現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ジュラシック・ワールド 炎の王国

2021-08-29 15:42:15 | 映画

 

 

 ジュラシック・ワールド(その記事を参照してください)の続編です。
 ジュラシック・パーク・シリーズとしては5作目になります。
 こうしたエンターテインメント映画のシリーズ作の常套手段としては、第一作でうけた部分(例えば、ロッキー・シリーズでは、トレーニングや試合のシーンです)をだんだん拡大してエスカレートさせることですが、この映画では恐竜の種類や数の増加、闘争シーンの増加、より凶暴な恐竜の登場などでしょう。
 そうした意味では、前作でお子様向きな味付け(子どもが主役、離婚危機の家庭の再生など)が不評だっだのか、オーソドックスにこれでもかこれでもかと恐竜を登場させ、とうとうティラノザウルスとヴェロキラプトルのDNAを持ち合わせたインドラプトルなる知性と凶暴さを兼ね備えた新恐竜まで登場させています。
 ストーリー自体はこの作品も他愛のない物ですが、テーマパークのアトラクション的なスリルは堪能できました。
 ただ、ティラノザウルスと並ぶこのシリーズの最大のスターであるヴェロキラプトル(人とほぼ同じ大きさで知性のある凶暴な恐竜というのは、ティラノザウルスと違ってそれまでほとんど無名だっただけに、ジュラシック・パーク成功の最大の立役者だったでしょう)が、だんだん正義の味方になっていくのは淋しい感じでした。
 それは、あの人類の敵だったゴジラが、人気が出るにつれてだんだん地球の味方に変貌し、そのためにさらに邪悪なキングギドラを創造しなければならなかった過程に極似しています。

ジュラシック・ワールド / 炎の王国 2018 アタックパック アクションフィギュア ヴェロキラプトル
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マテル
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メン・イン・ブラック2

2021-08-25 15:56:07 | 映画

 2002年公開の、人気シリーズの二作目です。
 こうしたシリーズ物は、普通は映画の中の時間経過が実時間とは違うのですが、この作品は、映画の中も前作からきっちり5年後になっていて興味深いです。
 そのため、ウィル・スミスはMIBの組織の中で出世していますし、前作のラストで記憶を消されたトミー・リー・ジョーンズは民間人(といってもエイリアンばかりが務めている怪しい郵便局ですが)になっていて、その記憶を取り戻すところから話が始まります。
 児童文学的な言い方をすれば、通常のシリーズ物はそこだけ独自の時間が進行しているタイプの成長物語(ロッキーやバック・トゥ・ザ・フューチャーなどがそうです)にして作品世界を古くさせないのが一般的ですが、この作品は児童文学の王道の純成長物語なのです。
 その理由として、この五年間でウィル・スミスが大スターになっていて、彼を中心にした作品にしたいことと、前作のラストでトミー・リー・ジョーンズを引退させたので、それを復帰させる辻褄合わせが必要だったからでしょう。
 それにしても、この間のCGの進歩には驚くべきものがあって、アクションもエイリアンもスケールアップがすごいです。
 また、それを逆手に取って、チープな特撮映画風のシーンを挿入したのもおしゃれです。



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メン・イン・ブラック

2021-08-25 15:54:36 | テレビドラマ

 1997年公開の人気シリーズです。
 若き日のウィル・スミスと、まだ日本に住んでいなかった(?)トミー・リー・ジョーンズが、悪役エイリアンを相手に大暴れします。
 ストーリーやセリフもひねりがきいていて面白いのですが、なんといってもスタイリッシュな黒ずくめの衣装や様々なタイプのエイリアンの創造が、この作品の成功の原動力でしょう。
 今見ると、動物愛護や人種差別などの観点では問題なシーンもあるのですが、当時は規制が緩かったのかもしれません。
 日本でも大ヒットしたので、主役の二人、特にトミー・リー・ジョーンズは日本でも知名度抜群です。
 それにしても、あのコマーシャルは、この映画なしには作れなかったでしょう。

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メルフェン的リアリズム

2021-08-23 15:10:42 | 考察

 他の記事にも書きましたが、「マンガ的リアリズム」という言葉があります。
 現実をそのまま描写する「自然主義リアリズム」ではなく、今までに夥しく書かれてきたマンガの作品世界を作者と読者の共通認識として、その世界観に基づいて作品を描く方法のことです。
 日本の児童文学において、「マンガ的リアリズム」で作品を描いて初めて大成功を収めたのは、おそらく那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズでしょう。
 それと同様に、児童文学の世界には、「メルフェン的リアリズム」とでも呼べるような世界観に基づいて書かれた作品群があります。
 グリムやアンデルセンを源流として、日本でも、小川未明、浜田広助、坪田譲治のいわゆる「三種の神器」を初めとして、宮澤賢治、新美南吉、安房直子など、面々と書き綴られてきた夥しいメルフェンの世界を、作者と読者の共通認識として、その世界観に基づいて作品が書かれています。
 そのため、これらの作品の登場人物やエピソードには、どこか既視感があります。
 もっとも、このような作品には、悪い点ばかりではなく利点もあります。
 作品を読んで大きな驚きは得られないものの、読者と共有できる予定調和的な世界なので安心して読めます。
 そのため、特に年少の読者には読みやすいでしょう。

グリム童話―こどもと大人のためのメルヘン
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ポプラ社
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ボブ・グリーンの父親日記

2021-08-16 15:14:10 | 参考文献

 1984年に出版された、著者の本の中では最も売れた本のひとつです。

 結婚11年目にようやく授かった娘の出産から、1歳の誕生日までの日々を、克明に綴っています。

 著者は、けっしてイクメンではなく、どちらかというと育児は妻に任せっきりで、仕事にうちこんでいます。

 1947年生まれなので、日本で言えば団塊の世代にあたりますが、そういった点では、日本の同世代の父親たちよりはややましな程度です。

 そうした頼りない父親の目から見た、娘の成長と、同様に頼りない新米母親だった妻が頼もしく成長する姿が、鮮やかに描き出されています。

 出産、退院、授乳、夜泣き、病気、育児書どおりにはいかない成長、初めての歯、寝返り、お座り、ハイハイ、つかまり立ち、立つ、歩く、食べる、言葉など、そうした初めての親子の体験のひとつひとつが、名コラムニストの観察と文章で見事に再現されています。

 私も最初の子を授かったのが八年目だったので、著者の気持ちは痛いように分かりますし、その時の素晴らしい体験を、この本を読むことによって、再体験できました。

 

 

 

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古田足日「さよなら未明 ―日本近代童話の本質―」現代児童文学論所収

2021-08-14 09:18:31 | 参考文献

 1950年代に行われた童話伝統批判の論争の中でも、もっとも有名な論文のひとつです。
 著者は、日本の近代童話の本質は、原始心性にあって、書かれているものは呪術・呪文であり、未分化の児童文学であると定義しています。
 言葉が強いので、一見ひどく批判しているように読めてしまうのですが、実際には童話という表現形式は認めており、それと「児童文学」をイコールと考えることに異議を示しているのです。
 そして、現代の子どもたちに必要な児童文学は、童話ではなく、もっと散文性を備えた、現実の子どもたちへの関心を持ったものとしています。
 ここではまだ、それらとならんで「現代児童文学」の特長とされる「変革の意志」に対する明確なメッセージはありませんが、子どもを発展する存在と考え、彼らにエネルギーを与えるものが児童文学であるとし、それができない「近代童話」とは決別しなければならないと主張しています。
 著者は、近代童話を支えてきたものは、作家の童話的資質によるものとして、小川未明の資質と作品は「童話」としては高く評価しています。
 問題は、それに対する安易な追随者たちや模倣者たちで、彼らが童話イコール児童文学と錯覚していることを繰り返し批判しています(この論文が書かれてから60年以上が経過しましたが、今でもそのような追随者や模倣者たちが数多くいるのが現状です)。
 繰り返しますが、「童話」は子どものためのものではなく、文学のひとつのジャンル(著者は、明治自然主義に対するアンチテーゼのひとつとしての、大正ロマン派運動の所産としています)であり、作者と読者の双方にある「永遠の童心」(生命の連続性に根差しています)に支えられた文学なのです。
 こうした著者の近代童話の分析は、その本質をよくとらえており、英米児童文学との単純な比較で未明たちを批判した「子どもと文学」(それらの記事を参照してください)とは一線を画しています。
 ただ惜しむらくは、この論文の書き方は、抽象的で難解な点が多く、若かった著者の気負いも随所に感じられて、平明な言葉で書かれた「子どもと文学」ほど、その後の児童文学の書き手たちに影響を与えなかったようです。
 初めての児童文学の専門書として、17歳の時に「子どもと文学」を読んだ私自身も、その明快な論理(今思ってみると、英米児童文学の論理に乗っかっていただけのところが多く、この論文の著者ほどの独自性はなかったのですが)に強く惹かれました。
 著者は、近代童話の作家の中で、小川未明を、その原始的エネルギーと童話的資質の高さから、近代童話の作家として一番高く評価しています(それだからこそ、「さよなら未明」と自分自身にも宣言しなければならなかったのでしょう)。
 浜田広介は、未明のような強烈な資質を持たないので、近代童話の弱点である作家の主体性を欠いた小児性に陥っているとしています。
 千葉省三に関しては、散文性の萌芽は認めつつも、広介と同様な小児性に陥っているとしています。
 著者が児童文学との関連で一番高く評価しているのは、坪田譲治です。
 譲治の作品世界にも原始心性があることを指摘しつつも、「散文性の獲得」、時代の典型の子ども像としての「善太と三平」の創造などを評価しています。
 「善太と三平」に関しては、平凡な日常を描いただけの子ども向けの作品(生活童話)よりも大人の中で葛藤する二人を描いた「風の中の子供」の方を高く評価しています。
 児童文学を勉強し始めたころは、明確に「未明」、「広介」、「譲治」を否定し、「省三」、「賢治」、「南吉」を肯定した、「子どもと文学」の方に共感していた(子どものころに読んだ児童文学がほとんど海外の作品だったからでしょう)のですが、「現代児童文学」が終焉(その記事を参照してください)した現在では、私自身の考えはかなり変わってきています。
 未明たちの「近代童話(広介のような小児性も含めて)」も、「子どもと文学」が主張していた英米児童文学流の児童文学も、著者たちが目指していた「変革の文学」も、それぞれ相対的なものにすぎなかったのではないでしょうか。
 そして、それぞれの「児童文学」の中で、素晴らしい作品もあり、またくだらない作品(近代童話の場合は、残酷な言い方になりますが「童話的資質」に乏しい作家が書いた作品、「子どもと文学」でいえば「おもしろく、はっきりわかりやすい」が中身のない作品、「少年文学宣言派」でいえば「テーマ主義に陥っていておもしろくない」作品)もあることだけは事実でしょう。

現代児童文学論―近代童話批判 (1959年)
クリエーター情報なし
くろしお出版
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続橋達雄「童話集『注文の多い料理店』序説」「注文の多い料理店」研究1所収

2021-08-13 17:50:10 | 参考文献

 1957年6月から10月にかけて「四次元」83号から85号に連載された論文です。
 著者が二十代の時の文章なので、やや観念的で未消化の部分はありますが、童話集「注文の多い料理店」の概要を、以下の観点でまとめています。

1.童話集以前の作品
 当時、大正七年の作品とされていた「蜘蛛となめくぢと狸」(その記事を参照してください)、「めくらぶだうと虹」(その記事を参照してください)、「双子の星」について、それぞれ、社会批判の系列、宗教的な系列、耽美的(?)な世界と区分して論評しています。

2.「イーハトーヴオ」宣言 
 童話集「注文の多い料理店」の新刊案内(その記事を参照してください)について、考察しています。

3.童話集の構成について
 この時点では、著者は全集通りに制作年月日順に掲載されているとしています(関連する記事を参照してください)。

4,イーハトーヴオの内想
 童話集の中での、自然的環境への対応について考察しています。

5.小さなこころの種子
 童話集の中での、広い意味での人生批評について考察しています。

6.止むに止まれない反感
 童話集の中での、社会的環境への対応について考察しています。

7.結びに代えて
 前出した考察に加えて、今後の課題についてまとめています。
 
 著者はこの本の編者でもあり、自分の若書きを謙遜していますが、当時の賢治研究の今後の方向性についてはよく網羅されていると思います。



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佐藤忠雄「少年の理想主義について」思想の科学1954年3月号所収

2021-08-12 11:22:14 | 参考文献

 「思想の科学」の1954年3月号に発表された、「「少年倶楽部」の再評価」という副題がついた論文です。
 「現代児童文学論集2」にも再録されていますので、今でも読むことができます。
 古田足日、鳥越信たちの「少年文学宣言」や石井桃子、いぬいとみこたちの「子どもと文学」と並んで、小川未明以来の近代童話を批判して、現代児童文学の誕生に寄与したとされています。
 しかし、今でも何らかの形で児童文学に影響を持っている「少年文学宣言」や「子どもと文学」に対して、この論文は今ではほとんど忘れ去られています。
 その理由として、この論集のまとめを書いている児童文学評論家の大岡秀明は、「既成の児童文学や子ども観を批判する部分に力点が置かれているように概念のワクを破壊するが、その破壊した後の方法に関しては、不明確な点が多いものでもあった。」と指摘しています。
 確かに、「赤い鳥」以来のいわゆる「良心的児童文学」が実際にはあまり読まれていなかったのに対して、少年倶楽部に掲載された作品群がいかに多くの読者を獲得したかについては、ページを割いて力説されています。
 また、それらの作品群を児童文学史ではほとんど無視していることを糾弾し、これらの作品が読者たちの人格形成上大きな貢献をしたことにも言及しています。
 しかし、大岡が指摘しているように、過去の事実の指摘にとどまり、今後の児童文学への反映の提案はほとんどなされなかったので、児童文学のその後にほとんど影響を及ぼしませんでした。
 少年倶楽部の作品群は、今でいえばエンターテインメントやライトノベルの先達的存在に位置付けられますが、エンターテインメント系の作品群が児童文学史上での評価がほとんどなされていないのは、今もほとんど変わりはありません。
 ただし、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズについては、児童文学研究者の宮川健郎や石井直人たちによって、まとまった評価がされています。
 著者の論文では、自分の体験や少年倶楽部の関係者への取材に寄りかかりすぎて、それらに対する客観的な評価に欠けているのも気になりました。
 「少年文学宣言」が高らかに述べた「子どもへの関心」や「散文性の獲得」や「変革の意思」、「子どもと文学」が提唱した「おもしろく、はっきりわかりやすく」などのような、その後の児童文学への提言がこの論文には決定的に欠落していて、ともすると単なる懐古的な文章に受けとめられたのではないでしょうか。

 

現代児童文学の出発 (現代児童文学論集)
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日本図書センター
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渡辺 泰「日本アニメの黎明期」日本アニメの飛翔期を探る所収

2021-08-11 18:47:57 | 参考文献

 2000年2月から日本各地の美術館で開催された「アニメ黄金時代」という展覧会(私はその年の7月か8月に川崎市市民ミュージアムで見学しました)の資料に掲載された論文です。
 展覧会自体も非常に優れたものでしたが、この資料もたくさんのセル画を含んだ貴重なものです。
 この巻頭の論文では、日本における戦前のアニメの作成史を主なアニメーターとともに紹介しています。
 それによると、世界初のアニメは1906年、日本での初めてのアニメの上映は1912年、日本初のアニメは1917年とのことで、宮澤賢治学会の講演を紹介したときにも書きましたが(詳しくはその記事を参照してください)、当時の日本人がいかに映画やアニメといった当時の最先端のメディア(現在でいえば、インターネットやSNSのようなものでしょう)を急速に吸収していったかがわかります。
 戦前のアニメは、映画と同様に軍国主義のプロパガンダの手段(代表作は、「桃太郎の海鷲」、「桃太郎・海の神兵」など)として、しだいに集約されていってしまいました。
 その中で、1943年に発表された戦前のアニメの最高傑作とされる政岡憲三の「くもとちゅうりっぷ」について、筆者は以下のようにやや興奮気味に紹介しています。
「お花畑でテントウ虫の女の子が遊んでいると,色男のクモが誘惑する.女の子はチューリップのつぼみに逃げ込んでかくまってもらう.怒ったクモは糸をはき出し,つぼみをグルグル巻きにし,逃げられないようにする.夜半の嵐でクモは吹き飛ばされてしまう.一方,クモの糸で巻かれた花のつぼみは激しい風雨に耐え,散ることもなかった.風雨が去り,晴天の朝を迎え,テントウ虫の女の子はつぼみからはい出し,チューリップの花に感謝しながら,生きる喜びの歌を歌う.
 平和を象徴するお花畑が舞台.自由を謳歌する可愛らしいテントウ虫の女の子.可憐な女の子なのだが,一瞬ちらりと見せるコケティッシュな表情に大人のエロチシズムが感じられるのだ.
 太平洋戦争たけなわのころ,日本は食糧も生活物資も逼迫し,国民は疲弊していた.子供たちの娯楽であるべきアニメも戦争賛美の作品が増えていった.そのような情況のさなかに突然変異のごとく登場した16分の小品は,戦時色を全く感じさせない詩情豊かな名作であった.このリリシズムに満ちた作品は戦前に作られた日本の数多いアニメの中で光り輝いて見える不朽の名作といえよう.政岡の生涯の最高傑作といっても過言でなかろうし,この一作は日本アニメ史のモニュメント的な存在となった.政岡がこの作品を作ったのは戦争賛美アニメに対するレジスタンスであったかもしれない.」
 私自身も、この展覧会が開催されている時期に、偶然NHKで「くもとちゅうりっぷ」を見る機会があり、その完成度の高さに驚愕しました。
 筆者と同様に、テントウ虫の女の子が時折見せる表情に大人の色気を感じてドキリとさせられたことを記憶しています。
 筆者によると、「政岡はテントウ虫の女の子のキャラクターを創造するのに、水着の成人女性をモデルにスケッチした」そうですから、それも当然かもしれません。

日本のアニメ全史―世界を制した日本アニメの奇跡
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テンブックス

 

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ロッキー2

2021-08-10 14:13:25 | 映画

 1979年に作られたロッキー・シリーズの二作目です。
 大ヒット作品のシリーズ化は、国の内外を問わずによく

行われますが、それが人気シリーズになるかどうかは、第二作の出来にかかっていることが多いです。
 そういった意味では、この作品は成功例の一つでしょう(他に、「スター・ウォーズ」、「ダイ・ハード」、「エイリアン」なども二作目も優れていて、シリーズが続く要因になりました。失敗例としては、「バック・ツー・ザ・ヒューチャー」や「ジョーズ」や「ジュラシック・パーク」などがあげられるでしょう)。
 一般的には、前作で観衆にうけた部分(この映画で言えば、トレーニングや試合のシーン)を拡大して誇張するのが一般的ですが、どうしてもその分人間ドラマが弱くなります。
 でも、この映画では、結婚、子ども誕生などを通して「家族のために闘う」(前作は自分の「アイデンティティの証明」のための戦いでした)という新しいテーマが打ち出せたので成功したのでしょう。

 

 

 

 

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ロッキー

2021-08-10 14:08:12 | 映画

 1976年公開のアメリカ映画です。
 言わずと知れたシルベスター・スタローンの出世作で、アカデミー作品賞や監督賞を受賞して、惜しくも主演男優賞はノミネートだけでしたが、スタローンを一躍ハリウッドを代表する人気スターにしました。
 高利貸しの取り立て屋をやって暮らしている場末の三流ボクサーが、幸運にも世界チャンピオンに挑戦する機会を得て、根本から人生を立て直していくという、いかにもアメリカ人が好きそうなストーリーですが、企画を持ち込んだスタローン自身が売れない役者だったということで、二重のアメリカン・ドリームが描かれることになり、多くの人の共感を得ました。
 日本でも大ヒットして、その年のキネマ旬報の外国語映画の1位(ファン投票でも1位)に選ばれました。
 今見直してみると、練習シーンや試合のシーンは意外にも短く、人間ドラマがしっかりと描かれているのに感心しました(シリーズ物のパターンで、回を重ねるごとにそうしたシーンが増えたので印象が変わっていたのでしょう)。
 主役のロッキーが、生きる目標をなくしたごろつきから、人生から逃げずに戦い続ける男に変身していったように、相手役のエイドリアンも、極端に内気な、自分に自信を持てない女性から、ロッキーを愛することに生きる喜びを見出した力強い女性に変身していき、男性観客だけでなく女性観客にとっても励ましになっています(ジェンダー観はやや古いですが)。
 また、エイドリアンの兄のちゃっかりしているが気のいい中年男やロッキーを指導する口うるさい老トレイナーなど、脇役もベタながらしっかり描かれています。
 それにしても、当時のスタローンの肉体は、若くて惚れ惚れとするような魅力に溢れ、それも映画の成功の一因だったことでしょう。



 

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現代日本児童文学を研究するのための大学院

2021-08-06 15:56:12 | 参考情報

 現代日本児童文学を研究するために大学院受験を検討したことは別の記事で書きましたが、その時にそれらの大学(大学院)が旧態依然だということが分かり、かなり失望しました。
 ある大学の教授に言わせると、彼が学生だった30年前とあまり変わっていないとのことです。
 私は理系の学部出身なので単純な比較はできませんが、息子たちは二人とも文系の大学生だったなので、彼らの話から判断しても、日本の大学(大学院)の、少なくとも文系の学部は、相変らず本当の意味での勉強をするには、あまり魅力のあるところではなさそうです。
 1960年代の全共闘世代の大学民主化闘争は、結局なんの成果もあげられなかったようです。
 例えば、いったん大学の教授になれば、研究成果に関わらず不祥事を起こさない限りは、終身雇用が保障されているようです(某大学では、教授だけでなく一般の職員まで最近まで70歳定年だったそうです)。
 それに対して、非常勤講師は安い時間給と不安定な身分保障(いろいろな大学では五年間での雇止めの動きもあって、ますます彼らにとって不利になっています)で、安心して結婚すらできない状況です。
 そういったポストですら年々減少していて、オーバードクターやポストドクターの若者たちは高学歴低収入にあえいでいます。
 これでは、団塊の世代(皮肉にもかつての全共闘世代であった人たちです)が現代の若者たちから、大卒あるいは大学院卒という肩書を餌に、搾取しているようなものです。
 つまり、大学そのものが、いわゆる世代間格差を象徴しているのです。
 こんな状況ですから、大学院の研究環境についていくつかの大学に質問したのですが、質問の意味すらなかなか理解してもらえませんでした。
 その時、私の研究環境の基準は、自分が勤めている外資系の会社の仕事環境でした。
 そこでは、国内外の技術者や研究者と電話会議やネットミーティングで、シンクロして仕事を進めるのが、二十年以上前から日常的に行われています。
 これが実現したのは、パソコンやインターネットの普及や通信費用の低価格化のおかげです。
 電話会議やネットミーティングのことを繰り返し説明して、やっと大学側の担当者に質問の主旨を理解してもらったのですが、どの大学にもそういった環境はまるでありませんでした。
 このインターネットが一般化した時代に、電話会議やネットミーティングなしに、どうやって他の大学の研究者たちと意見を交換するのでしょうか?
 そう尋ねると、学会などで会ったときやメールなどでやっているとのことです。
 そんなことでは、タイムリーな意見交換はとてもできないでしょう。
 また、現代外国児童文学を研究する場合はどうするのでしょうか?
 このグローバルな時代に、今でも国際会議などを除くとほとんど交流のチャンスはないそうです。
 それに、入手した大学院の試験問題から察するに、英米児童文学を受験する人たちですら英語力についてあまり高いものを求められていないので、もしかすると翻訳された本の研究が中心で、海外の作品や研究書を原書で読む機会はあまりないのかもしれません。
 ましてや、英会話や英文作成能力などのコミュニケーション能力は、試験さえ行われません。
 こんな実力しかない大学院生が、どうやって最新の海外の児童文学の研究をできるのでしょうか。
 さらに、児童文学専攻の大学院がある某女子大の場合は大学院専用の図書館が付属した研究センターがあるだけましでしたが、現代文芸の大学院がある某有名大学では大学院や教員専用のそういった施設はなく、一般学生と同じ大学や学部の図書室を利用するとのことでした。
 たまたま、私はその大学の卒業生(理系の学部ですが)なので、もともとそれらの図書室を利用できるのです。
 これでは、わざわざ大学院生になる意義はまったくありません。
 また、授業にもパソコンやそれに接続するプロジェクター、コピーの取れる電子黒板などの設備も、教室にはほとんどないようです。
 相変わらず先生が黒板に板書して学生はノートに写すか、もし許される場合は写メを撮るぐらいのようです。
 教授が授業をパソコンに接続したプロジェクターで行い、レジュメをみんなにネットで配るということはほとんどないそうです。
 学生側も、筆記の代わりにノートパソコンに入力している人は少ないようです。
 ひどい場合には、スマホやノートパソコンの教室への持ち込みが禁止されているようです。
 スマホやノートパソコンを持ち込ませたら、学生が授業中にゲームをやったりメールをしたりするのを恐れているみたいです。
 話は変わりますが、大震災や原発事故などの重要な会議がテレビ中継されたときに、専門家、政治家、官僚たちがずらりと並んでいるのに、ノートパソコンを前に置いている人がほとんどいないのを、前から奇異に思っていました。
 私の会社では、会議には全員がノートパソコンを持ち込み、説明する人は自分のパソコンにプロジェクターを繋いで、資料の説明を行います。
 もちろん、全員のパソコンがイントラネットに繋がっているので、自宅や海外からでも会議に参加できます。
 また、タイピングの速い人(特に外国人は速い人が多い)が書記役をかってでて、ミーティングが終了するとともに、使われた資料だけでなく議事録までが参加者にイントラネットで配布されます。
 大震災の会議を見ていて、誰が議事録を取っているのだろうと思っていたら、案の定誰も議事録をとっていないことが判明して大騒ぎになりました。
 それに対して、アメリカでは3000ページもの議事録がありました。
 彼らはリアルタイムに議事録を取っているのですから、生々しく正確で量も多いのは当たり前です。
 つまり遅れているのは、大学だけではなく日本全体が(特に公務員ないしはそれに類する人たちが関与しているところでは)、こんなにインターネットやパソコンが普及しても、仕事や講義の仕方はまるで進歩していないようです
 もし、私が外国児童文学を専攻するのなら、日本の大学はさっさとあきらめて、外国の大学に留学すればいいのでしょう。
 しかし、私は現代日本児童文学を研究したかったのですから、それもできません。
 けっきょく、大学院受験はあきらめて、それにかかる費用を自宅の書庫や書斎の整備(アマゾンを使って研究に必要な内外の文献を購入、高性能ノートパソコンの導入、各種通信サービスへの加入、人間工学を応用したオフィス機器や環境機器の購入など)にあてて、それでもカバーできない部分は公立図書館(在住、在勤の市立図書館からの書籍の借り出し、県内/都内の公立図書館から地元の公立図書館へ取り寄せた書籍の借り出し、国際子ども図書館から取り寄せた書籍の地元の公立図書館内での閲覧など)を最大限に利用して、在野で研究をすることにしました。

児童文学事典
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東京書籍
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