goo blog サービス終了のお知らせ 

現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ボヘミアン・ラプソディ

2025-01-31 09:08:55 | 映画

 イギリスの伝説的なロックバンド(ヴォーカルのフレディ・マーキュリーが、1991年にAIDSで死んだ(そのころは治療法が確立されていなかったので不治の病でした)ことも含めて)のクイーンの、結成された1970年前後から20世紀最大のチャリティ・コンサートであるライヴ・エイド(1985年7月13日)までを、フレディ・マーキュリーを中心に描いた音楽伝記映画です。
 個性の塊のような(途中からは自らゲイの典型を演じている感じもありました)フレディ・マーキュリーだけでなく、ギターのブライアン・メイ(かっこいいロック・ギタリストの典型(今は亡き多田かおるの少女マンガ「愛してナイト」に出てくるギタリストは彼にそっくりでした))、ドラマーのロジャー・テイラー(アイドル的なルックスで女の子にめちゃくちゃもてるロックスターの典型(「ブレイク・フリー」という曲のミュージックビデオは、四人が女装して出演したことで当時賛否両論を巻き起こしましたが、もちろん発案者のロジャーが圧倒的に美しく、特にクローズアップされた彼のミニスカートのヒップは女性も顔負けで、我が家では今でも「ロジャーのお尻」と語り草になっています)、ベースのジョン・ディーコン(渋いベーシストの典型)も、それらしい俳優が演じていて、それぞれやや誇張されているものの、オールド・ファンのイメージを大きく崩さなかったのは、なかなかの配役だと思いました。
 ストーリーは、15年以上の期間をすごく駆け足で振り返っていますし、メンバーだけでなく、スタッフや、フレディの家族や、恋人(男性だけでなく女性も)や、LGBTの人たちに配慮したため、無難な内容になっていますが、全編にクイーンの有名なヒットソング(「キラー・クイーン」、「ボヘミアン・ラプソディ」、「レディオ・ガ・ガ」、「伝説のチャンピオン」、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」など)がまんべんなく散りばめられていて、音楽映画としてはまったく申し分ありません。
 しかし、この映画の一番収穫は、クイーンが、フレディだけでなく、ブライアン、ロジャー、ジョンも含めた四人がそろって、初めてロックバンドとして完成していることが、再認識できたことでしょう。
 強烈な個性と劇的な最期のために、クイーンといえばフレディ・マーキュリーがクローズアップされがちですが(この映画も基本的にはそうです)、彼らが日本で知られるようになった1970年代の初めごろは、どちらかというと、クラシック音楽の素養もあるインテリ(ブライアンは天文学、ロジャーは歯科医、ジョンは電気工学を専攻)・ロックバンドで、ピンク・フロイドやエマーソン・レイク・アンド・パーマーのようなプログレッシブ・ロックに、美しいメロディ・ラインやハーモニーを加えた最先端のバンドとして紹介されていたことを、改めて思い出しました。

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)
クリエーター情報なし
Universal Music =music=
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司馬遼太郎「峠」

2025-01-30 09:08:00 | 参考文献

幕末に、弱小な越後長岡藩を率いて、強大な官軍に対して、一歩も引かずに対戦した家老河合継之助の生涯を描いた歴史小説です。

圧倒的な官軍に降伏しなかった河合継之助は、そうかといって幕府にも組せず、長岡藩を独立国家にすることを夢見て、他に先駆けて藩の近代化を推し進めたことが、作者のち密な筆で描かれています。

世間的には全く無名だった河合継之助を、一躍幕末の偉人として浮かび上がらせました。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮澤清六「兄のトランク」兄のトランク所収

2025-01-29 08:58:02 | 参考文献

 賢治の八歳年下の弟である清六氏が、1987年に出版したエッセイ集の表題作です。
 このエッセイ集は、清六氏が賢治の全集の月報や研究誌などに発表した賢治についての文章を集めたもので、発表時期は1939年から1984年まで長期にわたっています。
 賢治にいちばん近い肉親ならではの貴重な証言が数多く含まれていて、賢治の研究者やファンにとっては重要な本です。
 このエッセイでは、大正十年七月に賢治が神田で買ったという茶色のズックを張った巨大なトランクの思い出について書かれています。
 その年、二十六歳だった賢治は、正月から七か月間上京しています。
 その間に、賢治の童話の原型のほとんどすべてが書かれたといわれています。
 賢治の有名な伝説である「一か月に三千枚の原稿を書いた」という時期も、その間に含まれています。
 賢治は、この大トランクに膨大な原稿をつめて、花巻へ戻ったのです。
 1974年の3月14日に、賢治の生家で、私は大学の宮沢賢治研究会の仲間と一緒に、清六氏から賢治のお話をうかがいました。
 なぜそんな正確な日にちを覚えているかというと、その時に清六氏から賢治が生前唯一出版した童話集である「注文の多い料理店」を復刻した文庫本を署名入りでいただいたからです。
 宮沢賢治研究会の代表をしていた先輩は、どういうつてか当時の賢治研究の第一人者である続橋達雄先生に清六氏を紹介していただき、さらには続橋先生にも事前にお話をうかがってから、みんなで花巻旅行を行ったのです。
 賢治の生家だけでなく、賢治のお墓、宮沢賢治記念館、イギリス海岸、羅須地人協会、花巻温泉郷、花巻ユースホステル(全国の賢治ファンが泊まっていました)などをめぐる濃密な賢治の旅でした。
 私はスキー用具をかついでいって、帰りにみんなと別れて、なぜか同行していた高校時代の友人(宮沢賢治研究会のメンバーではなかった)と、鉛温泉スキー場でスキーまで楽しみました。
 その旅行の前に、代表だった先輩は、「清六氏にあったら賢治先生と言うように」とかたくメンバーに言い含めていましたが、当日はその先輩が真っ先に興奮してしまって、「賢治」、「賢治」と呼び捨てを連発してひやひやしたことが懐かしく思い出されます。
 清六氏は、37歳で夭逝した賢治とは対照的に、2001年に97歳の天寿をまっとうされました。
 その長い生涯を、賢治の遺稿を守り(空襲で生家も焼けましたが、遺稿は清六氏のおかげで焼失を免れました)、世の中に出すことに尽力されました。
 清六氏がいなければ、今のような形で賢治作品が世の中に広まることはなかったでしょう。

兄のトランク (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アグネス・ザッパー「愛の一家」

2025-01-28 14:08:58 | 作品論

 1907年にドイツで書かれた児童文学の古典のひとつです。
 2011年に出た完訳版で、約六十年ぶりに読んでみました。
 私が1960年代の初めにこの本を読んだのは、姉たちのために毎月家で購入していた講談社版の少年少女世界文学全集のある巻に収められていたからです。
 おそらく抄訳だったのでしょうが、今回読んでみて知らないエピソードが出てこなかったので、かなり良心的なものだったのでしょう。
 そういえば、同じ全集に入っていたケストナーの「飛ぶ教室」「点子ちゃんとアントン」「エーミールと軽業師(ケストナー少年文学全集では「エーミールと三人のふたご」というタイトルになっています)」の巻(幸運にもまるまる一巻がすべてケストナー作品でした)は私の子ども時代の最愛の本でしたが、大学生になって真っ先に大学生協でケストナー少年文学全集を買ってそれらの作品を完訳を読み直しても、ほとんど違和感がありませんでした。
 さて、このお話は、貧しい(といっても、昔のことですからお手伝いさんはいるのですが)音楽教師のペフリング一家の七人兄弟(男四人、女三人)が、ほがらかで頼りになるおとうさんとやさしくて信仰心に富んだおかあさんの愛情に育まれて成長していく姿を描いています。
 第一次世界大戦前の古き良き時代のドイツの庶民の暮らしが、長い冬の風物を背景に丹念に描かれています。
 私が初めて読んだ時でも、書かれてから五十年以上たっていましたが、あまり違和感なく読めたのはそのころの日本の一般的な家庭と共通点があったからでしょう。
 当時の日本の家庭を描いた作品としては、庄野潤三の家庭小説(「絵合わせ」(その記事を参照してください)「明夫と良二」「夕べの雲」など)がありますが、この「愛の一家」もどこか庄野作品と共通するものがあるように思われます。
 社会が複雑化した現代の日本では、この作品のような「おとうさんらしいおとうさん」や「おかあさんらしいおかあさん」や「子どもらしい子ども」を求めるのは困難かもしれませんが、東日本大震災や福島第一原発事故やコロナなどを経て、家族の大切さが見直されている時期にこういった作品を読んでみるのも、たんなるノスタルジーを超えた意味があるのではないでしょうか。

愛の一家 (福音館文庫 物語)
クリエーター情報なし
福音館書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庄野潤三「静物」プールサイド小景・静物所収

2025-01-26 09:42:51 | 参考文献

 1960年6月号の「群像」に掲載されて、同じ年に、この作品を表題とした作品集にまとめられた中編です。
 作品集はその年の新潮社文学賞を受賞していますが、この作品が受賞理由の中心であったことは言うまでもありません。
 この作品は、作者の前期の代表作であるばかりでなく、戦後文学の代表作の一つであると評されています。
 実際の作者の家族をモデルにしたと思われる五人家族(主人公である父親、その細君(こう表記されている理由は後で述べます)と、女、男、男の三人兄弟)の一見平凡に見える日常些細なことを描きながら、それがいかに危うい均衡(あるいは男女としての関係の諦念)の上に成り立っているかが、浮かび上がってくる非常にテクニカルな作品です。
 文庫本にして70ページほどのこの中編は、18の断章から構成されています。
 その大半は、父親を中心にした穏やかな日常風景(部分的には子ども(特に長女)が小さかった頃が回想されます)が描かれています。
 しかし、1、2には、長女が1歳のころに妻が自殺未遂を図ったことがにおわされて、作品全体の通奏低音のように、この一見円満に見える家庭がもろくも崩壊してしまうかもしれない不安感を漂よわせます。
 さらに、3には新婚の時のあどけない女性だった頃の妻の追憶が挿入され、かつて彼らが父親とその細君でなく、愛し合う若い男女だったことが示されます。
 そして、後半になると、14には、娘が幼かった頃のあるクリスマスに、妻が唐突に彼の家の家計としてはかなり高価な贈り物を彼と娘にしたことが思い起こされたり、16には、二番目の子どもが赤ん坊の頃に、階下ですすり泣く妻の声を聞いたことが思い出されたりして、この一見平和な家庭が、いかに彼女の大きな犠牲(一人の独立した女性ではなく、家族の中心としての父親(民主的家父長制と呼べるかも知れません)である彼の「細君」としての役割を果たすことへの諦念といったほうがいいかも知れません)の上に成り立っているかを示しています。
 しかし、その後の作者の家庭小説(「夕べの雲」や「絵合わせ]など)の中では、こうした通奏低音はすっかり姿を消して、完全に父親とその細君(独立した一人の女性でも子どもたちの母親でもなく、あくまでも主人公からの相対的な位置づけなのです)としての役割を引き受けた姿が描かれています。
 こうした作者の作品世界を、「小市民的」と批判するのはたやすいのですが、作者が頑なまでにその姿勢を貫いている間に、世間ではこの民主的「家父長」とでも呼ぶような父親たちが完全に姿を消して、その作品世界は一種の古き佳き昔を懐かしむような読者の共同ノスタルジーに支えられて、一定の読者(私もその一人ですが)を獲得し続け、その老境小説が「いつも同じことを書いている」と揶揄されながらも、なくなる直前まで出版され続けたことにつながっていったものと思われます。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なまいきシャルロット

2025-01-25 09:20:00 | 映画

 13歳の多感な少女のひと夏の経験を、美しい映像とポップな音楽で描いています。
 学校や自分の住む田舎町への違和感、そこから脱出して自由に生きることの夢、大人たちへの反発、同い年の天才少女ピアニストへの憧れ、年上の男との出会いなど、思春期前期の少女の繊細な感情をビビッドに描いています。
 フランスの地方の美しい風景と主演のシャルロット・ゲンズブールの瑞々しい魅力とも相まって、さわやかな青春映画に仕上がっています。
 日本の児童文学でも、こうしたフレッシュな小説が欲しいものです。

なまいきシャルロット [DVD]
クリエーター情報なし
ハピネット・ピクチャーズ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボブ・グリーン「チーズバーガーズ」

2025-01-24 09:47:43 | 参考文献

 1985年に出版された同名のコラム集から、訳者が選んだ31編を翻訳して、1986年に出版されました。

 その前年に「アメリカン・ビート」というコラム集が紹介されて、当時は日本でも作者のコラムは盛んに読まれていました(私の持っている本は1990年1月20日10刷です)。

 無名の人から有名人(例えば、モハメド・アリやメリル・ストリープなど)までの人生のある面を鮮やかに切り取って、その中に1980年代のアメリカの姿を浮かび上がらせる作者の腕前はさすがのものがあります。

 特に、この本では、1947年生まれの作者が30代の経験とフレッシュさが一番バランスの取れていた時期に書かれたものなので、数ある作者の本の中でも最も優れている作品の一つだと思われます。

 個人的な好みもありますが、有名人や彼自身の知人を書いたものより、全く無関係の無名の人々を書いたコラム(例えば、55歳にして初めてアルファベットを習うところから書くことを学び始めた男を描いた「男の中の男」(その記事を参照してください)や寂しさを紛らわすために自殺した夫が残した飛行機の格安(国内線だったら1フライト4ドルから8ドル)パス(夫がユナイテッド航空の従業員だったため)を使って飛行機を乗り継いでいる女性を描いた「飛行機のなかの他人」や亡くなった母の思い出を語る娘を描いた「母と娘」など)に優れたものが多いと思います。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恩田 陸「蜜蜂と遠雷」

2025-01-21 11:17:08 | 参考文献

 直木賞と本屋大賞を同時に受賞して話題になったエンターテインメント作品です。
 読み始めてすぐに、懐かしい少女マンガの世界(例えば、くらもちふさこの「いつもポケットにショパン」など)だと思いましたが、読み進めていくうちに懐かしい少年マンガの要素も持った、より多くの読者を獲得できる作品だということがわかってきました。
 懐かしい(最近の作品は読んでいないので)少女マンガだと思った理由は、取り上げている素材(国際的なピアノコンクール)や登場人物(主なコンテスタント(コンクールへの参加者)四人のうち三人がタイプの違った天才(全く無名だが世界的な巨匠の最後の弟子で推薦状を持参した16歳の少年、アメリカのジュリアード音楽院を代表する大本命の19歳の青年、母の死とともに音楽界から姿を消したかつての天才少女(年齢は20歳と一番上だが、作者は繰り返し少女と表現して幼さを強調しています))の処理(特に男性陣は、天衣無縫の美少年と、身長188センチのイケメンで、女性読者へのサービス満点です)です。
 一方、懐かしい(一部を除いて最近の作品は読んでいないので)少年マンガだと思った理由は、コンクール出場のオーディション(16歳の無名少年だけ)、本大会の第一次予選、第二次予選、第三次予選、本選と勝ち抜いていく構成が、スポーツ物や戦闘物の少年マンガの形式を踏襲しているからです。
 そのため、この作品ではコンクールでの演奏シーンが非常に多いのですが、純粋な少女マンガファンにはやや退屈に感じられたかもしれません。
 しかし、これこそが少年マンガの大きな特徴で、他の記事にも書きましたが、こうしたマンガでは人気が落ちる(マンガ雑誌は、毎週の人気投票という過酷な手段で、掲載しているそれぞれのマンガの人気をチェックしています)と、試合のシーンや戦闘シーンを増やすそうです。
 これも他の記事にも書きましたが、登場人物の人間性をより深く描いたことで他のスポーツ物と一線を画したと言われる、ちばあきおの「キャプテン」(その記事を参照してください)や「プレイボール」(その記事を参照してください)でさえ、試合のシーンが圧倒的に多いことに驚かされます。
 そういった意味では、コンクールが深まっていくにつれて演奏シーンが盛り上がっていく書き方は、男性読者の方が読みやすかったかもしれません。
 音楽の魅力を文章で描くのは非常に困難な作業なのですが、作者は圧倒的な筆力で強引にねじ伏せてみせます。
 ここに書かれたクラシックの楽曲の解釈が、どれほど音楽的に正しいのかを判断する知識を持ち合わせていませんが、何曲かの知っている曲での表現はそれらしく感じられました。
 また、読んでいて無性にクラシック音楽(特にピアノ曲)が聴きたくなるのは、作品の持っている力でしょう(途中からは実際にバックに流しながら(作品に出てくる楽曲とは限りませんが)読みました)。
 作品の書き方は、典型的なエンターテインメントの書式(偶然の多用(桁外れの天才が三人も同じコンクールに参加する。天才のうち二人は実は幼なじみで、コンクールで奇跡的な再会を果たす。女性の天才は、もう一人の天才ともたびたび偶然出会う。外国人も含めて主な登場人物が全員日本語を話せるなど。)、スパイスとしてのロマンス(コンテスタント同士だけでなく、審査員同士やコンテスタントと取材者まで)、デフォルメされた登場人物設定(三人の天才だけでなく、四人目の主なコンテスタント(28歳の楽器店勤務の既婚男性。このコンクールを記念に音楽活動を退く予定で、そのために社会人生活や家庭生活や経済面もかなり犠牲にして一年以上準備してきた)、審査員や関係者まで)、強引なストーリー展開(三人の天才が上位入賞を果たすのは当然としても、途中敗退した四人目のコンテスタントにも十分に花を持たしている。敵役の有力コンテスタントの意外な敗退など)です。
 他の記事にも繰り返し書きましたが、こうしたことを非難しているのではありません。
 純文学とは書式が違うことを言っているだけです。
 むしろ、二段組み500ページを超える大作を、コモンリーダーと呼ばれる一般の読者に読んでもらうためには、こうしたエンターテインメントの書式は適していると思っています。
 最後に、これも他の記事にも書きましたが、「本屋大賞」は、あまり知られていない「書店員が売りたい本」をより多くの読者に読んでもらうためにスタートしたはずですが、最近はますます「売れる本」の人気投票と化しているようです。
 そのため、小川洋子の「博士の愛した数式」のような芥川賞タイプ(純文学寄り)の作品から、今回のような直木賞受賞作品(エンターテインメント)に、受賞作品が変化しているようで、存在意義が問われるところです。


蜜蜂と遠雷
クリエーター情報なし
幻冬舎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉川英治「三国志」

2025-01-19 14:53:25 | 参考文献

 言わずと知れた、古代中国の戦乱時代を描いた歴史ロマンです。
 三国志自体は、中国の三国時代の歴史書なのですが、古来さまざまに脚色された本が流通しています。
 日本でも様々な「三国志」が存在しますが、吉川英治の本が日本での決定版といっていいでしょう。
 また、三国志はマンガや様々なゲームになっていますが、それらも吉川英治版をベースにしています。
 三国志は、劉備、関羽、張飛の義兄弟が序盤の主役ですが、中盤は魏、呉、蜀の三国の成立が描かれ、終盤は劉備の軍師で蜀の丞相になった諸葛亮孔明が主役になります。
 夥しい登場人物の中には、劉備、関羽、張飛、呂布、曹操、司馬懿、周瑜、陸遜などの魅力的なキャラクターが描かれていますが、なんといっても最大のスターは孔明でしょう。
 歴史上天才と呼ばれる人はたくさんいますが、「千年に一人の大才」と言われているのは孔明だけです。
 この本を読んで、かつての私のように、自分は孔明の生まれ代わりだと信じている少年は今でもたくさんいるのではないでしょうか。
 この本は、私にとっては中学高校時代の最大の愛読書でした。
 不思議に、中間テストや期末テストの前になると読みたくなるので、この文庫本で八冊以上にもなる大著を何度読んだかわかりません。
 きっと、試験勉強という現実を逃避して、古代の歴史ロマンの世界に身を置きたかったのでしょう。
 「泣いて馬謖を斬る」とか「死せる孔明、生ける仲達を走らす」といった名文句はいつも心の中にあります。
 今回、久々に電子書籍で読みましたが、少しも古びることがなく著者の格調高い文章で語られる真のエンターテインメントを楽しむことができました。

三国志 (1) (吉川英治歴史時代文庫 33)
クリエーター情報なし
講談社

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庄野潤三「夕べの雲」

2025-01-17 08:48:20 | 参考文献

 昭和39年9月から昭和40年1月まで、日本経済新聞に連載され、昭和40年3月に講談社から出版されて、翌年の読売文学賞を受賞した作品です。

 作者の分身である主人公と、その妻、高校生の長姉、中学生の弟、小学生の末弟の五人家族のゆったりした暮らしが、開発(団地)で失われていく周囲の自然(神奈川県の小田急線生田の周辺のようです)への哀惜と共に、作者独特の滋味深い文章(一見、平易に見えますが、一言一言が詩心に裏付けされていて、とても真似できません)で描かれています。

 こうした一見平凡に見える日常を描いた作品を、新聞小説として受け入れる当時の新聞社の度量の大きさに驚かされます。

 もっとも、作者の場合は、その10年前にも、「ザボンの花」(登場する子どもたちが小学生と幼児なので、児童文学とも言えます)が同じ新聞社で連載されて好評だったせいもあるでしょう。

 各章は子どもたちのエピソードが中心ですが、その中に作者の子ども時代や両親や兄弟の思い出も描かれていて、家族の歴史に立体感を与えています。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(500)日のサマー

2025-01-16 09:41:06 | 映画

 2009年公開のアメリカ映画です。

 ロマンチックな恋愛を夢見る若い男性が、一目惚れした風変わりな女性、サマーに振り回される500日を、時間が先行したり、後退したりしながら描くというかなり凝った構成の映画で、ちょっとわかりづらいかもしれません。

 しかし、この風変わりな(恋人や結婚相手ではなく友人としての関係だと一方的に宣言するのですが、その一方でキスやセックスはぜんぜん平気なのです)女性がかなり魅力的なので、観客は主人公と一体になって、彼女の言動に一喜一憂してしまいます。

 けっきょく主人公は振られて、彼女は別の男性と結婚してしまうのですが、それをきっかけに、主人公は本当にやりたかった建築家を目指すようになりますし(それまではメッセージカード会社のコピーライターをしていました)、新しい恋人候補(その名前がオータムなので、オチになっています)にもアタックします。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文 最上一平 絵 北見葉胡「緑の葉っぱのパン」

2025-01-14 10:36:43 | 作品論

 明記はされていませんが、ロシアによるウクライナ侵略を想起させる絵本です。

 亡くなったパン職人だったおとうさんとの思い出、平和を願う気持ちが、少女によって土で作られた緑の葉っぱのパンに込められています。

 その光景を眺めていたのが、平和の象徴であるハトであることによって、世界平和を祈る作者の思いが表れています。

 戦地からは遠く離れた日本においても、こうした思いを込めた絵本を出版することは、重要な意味を持っています。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江国香織「デューク」つめたいよるに所収

2025-01-12 16:05:27 | 作品論

 21歳の私は、子犬の時から飼っていた愛犬のデュークが死んでしまって、悲しくてたまりません。
 アルバイトへ行くために泣きながら電車に乗っていると、十九歳ぐらい男の子が席を譲ってくれます。
 アルバイトをさぼって、男の子と喫茶店へ行き、その後もプールで泳いだり、散歩をしたり、美術館を見たり、落語を聴いたりして一日を過ごします。
 帰り際に少年にキスされて、それがデュークそっくりだったことに気づきます。
 実は、少年はデュークの化身で、主人公へ最後の愛を伝えに来たことが暗示されて終わります。
 直木賞も受賞した人気作家の処女出版は、「つめたいよるに」という童話集の体裁で1989年8月に出版されました。
 当時、24、5歳だった作者の若々しい感性が随所に光ります。
 しかし、これが児童文学なのかというと素朴な疑問もあります。
 作者と同世代の吉本ばななの「TSUGUMI」もほぼ同時期に出版されていますが、どちらも同じ読者層を対象にしているように思えます。
 それでいて、片方は児童文学、もう一方は一般文学の体裁で出版されます。
 1990年代後半に児童文学のボーダーレス化がよく議論されましたが、その十年前からすでにボーダーレスは始まっていたのです。
 ボーダーレスの原因にはいくつかあります。
 ひとつは少子化があげられます。
 団塊ジュニアが支えていた児童文学の読者層が、少子化で先細りになり始めていました。
 そのため、児童文学の出版社は、新しい読者層として若い女性を狙ったのです。
 それには、他の記事でも書いた「現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きているリアリティの希薄さなど)」も関連します。
 「現代的不幸」に直面した最初の世代は、1960年代に全共闘世代として学生運動へ突っ込んで行きました。
 それが、70年安保の挫折や学生運動のセクトの内ゲバなどで、学生の政治離れが急速に進みました。
 それにつれて、若者たちの関心は、政治などの外部のものから、自分の内部に移りました。
 いわゆる自分探しです。
 ほとんどの男の子の場合には、自分探しは一種の通過儀礼で学生時代などの限定期間に終了し、就職して会社という外部の組織に帰属していきました。
 そのころは、まだ終身雇用の神話が生きていましたので、そこに身をゆだねている限りはもう自分探しをする必要はないのです。
 それに引き換え、当時でも若い女性は会社に対して定年まで勤めようという意識はなくて(今はかなりの男性もそうですが)、就職してからも自分探しは続いていきます。
 従来の女性の場合は、結婚、出産が、男性の就職の代わりに一種の通過儀礼の働きをして、いやでも「大人」にならなくてはなりませんでした。
 ところが、非婚化や結婚、出産しても親世代へパラサイトする女性(最近は非婚男性も同様ですが)の増加により、いつまでも大人にならない女性が増えています。
 こうして、児童文学は女性(独身者だけでなく既婚者も含めて)を大きなマーケットとして意識するようになります。
 つまり、児童文学は、文芸評論家の斉藤美奈子がいうところのL文学(女性の作者が女性を主人公にして女性の読者のために書いた文学)化したのです。
 最近は、それに女性編集者、女性評論家、女性研究者、女性司書、女性書店員なども加わり、児童文学の世界は完全に女性だけの閉じた世界になりつつあります。
 しかも、L文学は、かつての少女小説や少女漫画よりも広範な世代の読者を抱える大きなマーケットに育っています。
 アラサーはもちろん、アラフォーやアラフィフ、さらにはアラカンになっても少女気分の抜けない女性も、今では珍しくなくなってきています。
 例えば、この「デューク」という作品では、21歳のアルバイトをしている女性(大学生かフリーターかは不明)が、愛犬の死のために人目をはばからず泣きながら町を歩いたり電車に乗ったりします。
 ペットロスのショックの大きさは、私も中学生や高校生の時に体験がある(中学生の時には、この主人公と同様に、泣きながら歩いたり電車に乗ったりしました)ので、主人公の悲しみはよく理解できます。
 ポイントは、そのために公私の区別がつかなくなるほど、大人である主人公が取り乱してしまうほど未成熟なところにあります。
 そこには、それほどペットの死を悲しめる主人公がいとおしいと思っている作者と、それに激しく共感する少なくない人数の読者たちとで作られた閉じられた世界があります。
 この閉鎖性が、L文学の魅力であるとともに限界でもあるように思います。
 旧来的な見方では、21歳の成人した人間が公の場で涙を流しているのは、「いい年して大人になっていない」と批判を受けるかもしれません。
 ところが、この「大人にならない」ということが、この閉じた世界では最大の魅力になっているのです。
 こうして、「大人にならない」大人たちが、児童文学の新しいターゲットになりました。

つめたいよるに
クリエーター情報なし
理論社


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮沢賢治「どんぐりと山猫」注文の多い料理店所収

2025-01-11 09:03:30 | 作品論

 賢治の、最初にして最後の作品集の巻頭作です。
 ご存じのように、賢治の作品は、時として難解なこともあるのですが、この作品は非常にオーソドックスな童話です。
 子ども読者の大好きなくり返しの手法を多用(山猫の行方を尋ねる時やどんぐりたちがそれぞれの主張を繰り返すところ)して読者の興味を引きつけていますし、不思議な世界への通路(ファンタジーを成立させる一つの要件で、この作品では馬車です)もきちんと用意されています。
 しかし、今までの童話と大きく違う点は、賢治独特の鋭い自然への観察を軽々と優れた詩の言葉へ変えてしまう表現力や弱者(馬車別当やどんぐりたち)への労わりやサポートの表明などです。
 百年以上前(1921年9月19日)の作品ですので、差別的な用語も散見されますが、そんなことはどうでもいいのです。
 そういった言葉遣いだけに気を使って、内容が多様な人々への配慮に欠けた作品のなんと多いことか。
 常に弱者の側に立つ。
 その姿勢こそ、昔も今も児童文学者に一番求められるものなのです。
 子どももまた弱者であることは、新聞やテレビやネットを繰り返し賑わせている事件だけでなく、みなさんご自身の体験からも明らかなことだと思います。
 世界中の子どもたちは、等しく幸せになる権利を持って生まれてきています。
 それを踏みにじる大人たちがいるかぎり、児童文学者は常に子ども側の立場でいるべきです。
 賢治のこの作品集も、その立場を繰り返し明確にしています。
 ところで、私はこの作品の冒頭の山猫からのはがき(実際は彼の馬車別当が書いています)を読むたびに、受け取った一郎と同様にうれしくてうれしくてたまらなくなります(年を取ってしまったので、一郎のようにうちじゅうとんだりはねたりはできませんが)。
「かねた一郎さま 九月十九日
 あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
 あした、めんどなさいばんしますから、おいで
 んなさい。とびどぐもたないでください。
                 山ねこ 拝」
 いつか自分にもこんなはがきが来ないかとずっと願っていますが、初めて読んでから五十年以上たちますが、その後の一郎と同様に、残念ながらまだ一度も受け取っていません。

注文の多い料理店 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社




 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柏原兵三「徳山道助の帰郷」柏原兵三作品集1所収

2025-01-09 15:24:09 | 参考文献

 1968年に第58回芥川賞を受賞した作品です。
 柏原は、ドイツ文学の、特に教養小説の研究者なので、この作品にも多分に教養主義的なにおいは感じられますが、彼の特長である平易な文章で書かれているので、今の読者でも読みやすいと思われます。
 母方の祖父で陸軍中将まで上り詰めた人物の評伝を、特に晩年零落してからの最後の帰郷(大分県です)を中心に描いています。
 芥川賞の選評では、軍人であり多くの部下を死なせた責任者である主人公を、最終的には受け入れる形で描いている作者の姿勢を批判する意見もあったようですが、むしろ60年代後半の反戦的雰囲気の中で、こういった作品を一定以上の水準で書き上げた作者は、もっと評価されてもいいのではないのではないでしょうか?
 同じころ、児童文学の世界では、たんに反戦を取り扱っているだけのテーマ主義的な愚にもつかない作品群を高く評価していました。
 世の中のはやりや風潮に流されずに、文学性の高い作品を書くことは、どの時代でも、一般文学でも児童文学でも大切なことですが、現代ではあまりにも軽視されすぎています。

柏原兵三作品集〈第1巻〉 (1973年)
クリエーター情報なし
潮出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする