や絵画などの嗜好はかなり近いです)
 この作品がエンターテインメントであると考えると、現実と非現実の取扱い、平明で読みやすい文章、様々な謎解き、世界の近代史との関わり、主人公や他の人物のかなりご都合主義的に描かれている様々な魅力的な女性とのセックスシーン(徹底的に男性視線で描かれていますのでフェミニストの読者からはかなり反発がありそうです)、強引なハッピーエンドなどを、読者は十分に堪能することができます。
 作者の作品に関しては前から言われていたことですが、彼自身の年齢が上がるにつれて、ますますリアルな社会からはかい離していっています。 

騎士団長殺し 単行本 第1部2部セット
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
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村上春樹「こんなに面白い話だったんだ!」新潮社文庫版「フラニーとズーイ」所収

2024-03-09 10:56:04 | 参考文献

 2014年に、著者の新訳として出版されたサリンジャーの「フラニーとズーイ」(その記事を参照してください)の付録(サリンジャーが自分の作品の本に「まえがき」や「あとがき」を付けることを許さなかったからです)として書かれた文章です。
 「フラニーとズーイ」の成立事情の部分は、紙数の関係で割愛されていますが、新潮社のホームページからダウンロードできます。
 タイトルにありますように、10代で初めて読んだ時には分からなかった作品の魅力(特に「ズーイ」の部分)が、今回ようやく理解でき、この作品が(サリンジャーの作品としては「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)とともに)20世紀のアメリカ文学の古典であると主張しています。
 今回なぜそうなったかの原因としては、その間(45年)の人生経験と翻訳のために原文を読んだことをあげています。
 著者の意見は、おおむね肯定できます。
 「ズーイ」の宗教的あるいは哲学的な内容や、世俗的な社会への否定的な考え方は、これから社会にできる若い世代の人たちには理解しにくいものだと思われます。
 また、サリンジャー独特の文体や語り口は、なかなか翻訳では伝えることができない(著者も十分にできなかったと謙遜していますが)もので、それは単なる言語の違いだけでなく、1950年代のアメリカ(特に若い世代)の風俗や話し言葉とは切り離せないからです。 
 また、この作品が、「ニューヨーカー」誌にふさわしいスタイリッシュな短編から、より精神的な文学への過渡期にあったという「フラニーとズーイ」の成立事情の部分の説明も、読者には分かりやすい物です。
 著者は、この作品をサリンジャー文学の頂点(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は別として)と位置付け、その後の作品(「シーモア ― 序論」(その記事を参照してください)と「ハプワース16,一九二四」(その記事を参照してください)しかありませんが)については、「その文体はどんどん煮詰まり、テーマは純化され、彼の物語はかつての自由闊達な動きを急速に失っていく。そして彼の書くものは、読者から避けがたく乖離していくことになる。」と否定的です。
 しかし、それは、サリンジャーとは逆にどんどんスタイリッシュな作品に近づいて純文学からは遠ざかっている著者の視点であり、「読者から避けがたく乖離していく」のは作家だけのせいではなく、どんどんエンターテインメント作品へ向かっている読者の方により大きな原因があると思っています。
 そのため、読者を意識した純文学作家(著者だけに限りませんが)は、どんどんエンターテインメント作品へ近づいていて、かつては中間小説と揶揄された分野でしか作品を発表できないのが現状ではないでしょうか。

 

 

 

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ポール・ベルナ「首なし馬」

2024-03-06 17:02:13 | 参考文献

 1955年発行のフランスの児童文学の古典です。
 戦後しばらくして(おそらく1950年前後)のフランスの下町を舞台に、首なし馬(馬の形をした大型三輪車だが、首も取れてガラクタ扱いだった物)で、坂を猛スピードで下る遊びを中心にして団結している10人の少年少女のお話です。
 ひょんなことから、列車強盗団の1億フランの隠し場所を知ることになった彼らは、犯人逮捕に大きく貢献します。
 この作品の一番すぐれている点は、列車強盗団の逮捕というミステリーの部分(エンターテインメント)と、子どもたちの遊びを中心にした生活(自分たちでお金を稼いで、時には煙草を吸ったりもします)をいきいきと描いた部分(リアリズム)が、無理なく有機的につながっていることです(遊びの中で犯人逮捕のきっかけをつかみます)。
 ご存じのように、フランスは第二次世界大戦中はナチスに侵略されて悲惨な状況でした。
 そこからの復興期には、貧しく荒廃しているところも残っていますが、みんなが生き生きとエネルギッシュに生きていました。
 大人たちは生活するのに精いっぱいで、子どもたちに干渉する暇はありません。
 子どもたちは、戦争後のベビーブームで、町にはたくさん溢れていました。
 このような状況では、子どもたちだけの社会が、今では全く想像できないほど大きなものでした。
 もちろん、当時からいじめもありましたが、子どもたちの社会が、今のような水平構造(同学年で輪切りにされています)ではなく、垂直構造(小学一年から六年、時には中学生も一緒に遊んでいました)であったために、自然と年長の子たちは年少の子たちを面倒を見るようになり、そこには自治と呼んでも差し支えないような世界があって、その中でいじめなどの問題も、多くは大人の手を借りることなく解決していました。
 このような作品を、今リアリズムの手法で描いても、全くリアリティを持たないでしょう(ファンタジーの手法を用いれば、ハリー・ポッターの魔法学校ような独自の世界を描けますが)。
 現在では、子どもたちの世界は、家庭、学校、塾、スポーツクラブなどの習い事など、大人たちによって支配され、搾取され、細分化されているからです。
 こうした子どもたちだけの世界が崩壊したのは、決して最近の事ではありません。
 私はこの本が出版される前年の1954年生まれですが、私が幼少のころ(小学校低学年ぐらい)まではこうした子どもたちだけの世界はありましたが、私が年長(小学校高学年)になるころ(ちょうど東京オリンピックが終わった後です)には、私の育った東京の下町ではすでに崩壊していました。
 子ども数の減少や、塾や習い事などの教育ブームなどがその背景にはあります。
 日本が高度成長期に差し掛かって、大人たちにゆとりができて、子どもたち(それまでは少なくとも四、五人いた子どもたちが、各家庭に二、三人になっていて、一人っ子も珍しくなくなっていました)に干渉するようになったからです。
 おそらく、地域によっては、もう少し長い間、子どもたちだけの世界はあったかもしれません。
 しかし、農村や漁村では、長い間、子どもたちは労働力としてみなされていましたから、東京の下町のような自由に遊ぶ時間はずっと少なかっただろうと思われます。
 ところで、私はこの作品を小学校低学年のころに初めて読んだのですが、その本は講談社版少年少女世界文学全集の第29巻で1961年2月の発行です。
 わずか5、6年前にフランスで出版された話題作がすぐに日本でも読めたわけですから、日本の児童書の出版状況は今よりもはるかに健全だったのでしょう。
 そこに載っていたのは紙数の関係(一巻に複数の作品を掲載するため)で抄訳でしたので、犯人逮捕の部分はややあっけなかったように記憶しています(今回全訳で読んで、初めてその部分はすっきり納得できました)が、子どもたちの遊びや生活の部分はほとんどカットがなく、私が子どもの時に魅了されたのはこちらの方でした。
 特に、日本と違って男の子も女の子も一緒に遊び、主人公のフェルナンに、仲良しのマリオン(犯人逮捕の時に大活躍する犬使い(町中の犬たちと友だちで、口笛一つで何十匹も呼び集めることができます)の少女)が別れ際にほっぺにキスをするのを、ドキドキしながら読んだ記憶があります。
 ちなみに、この作品は、1963年にディズニーで実写映画化されて日本でも封切られたので、私も見た記憶があります。


首なし馬 (偕成社文庫)
クリエーター情報なし
偕成社



 




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