現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

進撃の巨人

2016-12-31 17:23:08 | 映画
 人気テレビアニメの劇場版です。
 テレビアニメの第1回から第13回までが前篇で、第14回から、第25回までが後篇です。
 前後編合わせて約4時間(240分)で、テレビの物語部分を一回当たりを約20分とすると合計で約500分なので、ほぼ半分に圧縮されています。
 戦闘シーンが優先されているので、他の部分がかなりカットされていて、テレビで見てない人には人間関係やストーリーが分かりにくいかもしれません。
 ただ、一気に見れるので、逆に伏線などが分かりやすくなった面もあります。
 流血や残酷なシーンがたくさんあって、よくテレビや映画の審査に通ったなと思うような面もありますが、戦闘シーンには圧倒的な迫力があって子どもや若い人たち(特に男性でしょう)に人気があるのがよくわかります。
 基本的には、巨人たちと戦う軍隊の話なので、今の児童文学の世界では総スカンをくうでしょうが、戦闘シーンだけでなく、主役の男の子たちの友情や女の子(実は、女の子たちの方が戦闘能力は高いのですが)との恋心たちなども巧みに織り込んでいて、こういったエンターテインメント作品が児童文学にあれば、もっと男の子たちを読者に取り込めるでしょう。
 特に、兵器(立体機動装置など)や城塞国家などのマニアックな情報は、男の子たちにとっては大好物なのですが、圧倒的に女性が多い児童文学関係者(作家、編集者、読書運動家、研究者など)には理解が得られにくく、こういった情報を詳細に書き込むと評価されないことが多いです。



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「物語中物語」と「メタ物語」について

2016-12-31 08:21:05 | 考察
 物語の中で別の物語が語られるというのは、昔話の世界のころからよく使われる手法ですが、そのこと自体を作品の中核に据えた作品というのはなかなか魅力的で、例えばブローディガンの「愛のゆくえ」という作品などが思い出されます。
 「愛のゆくえ」では、誰かが書いた世界に一冊しかない本を預かる図書館の館員が主人公で、さまざまな物語が、「愛のゆくえ」という物語の内部に持ち込まれます。
 ただし、この作品は、厳密な意味では児童文学ではありませんでした。
 評論や研究論文では、こういった作品を児童文学と一般文学の間の越境といいます。
 さて、最近の児童文学、特にライトノベルなどでは、「メタ物語」ということが話題に上ります。
 本来、物語の語り手と物語世界との位置関係は一対一であることが一般的です。
 語り手は物語世界の外から物語を語る場合が多いのですが、作品によっては物語世界の内部にいるものもあります。
 また、物語世界の中に、別の物語世界が入っている場合もあります。
 演劇でいうところの「劇中劇」に相当します。
 つまり、語り手の位置には次のような三つの種類があります。
1.物語世界外
 語り手は物語世界の外にいて、物語の中で登場人物として現れることはありません。
2.物語世界内
 語り手が物語世界の中で登場人物としての役割も持っている場合です。
 言い換えれば、登場人物が語り手の役も果たしています。
 このもっとも有名な例は、「千夜一夜物語」のシェヘラザードでしょう。
3.メタ物語世界
 2で述べた語り手によって語られる、いわば劇中劇の世界のことです。
 しかし、最近の作品では、これらの境界が侵犯されることがあります。
 例えば物語世界外の語り手が物語世界での出来事を語っている最中に、物語世界外の内容が描かれる場合があります。
 このように、最近の児童文学では、物語構造が複雑化しています。
 ただし、物語の起源をたどれば、物語の語り手(例えば古老など)が、昔話を語っている途中で自分の体験や現在の事を織り交ぜるなどの自由度はあったわけで、そういう意味では現在のライトノベルなどのポストモダンの物語は、近代小説から出発しつつもそれを飛び越えて先祖返りしているのかもしれません。

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)
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物語構造分析の理論と技法―CM・アニメ・コミック分析を例として
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大学教育出版
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12月30日(金)のつぶやき

2016-12-31 07:37:58 | ツイッター
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エーリヒ・ケストナー「ケストナーがケストナーについて」子どもと子どもの本のために所収

2016-12-30 12:32:51 | 参考文献
 スイスのチューリヒのペンクラブで行った、自己紹介のテーブルスピーチです。
 皮肉や諧謔がふんだんにちりばめられていますし、私は第二次世界大戦前後のドイツの状況に疎いので、なかなか正しく理解するのは難しいですが、以下のようなキーワードをピックアップすることができます。
「長く除外されていた(注:12年間のナチスによる執筆禁止をさします)ので、コンディションについては正確に判断が下せません」
「風刺詩集」
「子どもの本」
「ファビアン(注:反モラル小説の傑作と言われる彼の一般文学の代表作)」
「ユーモア娯楽小説(注:「雪の中の三人男」など)」
「新聞のための文化政策論説」
「キャバレーのためのシャンソンや寸劇」
「演劇」
「教師」
「道徳家」
「合理主義者」
「ドイツ啓蒙主義」
「詩人や思想家の「深刻さ」を嫌い」
「感情の率直」
「思索の明澄」
「語と文の簡潔」
「良識」
「いつも変わらぬ、日当りのよいユーモア」
「第三帝国で執筆を禁止されていたにもかかわらず、自発的にドイツにとどまっていたこと」
 こうしたケストナーの多面性について、これからも継続的(断続的といった方が正しいですが)に考察していきたいと思っています。
 これは、四十年前に大学を卒業する時に隠居したらしようと思っていたことの一つなので、嬉しくてたまりません。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
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岩波書店
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サチコ

2016-12-30 10:37:45 | キンドル本
 ある日、主人公の少年にメールが送られてきます。
 送り手のハンドルネームはサチコです。
 学校で落ちこぼれて悩んでいた主人公は、同じような境遇のサチコに慰められます。
 主人公は、サチコとのメールのやり取りを繰り返します。
 そのうちに、主人公は立ち直るきっかけをつかみます。
 ところが、ある日突然、サチコからのメッセージが来なくなりました。
 主人公は、なんとかサチコと連絡を取ろうとします。
 そんな彼に、意外な情報が寄せられます。
 サチコの正体は?

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森忠明「ぼくが弟だったとき」

2016-12-30 09:03:53 | 作品論
 小学三年生のぼくには、一つ年上のおねえちゃんいます。
 おねえちゃんはしっかり者で美人ですが、ぼくはにぶくてはなたらしです。
 ぼくのパパとママは、パパの浮気とママの宗教活動のために、いつも喧嘩しています。
 ぼくはおねえちゃんに「両親がわかれたらどっちへゆく」と聞かれて、「おねえちゃんがゆくほう」と答えます。
 二人は、まだ両親が仲良かったころに行った上野動物園のことを懐かしみます。
 その後も、おねえちゃんの思い出が次々に語られていくので、なんだか読者はだんだん不安になります。
 ぼくがおねえちゃんのボーイフレンドの家の飼い犬にかまれたことで、彼とうまくいかなくなったおねえちゃん。
 両親の喧嘩に愛想を尽かして、おばあちゃんの家へプチ家出した時に、ぼくに三千円をくれたおねえちゃん。
 家出から家へもどるときに、三千円に恩着せてぼくを迎えに来させたおねえちゃん。
 ぼくと背比べをして負けてひがんでいたおねえちゃん。
 中央線の多摩川を渡る鉄橋の足を作るのに貢献したひいおじいちゃんの名前を、その石の台に彫ってくるようにぼくに命令するおねえちゃん。
 お風呂にバスクリンと間違えてお風呂掃除の液体を入れてしまったおねえちゃん。
 次々と、あまり脈絡なくおねえちゃんの思い出が語られています。
 読者の不安が的中するように、ラストでおねえちゃんは脳腫瘍にかかってあっけなく死んでしまいます。
 この作品も、作者の実体験に基づいているようで、あとがきにこのよう書いています。
「死児の齢をかぞえるのは親の役割ときまったわけではないだろう。
 おろかな弟だったぼくもまた生前の姉をなにかにつけて思い出す。
 (中略)
 町の写真館の奥には、セピアに変色した姉の一葉が今も掲示されていて、時たまガラス戸ごしにのぞき見るぼくに、いつもきまった視線を向ける。
 その目には、本道からはぐれがちな弟をあやぶむようなかげりがあるが、この物語を姉にささげることで、かげりが少しでも薄くなればいい。」
 しっかり者の姉と頼りない弟、愛する者の喪失、人のはかなさ、生の多愁といった森作品の重要なテーマが、ここでも繰り返し語られます。
 作者の実体験はおそらく1950年代のおわりごろと思われますが、出版された1985年ごろにアレンジされているために、風俗やセリフがやや時代的にちぐはぐな感じを受けます。
 これは、作品を売るための商品性に配慮したために起こることなのですが、児童文学の世界では編集者などからこのような要求がよくなされます。
 そのため、どこの国の話か分からない無国籍童話(これも初心者のメルヘン作品には今でも多いです)ならぬ、時代がいつなのかはっきりしない無時代児童文学作品(?)がよく書かれます。
 この後、森忠明は完全に開き直って、時代設定を実体験に合わせて書くようになりますが、この作品は過渡期に書かれたようです。
 森作品に限らず、あやふやな時代設定で書くよりは、現代なら現代、作者の子供時代ならその時代と、はっきりさせて書いたほうが、特にリアリズムの作品では成功することが多いようです。

ぼくが弟だったとき (秋書房の創作童話)
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秋書房
 
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12月29日(木)のつぶやき

2016-12-30 08:32:56 | ツイッター
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中島敦「山月記」

2016-12-29 17:37:09 | 参考文献
 中国の故事をもとに書かれた作者の代表作です。
 詩人になることも、役人になることも、中途半端に終わってしまった主人公が、思い詰めたあまりに虎に変身してしまい、しだいにわずかに残っていた人間性を失っていきます。
 虎への変身潭に、芸術と生活の両立の苦悩(これは中島自身の悩みだったのでしょう)を加味したことで、時代を越えた普遍的な作品になっています。
 さらに、自尊心が肥大することの恐ろしさ、才能がないことを自覚することの恐怖、立身出世への欲望(今の若い人たちには少ないかもしれませんが)、芸術至上主義、成功のためには才能よりも努力が重要(努力を続けることもひとつの才能ですが)、仲間への妬みなど、この短い作品から読者の関心に応じて様々なのことを読み取ることができます。
 私に限らず、多くの人たちが、特に若いときには、この主人公のような気持ちになったことがあるでしょう。
 直木賞を取った浅井リョウの「何者」(その記事を参照してください)も、就活という極めて今日的な状況の中で、この作品の主人公と同じように「自分が何者でもないことを自覚させられる」話です。
 前述したように、この作品は中国の故事を下敷きにしていますが、児童文学の世界でも、民話(松谷みよ子の「龍の子太郎」(その記事を参照してください)など)や神話(トールキンの「指輪物語」など)に題材をとった作品がたくさんあります。
 こういった作品では、いかに現代的なかつ普遍的な思想(例えば「龍の子太郎」の場合は民主主義、「指輪物語」の場合は最終兵器(核兵器)の廃絶)をそれに加味するかが、作者の腕の見せ所です。

李陵・山月記 (新潮文庫)
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交渉王、芳樹

2016-12-29 12:31:17 | キンドル本
 主人公の少年は、他の子と交渉することが得意です。
 運動会や遠足では、わらしべ長者のように、友だちとの交渉をこまめに繰り返して、最終的にはたくさんのお菓子をゲットしています。
 クラスではやっているトレーディング・カードも、巧みな交渉でお金をあまり使わずにたくさん増やしました。
 しかし、そのために、思わぬ結果に?

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交渉王、芳樹
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ウルズラ・ヴェルフェル「灰色の畑と緑の畑」

2016-12-29 11:43:56 | 作品論
 この作品は、1970年に西ドイツで出版され、日本語には1974年に翻訳され、発表当時大きな論争を巻き起こしました。
 この作品には、世界中でいろいろな困難に直面している子どもたちが描かれています。
 読んでいて楽しい物語ではありませんし、作品の中で問題も解決されていません。
 この作品は、読者自身にこれらの問題の解決に対して行動を促すものなのです。
 まえがきを以下に引用します。
「ここに書かれているのはほんとうの話である、だからあまり愉快ではない。これらの話は人問がいっしょに生きることのむずかしさについて語っている。南アメリ力のフワニータ、アフリカのシンタエフ、ドイツのマニ、コリナ、カルステンなど、多くの国の子どもたちがそのむずかしさを体験することになる。
 ほんとうの話はめでたく終わるとは限らない。そういう話は人に多くの問いをかける。答えはめいめいが自分で出さなくてはならない。
 これらの話が示している世界は、必ずしもよいとはいえないが、しかし変えることができる。」
 この作品は、別の記事で紹介した「児童文学の魅力 いま読む100冊 海外編」にも選ばれています。
 おそらくこの本を読めば、今の日本で出版されている多くの児童書が、いかに商業主義に毒されているかが実感できると思います。
 また、ここで書かれていることは、海外のことで日本とは無縁であるとはけっして言えません。
 現代の日本こそ、このような本を必要としているのです。

灰色の畑と緑の畑 (岩波少年文庫 (565))
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12月28日(水)のつぶやき

2016-12-29 10:39:27 | ツイッター
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瀬田貞二「坪田譲治」子どもと文学所収

2016-12-28 11:12:28 | 参考文献
 児童文学研究者(トールキンの「指輪物語」などの翻訳者でもあります)である瀬田だけに、いぬいとみこの「小川未明」(その記事を参照してください)や松井直の「浜田広介」(その記事を参照してください)と比較すると、ずっとバランスの取れた批評になっています。
 譲治の自選集「サバクの虹」を取り上げて、その中の作品を、「大人のための小説」、「子どものための小説」、「昔語り」、「夢語り」に分類して論じています。
 瀬田は、「大人のための小説」を文学としては一番高く評価していますが、その作品に常に「死」のイメージがつきまとうことから児童文学には不向きとしています。
 また、「子どものための小説」は、「生きた子どもを作品に描き出した」と評価しつつも、これにもまだ
「死」や「不安」といった負のイメージがつきまとっていると否定的に評価しています。
 「昔語り」や「夢語り」については、観念的すぎると簡単に切り捨てています。
 そして、結論として、「譲治は、大人のための作家であったと思いますが、子どものためには、(中略)ふさわしいと思われません。譲治が、大人のための小説の力量を児童文学の世界に持ちこんでくれたことは、ありがたいことでしたが、方向をとりちがえて、「生活童話」(注:子どもの日常生活を写実的な手法で描いた作品)という変則なタイプを以後に置きみやげにしてしまいました。譲治の文学のとるべきところ、すてるべきところをよく見さだめて進まなければならないのが、今後の子どもの文学の仕事です。」と、述べています。
 ここで、瀬田が「とるべきところ」と言っているのは、「生きた子どもを作品に描き出した」ことと思われます。
 これは、未明たちの作りだしたそれまでの子ども像が観念的であったことに対する比較として言っているのですが、彼ら現代児童文学者のいう「生きた子ども」もまた観念にすぎないと、1980年に柄谷行人に「児童の発見」(「日本近代文学の起源」所収(その記事を参照してください))の中で批判されました。
 また、「すてるべきところ」というのは、「死」、「不安」といった負のイメージのことでしょうが、彼らの「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張に縛られすぎたたために、現代児童文学(定義は他の記事を参照してください)は、こうした負のイメージ(その他に、離婚や非行など)を作品には書かないというタブーが出来上がってしまいました(これらのタブーが破られるのは、やはり1980年前後です。例えば、那須正幹の「ぼくらは海へ」(その記事を参照してください))。
 
子どもと文学
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玄侑宗久「あなたの影をひきずりながら」光の山所収

2016-12-28 08:35:25 | 参考文献
 森進一の「港町ブルース」にのせて、東日本大震災と福島第一原発事故によって取り残されてしまった人々が断片的に描かれています。
 2013年に出版された、この未曽有の天災と人災に真っ向から取り組んだ連作短編集の冒頭の作品です。
 まだ日本人の共通の記憶(メモリー)として刻まれているこの災害に対しては、これからも繰り返し語り継いでいかなければならないでしょう。
 児童文学の世界でも、ようやくこの事件について語る作品が出ています。


光の山
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12月27日(火)のつぶやき

2016-12-28 08:16:17 | ツイッター
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エーリヒ・ケストナー「小さな年代記」子どもと子どもの本のために所収

2016-12-27 17:08:11 | 作品
 1948年秋に出た、ケストナーが第二次大戦後に初めて(たぶん)出した本「日々の小間物」(1945年10月18日に第一号が出た「新新聞」、1946年1月1日に第一冊が出た児童雑誌「ペンギン」、キャバレー「見世物小屋」(歌や軽演劇を出し物にしていたと思われます)に、ケストナーが寄稿した多数のシャンソン、風刺的な歌、批評、攻撃、メルヒェン、情景、日記メモ、リート、評論、論説、答弁、アンケートなどから抜粋した詩文集)の序文の代わりに載せられた1945年5月のドイツ敗戦をはさんで3月から10月までの毎月の簡単な覚書です。
 ケストナーは、1933年から1945年の12年間、ナチスによって執筆を禁止されていました。
 彼の児童文学の代表作のすべては、1928年に書き始められてから執筆禁止までのわずか5年間の間に発表されました。
 ケストナーが執筆禁止の12年間にどう変容して、なぜ再び児童文学の傑作を書けなくなったのかについては、きちんと調べて考えをまとめてみたいと思っています。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
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