現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

庄野潤三「イタリア風」プールサイド小景・静物所収

2020-04-30 16:56:09 | ツイッター
 1958年12月号の文學界に掲載され、1960年に中短編集「静物」に収録された短編です。
 作者の作品群の中では、「ガンビア滞在記」に代表されるアメリカ滞在中の見聞に基づいた作品の一つですが、一人称で書かれている他の作品と違って、三人称で書かれています。
 そういった意味では、この時期作者の初期の代表作である「静物」の準備段階だったので、実験的にアメリカ滞在記にもこの人称が採用されたものと思われます。
 しかし、三人称と言っても、いわゆる「神の視点」ではなく、限りなく一人称に近い三人称です。
 書き手がこのような三人称を用いるときには、大きく分けて二つの理由があります。
 ひとつは、主人公のいないシーンを書くためであり、実際に小説を書いた経験がある方ならすぐにおわかりになると思いますが、一人称よりこちらの方が書きやすいのです。
 もうひとつは、対象を客体化して書きたい場合です。
 その場合は、主人公の主観と並行して、それ以外の対象を客観的に描きたい時に便利です。
 この作品の場合は、主人公のいないシーンはないので、明らかに後者の理由で採用されたと思われます。
 招待されたニューヨーク郊外のイタリア系アメリカ人家庭(老夫婦、数年前に主人公と日本で知り合った長男(その時は新婚だったが、すでに妻とは別居していて離婚する予定)、末の娘で浮き世離れした美人の大学生)をできるだけ客観的に描きたかったために採用された三人称でしたが、実際には主人公の主観との分離がうまくいっていなかったように思えます。
 その理由のひとつに、この作品テーマであるアメリカ人(特に妻から見た場合)の結婚観について、「イタリア風」と題名に付けた、旧来の父親を中心にした大家族主義が、実は主人公(=作者)の結婚観と大差がないため、十分な客体化ができなかったためと思われます。
 この作品のわずかな情報の中でも、長男の妻がこの家族とうまくやれなかった理由は十分にわかる(それは作者のエピソードの選び方のうまさでもあります)のですが、作者自身の結婚や妻に対する考えが彼らに非常に近いために、それを十分に批判的に表現できなかったからです。
 そうであるならば、むしろ一人称で書いたほうがすっきりしたことでしょう。
 これ以降、作者のアメリカ滞在記は、すべて一人称で書かれることになります。
 その方が、あくまでも異邦人である日本人のアメリカに対する見方や考えが素直に表現できたようで、ガンビア滞在記のような秀作を生み出すことができました。
 その一方で、三人称で対象を客体化して写生する書き方も、この後静物のような作者にとってより身近な題材を描いた「静物」で文学的に結実し、その後の「夕べの雲」のような家庭小説へもつながっていきます。




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庄野潤三「五人の男」プールサイド小景・静物所収

2020-04-27 18:11:26 | 参考文献
 1958年12月号の「群像」に掲載され、1960年に中短編集「静物」に収録された短編です。
 表題通りに、ばらばらな五人の男について、並列的に描かれています。
 一番目は、作者の住まいの隣家に下宿している、いつも決まった時間(夕方)に一人で静かに祈っている五十才くらいの男です(当時は、まだ戦後の住宅難が続いていて、一軒家に間借りする人は珍しくありませんでした)。
 二番目は、バスに乗り合わせたカップルの若い男で、彼が愛媛という県名を読めなかったために、何故か二人はピンチに陥っているようです。
 三番目は作者の父の友人で、若い時はアメリカでギャングを組み伏せるような豪傑でしたが、戦後は喘息のために見る影もなく痩せてしまい、経営した会社も傾いてしまっていますが、ソ連で開発されたという冷凍保存した自分の皮膚をもとに戻すという療法に望みを抱いています。
 四番目も作者の父の友人(実際は最初の教え子)の思い出話で、父が世話した見合い結婚がうまくいかなかったこと、自転車に載っていて毒蛾が目に入って危うく失明しそうになったこと、子どもが川に流されて溺れて医者も見放した後で奇跡的に回復したことなどについてです。
 五番目は、雑誌に載っていた、アメリカの爬虫類学者が、飼っているガラガラヘビを自分の指に噛みつかせて、噛まれた時の対処方法を実際にやってみせる話です。
 正直言って、それぞれのエピソードにはほとんど脈絡がないのですが、作者が実生活においてどういったことを興味深く思うかはよく分かります。
 それを緻密に描写して並列的に置く手法は、やがて彼の文学の最高到達点と言われる「静物」で、彼本来のテーマと見事に結びついて、芸術作品として完成します。
 そして、それはその後に数々の佳作を生んだ家庭小説へ、やがては晩年に描いた老境小説へとたどり着くことになります。
 そういった意味では、この作品は貴重な実験的作品であったと言えるかも知れません。





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庄野潤三「相客」プールサイド小景・静物所収

2020-04-27 11:00:30 | テレビドラマ
 1957年10月号の「群像」に掲載され、1960年に中短編集「静物」に収められた短編です。
 戦争から、他の兄弟より遅れて帰還した次兄(児童文学者の庄野英二)について書いています。
 特に、戦争中に捕虜収容所の副官だった次兄が、戦犯として逮捕されて大阪から巣鴨の刑務所に送られるのに同行したことが中心に書かれています。
 相客とは、その時に一緒に巣鴨プリズンへ送られた飛行場の大隊長のことです。
 抑えた筆致で事実を淡々とエッセイ風に綴るのは、後の作者の作風に通ずるのですが、事態が深刻(ご存知のように、東条英機を初めとした多くの戦犯が、巣鴨プリズンで処刑されました)なだけに、作者の筆致がより抑制的で、小説としては物足りません。
 「舞踏」や「プールサイド小景」(それぞれの記事を参照してください)のような家庭の危機をストレートに描く作品から、それは通奏低音として残したまま家庭の日常を写生的に描いた「静物」のような作品に至る過渡期だったのでしょう。
 なお、庄野英二のその後は、ご存知のように児童文学者や教育者として活躍されたわけですから、裁判はうまくいったのだと思われます。
 しかし、この体験は本人にとってはもっと過酷だったようで、エッセイその他でもあまり触れられていません。
 一方、相客の運命は作品では語られていませんが、彼が飛行場を留守にしている間に起こった捕虜の処刑事件という不運な事実があっただけに、もっと厳しかったかも知れません。


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児童文学におけるユートピア小説

2020-04-26 11:35:10 | 考察
 児童文学においていい人ばかりが出てくる作品群があります。
 一種のユートピア小説なのでしょう。
 そういった作品の、せちがらい現実に対するアンチテーゼとしての意味は認めるのですが、ユートピア的な作品世界の中に現実世界を暗示するようなひねりは欲しいものです。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)
クリエーター情報なし
岩波書店
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庄野潤三「つむぎ唄」庄野潤三全集第四巻所収

2020-04-25 15:42:39 | 参考文献
 1963年に刊行されましたが、前年から「芸術生活」に一年間連載されました。
 十二編の連作短編で構成されて、それぞれ、画家、大学教師、放送会社勤務の三人の同じ町内に住む友人(作者と同年輩で、同じ年頃の子どもたちの父親でもあります)を主人公にして書き分けていますが、あまりうまくいっていません。
 解説の阪田寛夫によると、画家が作者自身、大学教師は作家の小沼丹、会社員は吉岡達夫がモデルのようで、実際に三人は同じ町内にすでいた友人で、作中に出てくるような町内会と称する飲み会をしていたそうです。
 しかし、各短編のエピソードは、作者自身の体験によるものだそうです。
 そのためか、三人の書き分けが不十分で、読んでいて誰が誰なのか区別がつかない(結局は作者自身)ことが多いです。
 他の記事にも書きましたが、どうも作者は不器用なようで、技巧にはしるとだいたい失敗するみたいです。
 以来、作者は、自分自身と家族をモデルにした小説に邁進するようになって、「夕べの雲」や「絵合わせ」のような家庭小説の傑作を世におくるようになります。
 また、同じ筆致で、児童文学と言ってもいい、「明夫と良二」や「ザボンの花」といった作品も書いています。
 晩年の作者は、「また、同じことを書いている」と読者に思われながらも、一定の固定ファン(私もその一人です)をつかんだ老境小説の境地に至ります。


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庄野潤三「浮き燈台」庄野潤三全集第四巻所収

2020-04-25 15:10:47 | 作品論
 1961年に発表された作品です。
 巻末の坂田寛夫による解説によると、その二年前に発表した「ガンビア滞在記」(ロックフェラー財団によってアメリカの田舎町ガンビアに派遣された経験を綴った作者の代表作の一つ)の成功により、日本の田舎町(志摩の安乗だそうです)の生活も描こうと取材(当時は巨大だったテープレコーダーをリュックに詰めて通ったとのことです)した作品です。
 そばに海の難所があるのでよく起こった船の難破の思い出話とイソドと呼ばれる海女の暮らしを中心に、老人たちの人情豊かな田舎町の暮らしを、取材で得られた方言を生かして描いています。
 この作品では、兄に不義理をしたために実家にも顔を出しにくくなっているという設定(作者の弟の友人の話をもとにしているそうです)を主人公に加えて、田舎町の老人たちの人情によって心の傷を癒していくという感じで書こうとしていますが、主人公の状況説明の部分が作為的であまりうまくいっていません。
 作者は、こうした主人公の危機や不安を日常生活の背後に描くことで知られるようになりました(代表作は芥川賞を受賞した「プールサイド小景」(その記事を参照してください)でしょう)が、この作品のように技巧的過ぎてうまくいかないこともあり、次第に実際にあったこと(家庭生活が中心)を素直に描く(といっても、普通の人ならば見逃すような心の機微を鮮やかにとらえた)作品が増えていくようになり、晩年は身辺雑記のような作品ばかりになっていきますが、彼の一見平穏そうに見える日常の中に潜む繊細な感情の動きをとらえた作品は、作者が2009年に88歳に亡くなるまで一定の読者(私もその一人ですが)を魅了し続けました。
 なお、この全集は、作者がまだ盛んに作品を書いていた1973年に刊行されたものです。
 当時は、こうした全集の刊行は、ちょっと知られた作家ならば当たり前のことだったのですが、今はほとんどなされていません。
 作者も、2009年に亡くなっても、新しい全集は刊行されませんでした。
 当時と現在とでは、文学は恒久財と消費財との違いがあるようです。
 それが児童文学でも同様なことは、後藤竜二について書いた記事の通りです。


庄野潤三全集〈第4巻〉 (1973年)
クリエーター情報なし
講談社
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雪合戦

2020-04-25 09:59:52 | 作品
 灰色の雲が低くたれこめた暗い空から、雪はどんどんおりてきていた。ふるのが強くなるにつれて、教室の窓から広いグランド越しに見える黒い木々が、だんだんかすんでくる。
 窓際の自分の席から、恭司はぼんやりとそれをながめていた。
 今日は、S大学付属中学の二次試験、作文と面接が行われる日だった。すでに作文は終了していて、恭司は規定文字数いっぱいに書いた自分の作文のできに満足していた。
ところが、作文に引き続いて、十時十五分からスタートするはずだった面接は、もう定刻を三十分以上も過ぎているのにまだ始まらなかった。
 雪のために電車が遅れ遅刻者が続出したので、救済策として別室でまだ作文を書いているらしい。
 作文が終わった他の受験生たちは、手持ちぶさたにして待っている。もう一度受験パンフレットをながめたり、たぶん面接の注意でも書かれているらしいノートに、目をとおしたりしている。スマホの持ち込みは禁止されているので、こんな時の暇つぶしに困っているようだ。
 玄関で待たされていた付き添いの父母たちも、今は臨時に廊下までは来ることが許されている。
「ほら、ここの所、…」
 教室の入り口で、母親に肩のほこりを払ってもらっている子がいる。
「けっ」
 隣の席で本を読んでいた黒ぶちの眼鏡の男の子が、それを見て馬鹿にしたように小さくつぶやいた。
 チラっと見ると、彼が熱心に読んでいる文庫本は、ライトノベルのようだった。
 教室の前の方のドアが開いて、ようやく先生らしい人が来た。
「どうも大変お待たせして、申し訳ありませんでした」
 先生は、恐縮した様子で話し出した。
「雪による交通機関の遅れによる遅刻者の救済処置で、今まで作文を書いてもらっていました。ようやく終わったので、予定より一時間遅れになりますが、十一時十五分より面接をスタートします。付き添いの方々は、そろそろ教室を出てください」
 先生は、教室にまで入り込んでいた父母たちにむかっていった。
「ちょっと、ひとこと申し上げたいんですが、…」
付き添いの母親の一人が、先生にむかって進み出た。
「なんでしょう?」
「ちゃんと遅れずにきた者が、なんで迷惑を受けなければならないんですか!」
 母親は、ヒステリックな声で先生にくってかかった。
「…。公共の輸送機関が、…。」
 先生は、母親の勢いに押されてしどろもどろになりながら、弁解につとめている。
 元気いっぱいの母親のうしろでは、おとなしそうな受験生が困ったような顔をして立っていた。
(すげえなあ!)
 恭司は、なかばあきれたようにその様子をながめていた。
 受験のことは本人にまかせっきりの恭司の両親は、今日はどちらもついてきていなかった。

(よしよし、あたたまっている)
 恭司は、窓際にあった旧式の暖房用スチームの上にのせておいた弁当箱を取った。
 ふたを開けると、ファーッとおいしそうな湯気がたった。いつものように、ごはんのぎっしりつまった二段重ねののり弁だ。
 おかず入れのタッパーのふたを開けると、好物のタマゴ焼きやタコウィンナ、それにプチトマトやキュウリがずらりとならんでいる。
「お弁当どうする?」
 昨日、かあさんに聞かれたとき、
「お昼までに終わるからいらないよ」
と、恭司は答えていた。
 でも、かあさんは、
「何かあったときに心強いから」
と、無理に持たせてくれた。
 恭司はかあさんに感謝しながら、
「いただきます」
と、小さな声でつぶやいた。そして、のりごはんを、口いっぱいにほおばった。
 何人かの受験生が、恭司の方を振り返っている。
 でも、やはり午前中で終わると思って弁当を持ってこなかったのか、恭司に続く者は誰もいなかった。

 恭司の受験番号は、三千四百二十一。願書受付初日には数百人以上の行列ができたというのに、友だちとのんびり数日後に行ったのでかなりうしろの方だった。その友だちも一次試験で落ちてしまい、今日は一人きりだ。
 男子ばかり三百人の募集に対して、応募者は実に三千八百二十三人。十二倍以上の狭き門も一次でかなり落とされて、今日の二次試験を受けるのは約七百人だった。
 せっかく一次試験に合格したのに、恭司は本当にこの学校に入りたいのかどうか、わからなくなっていた。もともと、はっきりした考えがあってこの学校に決めたのではない。みんなと同じようになんとなく塾へ入り、そして、みんなが受けるから受験してみようという気になっただけなのだ。
 もしかすると、この学校を選んだのも、恭司自身ではなく、恭司の偏差値だったのかもしれない。東大の合格数を誇るようないわゆる有名私立や国立の中高一貫校は、もともと無理だった。
 でも、この学校なら合格の確率は高いと、塾や模擬試験業者のコンピューターが、太鼓判を押してくれていた。
 それに引き換え、まわりの人たちは、みんな受験競争のエキスパートのように思えた。
ある受験生は、親子一丸になって「いい学校」に入ることにけんめいになっているように見える。
 別の子は、「受かったらラッキー、落ちたら落ちたでいいや」と、クールに割り切って、ゲーム感覚で受験しているようだ。
(この学校に受かっても、友だちができるだろうか?)
 そう考えると、恭司は少しゆううつな気分になっていた。

 いつのまにか、雪は小止みになっていた。そうすると、今まで雪にばかり目がいって気がつかなかった物が見えてきた。
 目の前のグランドはかなり広い。縦でさえ百メートル以上はあるし、横はさらに広く二百メートル近くあるように見える。
 サッカーのゴールがむこうに二つ、こちらにも二つある。どうやら、二面もとれるらしい。ゴールのバーの上には、もう十センチ以上も雪が積もっていた。
 グランドの右手には、さらにハンドボールやテニスの専用コートもあるようだ。
 でも、今は雪で真っ白になっていてよくわからない。
 反対側の左手には、大きな体育館らしい建物があった。
「大学までの六年間、何かのスポーツをやるには最高の学校だよ」
 この学校の高等部にいる姉の彼氏が、前にいっていた言葉がぼんやりと思い出された。大学までエスカレーター式に行かれるので、受かってしまえばもう受験勉強をする必要はなかった。

 雪はクルクル舞いながら、ゆっくりゆっくりと地上に降りてくる。
 恭司はそれをながめながら、だんだん自分の気持ちがわくわくしてくるのを感じていた。
 少し薄明るくなった灰色の空から、雪はそれこそきりがないほど次々とおりてくる。じっと見つめていると、吸い込まれそうな気さえしてきた。
 低学年のころまで、恭司は雪がふるのが楽しみだった。
 いつも翌日にはとけて、崩れてしまったぶかっこうな雪だるま。弟と交代で引っ張りあった青いプラスチック製のそり。そして、校庭や近くの公園で友だちとやった雪合戦。どれも楽しい思い出だ。
さらにいいのは、学校がお休みになることもあったことだ。突然与えられた自由に使える一日。勉強なんか忘れてずっと降り積もった雪で遊べるのだ。
 朝起きた時に雪が積もっていると、弟と二人でいつもはしゃいだものだった。そのかたわらでは、おとうさんがゆううつそうな顔をしていた。
「小学生はいいなあ」
 うらやましそうにいっていた。
 おとうさんは、雪がふったって、会社には行かなくてはならない。たんに、通勤がいつもよりずっと大変になるだけなのだ。
 でも、いつのまにか、恭司にとっても、雪の日も、ふだんと変わらない日になってしまっていた。せっかく積もった雪も家の中からながめるだけで、手に取ることもなくなった。
(クラスのみんなと雪合戦をやらなくなったのは、いったいいつごろからだっただろうか?)
 恭司は、一面の雪景色をながめながら、そんなことを考えていた。

 恭司は、席を立って窓際まで行ってみた。思わず額を押しつけたガラス窓は、氷のように冷たかった。
 と、その時、校舎から黒いかたまりが、いきなりグランドへ飛び出してきた。
(あれっ?)
 じっとよく見ると、それは二人の男の子だった。ここの学校は制服だったから、私服を着ているところを見ると、恭司と同じ受験生らしい。
 一人は百七十センチ近くありそうな背の高い子で、もう一人はずっと小柄だった。
 ノッポとチビのデコボココンビは、まっすぐにグランドの真ん中へ向かっている。
 すっかり雪がつもってあたり一面まっ白になったグランドに、二人の足跡だけがポツポツと黒くついていく。
(あっ)
 いきなりノッポが、地面の雪をつかんでチビに投げつけた。
 チビの方は、大げさなかっこうで逃げていく。
 でも、しっかり握っていなかったのか、雪玉は途中でふわーっとばらばらになって、風に流されてしまった。
 チビは充分に離れたところまで逃げると、地面にしゃがみこんで雪玉を作り出した。
 ノッポの方も、その場でせっせと今度はしっかりした雪玉を作っているようだ。
 ググッ。
 二人に興味をもった恭司は、古い教室の窓をあけてみた。
 スーッと、冷たい外気が流れこんでくる。暖房でほてった恭司のほほには、それがすごく気持ちよかった。

 しばらくすると、どちらともなく二人が立ちあがった。
「わーっ」
 二人が上げた叫び声が、遠くから聞こえてくる。いっせいにすごい勢いで雪玉をぶつけあい始めた。一所懸命作ったおかげで、二人の足もとにはかなり雪玉がたまっているようだ。
 ノッポの方は豪快なフォームで、一球一球声を出しながら雪玉を投げつけている。
 でも、スピードはあるけれど、コントロールの方がさっぱりなので、チビにはぜんぜん当たらない。
 チビの方は軽く雪玉をかわすと、正確にねらいをつけてノッポに命中させている。
 とうとう顔に一発くらって、ノッポがうずくまってしまった。チビはそれにおかまいなしに、連続して命中させている。
「うぉーっ!」
 いきなり雪玉を両手に持って、ノッポが仁王立ちになった。
「やっつけてやる」
 ノッポは大声でどなると、猛然と突進していった。
 チビは、そんなノッポに、さらに数発雪玉をあてた。
 でも、ノッポは少しもひるまずに突っ込んでいく。
「うわーっ」
 とうとうチビは、うしろを向いて逃げ出した。
「待てーっ」
 ノッポはなおも追いかけていく。
 充分近づいてから、今までのうっぷんをはらすように、二発の雪玉を思いきりチビの顔にたたきつけた。
「うはーっ」
 チビは雪玉を当てられたはずみに尻もちをつくと、口に入った雪を吐き出した。
「やったぞ、大逆転」
 ノッポは満足そうに叫ぶと、チビの横に腰をおろした。二人とも雪玉とまだふり続いている雪とで、全身雪まみれになっている。
「あははっ」
 ノッポが、さもおかしそうに大声で笑い出した。
「ははは」
 チビの方も笑っている。
 こちらで見ている恭司までが、つられて笑いそうになるくらい楽しそうだった。
「馬鹿みたい」
 ふと気がつくと、となりにさっきの黒ぶちの眼鏡の男の子が立っていた。
「寒いから閉めさせてもらうよ」
 男の子は、音をたてて窓を閉めた。すると、外からのノッポとチビの笑い声は、まったく聞こえなくなってしまった。
 男の子は、恭司が文句をいう間も与えずに、さっさと自分の席へ戻っていった。
 もう一度グランドを見ると、二人は次の合戦に備えて、またせっせと雪玉を作り始めている。窓を閉めてしまったせいか、恭司にはさっきより二人の姿が遠く感じられた。 
(また、窓を開けようか?)
 でも、さっきの子だけでなく教室にいる全員が、恭司を冷ややかにながめているように感じられてならなかった。
 とうとう恭司は、たまらなくなって教室を出ていった。

 グランドに面した昇降口から外に出ると、寒さが一段と身にしみた。恭司は少し震えながら、教室にコートもマフラーも置いてきたことを後悔していた。
 それでも、ブレザーのポケットから青い毛糸の手袋を出してはめると、二人に近づいていった。
 ノッポとチビは、グランドの真ん中で、次の戦いに備えてせっせと雪玉を作っている。しんと静まり返った景色の中で、二人の吐く息だけがホカホカと暖かそうだった。
「やあっ」
 恭司は遠慮がちに声をかけた。
 少しけげんそうな表情を浮かべて、二人は顔を上げた。
 近くで見ると、ノッポはベースみたいに角ばったあごにうっすらひげまではやしている。とても同い年には見えない。冬だというのにまっ黒に日焼けしている。
 チビの方は対称的に色白で、クルクルとよく動く目がすばしっこそうだった。
「なんだい?」
 ノッポの方が、代表するように恭司にたずねた。
「うん、ぼくも雪合戦に入れてくれないかな」
「えっ。ああ、いいよ」
 チビが、すぐにニコニコしながら答えてくれた。ノッポもつられてニッコリすると、右のほほに不似合いなえくぼができた。
 今度の雪合戦でも、チームを作らずに三人バラバラに戦うことになった。
 恭司は二人に三個ずつ雪玉を貰うと、残りを作りはじめた。
 キュッキュッキュッ。
 気温が低いせいか雪はサラサラしていて、しっかり握らないとすぐバラバラになりそうだ。
「用意はいいかあ」
 しばらくして、ノッポが声をかけた。
「OK!」
 チビがすぐに答える。
「いいよ」
 でも、そう答えた恭司の雪玉は、他の二人よりもまだちょっとだけ少なかった。
「よーし、戦闘開始!」
 ノッポはそう叫ぶと、チビの方に二、三歩駆け寄り、一つ目の雪玉を投げた。
「へへ、残念でした」
 チビはそのボールを軽くかわすと、すぐに反撃した。
「それっ」
 チビの玉をかろうじてかわしたノッポの横顔めがけて、恭司が第一球を投げた。
「うはっ!」
 顔面に正確にぶつけられたノッポは、雪を吐き出しながらうめいた。
「くそーっ」
 ノッポは雪玉を両手にわしづかみにして、こんどは恭司の方に突進してきた。

 雪は、相変わらず降り続いていた。フワフワとゆっくり落ちてくる雪のひとつひとつが、みんな形が違っているのが、恭司には不思議でたまらなかった。こんなふうにじっくりと雪をながめるのは、久しぶりのことだった。
 そうやって上を向いていると、二十分近くも走りまわってほてったほほに、いくつもの雪が落ちてとけていった。さっきグランドに出てきたときと違って、体はポカポカにあたたまっている。
 休戦中の恭司は、他の二人と並んで、校庭の真ん中に立っていた。まだハアハア荒い息づかいをしている三人の口からは、肉まんのようにあたたかそうな湯気が噴き出している。
「あれっ、みんな見てるぜ」
 ノッポがいった。いつのまにか、ほとんどの教室から、受験生たちがこちらを見ていた。中には、さっきの恭司のように、少し窓を開けている子さえいる。もしかしたら、もう面接が終わった子なのかもしれない。
 恭司は、自分がいた教室から、さっきの黒ぶちの眼鏡の男の子も見ていることに気がついた。
「おーい、一緒にやらないかあ」
 ノッポがすぐに声をかけた。
「面白いぞお」
 チビも続いた。
「降りてこいよお」
 恭司も、みんなに、特に黒ぶちの眼鏡の男の子に向かって呼びかけた。三人は両手を振りまわしながら、大声でみんなを誘い続けた。
 それに応えるかのように、次々と窓が閉められ、みんなの姿が消え始めた。
(みんな、こっちに来るんだ)
 恭司はわくわくしてきた。三人でもこんなに面白かったのに、この広々したグランドを使って、十人、いや何十人もの子どもたちで雪合戦をしたら、どんなに楽しいことだろう。想像するだけで、胸の中がカッと熱くなってくる。
 三人は、他の子の分も雪玉を作りながら、みんなを待つことにした。

 それから五分がたち、やがて十分になった。
 しかし、三人が見つめる昇降口には、誰も姿を見せなかった。
「あーあ、つまんねえなあ」
 とうとうノッポがつぶやいた。
 恭司も残念だった。
(やっぱり、受験生たちの大雪合戦なんて、無理なのかなあ)
 と、そのとき、昇降口に人影があらわれた。
 でも、それは三人が待っていた男の子ではなく、大人の男の人だった。茶色のジャケットを着て、りっぱな口ひげまではやしている。
「君たち、まだ面接中だぞ。早く校舎に入りなさい」
 どうやら、この学校の先生らしい。三人はしぶしぶ近づいていった。
「おやおや、びしょびしょじゃないか。もう面接は終わったのか」
「いえ、これからです」
 ノッポが答えた。
「受験番号は?」
「三一二四」
「三〇九六」
 チビが続く。
「三四二一です」
 恭司も答えた。
「そうか。それならまだ時間があるな。これでよくふいて。風邪をひくなよ」
 先生は、三人に一枚ずつ大きなタオルを渡してくれた。夢中になっていて今まで気づかなかったけれど、三人とも頭から靴まで、とけた雪ですっかりぬれてしまっている。恭司の毛糸の手袋もびしょびしょで、指先がジンジンと痛かった。

「おい、遅かったな」
 面接を終えて控室を出てきた時、恭司は急に声をかけられた。さっきの二人が、並んで立っている。
「おれ、台東区からきた田中智樹。一緒に帰ろうぜ」
 ノッポの方が先にいった。
「ぼくは有本雄介。世田谷の駒沢二小からだけど、君はどこから?」
 チビが続く。先に面接が終わったので、恭司のことを待っていてくれたらしい。
 三人で話しながら正面玄関まできた時、面接票の入った黒い箱を持って、さっきの口ひげの先生が横の階段から降りてきた。
 恭司が声をかけたものかどうか迷っていると、
「先生、さよならあ」
と、智樹が大声であいさつしてしまった。
「おっ、さっきの三人組か。君たちは、同じ小学校なのか」
「いいえ、違いますよ。今日、初めて会いました」
 恭司が答えると、先生は少し驚いたようだった。
「まあこれも何かの縁だから、入ったら仲よくしろよ」
「先生、それは合格してからのことですよ」
 雄介がすかさず口をはさんだ。
「それもそうだな」
「先生、うまいこと三人の成績を水増ししといてくださいよ」
 智樹が調子よくいった。
「ははは。まあ考えとくよ。それじゃあ、まだ面接やってる人もいるから、またグランドで雪合戦するなよ」
 先生は笑いながら、そばにある職員室の方へ歩き出した。
「もうやりませんよお。先生、きっついなあ」
 智樹が、先生の後ろ姿に向かってそう叫んだ。

 玄関を出ると、雪はようやくやんでいた。
 校舎から校門までは、並木道が続いている。そこも、もうすっかり雪でおおわれていた。
 受験生たちは、三々五々、雪道を帰っていく。
 踏み荒らされた真ん中を避けて、三人は両端のまだきれいに雪が積もっている所を選んで歩いていった。一歩進むごとに、三人の足跡がくっきりと残されていく。
「みんなで雪合戦できなくって残念だったね」
 雄介がポツリといった。
「せっかくだから教室で他の子も誘ったんだけど、雄介くんしか話にのってこなかったし、後からきたのも恭司くんだけだったなあ」
 智樹も残念そうだった。
「やっぱりみんな、他の子は受験のライバルだって思っているのかもしれないな。だから、そんな連中とは一緒に雪合戦なんかできないのかなあ」
 恭司がそういうと、
「うーん。今日は二次試験だったからなあ。みんなも面接のことで頭がいっぱいで、他のことをやる余裕がなかったのかもしれない」
と、雄介が首を振りながら答えた。

 校門を抜けると、学校の向かい側に小さな公園があった。
 真ん中にある小さな滑り台に、雪玉をぶつけている男の子がいる。
 バシッ。
滑り台の手すりに雪玉があたると、つもっていた雪と一緒になって、大きく四方に飛び散った。
 三人に気づいたのか、男の子がこちらに振り返った。
(えっ?)
 恭司の教室で、窓を閉めた黒ぶちの眼鏡をかけた男の子だった。
 目が合うと、少し恥ずかしそうに笑った。
 公園には、他にも五、六人の男の子たちがいる。みんな、恭司たちと同じ様に面接の帰りらしい。
「よっしゃ。また雪合戦を、いっちょやったろか」
 隣で智樹が、急に元気な声になっていった。
「OK、OK」
 雄介も、うれしそうに笑っている。
「やろう、やろう」
 恭司は二人につづいて、ザクザクと雪を踏みしめて公園に向かいながら、また気持ちがわくわくしてくるのを感じていた。


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土田耕平「時男さんのこと」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-24 18:11:21 | 作品論
 子どもの頃、この本の中で最も好きだった作品の一つです。
 ちょうどそのころの私と同じ小学三年生だった作者が、近所に住んでいた小学六年生の男の子の思い出を語っています。
 友だちになったのは、学校帰りに下駄の鼻緒が切れて困っているところを、時男さんが自分の手ぬぐいを裂いて、鼻緒を付け替えてくれた時のことでした。
 そのお礼に、作者の母親が家に招いてお菓子をあげたのをきっかけに、時男さんは作者の家へ遊びに来るようになりました。
 といっても、一人っ子だった作者は、以前から時男さんと友だちになりたかったようです。
 それ以来、作者は時男さんを兄のように慕って、いろいろな知らないことを教えてもらったり、両親に内緒で洞穴を探検したり(途中で道がわからなくって冷や汗をかいたことも、二人の結びつきを強めたかも知れません)して、仲良く過ごしました。
 そんな二人を、作者の両親は優しく見守っています。
 時男さんの母親は実の母ではなく、いつもきれいな身なりをしていますが、時男さんのことをあまりかまってくれません。
 着物のほころびなども繕ってもらえないので、作者の母がそっと直してあげています(ただし、このあたりは、作者の偏見も混じっているかも知れません)。
 時男さんの方でも、そんな自分の母親に遠慮して暮らしているようです。
 時男さんはりこうで学校の成績も良いようなのに、中学校へ行かせてもらえません(当時は、そのほうが一般的でした)。
 時男さんが遠くの町へ店奉公へ行く日、作者は停車場で遠くからその姿を見送ります。
 泣きながら帰ってきた作者に、母も涙を浮かべてくれますし、仕事から帰った父に報告すると父も心を寂しくしてくれます。
 この場面で、読んでいていつも私も泣きました。
 それは、本を読んで、主人公の気持ちに同調して泣くという甘美な涙を、生まれて初めて体験した時でした。
 五十年以上たって読み直した今回も、やはり涙をおさえることができませんでした(年取って涙腺がゆるくなっているので、子どもの頃より余計に泣いたかも知れません)。
 よそからめずらしい貰い物があると「時男さんが来た時に一緒にあげようね」と言ってくれる作者の母親も、無口で作者が何を言っても「そうかえ」としか答えない父親(作者は声の調子で父の心の中を理解できます)も、私にとっては両親の理想像でした(二十年以上後で、実際に自分も父親になりましたが、彼らに遠く及びませんでした)。
 今読み直してみると、自分の児童文学観に一番影響を与えたのは、少なくとも日本の作品では、賢治でも、未明でもなく、この作品であったことを今回気付かされました。
 作者は、大正時代から昭和初期にかけて活躍した歌人で、童話も何冊か出しているようです。
 こうした作品がすっかり忘れられて、今の(特につらい子ども時代を過ごしている)子どもたちに読まれないことが残念でたまりません。
 なお、子どもの時(そして、今回も)、ラストの以下の二行に救われた気分になったことを付け加えておきたいと思います。
「その後、時男さんはりっぱな商人になりました。わたしはいまでも手紙のやりとりをしています。」 



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カード

2020-04-24 10:03:25 | 作品
 ある日、弘樹のおとうさんが、会社の健康診断の胃のレントゲンでひっかかった。
すぐに病院で内視鏡を使った精密検査をした結果、胃ガンが発見された。
おとうさんは、会社の病気休暇を取って、すぐに手術を受けた。おかあさんもパートを休んで、病院に付き添っていた。
休みの日には、弘樹も、おとうさんを病院に見舞った。
「おとうさん、大丈夫?」
 強志がたずねると、
「大丈夫、大丈夫。でも、胃が三分の二なくなっちゃたから、今までみたいにごはんをたくさん食べられなくなっちゃったけどな。ごはん茶碗を、弘樹のと交換してもらわなくちゃな」
と、おとうさんは笑いながら言った。
「そんなあ。ぼく、あんなに大きなお茶碗じゃ、食べきれないよ」
と、弘樹が言ったので、みんなは大笑いした。
さいわい手術は成功して、おとうさんは一ヶ月後に会社に復帰できた。ただし、時々会社を休んで、病院で抗がん剤の治療を受けている。
抗がん剤の副作用で、おとうさんの髪の毛が抜けた。
「つるつる坊主になっちゃうよ」
 おとうさんは、鏡を見ながら嘆いていた。
弘樹は、自分のおこづかいで、おとうさんに帽子をプレゼントした。
「これをかぶれば、大丈夫だよ」
「どうもありがとうね」
おとうさんはその帽子を気にいって、いつもかぶるようになった。

数ヵ月後、ガンが再発しておとうさんはまた入院した。
今度は、全身に転移していて手術はできなかった。
おかあさんと弘樹は、おとうさんにつきっきりで看病した。
しかし、おとうさんは、二人に看取られながら亡くなった。
おとうさんの病室には、あの帽子が残されていた。
お葬式の時に、弘樹はお棺に帽子を納めてもらった。
弘樹の心の中にいるおとうさんは、いつも帽子をかぶってほほえんでいた。

 おとうさんが亡くなってから、八ヶ月がたった。もうおとうさんのことを思い出して涙が出てしまうようなことは、最近はあまりなくなっていた。
 おとうさんが亡くなるまで、弘樹たちはおとうさんの会社のそばの家で暮らしていた。しばらくの間はそのままそこに住んでいたが、ローンなどのためにやがてはそこを売って出なければならなかった。
 おかあさんは結婚してからずっと専業主婦をしていたが、これからの生活を考えるといつまでもそのままではいられなかった。おかあさんは、結婚前に働いていた小さな出版社でまた雑誌の編集をすることになった。その会社は都内にあったので、先週のゴールデンウィークの間にこちらに引っ越してきた。
 前に住んでいた藤沢の家は、海のそばにあった。近くの海浜公園の中を歩いていくと、すぐに広々とした浜辺に出られた。
 それに引き換え、今度の家は、東京のはずれにある足立区の工場が建ち並んだゴミゴミしたところにあった。団地の十階にある弘樹の家からは大きく蛇行している川が見えたが、それも高いコンクリートの塀で囲われていた。

「今日は、みんなに新しい友だちを紹介します」
 三谷先生はそういうと、入り口の近くで緊張して立っていた弘樹に合図をした。弘樹は教壇の上に進み出ると、ピョコンとひとつ頭を下げてから話し出した。
「山本弘樹です。神奈川県の藤沢市から引っ越してきました」
 四年二組の全員の目が、興味しんしんって感じでこっちを見ている。
「えーっと、……」
 それ以上、何をいったらいいのか思い浮かばない。
「……」
「じゃあ、みんなの方から、山本くんに質問してみたら?」
 立ち往生してしまったヒロキに、三谷先生が助け舟を出してくれた。
「誕生日は?」
 窓際の席に座っていたポニーテールの女の子が、すぐにたずねた。
「五月十一日です」
 弘樹が答えると、その女の子はニッコリしていった。
「へー。じゃあ、来週じゃない」
(そうだ。引越しで忙しくて忘れていたけれど、もうすぐ十才になるんだ)
 それをきっかけに、他の子からも次々と質問が出た。
「前の学校は?」
「プロ野球はどこのファンですか?」
 そこまでは、なんとか答えられた。
「いちばん好きな物は、何ですか?」
 まっ先に、おじいちゃんの家にあずけてきた、ゴールデンリトリバーのリュウのことがうかんだ。五才の誕生日に、おとうさんがもらってきてくれてからずっと一緒だった。
 次に、前の学校の友だち、祐二、啓太、孝志たちの顔がうかんだ。
 でも、そんなことはとてもいえない。
「……。バ、バナナです」
 やっとのことで答えると、うしろの方の何人かがクスクスわらった。
「何人家族ですか?」
「二人、おかあさんと二人家族です」
「あれっ、おとうさんは?」
「……」
「あんまりプライベートなことは、聞くんじゃないぞ」
 言葉につまったヒロキを見て、三谷先生があわてたようにいった。 

 その晩、弘樹は一人でおかあさんの帰りを待っていた。留守電に入っていた伝言によると今日も帰りは八時過ぎになるとのことだった。
 弘樹は勉強机の上に、一枚のカードを置いた。鉄腕アトムのカードだった。これは、ヒーローカードと呼ばれていた物だ。おとうさんの話では、おじいちゃんが子どものころに集めていたお菓子のおまけだったらしい。
 それをおとうさんが小学生の時にもらって、おじいちゃんと一緒に遊んだんだそうだ。
 他には、鉄人28号、狼少年ケン、ジャングル大帝、ビッグX、遊星少年パピイ、宇宙エース、伊賀の影丸、少年ジェット、月光仮面、エイトマン、サイボーグ009など、たくさんの種類があった。名前だけはなんとか知っているものもあったけれど、ほとんどがぜんぜん聞いたことがないものばかりだった。
 しばらくそのカードを見つめていると、中からゆっくりと鉄腕アトムが立ちあがってきた。
「やあ、弘樹」
 アトムは、弘樹に向かって笑顔を見せた。
「やあ、アトム」
 弘樹もニッコリして、立ち上がった。アトムは、ポンと勢いをつけて机から飛び降りた。
「じゃあ、行こうか」
 アトムは窓を大きく開け放った。眼下の川は、今日も黒々と大きく蛇行している。
 ゴォーッ!
 弘樹を背中に乗せると、アトムはジェット噴射とともにいきおいよく窓から飛び出していった。

 次の日の理科の時間に、弘樹は初めて同じ三班の人と一緒にすわった。
 三班の人数は、弘樹を入れてぜんぶで五人。他の四人が四人とも、興味深そうにこっちを見ているので、弘樹はまた昨日のようにドキドキしてしまった。
 でも、昨日真っ先に質問した、背の高い元気のよさそうなポニーテールの女の子が話しかけてくれた。
「私は安西真理奈。三班の班長をやっています。弘樹くん、三班にようこそ。今まで他の班より少ない四人だけだったから、人数が増えてよかったと思っています。ほら、他の子も自己紹介しなさいよ」
 真理奈は、最後は他の子たちにむかっていった。
「おれは遠藤康太。スポーツは、野球でもサッカーでもなんでも得意だよ。今度休み時間にドッジボールをやらないか」
 そういった康太は、髪の毛を女の子みたいに長く伸ばしているけれど、身体はがっちりしていてすばしっこそうだった。
「あたしは広川由里。クラスでは飼育係をやっているの。教室にはグッピーとミドリガメしかいないけれど、校庭の小屋にはチャボとウサギもいるよ」
由里は、クルクルの天パーをショートカットにしている小柄な女の子だ。
「ぼくの名前は内田純一。好きなことは、パソコン、インターネット、オンラインゲーム、アイポッド、アマチュア無線、電気工作、うーんと、まあ、そんなところかな」
最後にそういったのは、分厚いレンズの黒ぶちめがねをかけたまるまるとよく太った大きな子だった
 
 その日の午後、昼休みの後だった。
「弘樹くん、まだここにいたの? 次の時間はパソコンルームだよ」
 教室の前の入り口がガラガラとあいて、班長の真理奈が顔をのぞかせた。
「えっ!」
 弘樹はあわてて椅子から立ちあがった。次の授業がパソコンだということは聞いていたけれど、どこでやるのかぜんぜん知らなかった。そういえば、ぼんやりしているうちにみんながいなくなっちゃったけれど。
「急いで、急いで、もう始まっちゃってるよ」
 早足で歩いていく真理奈の後を、弘樹はけんめいに追いかけた。
 パソコンルームは三階の一番はしに合った。
(そういえば、昨日、三谷先生が校内見学で連れてきてくれたっけ)
 真理奈と弘樹が入っていくと、もう班ごとに分かれてパソコンを動かしている。
 でも、三班だけは弘樹を待っていたのか、まだ電源を入れていなかった。
「もう、誰かさんのおかげで遅れちゃったよ」
 純一が少しイライラした声を出しながら、待ちかねたように電源ボタンを押した。他の子たちも、すぐにパソコンに夢中になっていく。
 カチャカチャとにぎやかな音を立てているパソコンルームの中で、弘樹だけがポツンと取り残されていた。

 その晩も、弘樹はおかあさんの帰りを待っていた。
 一日一時間だけの約束のテレビゲームもやりおわった。おかあさんが用意しておいてくれた晩ごはんも、あたためて食べた。もう何もやることは、何もなかった。
 弘樹は勉強机の上に、今日は別のカードを置いた。
 伊賀の影丸。黒い覆面をした忍者マンガのカードだ。
 弘樹は、しばらくそのカードを見つめていた。
 やがて、中からゆっくりと影丸が立ちあがってきた。
 黒覆面に黒い忍者の着物を着ている。
「やあ、弘樹」
 影丸も、弘樹に笑顔を見せた。
「こんばんは、影丸さん」
 影丸は大人なので、弘樹はていねいに挨拶した。
「じゃあ、行こうか」
 影丸はそういうと、忍術の呪文を唱えた。
「忍法木の葉隠れ」
グルグルとつむじ風がおこると、影丸と弘樹は部屋から姿を消した。

 その後も、毎晩、ヒーローたちが一人ずつやってきてくれた。
 机の上に置いたヒーローカード。
弘樹がじっと見つめていると、やがて、その中から、ヒーローたちが立ち上がってくる。
弘樹はヒーローたちといっしょになって、それぞれの冒険の世界へ旅たっていく。
 鉄人28号は、敵の巨大ロボットと激しく戦っていた。
「頑張れ鉄人!」
 弘樹は、鉄人28号の操縦桿を必死に操作した。
 ジャングル大帝のライオンのレオと一緒に、アフリカの大草原を歩んでいく。後には、キリン、カモシカ、ゾウ、サイ、マントヒヒなど、いろいろな動物たちが仲良く続いてくる
 エイトマンと一緒にならんで音速でかけてゆく。新幹線もあっという間に追い越してしまう。なぜか新幹線は古いタイプのものだったけれど。
他のヒーローたちとも、ジャングルで悪漢と戦ったり、宇宙で怪しい円盤を追いかけたり、敵の秘密基地を爆破したりしていた。
 弘樹は、それぞれのヒーローたちとの冒険に、いつも夢中になっていた。
 そして、ふと気がつくと、ヒーローたちと一緒に、おとうさんもすぐそばにいてくれるような気がしてくるのだった。

 五月十一日、弘樹は十才になった。
 でも、おかあさんはまだベッドの中にいる弘樹に、いつものように
「いってきまーす」
としかいわずに、あわただしく仕事へ出かけてしまった。
 テーブルの上には、いつものようにハムエッグと野菜がのったお皿があるだけで、特にメモも置かれていなかった。
(あーあ、ぼくの誕生日なんか、忘れちゃったのかなあ)
 オーブントースターにパンを入れながら、なんだかひとりぼっちで取り残されてしまったような気がしていた。
 去年の九才の誕生日。おとうさんも一時退院して、一緒にお祝いしてくれた。
 その日は、おかあさんが腕によりをかけて作った料理やケーキが、テーブルいっぱいにならんでいた。
 おとうさんは、すっかりやせて顔色も白くなってしまっていた。いつも休みの日には、おかあさんたちとテニスをやってまっ黒に日焼けしていたのに、まるで違う人のようだった。  
 せっかくのごちそうも、おとうさんはほとんど食べられなかったけれど、ずっとニコニコ笑っていた。
 そして、おとうさんは、
「よくなったら、また遊園地へ行こうな」
って、弘樹に約束してくれた。

(ない!)
 弘樹は、けんめいにポケットの中をさぐっていた。そこにヒーローカードが入っていたはずなのだ。
(どこに落としてしまったのだろう?)
 二時間目の後の休み時間には、たしかにポケットにあった。
 弘樹はうつむいてカードをさがしながら、心あたりの場所を歩きまわっていた。
 ひとけのない廊下を、ヒーローカードをさがしながら歩いていると、校庭からはみんなが遊んでいるにぎやかな声が聞こえてくる。弘樹は、まだ一度もその中に加わったことがなかった。
 念のため、校庭に出て行ったとき、
「おーい、弘樹くーん。一緒にやらないか」
 遠くから叫んでいる子がいる。女の子のように長い髪の毛。康太だ。手にはドッジボールを持っている。
「うーん、今、ちょっと探し物してるから」
 弘樹がそう答えると、
「じゃあ、見つかってからでいいから、一緒にやろうぜ」
といって、康太はまた仲間のほうへ戻っていった。
 弘樹は、また校舎の中を探し回った。
三階のコンピュータールームに行ったとき、純一に出会った。
「どうしたんだよ。浮かない顔をして」
 純一がたずねた。
「うん、カードをおとしちゃったんだ」
「えっ、カードって、キャッシュカードかい、それともスイカか何か」
 純一が心配そうに聞いてくれた。
「うん、まあ」
 ヒーローカードだというと馬鹿にされそうなので、弘樹はあいまいにごまかした。
 弘樹は、その後も学校中をさがしまわっていた。
 でも、やっぱり見つからない。
弘樹があきらめかけて、自分の教室に戻ってきたときだった。
「弘樹くん、さがしてるのこれじゃない?」
 ふりかえると、由里が立っていた。クルクルの天然パーマの子だ。ヒーローカードをこちらに差し出している。
 弘樹がコクンとうなずくと、すぐにカードを手渡してくれた。
「ありがとう」
 由里はニコニコしながら、
「校庭の手洗い場に落ちてたんだよ」
「そうだったのか」
 もしかしたら、手を洗ってハンカチを出したときに落としたのかもしれない。
「それ、あたし、知ってる。鉄腕アトムっていうんでしょ。うちのおとうさん、おじいちゃんにもらって、そのマンガを持ってるんだよ。弘樹くんって、そういう古いカード集めてるんだ」
「うん」
 弘樹は小さな声で答えると、かすかに笑みをうかべた。

 弘樹がヒーローカードをポケットに入れて学校にくるようになったのは、今週になってからだ。毎日、違うカードを一枚だけ持ってきていた。
 時々、ポケットに手を入れてカードにさわってみる。それだけで、特に外に取り出さなくてもヒーローたちは姿を現わしてくれた。
 巨大ロボットの鉄人28号が、校舎の向こうをゆっくりと歩いていく。
校庭の上空を、すごいスピードで鉄腕アトムが飛んでいった。
砂場には、伊賀の影丸の忍法「木の葉隠れ」のつむじ風がおこった。
ジャングル大帝のライオンのレオが、動物たちの群れを引き連れて校庭を横切った。
……、……。
弘樹は、そんなヒーローたちの姿を、教室の窓からじっと見つめていた
でも、ヒーローたちは弘樹以外には見えないようだった。みんなはまるでそんなことにはおかまいなしに、いつもどおりに授業を受けたり遊んだりしている。もしかすると、ヒーローたちは、弘樹だけの秘密の存在だったのかもしれない。
 弘樹は、ポケットにヒーローカードがあるだけで、なんだか気分が落ち着いていた。
 そう、ポケットの中にあるのはカードでなく、本物のヒーローのような気がしたのだ。そして、おとうさんも一緒にそこにいるように思えた。

 その日の放課後、いつものように弘樹は一人で家へ帰ろうとしていた。
 校舎の玄関を出て、校門に向かったときだった。
「弘樹くん、ちょっと待って」
 うしろから声をかけられた。
 弘樹が振り向くと、真理奈がむこうから走ってきた。
「これ、三班のみんなから」
 真理奈はそういって、小さな紙の手提げ袋を弘樹に押しつけた。弘樹が受け取ってみると、中身は軽そうなものだった。
 あわてて弘樹が紙袋をあけようとすると、
「ちょっと待って。家に帰ってからあけてって、みんなにいわれてるんだ」
 そういうと、真理奈はさっさともどっていってしまった。
 弘樹がそちらを見ると、
「おーい」
康太と由里と純一が玄関のところから、こっちに向かって手を振っている。
(中身はなんだろう?)
 弘樹はみんなに聞いてみたかったけれど、三人は真理奈と一緒に校舎へ入っていってしまった。
 弘樹は、手提げ袋を持ちながら家へ帰っていった。

 家に帰ると、留守電のランプがついていた。
(なんだろう?)
ボタンを押すと、すぐにおかあさんの声が流れてきた。
「ヒロちゃん、ごめんね。引越しのゴタゴタでうっかりしちゃって。十才の誕生日、おめでとう。ケーキとプレゼントを買って、早く帰るからね」
 なんだか泣き出しそうな声に聞こえた。
弘樹は、自分の部屋に戻ると、急いで三班の人たちからもらった紙袋をあけてみた。
中には、二つに折りたたまれたカードが入っていた。
『誕生日、おめでとう。山本弘樹くんへ』
 何色ものサインペンで、表に書かれている。
 開いてみると、まん中にはにかんだような男の子が描かれていた。どうやら弘樹の似顔絵のようだ。そのまわりは、寄せ書きみたいになっていた。
 一、二、三、全部で四人。三班全員の名前があった。
『ハーイ、弘樹くんって、なんだか呼びにくいね。かわりに、ヒロくんっていうのはどうかしら。じゃあ、バイバーイ。安西真理奈』
 名前の下に、ピンクのプリクラのシールがはってある。真理奈は、ウィンクしながらバッチリとポーズをきめていた。
『山本くんもカードを集めているみたいだけど、ぼくもプロ野球やJリーグのカードを集めています 遠藤康太』
 少し古びたジャイアンツの坂本選手のカードが、テープで貼り付けてあった。
『弘樹くんは、動物が好きですか? 私は猫が好きなんだけど、団地ではペットが飼えません。でも、ぬいぐるみのミーちゃんがいるから、今度見せてあげるね。 広川由里』
 オレンジのサインペンで、かわいいネコのイラストが書いてある。
『この広い宇宙の銀河系の太陽系の地球の北半球のアジアの日本の本州の関東地方の東京都の足立区の千住緑町の千住第七小学校の五年二組のたった五人しかいない三班で、いっしょになるなんて本当に奇跡的なことです。  内田純一』
 名前の横には、なんだかよくわからない秘密のサインが書いてある。

 その晩、約束どおりにおかあさんは早く帰ってきてくれた。
弘樹はおかあさんと十才の誕生日を祝った。
 ケーキには、
(ひろちゃん、十才。お誕生日おめでとう)
と、チョコレートで書かれていた。
 プレゼントは、前からほしかった携帯ゲームだった。

部屋に戻ると、弘樹はいつものように机の上にヒーローカードをおいてみた。
 鉄腕アトム。
 でも、どういうわけか、いつまでたってもアトムは、カードの中から立ちあがってこなかった。ジェット噴射の音も聞こえない。
 伊賀の影丸。
これもだめだ。やっぱり影丸も、カードの中から立ち上がってこない。影丸得意の忍法「木の葉隠れ」のつむじ風がおこらない。
鉄人28号。8マン。狼少年ケン。月光仮面。ジャングル大帝。……、……。
弘樹は、次々とカードを出してみた。
 でも、ヒーローはだれも現れなかった。
 机の上にならべられたたくさんのヒーローカード。
 なんだか、もう役目を終えたようにひっそりとしている。
弘樹は、その上にもう一枚、みんなからもらった誕生カードをひろげてみた。
(あっ!)
 その中から、三班のメンバー四人、安西真理奈、遠藤康太、広川由里、内田純一が、ゆっくりと立ち上がってきた。まるで、弘樹の誕生日を祝うように。





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庄野英二「愛のくさり」

2020-04-23 17:45:15 | 参考文献
 1972年に発行されたエッセイ集です。
 幼少時代から戦争体験も含めて現在に至るまで、様々な時代の話が出てきますが、一貫して著者の動植物や市井の人々への愛情と繊細な感性にあふれています。
 著者は、1964年に「星の牧場」で日本児童文学者協会賞などのいくつかの文学賞を受賞した児童文学者です。
 しかし、個人的にはエッセイの名手(「ロッテルダムの灯」でエッセイストクラブ賞を受賞)や芥川賞作家の庄野潤三(学生時代から作品を愛読していました)の兄としてのイメージが強くて、エッセイは学生時代から愛読していましたが、児童文学作品の方は「星の牧場」の厭戦感(反戦というほどの積極性は感じませんでした)と詩情には惹かれたものの、他の作品はほとんど記憶に残っていません。
 著者自身のエッセイや庄野潤三の作品から得たイメージでは、著者のほうが弟よりも芸術家(画家でもあります)としての資質があったのではなかったのかと思われます。
 逆に、作家の弟のほうが、実は実務家としての才能はあったのではないかと推察しています。
 弟のようなプロの作家になることを断念して教師になる道を選んだのは、帝塚山学院の創始者である父や長兄を早く亡くしたからではないかと推測されます。
 帝塚山学院の教師(初めは大学はありませんでした)や大学教授、最後には学長まで歴任する傍ら、文学的には佐藤春夫や坪田譲治に師事して、特に児童文学的には坪田譲治門下の「びわの実学校」の同人として長年活躍されました。
 そういった意味では、学生時代からガチガチの現代児童文学(定義などは関連する記事を参照してください)論者だった私からは、「童話作家」(蔑称として使っていました。すみません)と軽んじてみているところがあったことは否定できません。
 現代児童文学が終焉した現在、児童文学をもっと大きく捉えなおそうとしているので、評価を改めなければならない作家の一人かも知れません。


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なんでも屋でござーい

2020-04-23 11:52:10 | 作品
 大通りから一本入った裏道に、その事務所はありました。「ヤマネコよろず引き受け事務所」なんて、たいそうな名前がついています。
 でも、表のくたびれかかった看板には、
(なんでも屋でござーい。どんな仕事でも引き受けます)
って、書いてありました。
 事務所の中では、今日もヤマネコ所長がひまをもてあましています。所長といっても、この事務所はヤマネコひとりでやってるんですけどね。
 ヤマネコは、じまんの口ひげを左上から順番に数えてみました。
 左が五本で、右が四本。ぜんぶで九本です。
 今度は、右下から数えてみました。右が四本で、左が五本。やっぱり九本です。
 右と左で数が合わないのは、右の上から二番目がぬけているからです。そのかわりに小さな古傷がありました。
(こんなにひまだと、ただでさえ丸い背中が、ますます猫背になっちゃうよ)
 ヤマネコは大きくひとつのびをすると、白髪まじりの鼻毛を一本ひきぬきました。

 チリリリン。
 ドアに取り付けたベルをならして、ようやくお客さんがはいってきました。アナグマのおくさんです。
「いらっしゃいませ。どんなご用で?」
 ヤマネコが、もみ手をしながらたずねました。
 まだ11月になったばかりだというのに、アナグマのおくさんは、高そうなフカフカの毛皮をまとっています。そういえば、アナグマのだんなは、土建会社の社長です。猫魔山に造成中のアニマニュータウンの仕事で大もうけしていると、もっぱらのうわさでした。
「ご存知のように、タクの主人は大忙しザアマスでしょ」
 アナグマのおくさんは、とがった鼻を上に向けて、ツンツンしながら話し出しました。
「はいはい、よく存じ上げています」
 ヤマネコは、ニヤニヤしながら聞いています。
「それで、今度の日曜日、アニマ小学校の運動会なのに、出張で来られないんザアマス」
「はあ?」
「アタクシはアタクシでPTAの仕事で忙しいザアマスでしょ。ほら、なにしろ副会長をおしつけられてしまったザアマスから。オホホホ」
「そうでしょうねえ。なにしろ奥様は人気がおありだから」
 ヤマネコは、ますますもみ手をしながら調子を合わせました。
「それで、うちのボクちゃんの大活躍を、ビデオにとっていただけないザアマスかしら?」
(ボクちゃん、ボクちゃんと。はて?)
 ヤマネコは、ようやくにくたらしいので有名な、アナグマのハナタレ小僧を思い出しました。
 でも、もちろん、そんなことはおくびにもだしません。
「ああ、あのかわいらしいお坊ちゃんのことですね。それはお困りのことでしょう」
 ヤマネコは、お世辞笑いをうかべています。
「えーと、今度の日曜日でしたね。スケジュール、スケジュールと。何しろ、大忙しなもんですから」
 ヤマネコは、スケジュール表を調べるふりをしますが、本当は、見る必要なんかありません。だって、中はまっしろ。何の予定もありませんから。
「奥様、ついてますねえ。その日だけが空いていましたよ」
「まあ、よかった。それで、おいくらかしら?」
 アナグマは、ずるがしこそうな目つきでヤマネコもにらみました。
「特別お安くして、1時間ごとに300ドングリ(1ドングリは約10円)でいかがでしょう」
「まあ、ちょっと、お高くありません? ディジタルビデオカメラとディスクはこっちで用意するザアマスから、もっとお安くならないかしら。そうねえ、100ドングリぐらいでどう?」
 アナグマのおくさんの目が、ぬけ目なく光りました。
「そ、そんなあ!」
 ヤマネコは情けない声を出しました。
 でも、お金のことにかけては、アナグマのおくさんの方が、一枚も二枚も上手です。けっきょく、1時間100ドングリにねぎられてしまいました。

「まったく、大金持ちのくせに、ケチンボなんだから」
 アナグマのおくさんが帰ってからも、ヤマネコはいつまでもブツブツと文句をいっていました。
「あーあ、ぜんぜん楽で、がっぽりもうかるような仕事がこないかなあ」
 どこかの王国のお姫様のボディーガードなんかいいなあ。その王女様が絶世の美女だったりして。そして、二人は恋に落ちて、……。
 昔の海賊の宝捜しとかもいいなあ。どこかの宝島の地図をもとに、大航海して。金の延べ棒やダイヤモンドの指輪、真珠のネックレスなんかも、どっちゃり見つかったりして、……。
「あーあ、なんでもいいから、いっぺんに百万ドングリぐらい、ドカンともうかる仕事がこないかなあ」
 ヤマネコは、ひげをひっぱりながら、そうつぶやきました。
 こう見えても、ヤマネコは、何をやらせても仕事の腕はいいのです。探偵でも、ボディーガードでも、なんでもこなせます。
 でも、金もうけとなると、からきしへたくそでした。
 最近やった仕事も、ろくなのはありません。
 アニマ幼稚園の雑草取り、アニマ祭りでの落し物捜し、アニマ商店街の宣伝ポスター貼り、……。
 せいぜい数百ドングリの半端仕事ばかりです。しかも、そんな仕事でさえ、しょっちゅう代金をねぎられたり、取りはぐれたりしています。

 ボーン、ボーン、……。
 大きな古い柱時計が、正午を知らせました。
 ヤマネコは事務所の入り口の鍵をかけると、近くの店まで食事に出かけました。
もっとも、別に鍵なんかかけなくっても、取られるものなんて何にもないんですけどね。
 大もうけの空想をしたおかげで、ヤマネコはすっかりいい気分になっていました。 さっきまで、アナグマの奥さんの文句をいっていたことなど、どこふく風です。
「フンフン、フフン、……」
 鼻歌まじりで、お店のドアをいきおいよくあけました。
「ママ、いつものやつね」
「あら、ヤマちゃん、ご機嫌ね」
 黒ネコのマダムが、カウンターの中からこたえました。
 ここ、歌謡スナック「ビロード亭」では、昼間はランチサービスもやっています。独身で一人暮らしのヤマネコは、毎日ランチを食べに来ている常連でした。
 本当のことをいうと、ランチだけでなく別のお目当てもありました。それは、もちろん黒ネコのマダム。実は、ヤマネコはマダムに片想いをしていたのです。
 でも、変なところで純情な所があるヤマネコは、まだ気持ちを打ち明けていません。
「はい、本日の日替わり定食。カツオブシは、たっぷりサービスしておいたわよ」
 黒ネコのマダムは、メザシのネコマンマ定食をヤマネコの前に置きました。

 日曜日になりました。いよいよアニマ小学校の大運動会の日です。
 アニマタウンの中ほどにあるアニマ小学校に、朝早くから家族たちの場所取り合戦で混み合っていました。
 ところが、開始5分前になっても、ヤマネコの姿が見えません。どうやら、寝坊でもしてしまったようです。
「まあ、あのグズヤマネコったら、どうしたんザアマスでしょう」
 いつものように毛皮やアクセサリで着飾ったアナグマの奥さんは、PTA席でイライラしています。
 そのとき、やっと校門からヤマネコがかけこんできました。
 9時ピッタリ、開始時間です。
 よっぽど急いできたのか、じまんの口ひげをとかすひまもなかったようです。クシャンクシャンのビロローンになっています。
「あーっ、よかった。なんとか間に合った」
「よかったじゃありませんザアマス。何をグズグズしているんザアマス。はい、ディジタルビデオカメラとディスク。さっさと撮影を始めるんザアマス」
 アナグマの奥さんにどやしつけられながら、ヤマネコはあわてて撮影エリアに急ぎました。
 ヤギ校長のメエーメエーと長ったらしい挨拶も、全員での準備体操も無事に終わりました。
 ヤマネコは大勢の中からアナグマのボクちゃんを見つけだすと、そちらにビデオカメラを向けました。
 ボクちゃんは、挨拶にすっかりあきてしまっているらしく、ずっとはなくそをほじくっていました。
 運動会のプログラムは、順調に進んでいきます。いよいよボクちゃんの出場する徒競走です。
 スタートラインに選手がならびました。
「ヨーイ」
 ドン。
 ピストルが鳴ると同時に、選手がいっせいにスタート。
 と、いいたいところですが、ピストルに驚いたボクちゃんは、スタートラインで腰を抜かしていました。

 その後も、ボクちゃんは、まるでいいところがありません。
 大玉ころがしでは、ころんで玉の下敷きになってペッタンコ。
 フォークダンスでは、ボクちゃんだけ、みんなからワンテンポ遅れて踊っていました。
 そんなボクちゃんの失敗の数々を、ヤマネコはバッチリとカメラにおさめました。
 でも、撮影しながら、ヤマネコはだんだん不安になってきました。
(こんな失敗ばかりを映したビデオに、ちゃんとお金を払ってくれるかしら?)
 たくさんのプログラムもすべて無事に行われ、運動会がめでたく終了しました。
 ヤマネコはPTA席のアナグマのおくさんの所へ、ビクビクしながら行きました。
 ところが、どうしたことでしょう。アナグマのおくさんは、上機嫌でニコニコしているのです。
「あーら、ヤマネコさん。どうもごくろうさま。うちのボクちゃんの大活躍をきちんととってくれたザアマスか」
(はて、大活躍?)
 本当に、親の欲目というのは恐ろしいものでございます。あんなボクちゃんでも、きっと大活躍に見えたのでしょう。
 でも、ヤマネコはそんなことはおくびにも出さずに、
「はいはい、それはもうバッチリ」
と、にこやかな笑顔を浮かべながら、約束の6時間分、600ドングリ(約六千円)を受け取りました。

 その翌日の朝でした。
 チリリリン。
 ドアのベルが鳴りました。
 どうしたことでしょう。こんなに朝早くからお客さんが来るなんて、めったにないことです。
 でも、お客の顔を見て、ヤマネコはギクリとしました。それは、ドアを開けて入ってきたのがタヌキだったからです。
 高利貸しのタヌキは、町の顔役です。
(腹黒い)
って、もっぱらの評判でした。
「これは、これは、タヌキさん。どんなごようですか?」
 ヤマネコはとっさに出かかった爪を引っ込めると、いつものようにもみ手をしながらいいました。たとえ評判が悪くても、お客はお客です。それに「ヤマネコよろず引き受け事務所」は、そんな選り好みをしていられるような経営状態じゃないのです。
「今日はおまえさんに、もうけ話を持ってきてやった」
 タヌキは、いかにもえらそうに太鼓腹を突き出しながらいいました。
「それは、それは、どのようなお話ですか?」
「簡単な仕事だ。明日の夜中の12時に、アニマ港の第三埠頭で、この男からある品物を受け取ってきて欲しいのだ」
 タヌキは、一枚の写真を机の上に置きました。写っているのは、外人キツネです。ベージュ色のトレンチコートを着て、黒のサングラスをかけていて、いかにもうさんくさそうです。
「それで、その品物というのはなんですか?」
「いや、それは秘密だから、聞かないでくれ。その代わり」
 そういうと、手の切れそうな新品の千ドングリ札を10枚、机の上に並べました。
「前金で、一万ドングリ(約十万円)。無事に品物を届けてくれたら、さらに十万ドングリ(約百万円)でどうだ」
 ヤマネコはよだれをたらさんばかりの様子でお金を受け取ると、タヌキの依頼を引き受けてしまいました。

「マダム、いよいよ俺にも運が向いてきたよ」
 ヤマネコは、カウンターの中の黒ネコのマダムにいいました。その日も、ヤマネコは歌謡スナック「ビロード亭」に、ランチを食べに来ていました。
「あら、ヤマちゃん、ここのところ、すっかりご機嫌ね」
 黒ネコのマダムが、今日の日替わり定食、「豚肉のマタタビソースランチ」をカウンターに置きました。
「今度は、本物のもうけ話さ」
 ヤマネコがニヤニヤしながらいいました。
「へー、いったいどんないい話があったの?」
 ヤマネコがマタタビのにおいがプンプンする豚肉にかぶりついた時、マダムがたずねました。
「それは、ヒ・ミ・ツ。でも、タヌキさんは前金で1万ドングリもくれたし、成功報酬は10万ドングリももらえるんだ」
 前金は、たまっていた家賃の支払いなんかに使わなくてはなりません。
 でも、成功報酬のお金が入ったら、黒ネコのマダムに何か素敵なプレゼントを贈るつもりでした。そして、そのとき自分の気持ちを……。
「ヤマちゃん、だいじょうぶ? 危ない仕事ではないでしょうね」
 マダムが、心配そうに小首をかしげながらいいました。

 翌日の真夜中、アニマ港の第三埠頭。そこにヤマネコの姿がありました。
 もうすぐ約束の12時。
 コツコツコツ。
 埠頭の先端の方から足音が響いてきました。
 目を凝らしてみると、ひとりの男が近づいてきます。
 目深にかぶったソフト帽。サングラスにベージュのトレンチコート。
 間違いありません。写真の外人キツネです。
「ヤマネコか?」
 かすかに外国なまりがあります。
「そうだ」
 そう答えると、キツネはポケットから小さな箱を取り出しました。
 ヤマネコは、受け取った「品物」が意外に小さいのでびっくりしました。マダムが心配していたような麻薬や武器なんかではなさそうです。
(ダイヤモンド? それとも密輸品の隠し場所の鍵とか地図なんかでは?)
 ヤマネコは、いろいろと想像してしまいました。
 と、そのときです。
「おっと、そいつはこっちでいただこう」
 いきなりうしろから声がかかりました。
 振り返ると、いつのまにかウルフ団の一味が、十人近く忍び寄っていました。タヌキと対抗するもう一人の顔役、オオカミの手下たちです。みんな、手に、手に、ナイフやこん棒を持っています。
 先頭のジャッカルが、二人にピストルを突きつけました。
「だましたな」
 外人キツネが怒鳴りました。
「いや、俺じゃない。でも、どうやら勝ち目はなさそうだな」
 ヤマネコはそういうと、ジャッカルにむかって小箱を差し出しました。
「ちくしょう、そうはさせるか」
 いきなり外人キツネが、ヤマネコの影にまわりこみながら銃を抜きました。
 ガガーン。
 でも、一瞬早く、ジャッカルの銃が火を吹きました。外人キツネは、パッタリと倒れました。
 ジャッカルの銃は、今度はヤマネコに向けられました。その瞬間、ヤマネコの目が、キラリキラーリと光りました。
 ヤマネコは持っていた箱を、すばやくジャッカルに投げつけました。
 ガガーン。
 手元を狂わせたジャッカルの弾丸は、ヤマネコのほほをかすめただけでした。
 でも、左の上から二番目のひげが吹き飛ばされました。これで、左右四本ずつ、きれいにそろったことになります。
 ヤマネコはすばやく体をしずめると、ジャッカルに体当たり。ジャッカルの手からふっとんだ拳銃は、埠頭をすべっていって、そのまま海にドボン。
 しかし、ナイフやこん棒を手にしたウルフ団の手下たちに、取り囲まれてしまいました。
 それをグルリと見まわしたヤマネコの口からのぞくキバは、ギラリギラーリ。両手の爪もズラリズラーリと飛び出して、すっかり臨戦体制です
「いくぞお」
 まわりから襲い掛かるウルフ団に、ヤマネコは一人で立ち向かいます。
 右からくるナイフはさっとかわして、鋭いパンチ。左からくるこん棒は逆に奪い取って、激しい一撃。
 後はもう、ちぎってはなげ、ちぎってはなげ。すっかりヤマネコの独り舞台です。
 でも、相手は大勢です。なかなか勝負はつきません。

 ピリピリピリー。
 あたりに、ホイッスルが鳴り響きました。
「警察だ。おまえたちはもう取り囲まれている」
 ブルドック署長を先頭に、アニマ警察が到着しました。大きなイヌの形をしたパトカーが何台もとまって、第三埠頭を封鎖しています。
「やばい、逃げろ」
 ジャッカルをはじめとして、ウルフ団の連中があわてて逃げようとします。
 でも、埠頭は行き止まりです。次々と逮捕されてしまいました。中には、海に飛び込んだ者もいましたが、それらもかけつけた警備艇に捕まえられました。
「くそっ、おぼえてろよ」
 ヤマネコにむかって捨てゼリフをはきながら、手錠をかけられたジャッカルはイヌ型パトカーにのせられました。
「ヤマネコ、おまえもちょっときてもらおうか」
 ブルドック署長が、ヤマネコにいいました。
「えっ、おれもですか。完全に正当防衛ですよ」
 ヤマネコはブツブツ文句をいいましたが、
「まあ、なにしろ一人殺されているんだからな。おまえさんにも事情を聞かせてもらわなきゃな」
 署長に背中を押されながら、ヤマネコもイヌ型パトカーにのりこみました。
 ウーウー、ワンワン。
 へんてこなサイレンを響かせながら、イヌ型パトカーは夜更けの町を走り出しました。

「だから、タヌキから受け取りを頼まれたっていってるでしょ」
 ヤマネコは、大きな声でどなりました。
 ここはアニマ警察の取り調べ室。ヤマネコはイヌ型パトカーで、警察署に連れてこられていました。
「そんなデタラメをいったって、すぐにばれるんだぞ」
 ブルドッグ署長が、じきじきに取り調べています。
「じゃあ、タヌキに聞いてみてくださいよ」
「よーし、わかった。嘘をついてもすぐにわかるんだからな」
 ブルドッグ署長は、電話をかけるために取調室を出て行きました。
 でも、すぐに戻ってきてしまいました。
「やっぱりタヌキ氏は、お前の所なんか行っていないし、頼んだ覚えもないって、おっしゃってるぞ」
「そんなあ。タヌキが嘘をいってるんだ」
「何が嘘だ。だいたいおまえはふだんからうさんくさいと思っていたんだ。でも、外人キツネとの密輸にまで手を出しているとは思わなかった」
 ブルドッグ署長は、太鼓腹を突き出していばっていいました。
「そうだ、タヌキをよんでくれ。二人で対決させてくれれば、おれの濡れ衣をはらしてみせる」
 でも、もう明け方近くです。けっきょく、ヤマネコはその晩は留置場に留め置かれることになりました。

 翌朝、
「取り調べだ。出ろ」
と、看守にいわれて、ヤマネコは留置場から出てきました。まだ顔も洗っていないので、ご自慢の口ひげもクシャンクシャンのビロローンです。留置場の硬いベッドで一晩を過ごしたので、身体の節々がいたくてしかたありません。
「ううーん」
 ヤマネコは、大きくひとつ伸びをしました。
 取り調べ室へ行くと、そこにはタヌキの姿は見えませんでした。ブルドック署長だけです。
「タヌキは?」
 ヤマネコがたずねると、
「タヌキ氏はお忙しくていらっしゃれない。オホホーン」
と、ブルドック署長は、わざとらしいせきばらいをしました。
 これで、タヌキと直接対決することはできなくなりました。なにしろ、アニマ市では顔役のタヌキのことです。どうやら、抜かりなく裏で手をまわしたにちがいありません。もしかすると、ブルドッグ署長もワイロか何かをつかまされたのかもしれません。
「他に証人はいるのかね? 誰もいないんだったら、おまえの話は信じるわけにはいかないね」
 ブルドッグ署長は、冷たく言い放ちました。
「そうだ、ビロード亭のマダム。彼女だったら、俺がタヌキに頼まれたことを知っている」
 ヤマネコは、最後の望みをたくすようにいいました。

 その日の遅くになって、やっとヤマネコは釈放されました。ブルドッグ署長が、ようやく黒ネコのマダムに連絡をつけてくれたようです。
 黒ネコのマダムは、ヤマネコのために、この間の話を証言してくれました。
ブルドッグ署長は、あっさりと黒ネコのマダムの言うことを信用してくれました。
(なぜかですって?)
実はブルドック署長も、黒ネコのマダムのファンだったのです。そのことが、ヤマネコにはさいわいしたようです。
「ヤマちゃん、だいじょうぶ」
 黒ネコのマダムは、警察署の外でヤマネコを待っていてくれました。
「どうも、すっかり迷惑かけちゃって」
 ヤマネコは、黒ネコのマダムに頭を下げました。
「なんだかあやしいと思ったのよ。どうも、話がうますぎるもの」
 実はこんなこともあろうかと、マダムはヤマネコがアニマ埠頭にでかけるのをひそかにかぎつけていたのです。そして、あの夜、アニマ署へ匿名で連絡してくれていたのでした。
「それにしても、タヌキの奴め」
 ヤマネコは、どこか安全なところでふんぞりかえっているだろうタヌキにむけて、うなり声をあげました。
 例の小箱は、ドサクサまぎれに行方不明になっていました。もしかすると、ちゃんとタヌキの手元に届いているかもしれません。なにしろ、警察の中にも、タヌキの息のかかったものがいるのですから。
 もちろん、ヤマネコがもらうはずだった報酬の十万ドングリはパーです。それに、手付け金の一万ドングリまで、そっくり証拠として没収されてしまいました。今度も、ヤマネコはただのくたびれもうけになったわけです。

「あーあ、オレって、何をやってもだめ。けっきょく、いつも骨折り損のくたびれもうけなんだよなあ」
 ビロード亭のカウンターで、ヤマネコはマタタビ酒をすすりながらためいきをつきました。
「でも、それが、ヤマちゃんのいいところなんだから。これ、あたしの気もち」
 黒ネコのマダムは、一夜干しのスルメを、サービスで出してくれました。
「サンキュー」
 ヤマネコは、スルメを手にとって、大きくかじりました。
「マダム、デュエット、デュエット」
 うしろのボックス席のよっぱらったイタチの四人連れから、声がかかりました。
「はい、はい、お待たせ」
 黒ネコのマダムは、ボックス席へ行ってしまいました。
 リクエストの、「ギンナン山の恋の物語」がかかります。よっぱらいイタチが、黒ネコのマダムの肩に手をまわして、デュエットで歌いだしました。
 ヤマネコは、一瞬、イタチにキラリキラーリの視線をおくりました。
 でも、すぐにまた、もとのねむたそうな目つきにもどってしまいました。
「あーあ、オレって、…」
 窓の外では、猫魔山に青白い三日月がかかっています。



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ダイ・ハード

2020-04-23 09:31:39 | 映画
 1988年公開の、言わずと知れた人気アクション映画シリーズの第1作です。
 まだ髪の毛がふさふさしたころのブルース・ウィリスが、ノンストップアクションで大暴れします。
 この映画の優れたところは、権力者(会社のエリート社員、ロス市警の副本部長、テレビ局のレポーター、FBI捜査官など)が徹底的にだめな奴ばかりで、市井の人たち(ニューヨーク市警の刑事、ロス市警のパトロール警官、リムジンの運転手など)が大活躍することでしょう。
 大多数の観客は、普段のうっぷん(権力者に搾取されている)をこの映画で痛快に晴らすことができます。
 なお、バブル崩壊前の日本の絶頂期だったので日系企業が舞台になっていますが、日本のマーケットへの配慮か、酷くは描かれていないので、日本の観客も気楽に楽しめて、日本でも大ヒットしました。



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庄野潤三「舞踏」プールサイド小景・静物所収

2020-04-22 17:43:30 | 参考文献
 1950年に商業誌に発表された、作者の文壇(死語か?)デビュー作です。
 結婚して5年、三才の子どももいる夫婦の危機を描いています。
 夫は、十九才の美しい少女に恋をしています。
 といっても、二人の務め先の役所をひけてから、映画を見たり散歩をするだけです。
 しかし、二人が一線を越えなかったのは、今のようにそうした場所がなかったのと、お金がなかったからだけなのです(そのころは、日本中が貧乏でした)。
 妻は、二人の関係に気づいて自殺未遂を起こします。
 作者の冷徹な観察眼は、それぞれの視線を通して、夫婦関係の危機をえぐりだします。
 そこには、男女の恐ろしいまでのエゴイズムがあります。
 もちろん、夫の方が一方的に悪いのですが、妻の方にも母という立場を忘れて自分だけが夫から愛されたいというエゴがあります。
 ラストでは、パリ祭(これが日本だけの呼び方であることは、他の記事に書きました)にかこつけて、自宅で子どもも入れてご馳走を食べて、ビールを飲み、レコードに合わせてダンスをします(彼らにとっては、すごい贅沢です)。
 これは、二人にとっては和解ではなく、諦念(男や女として生きるのではなく、夫あるいは父と妻あるいは母として生きていく)だったと思われます。
 このテーマは、芥川賞をとった「プールサイド小景」を経て、作者の文学の頂点と言われる「静物」
に至ります。
 その後の作者は、夫あるいは父という立場をより強固にして、「夕べの雲」や「絵合わせ」のような家庭小説の傑作を世におくることになります。



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逃げるは恥だが役に立つ

2020-04-22 14:26:22 | テレビドラマ
 2016年に放送されたテレビドラマです。
 エンディングで主演の新垣結衣たちが踊るかわいいダンスが流行して、今でも若い女性たちを中心に人気があります。
 心理学を専攻した女子学生が就職活動に失敗して大学院進学へ逃げ、その卒業時にもかえって高学歴が災いして非正規の仕事にしかつけません。
 ひょんなことから、仕事が忙しくて家事代行を頼んでいたシステムエンジニアと知り合い、
同居して家事を代行するために契約結婚する話です。
 奇想天外な設定が、家族や同僚などの周囲を巻き込んでいろいろなトラブルを引き起こす
コメディで、前半は非常に面白かったです。
 しかし、次第に二人がお互いに引かれあって、たんなる女性関係のまったくない35才の男性と、非常に限定された男性経験しかない25才の女性との、不自然なまでに不器用な恋愛話になってしまい、退屈しました。
 特に、ラストでは、普通の若い共稼ぎ夫婦の話に収斂されていて、非常に平凡な(それが現実だと言われればそれまでですが)大団円でした。
 日本の若い女性の結婚観や職業観は、その時の景気情勢に非常に振られやすい(それは、彼女たちを搾取している男性中心社会の要求によるものが大きいのですが)で、放送時のジェンダー観としては最初の設定自体も古かったかもしれません。
 私の二人の息子は、2010年と2012年(このころの就職活動における人間ドラマについては、朝井リョウ「何者」の記事を参照してください)に大学を卒業して就職したのですが、上の子の時はリーマンショック後の新就職氷河期で、下の子の時はそれがやややわらいでいました。
 そして、この新就職氷河期における文系女子学生の就職難はこのドラマの設定と同じように非常にひどく、その反映として若い女性の専業主婦志向が一時的に非常に高まりました。
 このドラマでは、専業主婦の労働を仕事としてとらえ直して、視覚化した点が秀逸です。
 しかし、主人公は2016年に25才という設定ですから、彼女のような優秀な女性が就職難というのはやや無理があります。
 それもそのはずで、原作の海野つなみのコミックスの連載が始まったのは2012年なので、そのわずかな間に現実の状況は大きく変化していたのです。



【メーカー特典あり】逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX(B6サイズクリアファイル付)
新垣結衣,星野 源,大谷亮平,古田新太,石田ゆり子
TCエンタテインメント







 


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相馬泰造「じんべえさんとフラスコ」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-21 16:58:07 | 作品論
 大正時代に書かれた短編です。
 江戸時代の大阪商人のじんべえさんを主役にした連作のうちの一編のようです。
 この作品では、オランダ商館の店先に飾られていた巨大な(底の広さが四畳半もあります)ガラス製のフラスコを水中料亭にしようと持ち帰ったり、途中の船上で大金を海中に落としてしまって身投げをしようとしていた若い男のためにフラスコを潜水艇の代わりにして探索したり、巨大なタコと格闘したりして、大活躍します。
 僅かな紙数の中で、こんな奇想天外なホラ話をした作者は。真面目な作品の多い当時の童話の世界では貴重な存在だったと思われます。



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