現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

津村記久子「ポースケ」ポースケ所収

2018-09-20 08:28:16 | 参考文献
 連作短編集の最終短編です。
 それまでの短編に出てきた人物たちが総登場で、大団円といった趣ですが、それ以上でもそれ以下でもありません。
 津村の今までの作品は、働く女性だけでなく男性も描けているところが魅力でした。
 しかし、この短編集では、明らかにL文学(女性作家が女性を主人公にして女性読者のために書いた文学)への傾斜が感じられます。
 マーケティング的にはその方が正解なのでしょうが、津村の作品の個性が失われないかと危惧しています。
 L文学の書き手はすでに腐るほどいるので、注意しないとその中に埋没してしまう恐れがあります。

ポースケ
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中央公論新社
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よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」さきちゃんたちの夜所収

2018-09-19 08:46:37 | 参考文献
 双子の兄を航空機事故で亡くした35歳のさきちゃんが、義姉に恋人ができたことにショックを受けて家出をした姪の10歳のさきちゃんと、一夜をすごす話です。
 義姉のと電話中に、主人公が急にチャタリングを始めて、兄に代わって義姉の新しい恋に対して理解を示すシーンにはびっくりしました。
 スピリチュアルな話は、よしもとの読者である若い女性は大好きなのですが、一瞬よしもと自身があちらの世界へ行ってしまったのかと、背筋がぞっとしました。
 また、よしもとは自分の容姿にコンプレックスがあるのでどの話でも男好きのする美人を敵役にするのかと思いましたが、よく考えてみると大半のよしもとの読者は普通の容姿なのですから、ここでも彼女たちにサービスしているのでしょう。


さきちゃんたちの夜
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新潮社
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青山文平「遭対」つまをめとらば所収

2018-09-18 08:42:08 | 参考文献
 「遭対」とは、無役の旗本が、幕府の権力者(老中、若年寄など)の屋敷に日参して顔を覚えてもらい、出仕(役付きになること)に結びつけようとすることです。
 実際には、ほとんど出仕に結びつくことなく、屋敷の主人に声すらかけてもらえません。
 まあ、江戸時代の一種の都市伝説のようなものかもしれません。
 それでも、主人公の親友は、わずかな望みにかけて遭対を十二年も続けています。
 ひょんなことから、主人公は友人と一緒に遭対に参加し、一発で出仕のチャンスをつかみます。
 ラストで、主人公は、出仕と引き換えに、親友との変わらぬ友情と町人の女性との恋愛を成就させます。
 江戸時代の算学、苦界に沈まぬためにお妾さんになるという江戸時代の女性の処世術、阿弥陀参り、そのころ登場した鰻丼などの、興味深い江戸時代の風物を散りばめ、友情や恋愛を軸にして読み味もいいのですが、どうもこの作者のラストはバタバタしすぎで、読後の余韻が残りません。

つまをめとらば
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文藝春秋
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大江健三郎「なぜ子供は学校に行かなければならないのか」「自分の木」の下で所収

2018-09-16 17:04:38 | 参考文献
 ほとんどの子どもたちが持つ、この古典的な疑問について、作者は自分自身の子どもの時の体験と自分が親になった時の体験をもとに答えています。
 前者は、戦争直後の10歳の時に、今でいう不登校になったことです。
 不登校の理由は、教師たちへの不信感です。
 ご存じのように、戦中は、「天皇は神」「鬼畜米英」と、子どもたちに教えていた教師たちが、戦後は手のひらを返したように、「天皇は人間」「アメリカ人は友だち」と教えるようになったからです。
 10歳の時の作者は、その変化自体を問題にしていたのではなく(戦争が終わったことは人を殺さなくてすむことであり、みんなが同じ権利を持つ民主主義はいいことだと認識していました)、「これまでの考え方、教え方は間違いだった、そのことを反省する」と、子どもたちに言わないで平気で反対のことを言う教師たちが信じられなかったのです。
 学校へ行くよりは、森へ行って家業に必要な樹木の知識を得た方がいいと考えていました。
 その後、森で嵐にあって雨に打たれて高熱を出して死線をさまよった時に、母と交わした不思議な(夢か現実か、はっきりしません)会話(たとえ彼が死んでも、母がもう一度新しい子を産み直して、今までのことをすべて話して同じ子にしてくれる)をきっかけに、容体も持ち直して再び学校へ通えるようになります。
 そして、次第に、自分自身も、学校の他の子どもたちも、みんな誰かの生まれ変わりであり、その新しい子どもたちになるために、「僕らは、このように学校に来て、みんなで一緒に勉強したり遊んだりしているのだ。」と考えるようになります。
 ここには、すでに国で決められたことを画一的に教える教師たちの姿はなく、「言葉」を媒介にして主体的に勉強したり遊んだりする子供たちが学校の主人公であることが明確に語られています。
 これらのことは、教育界に限ったことではなく、児童文学の世界でもまったく同様です。
 戦中は子どもたちを戦場へおくるのに積極的に手を貸すような作品を書きながら、戦後は何の反省の弁もないまま、手のひら返しで平和主義の作品を出版した児童文学者たちも存在します。

 後者は、作者が障碍者の親になって、子どもが「特殊学級」や「養護学校」に通うようになった時に、環境になじめない自分の子どもを見ながら、「三人で村に帰って、森のなかの高いところの草原に建てた家で暮らすことにしたらどうだろうか?」と夢想する時です。
 もちろん、高名な文学者(当時は今とは全く比べにならないほど純文学の本は売れていましたし、作者はその中でもナンバーワンの人気作家でしたから、経済的にかなりゆとりがあったことでしょう)である作者でなければそんなことは実現はできないわけですが、学校に苦しむ子どもたちの親ならば同様の思いを抱いたことがあると思います。
 しかし、その後、作者の子どもは、学校に自分自身の居場所(ここでも、それは教師との関係ではなく、自分と似たような仲のいい友だちの存在であったことは、象徴的です)を見つけます。
 そして、作者は「自分をしっかり理解し、他の人たちとつながっていく言葉(国語だけでなく、理科も算数も、体操も音楽も、外国語も)を習うために、いつの世の中でも、子供は学校へ行くのだ」と主張しています。
 私は、作者ほど学校という制度(教師だけでなく)に信頼をおいていないので、学校は楽しければ通えばいいし、楽しくなければ通わなければいいと思っています。
 自分自身を振り返ってみても、小学校から大学までズル休みばかり(ひどいときには一学期の間に数週間分も)していたのですが、小学五年生、中学三年生、高校二年生、高校三年生、大学二年生の時だけは、全出席(もともと病気は全くしなかったので)だったと思います。
 そんな時は、いつも仲の良い友だちや好きな女の子が学校にいました。
 そういった意味では、作者の主張も、ある程度はあてはまるのかなとも思っています。


「自分の木」の下で (朝日文庫)
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朝日新聞社


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佐藤宗子「「成長」という名づけ」――児童文学における読者の期待と読書の満足をめぐって」

2018-09-16 09:07:54 | 参考文献
 日本児童文学1995年9月号の「<成長テーマ>を問い直す」という特集の中で発表された論文です。
 児童文学において、オールマイティ的に扱われてきた「成長」という語を見直しています。
「「成長」。――まるで強迫観念のようにそれを読み取ろうとする、読者。」
と、佐藤の「成長」に関する読者論が始まります。
 読者が「読書体験」を肯定的なものにし、また媒介者が「児童文学」をすすめるのもその「読書体験」が肯定的なものであることが大前提だとして、以下のように述べています。
「媒介者からの示唆も含め、読者の中にそなえられた「成長」という概念は、「児童文学」を読書する際に「期待」としても機能し、「満足」としても働くことになるのである。」
 「変化」を「成長」と捉えられるわかりやすい例として、ノーソフの「ヴィーチャと学校友だち」、八束澄子の「青春航路 ふぇにっくす丸」、薫くみこ「十二歳の合い言葉」をあげています。
 しかし、村中李衣の「デブの四、五日」(『小さいベッド』所収、詳しくはその記事を参照してください)や川村たかしの「昼と夜のあいだ」所収の短編のように、「変化」の過程そのものは描かれず、前後をつなげば「変化」は確認できるが、その途中に空白があり、それが「成長」と読まれる作品も多いことを指摘しています。
 作品の最後に「空白」がおかれた例として、後藤竜二の「少年たち」や「14歳―Fight」をあげて、「それを事態解決への「予感」とし、やはりそこに、個人の、ないし人間関係の「成長」を認めようとするだろう。」と、読者が、自分の「読書体験」を空無にしたくないからだと主張しています。
 「幼年向の作品の場合、読者は、もう少し容易に「成長」を読むことができる。」としています。
 例えば、松谷みよ子の「小さいモモちゃん」では、「一話ずつの中で「成長」の過程が描かれているわけではないのに、短編集としては「成長物語」になっている。」と、指摘しています。
 その一方で、幼年向けの作品が、「「成長」が繰り返される、「遍歴物語」となっている。」場合もあることにも言及しています。
 そのことは、児童文学全体にも言えて、読者がいろいろな作品で「成長」を読み取ろうとして、読書の満足の「遍歴」化に陥っていく状況も指摘しています。
 そこで、佐藤は、「「成長」という名づけをいったん停止する」ことを提案しています。
 例えば、「「成長」の記号で読まれることが少なからずあったであろうル=グウィン「ゲド戦記」やペイトン「フランバーズ屋敷の人びと」のシリーズ」を、別の視点で読み直すことによって、「陥っていた読書の満足の「遍歴」化から脱けることができるのではないだろうか。」としています。
 他の「成長」の例として、しかたしん「国境」や神沢利子「銀のほのおの国」をあげ、それらと異なり「「成長」を読むことを拒む構図を、備えている」作品として、内山安雄「樹海旅団」をあげています。
 また、「作者―作品―読者のあり方そのものを変える、そのなかで「成長」観を変えることをはかる」作品として、水野良「ロードス島戦記」をあげて、読書のしくみそのものの見直しの問い直しを提案しています。

「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書)
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久山社



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筒井康隆「地獄図日本海因果」わが良き狼(ウルフ)所収

2018-09-12 09:30:11 | 参考文献
 1970年ごろに書かれた作者得意のハチャメチャSFです。
 当時はまだベトナム戦争が行われていて、アメリカの太平洋艦隊がベトナムに向かって日本近海から出払ったすきをついて、北朝鮮の艦隊が日本に向かって攻めてきます。
 海上自衛隊の艦隊が対峙しますが、専守防衛のために先攻されて防戦一方に立たされます。
 北朝鮮軍が使った核兵器がオンボロ(当時は核開発能力がなかったので中共(当時はまだ中国と国交が結ばれていなかったので、中国は中華人民共和国を略してそのように呼ばれていました)から中古の欠陥品を買ったことになっています)だったために、核爆発は空間ではなく時間を破壊してしまいます。
 タイムスリップした海上自衛隊の艦隊は、有名な日本海海戦へ紛れ込んでしまい、東郷平八郎司令長官が率いる大日本帝国海軍連合艦隊に遭遇し、あっさりと殲滅されてしまいます(これが、海戦上有名な「敵前大回頭」という作戦ということにしています)。
 一方、北朝鮮の艦隊は、日本海海戦のもう一方の艦隊であるロシアのバルチック艦隊と遭遇し、またオンボロ核兵器を使用したために時間はさらにグチャグチャになってしまい、日本と朝鮮半島が地続きだったころのナウマンゾウの群れや大津波や大嵐(その一つが元寇を防いだいわゆる「神風」)を引き起こします。
 さらに空間的にもおかしくなったらしく、タイタニック号(北大西洋で氷山に衝突して沈没)や「杉野はいづこ、杉野はいづや」で有名な日露戦争の軍神広瀬中佐(場所は旅順港なので日本海ではありません)まで登場して、ハチャメチャになります。
 こうした作品は、現在の若い読者には、ほとんど読解不能でしょう。
 作者は、読者がある程度の社会情勢や歴史の知識(当時では常識程度ですが)を持っていることを前提に書いているからです。
 他の記事に書きましたが、当時はまだ教養主義のしっぽが残っていて、一般読者でもこれらの知識は共有していました。



わが良き狼(ウルフ) (角川文庫 緑 305-4)
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KADOKAWA
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津村記久子「ヨシカ」ポースケ所収

2018-09-09 08:35:49 | 参考文献
 短編集の舞台である「食事・喫茶 ハタナカ」の店主であるヨシカが、なぜ会社を辞めてカフェを開いたかを説明した短文(小説とは言えないほど説明的です)です。
 一言でいえば、1999年に施行された男女雇用機会均等法以降の女性の総合職(特に優秀な)がぶつかる男社会の壁(アメリカでは私が会社に入った40年前にすでに存在していた、いわゆるグラス・シーリングのことです)に耐えきれずに辞めたわけですが、これが津村の実体験に基づいているのかはわかりません。
 組織外に出ることでそれから逃れるのでは、社会的には何の解決にもならないわけですが、個人的にはヨシカに共感する女性はたくさんいることと思われます。
 津村には、組織内に留まってそういった問題を撃つような作品を書いてもらいたかったと思いますが、本人は職業作家として自立できるのであればその方が良かったのでしょう。

ポースケ
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中央公論新社
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津村記久子「我が家の危機管理」ポースケ所収

2018-09-07 08:24:04 | 参考文献
 ピアノ講師(ただし午前中はパートもしている)の妻と作家の夫(数年前までは会社に勤めていたというから津村自身の男性版か)が、うつ病の母親にネグレクトされている小学生の女の子と知り合う話です。
 ネグレクト、養子、不倫、離婚など、今日的な素材を扱っていますが、あまり深刻にならないように描いています。
 どうも最近の津村の作品は、主人公たちがだんだん自由業に限定されていくのが不満です。
 そんな小説はごまんとあるので、津村の得意分野であった普通の会社で働く人々(世の中の大半の人々がそうでしょう)をリアルに描かなくなると、このまま埋没してしまう恐れがあります。
 もっとも、津村自身が会社を辞めてしまったので、実際に普通の会社で働く人々からどんどん乖離してしまっているのかもしれません。

ポースケ
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中央公論新社
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柳田理科雄「空想科学読本」

2018-09-06 10:00:06 | 参考文献
 1996年の大ベストセラーです。
 空想科学研究所主任研究員という肩書を持つ作者(実は学習塾教師)が、テレビの空想科学番組や映画に出てくるヒーローや怪獣、ロボットなどを大真面目に(時にはユーモアを交えて)科学的に解説した本なのです。
・ゴジラ2万トン、ガメラ80トン、科学的に適切な体重はどちらか?
・仮面ライダーが一瞬で変身するのはあまりにも健康に悪い!
・ウルトラセブンが巨大化するには最低でも15時間が必要だ!
 最初の3章の副題を並べただけでも、かつては男の子だった人たちならば、みんなわくわくすることでしょう。
 それが、ズラリと16章も続くのですから、ベストセラーになったのも当然です。
 これらの誰もが知っているヒーローや怪獣の設定や必殺技が、科学的にはどんなにとんでもないものかを解説しながら、実はそれらに対する作者の並々ならぬ愛情が感じられるところが成功の秘訣でしょう。
 さらに、作者は1961年生まれなのですが、学習塾で普段から子どもたちに接しているおかげか、ゴジラやガメラのような1950年代や1960年代から活躍している怪獣やヒーローから、1990年代当時の新しいロボットやヒーローまで登場するので、幅広い年代の男の子たちを熱狂させました。
 我が家でも、1954年生まれの私だけでなく、1988年生まれと1990年生まれの息子たちも愛読しました。
 こんな魅力的な本が児童文学界にあれば、男の子たちの本離れは防げたことでしょう。
 この本の大成功のおかげで、続編も次々に出版されたので、作者の研究資金は潤沢になったと思われますので、本が売れない児童文学作家にはうらやましい限りです。

空想科学読本1[新装版] (空想科学文庫)
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KADOKAWA/メディアファクトリー
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津村記久子「亜矢子を助けたい」ポースケ所収

2018-09-06 09:05:56 | 参考文献
 この短編集の舞台である「喫茶・食事 ハタナカ」でパートをしている中年女性の話です。
 メインは就活で苦労している末娘を助けようとする話なのですが、次男も会社でうまくいかずに引きこもりになっていますし、結婚して東京で暮らしている長男も家出して地元に帰ってきているようで、彼女の心配事は盛りだくさんです。
 「ハタナカ」やコンビニで働いているシーンもあるのですが、どこか表面的で物足りません。
 ラストで、末娘の就活の好転や次男の就職をにおわせるなどして、やや明るい兆しはあるのですが、どこか中途半端な印象を受けます。
 作品の長さに対して、問題を盛り込みすぎたのかもしれません。

ポースケ
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中央公論新社
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東野圭吾「人魚の眠る家」

2018-09-05 08:17:21 | 参考文献
 さすがに当代随一のエンターテインメント作家は、脳死や臓器移植といった重いテーマでも、一級の娯楽読物に仕上げています。
 おそらく最新の医療技術などは、彼の優秀なスタッフたちが集めて、彼自身は物語を紡ぐマシーンと化して、作品を量産しているのでしょうが、天性のストーリーテラーの腕前はさすがなものがあります。
 もちろんエンターテインメント作品なので、あちこちにご都合主義な展開はあるのですが、それを大きく破綻させることなくひとつの物語にまとめあげています。
 現在の児童文学の世界にも、彼のような剛腕のストーリーテラーが必要でしょう。

人魚の眠る家
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幻冬舎
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青山文平「ひと夏」つまをめとらば所収

2018-09-04 14:27:28 | 参考文献
 幕府直轄領の中にある藩の飛び地の村に、一人で派遣された若い武士の話です。
 彼の存在自体を無視する村民の見方を、突然起きた人質事件を、守り一辺倒の不思議な剣法で解決したことにより変えさせ、また彼らと交わることにより彼の村を見る目も変わります。
 地方で発達したユニークな田舎剣法、貧乏藩の内情、幕府直轄領と隣接する藩の関係、商人の勃興、奔放な男女関係、手習い塾での村の子どもたちとのふれあいなど、興味深い内容がたくさん盛り込まれているのですが、これから本格的な物語が始まると思われたところでお話が終わってしまい、尻切れトンボの感をぬぐいきれません。 

つまをめとらば
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文藝春秋
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津村記久子「コップと意志力」ポースケ所収

2018-09-03 09:30:31 | 参考文献
 一切自炊をしない(炊事道具も持っていない)一人暮らしの若い女性が、過去の恋人にストーカー行為を受ける話です。
 連作短編の舞台である「喫茶・食事 ハタナカ」は、ラストシーンにしか出てきません。
 どうもこの短編集は、「喫茶・食事 ハタナカ」が出ない作品の方が不出来なようです。
 それは働くシーンが具体的に書かれていないために、津村の一番の魅力がなくなっているためだと思います。
 津村が会社を辞めて専業作家になった場合に一番恐れていたことが、現実になりつつあるようです。
 数少ないリアルに会社生活が描ける作家(児童文学の世界では皆無と言ってもいいです)が失われていくのは、非常にさびしいです。

ポースケ
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中央公論新社
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辻原登「午後四時までのアンナ」父、断章所収

2018-09-02 09:04:34 | 参考文献
 舞台は、和歌山県新宮です。
 辻原は和歌山の出身なので、繰り返し郷土が舞台に現れます。
 新宮に現れた謎の美女が、取り壊される直前の旅館で行われた古いニュース映画の映写会に参加します。
 美女は謎のまま、三時四十八分の名古屋行の特急で去っていきます。
 彼女は、新宮の人たちのいろいろな想像力を掻き立てますが、最後まで謎のままです。
 謎の美女やそれをめぐる人々の様子も面白いのですが、映写会で上映されたニュース映画やディック・ミネ主演のちょんまげミュージカル映画「鴛鴦(おしどり)歌合戦」の生き生きとした描写が圧巻です。
 こういった著者の博識ぶりは本を読むときの楽しみですが、どうも最近の児童文学の世界では著者の知識の厚みがなく物足りないことが多いようです。

父、断章
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新潮社
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津村記久子「歩いて二分」ポースケ所収

2018-09-01 09:13:19 | 参考文献
 短編集の舞台である「食事・喫茶 ハタナカ」から、歩いて二分の所に住んでいる早番のパートの女性の話です。
 彼女は賢い女性なのですが、前に勤めていた会社で、上司である役員からひどいパワハラを受けて、精神を病んでいます(自分自身の見立てでは、睡眠相前進症候群と何かの鬱病としていますが、症状としては睡眠障害、外出恐怖症、対人恐怖症などです)。
 彼女を取り巻く人物たち(店主のヨシカやお客、近隣の人々など)の適度な距離感を持った温かさが、作品の読み味を良くしています。
 ひょんなことから、ラストで難波から奈良まで一人で帰らなくてはならなくなった主人公には、明るい兆しが見られ、読者はホッとさせられます。

ポースケ
クリエーター情報なし
中央公論新社
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