現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

マージョリー・ワインマン・シャーマット「しょうたいじょう」ソフィーとガッシー所収

2017-10-30 10:16:01 | 作品論
 ソフィーがパーティを企画します。
 ガッシーは、招待状のあて名を書くのを手伝います。
 しかし、あて名のリストにガッシーの名前がありません。
 ガッシーは、ソフィーに遠まわしに自分の名前が抜けていることをさとらせようとしますが、ソフィーはなかなか気づいてくれません。 
 むくれて家に帰ったガッシーに、「とくべつだいじなおきゃく」としての特別な招待状が、ソフィーからすでに届いていました。
 仲良しの女の子同士が、お互いにからかったりじゃれあったりする様子が、ややあざとい感じがするほどうまく描かれています。
 でも、スマホのラインなどで常に連絡を取り合っている今の女の子たちには、招待状自体がピンとこないかもしれませんが。

ソフィーとガッシー
クリエーター情報なし
BL出版
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒井京子「紙芝居・共感の楽しさ素晴らしさ」いつ、何と出会うか—赤ちゃん絵本からヤングアダルト文学まで所収

2017-10-26 20:00:45 | 参考文献
 紙芝居について、絵本の読み聞かせとは違う独自性、特長、演じ方、歴史、海外への普及活動などの全般にわたる講演です。
 講師も語っているように、紙芝居は、一般的には絵本よりも下に見られ、絵本のように論じられることもほとんどないような状況でした。
 私のような文章至上主義者から見れば、絵本さえも児童文学よりも下に見ていましたので、紙芝居はほとんど視野に入っていませんでした。
 そのため、講演の内容はとても新鮮で、「子どもの本」全体を考えるために非常に参考になりました。
 また、個人的には、まだ街頭紙芝居屋さんがたくさんいたころに子ども時代をおくったのですが、講師と同様にそこで売られている駄菓子類が「不潔だ」という理由で禁止されていたので、子どもたちの人だかりの後ろからこっそりのぞく(紙芝居屋さんは駄菓子の販売だけが収入なので、本当は駄菓子を買った子たちしか見られないのですが、講師が述べていたように後ろから見ることには寛大でした)ことしかできませんでした。
 そんな自分が、なんだかみじめに感じられて、いつのまにかのぞくのもやめてしまった過去があるので、なんとなく紙芝居にはいいイメージは持っていませんでした。
 当時と違って、今の紙芝居は、図書館や児童館や幼稚園や学童クラブなどで演じられていて、内容も街頭紙芝居の時のように「それでは、明日もお楽しみに」と続き物にして、子どもたち(お客様)の興味をつなげていくようなものでなく、一場の芝居を観劇するような完結したもののようです。
 特徴的な点としては、裏に文字が書いてある(実際の紙芝居は引き抜いた紙を一番後ろに差し込むのですから、ひとつ次の画面のための文字が書いてあるのだと思います)ので、演者は観衆(今では子どもだけでなくお年寄りまでの広範な年代の人たちが対象のようです)に正対して(講師によると紙芝居舞台の左側に立つのがベストポジションのようです(紙芝居舞台も右利きの人用に作られているのですね))演じるので、演者は観衆の反応を見ながら演じられ、人と人のコミュニケーションを構築する(講師の言葉では「共感」)上ではより優れているようです。
 また、絵本は幼稚園などでは多人数を相手に「読み聞かせ」(この講座の絵本に関する講演では「読み語り」と言っていました(その記事を参照してください))する場合もありますが、基本は年長者(両親など)がまだ字になじみのない子どもたちに一対一で「一緒読み」(これも絵本の講演で使っていた用語です)をするのですが、紙芝居は基本的に一対多人数で行われるので、演者と観衆、さらには観衆同士の共感が大切になるようです。
 また、作品に対する演者の理解が非常に大切で、誤って解釈すると作者の作品に込めた願いが観衆に正しく伝わらないこともあるそうです。
 そういう意味では、演者は演出者も兼ねるわけで、絵本の読み聞かせよりも力量が問われるかもしれません。
 ただ、声色を使い分けたりして上手に演ずる必要はなく、自然体で演じて、演者と観衆のコミュニケーションを取る方が大事なようです。
 その他の特長としては、紙芝居舞台で画面を区切ったり、前の画面の紙を抜き取って後ろへ隠したりすることにより、観衆の集中力を増す効果が得られるそうです。
 中でも一番印象が残ったのは、画面を抜き取ることにより、物語が観衆たちのいる現実世界へ飛び出してくるというものです。
 児童文学や絵本では、ページを自分でめくる行為によって、子どもたちが物語世界へ没入していくというのが普通の感覚(今は弱くなってしまいましたが、私も子どものころは本(私の場合は物語とは限りませんでした)に没入して現実世界はまるで感じられなくなっていました)だと思うのですが、紙芝居は逆なようなので体験してみたくてたまらなくなりました。
 以上のように、紙芝居の場合は、児童文学や絵本のように自分からその世界へ入っていくものではなく、演者とともに観衆の方へ向かっていく、よりライブ感の強いもののようです。
 全体的には、講師がいかに紙芝居を愛しているかが感じられる講演で非常に好感が持てたのですが、ひとつだけ、講師が紙芝居に対して、かつての「現代児童文学」のようなタブー(子どもや人生にとっての負の部分)を設けているようなのは、紙芝居の可能性を限定しているようで気になりました。

おおきくおおきくおおきくなあれ (ひろがるせかい) (まついのりこ・かみしばいひろがるせかい)
クリエーター情報なし
童心社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本谷有希子「私は名前で呼んでる」嵐のピクニック所収

2017-10-25 20:35:10 | 参考文献
 広告代理店の女性部長が、部下と会議中に、突然カーテンのふくらみが気になりだします。
 シミュラクラ現象(点が三つ集まると、人の顔だと認識してしまう現象)ならぬ、「カーテンふくらみ現象」に陥ってしまい、過去に自分から去っていった男性たちや子どものころの「カーテンふくらみ現象」の思い出などどんどん妄想が膨らんでしまい、収拾がつかなる話です。
 ストーリーのない妄想だけの物語は、児童文学の世界では岩瀬成子の「わたしをさがして」が有名ですが、この本谷の短編は妄想のスケールが小さくて物足りません。

嵐のピクニック
クリエーター情報なし
講談社
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮川健郎「幼年童話」いつ、何と出会うか—赤ちゃん絵本からヤングアダルト文学まで所収

2017-10-25 20:21:27 | 参考文献
 内容自体は、ほとんどが講師の幼年文学に関するいくつかの論文と重複しているので、ここでも重複することを避けるために書きませんので、それらの記事を参照してください。
 絵本とヤングアダルト向け作品の隆盛に挟撃されて、児童文学の本来の読者である小学校高学年向けの児童文学作品の空洞化が問題だとする講師の指摘はその通りなのですが、それを幼年童話にまで適用して「絶滅危惧種」としているのは講師自身も書いているような「大げさ」です。
 例によって、出版点数の推移などの具体的なデータは示されずに、講師の印象で述べているのですが、実は幼年文学はここでも紹介されているようにいろいろな試みがされていますし、この講演当時(2009年)は、まだかつての「現代児童文学」の書き手にとっては残された少ない出版チャンスの分野だったのです
 ただし、その後2010年代からは、彼らの主戦場も幼年文学から絵本のテキストへ移りつつあるのは事実です。
 この「絶滅危惧種」に限らず、講師の講演や論文は、講師自身も認めているように、「「ひろすけ童話」の運命」、「「声」との別れ」、「口誦性」、「幼年童話が「俳句」になっている」、「深い言葉の耕し」など、講師自身の言葉で言えば「かっこつけ」のキャッチ―な表現が目立ちます。
 これは、受講者や読者を引きつけるためには効果的だと思うのですが、ともするとその意味する本質からミスリードする恐れがあります。
 この講演を要約すると、(タイトルが、「幼年文学」ではなく「幼年童話」になっていることでも明らかなように)、幼年文学は散文的表現の「現代児童文学」から詩的表現の「童話」へ回帰すべきだということになると思うのですが、論文自体は「現代児童文学」よりもさらに散文的に書かれるべきだと思います。
 講師は、その文才を論文で発揮しているのかもしれませんが、それならば評論だけではなく、実作でも発揮されたらどうでしょうか?
 さて、ここでも講師が強調している黙読に適した「現代児童文学」と音読に適した「童話」の違いは、非常に重要な問題です。
 講師が紹介しているような「口演童話」や「ストリーテリング」は、現在行われている「絵本」の「読み聞かせ」や紙芝居以上に、子どもたちを児童文学に結び付ける働きをする可能性があると思います。
 ビジュアルな要素が少ない(演者の姿かたちや表情などだけ)ので、子どもたちが言葉だけで物語世界を喚起させることのきっかけになるでしょう。
 現在の子どもたち(大人たちも同様ですが)の物語消費は、電子ゲームやアニメやカードゲームなどのよりビジュアルな媒体へ移っています。
 この状況において、「言葉」というより抽象性の高い媒体で物語世界を喚起させる力は、子どもたちにはますます失われていると思いますので、それらを向上させることが期待されます。
 ただし、何も小道具を持たずに、子どもたちを引きつけなければならないので、演者たちにとっては、かなりハードルが高いかもしれません。
 一方で、そうしたものに向いた幼年童話を作家たちが書くためには、講師が紹介した「浜田広介」が「声を出して読みながら自分の作品の推敲をして、音読した時の調子や響きを改善していた」というエピソードはヒントになるかもしれません。


現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グードルン・パウゼヴァング「会話」そこに僕らは居合わせた所収

2017-10-24 11:15:25 | 作品論
 1939年に11歳だった少女が語る両親の会話の記憶です。
 そこでは、ユダヤ人の害毒について語られていました。
 両親は、二人とも反ユダヤ主義者でしたが、非人道的なやり方には母は反対、父は消極的賛成の立場でした。
 父は戦死しましたが、そのおかげで直接ユダヤ人を殺すことには加担しないで済みました。
 主人公は、父が三、四十年後に生まれていた場合のことを想像します。
 そうすれば、人当たりが良く、家族に愛され、友人や同僚に慕われ、地域の人びとからも愛される人間になったに違いないと。
 おそらく、ここに語られた両親は、当時の平均的なドイツ人の夫婦だったのでしょう。
 個々には悪い人間ではなかったのに、体制の力に流されてしまい、結果としてナチスドイツの戦争犯罪に間接的に加担してしまった当時のドイツ人たち。
 これは決して他人事ではありません。
 戦争中の日本人も同様でしたし、現代においては注意していない同じ道をたどる恐れはあります。
 何事も大勢に流されずに、善悪を自分で判断していくことの大切さは今も変わりません。

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
クリエーター情報なし
みすず書房
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森忠明「またね こたこたらんぷ」こんなひとはめったにいない所収

2017-10-23 10:31:21 | 作品論
 小学校一年生の夏休みに、いつくしみ保育園の時に担任だったはまなかさわこ先生にあてた森少年の長い手紙です。
 森少年が算数を個人的に教わっている「いかのせんせい」という、アフリカで先生をしていたというユニークな人物を紹介しています。
 「いかのせんせい」が好きなものを十個言うシーンが楽しいのですが、その最後で森忠明の作品らしく短調へ転調をします。
 森少年の好きなものは一番がおかあちゃんで、二番がはまなかさわこ先生です。
 おかあちゃんは今年病気になって、赤ちゃんができるところを取ってしまったのです。
 手術の時、おかあちゃんは森少年の名前を呼び続け、もう弟も妹も作ってやれなくなったことを謝ります。
 森少年は、弟も妹もいらないことをユーモラスに語りますが、その中でいつくしみ幼稚園にはもうはまなかさわこ先生がいないこともさりげなく書いています。
 最後には、「いかのせんせい」とも別れて、はまなかさわこ先生にももう手紙は書かないことが書かれています。
 大事な人たちとの別れ、弱者へのいたわり、母への愛情など、森作品の重要なモチーフがラストシーンに続けて現れてきて、彼独特の生きていくことの寂しさが、この幼年向き作品にも表れています。

こんなひとはめったにいない (幼年創作シリーズ)
クリエーター情報なし
童心社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後路好章「赤ちゃん絵本 ー 赤ちゃんは音を食べる」いつ、何と出会うか—赤ちゃん絵本からヤングアダルト文学まで所収

2017-10-23 10:29:54 | 参考文献
 実際に赤ちゃん絵本を読みながら、その構成、展開方法を解説しています。
 特に、赤ちゃんが絵本のどこに反応するのかを、赤ちゃんの発達とからませて説明している点が優れています。
 講演録を読んだだけでも、講師が本当に赤ちゃんと絵本が好きなんだなあということが伝わってきます。
 紹介された絵本のいくつかを、実際に赤ちゃんに読み聞かせ(講師の呼び方だと読み語りや一緒読みになります)してみたくなりました。

いないいないばあ (松谷みよ子 あかちゃんの本)
クリエーター情報なし
童心社


絵本から擬音語・擬態語・ぷちぷちぽーん
クリエーター情報なし
アリス館
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮川健郎「「箱舟」からの自立 ― いぬいとみこ『木かげの家の小人たち』をめぐって」

2017-10-22 14:06:07 | 参考文献
 1959年に出版され、佐藤さとるの「誰も知らない小さな国」とともに「現代児童文学」のスタートを飾ったといわれるいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」について述べています。
 題名から作品論なのかと思われたのですが、話は「ファンタジーとは何か」から始まって、かなり広い分野について考察しています。
 著者は、この作品において、満州事変、日華事変をへて太平洋戦争にいたる日本の近代を「洪水」と呼び、主人公たちが小人たちをかくまっていた小部屋を「箱舟」と呼んでいます。
 これらの比喩と、主人公や若い世代の小人たちが「箱舟」から自立するのがこの物語のテーマであると考えるのは、非常に自然な読みだと思います。
 ただ、この「箱舟」の比喩を、「アンネの日記」やリヒターの「あのころフリードリヒがいた」などの海外の戦争児童文学に広げて考えたり、子ども時代一般が親の庇護下という一種の「箱舟」であるとするのは、やや論理に飛躍があってついていけませんでした(それぞれに独立した作品を、著者の都合のいい部分だけを切り出してまとめて見せている印象が強いです)。
 また、話が次第に「木かげの家の小人たち」から離れてしまい、著者が引用している先行論文(長谷川潮や上野瞭)からあまり深まらなかったのも残念でした。

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺 和重「児童書総合目録活用術 」日本児童文学の流れ所収

2017-10-22 14:04:00 | 参考文献
「児童書総合目録の概要を説明し、NDL-OPACと児童書総合目録を比較しながら、児童書を検索する際のポイントを説明します。」という趣旨で、児童書の検索のやり方を主な受講者である図書館の司書たちに伝授していますが、児童書総合目録は一般にも開放されているので児童文学研究者にももちろん有益な情報です。
 児童書総合目録は、国際子ども図書館、国立国会図書館のほか、日本国内で児童書を所蔵する主要類縁機関である大阪府立国際児童文学館、神奈川県立神奈川近代文学館、三康文化研究所附属三康図書館、東京都立多摩図書館、日本近代文学館、梅花女子大図書館、白百合女子大学の7機関が所蔵する児童書・児童書関連書の所蔵情報を一元的に検索できる目録です。
 また、児童書の専門書誌として受賞情報や解題情報(あらすじ)などもあわせて提供しています。

国際子ども図書館児童文学連続講座講義録 (平成17年度)
クリエーター情報なし
国立国会図書館国際子ども図書館

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江口 磨希「国際子ども図書館所蔵ちりめん本について」日本児童文学の流れ所収

2017-10-21 11:32:55 | 参考文献
「ちりめん本とは、和紙に挿絵と外国語の文章を印刷し、各方向から圧力を加えちりめん仕立てにし、和綴じにしたものです。明治中期から出版され、内容は日本の昔話などで、主に外国人への日本土産、美術工芸品として人気を博しました。作者の紹介も交えながら、当館が所蔵するちりめん本を紹介します。」という趣旨で、講座の内容とはやや離れて、国際子ども図書館に収蔵されている貴重本を紹介しています。
 ちりめん本とは、ちりめん仕立ての和紙に挿絵と外国語の文章を印刷して和綴じにした本のことで、内容は日本の昔話や文学、日本の様子を紹介したものなどで、英語をはじめフランス語、ドイツ語、スペイン語等のさまざまな言語で発行されたそうです。
 そして、ちりめん本は明治中期から出版され始め、主に外国人の日本土産あるいは日本の美術工芸品として人気を博したとのことです。
 国際子ども図書館所蔵のちりめん本は、全67冊(英語43冊、スペイン語20冊、フランス語3冊、ドイツ語1冊)あるそうです。
 ちりめん本の中でよく知られているシリーズは、Japanese fairy tale series(日本昔噺シリーズ)で、国際子ども図書館所蔵のちりめん本も大半がこのシリーズだそうです。
 私自身は文章が読めれば文庫本でも電子書籍でも構わないという文章至上主義者なのですが、児童文学の場合は装丁や挿絵もとうぜん芸術なわけで、この講演のような内容には児童文学の違う面を教えられました。
 もし閲覧が可能ならば、次に国際子ども図書館に行ったときには、ちりめん本の現物を見てこようと思っています。

ちりめん本のすべて―明治の欧文挿絵本
クリエーター情報なし
三弥井書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グードルン・パウゼヴァング「すっかり忘れていた」そこに僕らは居合わせた所収

2017-10-20 18:31:07 | 作品論
 戦争が終わってロシア兵が進行してきたとき、私は十七歳、妹は十三歳でした。
 二人は、ロシア兵に強姦されることを恐れて逃げていました。
 しかし、歌を歌っているロシア兵を見て、彼らも同じ人間なんだということを認識します。
 一部のロシア兵によるドイツの女性たちへの蛮行は事実ですが、すべてのロシア兵がそうだったわけではありません。
 日本でも、戦後アメリカ軍が進駐してきたときに同じようなデマが流れましたが、実際にはそんなにひどいことにはなりませんでした。
 この作品では、ロシア兵がやや美化されすぎているような気もしますが、敵味方が同じ人間であるという認識を持つことは、戦争を食い止めるのに有効なことだと思います。
 
そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
クリエーター情報なし
みすず書房
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千代 由利「日本児童文学の流れを知るために-日本児童文学史(通史)の紹介」日本児童文学の流れ所収

2017-10-20 09:01:51 | 参考文献
「各講義のテーマが、日本児童文学史上どこに位置付けられるかを見るために、日本児童文学のジャンル全体を取り上げ、かつ通史として刊行された文献19点を紹介します。」と言う趣旨で、以下の児童文学史の専門書をリストアップして解題しています。

①『 童話史』 日本童話協会編 東京 日本童話協会 1937 462p 22cm(綜合童話大講座) 内容:日本童話史(中田千畝 蘆谷重常 山内秋生) 世界童話史(蘆谷重常) 独逸童話史(田中梅吉)現在露西亜の童話(ヤ・メクシン)(728-25)(YZ909-ドウ)
① -1『童話史: 綜合童話大講座』 日本童話協会編纂 東京 久山社 1987.11 1冊 23cm(復刻叢書日本の児童文学理論)〔第2期〕日本童話協会出版部昭和10年刊の複製 (KG413-5(16))(YZ909-ドウ)
①-2『童話史』 東京 久山社 1990.9 1冊 23cm (綜合童話大講座4)上笙一郎編(日本童話協会出版部1935年刊の)複製 (KE177-G23)(YZ909-ドウ)
②『日本児童文章史』 西原慶一著 東京 東海出版社 1952 822p 図版 22cm 内容:第1篇:総論 児童観の変遷、国語教育思潮の変遷、文章の類型の変遷、第2篇:文章史 国語教材史(西原慶一)、児童文芸史-作家とその作品(中村万三)、児童表現史(小山玄夫)、第3篇:資料篇 文集史(小山玄夫編)、国語・教育者総覧、国語教育文献目録、文芸要語篇(加藤満照編)( 375.8-N756n)
②-1『日本児童文章史』 西原慶一著 東京 大空社 1996.3 783,13,6p 22cm 監修:寺崎昌男、久木幸男(日本教育史基本文献・史料叢書38)東海出版社1952年刊の複製(FB12-E8)
③ 『現代児童文学史』 船木枳郎著 東京 新潮社 1952 328p 図版 19cm(910.26-H832g)(YZ910-フナ)
③ -1『現代児童文学史』 船木枳郎著 改訂 横浜 文教堂出版 1961.6 464p 22cm(KG411-H35)(YZ910-フナ)
④ 『日本の児童文学』 菅忠道著 東京 大月書店 1956 327p 図版 19cm 附:近代日本文学年表 297-327p (910.26-Ka341n)
④ -1『日本の児童文学』 菅忠道著 増補改訂版 東京 大月書店 1966 530p 図版20cm (910.26-Ka341n(- s))(YZ910-カン)
④ -2『日本の児童文学』 東京 あゆみ出版 1983.12 427p 22cm(菅忠道著作集第1巻)(FA35-332)(YZ910-カン)
⑤ 『自伝的児童文化史 戦前・戦中期編』 菅忠道著 東京 ほるぷ総連合ほるぷ教育開発研究所 1978.3 253p 19cm (ほるぷ叢書2) (KG411-52)(YZ371-カン)
⑤ -1『自伝的児童文化史』 東京 あゆみ出版 1984.6 383p 22cm (菅忠道著作集 第4巻)著者の肖像あり 付:参考文献 菅忠道著作目録・年譜:p321~373 (FA35-332)(YZ910-カン)
⑥ 『日本児童文学案内』 鳥越信著 東京 理論社 1963 204p 19cm (児童文学セミナー)(909-To547n)(YZ910-トリ)
⑦ 『日本児童文学』 鳥越信著 東京 建帛社 1995.10 183p 21cm (KG411-G3)(YZ910-トリ)
⑧ 『近代日本児童文学史』 岡田純也著 東京 大阪教育図書 1970 252p 図版 20cm (KG411-7)(YZ910-オカ)
⑨ 『子どもの本の歴史』 岡田純也著 名古屋 中央出版 1992.5 318p 19cm (KG411-E27)(YZ910-オカ)
⑩ 『子どもの本の百年史』 尾崎秀樹等著 東京 明治図書出版 1973 339p 図22cm 年表:p.312-339 (KG411-23)(YZ910-オザ)
⑪ 『日本児童文学史の展開』 編集:猪熊葉子等 東京 明治書院 1973 298p 22cm(講座日本児童文学4) (KG411-22)(YZ910-コウ)
⑪-1『現代日本児童文学史』 編集:猪熊葉子等 東京 明治書院 1974 245p 22cm (講座日本児童文学5) (KG411-22)(YZ910-コウ)
⑫ 『日本児童文学史年表』1、2 鳥越信編(講座日本児童文学別巻1、2) 編集:猪熊葉子等 東京 明治書院 1975、1977 全2冊 22cm (KG411-22)(YZ910-コウ)
⑬ 『日本児童文学概論』 日本児童文学学会編 東京 東京書籍 1976 291p 図 22cm 付:主要文献リストp.285-291 (KG411-37)(YZ910-ニホ)
⑭ 『落穂ひろい:日本の子どもの文化をめぐる人びと』 瀬田貞二著 東京 福音館書店  1982.4 2冊 22cm 付(図2枚):友雀道草双六・風流小金雛 付(1枚):付録解説 外箱入 (KG411-71)(YZ910-セタ)
⑮ 『日本児童文芸史』 福田清人、山主敏子編 東京 三省堂 1983.6 489p 22cm(KG411-88)(YZ910-フク)
⑯ 『体験的児童文学史』前、後編 関英雄著 東京 理論社 1984.7、12 全2冊 22cm 前編:大正の果実、後編:昭和の風雪 (KG411-85)(YZ910-セキ)
⑰ 『児童文学の思想史・社会史』 関口安義ほか著 日本児童文学学会編 東京 東京書籍 1997.4 351p 21cm (研究-日本の児童文学2) (KG411-E51)(YZ910-ケン)
⑱ 『はじめて学ぶ日本児童文学史』 鳥越信編著 京都 ミネルヴァ書房  2001.4  368,40p 21cm (シリーズ・日本の文学史1) 文献あり 年表あり (KG411-G49)(YZ910-トリ)
⑲ 『たのしく読める日本児童文学』戦前編、戦後編 鳥越信編著 京都 ミネルヴァ書房 2004.4 全2冊 21cm (KG411-H31、KG411-H32)(YZ910-トリ)

 上記のリストの資料の選定にあたっては、⑱の『はじめて学ぶ日本児童文学史』(鳥越信編著 京都 ミネルヴァ書房 2001.4)巻末参考文献「総合的通史」を参考にしたそうです。
 なお、配列は刊行年順で、原著(初版)の後に、枝番号を付して増補改訂版、複製・復刻版等を記載しています。
 資料の請求記号が書誌事項の最後に( )で付いているので、閲覧が可能です(YZ は国際子ども図書館請求記号。その他は国立国会図書館請求記号)。

 日本の児童文学史についての、ほぼすべての重要な資料が網羅されているので、これから児童文学史を勉強しようと思っている人には非常に参考になります。
 個人的には、大学の児童文学研究会に入ってから、⑥の鳥越先生の「日本児童文学案内」を買って勉強を始めました。
 これはカッコに書いてあるように、「児童文学セミナー」シリーズのうちの一冊で、他に神宮輝夫「世界児童文学案内」と山本和夫「児童文学へのアプローチ」があって、児童文学の初学者にはうってつけの内容でした。
 大学を卒業して児童文学とは関係のない会社に勤めることが決まった時に、⑪ 『日本児童文学史の展開』、⑪-1『現代日本児童文学史』、⑫ 『日本児童文学史年表』1、2などの講座日本児童文学シリーズや⑬ 『日本児童文学概論』などを購入して個人的に勉強を続けようとしたのですが、実際は仕事や家庭生活が忙しくなってあまり実行できませんでした。
 鳥越先生の編集された⑱ 『はじめて学ぶ日本児童文学史』は未読ですので、この機会に読んでみようと思っています。

はじめて学ぶ日本児童文学史 (シリーズ・日本の文学史)
クリエーター情報なし
ミネルヴァ書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮川健郎「ふたつの歌物語、『ビルマの竪琴』と『二十四の瞳』 ― 児童文学の空白期」

2017-10-19 12:47:46 | 参考文献
 アジア太平洋戦争が終了してから「現代児童文学」がスタート(一般的には1959年とされています)するまでの期間を、宮川は「空白期」と呼んでいます。
 この時期の代表的な作品群として、無国籍童話(国籍不明の架空な場所を舞台に書かれている主に短編のことで、かといって確固たる架空の世界が確立されてはいない作品に対する蔑称)をあげています。
 実は、現在でも同人誌などでは「無国籍童話」をしばしば見かけます。
 特に、初心者の作品に多いと思われます。
 リアリズムの作品を書こうとすると慣れないうちはいろいろな制約があって書きにくいのですが、作品世界を架空の舞台に設定すると比較的のびのびと書けるようです。
 とはいっても、確固たるファンタジー世界を構築する力量はもとよりないので、いわゆる「無国籍童話」になってしまうのでしょう。
 現在、商品化されているお手軽ファンタジー作品にも、「無国籍童話」と同根なものを感じます。
 宮川は、これらが書かれた理由として、それまでの近代童話が「詩としての童話」であり、新しい現実(民主主義を例にあげています)を描く方法として未成熟だったとしています。
 宮川は「空白期」の例外として、竹山道雄「ビルマの竪琴」と壺井栄「二十四の瞳」をあげています。
 しかし、これらの作品の児童文学史的な位置づけや「現代児童文学」との関係はほとんど述べられていません。
 「ビルマの竪琴」については簡単な作品紹介しか書かれていませんし、「二十四の瞳」についても「赤い鳥童謡」と「唱歌教育」の対立構造を示したのと児童文学研究者の石井直人の言葉を借りて「きまじめなエンターテインメント」と定義したにすぎません(ここで「きまじめなエンターテインメント」の例として、灰谷健次郎「兎の眼」について言及していますが、唐突すぎて論文の構成としてどうなのかと首をひねりました)。
 この二つの作品は、繰り返し映画やテレビドラマにもなり、戦後児童文学の古典として一般には定着していますが、児童文学界での取り扱いは依然として冷遇されたままです。
 その理由は、作者たちが児童文学の世界では部外者(竹山はドイツ文学者で東京大学教授、壺井栄は小説家)であり、特に竹山は思想的に反動的であると児童文学の主流派(今ではすっかり弱くなっていますが革新勢力としての運動体でした)からみなされていたことが、その大きな理由でしょう。
 彼らが児童文学に取り入れた小説の手法は、1980年代に入って児童文学の世界でも一般的になるのですが、それらの関連に関する研究は管見ではあまりなされていないように思われます。
 最後に、宮川は、この時期のその他の例外的な作品として、石井桃子「ノンちゃん雲に乗る」、与田準一「五十一番目のザボン」、国分一太郎「鉄の町の少年」、石森延男「コタンの口笛」をあげていますが、これらと「現代児童文学」との関連も不明なままです。


現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤 宗子「エンターテインメントの変遷」日本児童文学の流れ所収

2017-10-19 12:44:42 | 参考文献
「児童文学における<エンターテインメント>性とは何かという問題意識の上にたって、昭和初年の『少年倶楽部』の時期から現代までを、いくつかのポイントにしぼりながら振り返ります。」という趣旨で行われた講演です。
 初めに「 エンターテインメント」とは何かと言う定義から始まります。
 一般文学で「純文学」と「大衆文学」の区分があるように、かつては「芸術的児童文学」対「大衆的児童文学」の構図があったとしています。
 その一方で、「児童文学」そのものが子どもという大衆そのものを対象としているのだから、すべてが「大衆文学」であるとの考え方もあると紹介しています。 
 最初に昭和初年と断っていますが、実はエンターテインメントの起源は、巌谷小波や押川春浪などの明治期の作品にもあると指摘しています。
 「少年倶楽部」は、大仏次郎、吉川英治、佐藤紅緑、佐々木邦、山中峯太郎、高垣眸、池田宣政などの大人向けの大衆小説の大家たちも作品を書いていて、昭和初期の最盛期には最大60万部も売り上げ、現代で言えば少年ジャンプの600万部にも匹敵する存在だったとしています(大衆的児童文学と言われる「少年倶楽部」も、実際には裕福な家の子どもしか買ってもらえず、大多数の他の子どもたちは彼らから借りたり、お話を聞いたりしていましたので、それに触れた実数では少年ジャンプ以上の影響力があったかもしれません。藤子不二雄Ⓐのマンガや映画で有名な「少年時代」の原作である柏原兵三「長い道」は、都会から疎開してきた主人公が、「少年倶楽部」などのいろいろな物語を、ほとんど本など読んだことのない(その代り主人公とは比べ物にならないくらいたくましい)地元の子どもたちに、長い通学路の間に語ることで、彼らのいじめをなんとか食い止めようとするシーンがすごく印象的です(タイトルもそこからきています))。
 少女小説では、従来の吉屋信子「花物語」に代表されるようなはかなげなイメージの少女だけでなく、「少女倶楽部」などに主として男性作家によって描かれた活動的な少女もいたと指摘しています。
 エンターテインメントの特徴の一つとして、挿絵の効果が指摘されて、伊藤彦造、山口将吉郎、斎藤五百枝、梁川剛一、中原淳一、高畠華宵などが紹介されています。
 この効果は今でも絶大で、この講演では触れられていませんが、現在のエンターテインメントで大きな位置を占めているライトノベルではジャケ買い(お気に入りのイラストレーターの絵がついていれば、取りあえず第一巻は買い、お話も面白けらば二巻目以降も買う)も一般的なようです。
 戦後については、最初に大人の読書文化と同様に、岩波書店に代表されるような教養主体の児童文学と講談社に代表されるような娯楽主体の児童文学といった構図が紹介されて、その例として「岩波少年文庫」(完訳中心で子どもに適さない部分があれば省く)と「世界名作全集」(抄訳中心で子どもに面白いと思われる部分に焦点を当てている)の違いを紹介しています。
 1950年代の「現代児童文学」出発期前後には、「芸術的児童文学」が主流を占めていて、「大衆的児童文学」を下に見るの意識があったことを、国分一太郎「鉄の町の少年」の試み(探偵小説の手法の導入)とそれへの冷ややかな反応などを例にして紹介しています。
 このあたりの感覚は、教養主義の時代(戦前から1960年代まで)に大学に通っていた作家が、まだ児童文学の主流だった1980年代ごろまではあったように思います。
 教養主義が崩壊(その記事を参照してください)した以降は、こうした風潮は薄れて、「芸術的児童文学」を書いていた作家も「大衆的児童文学」(つまりエンターテインメント)を書くようになります。
 代表的な作家としては、那須正幹、後藤竜二、あさのあつこなどがいます。
 エンターテインメントのロングセラーとして、乱歩と「ルパン」があげられています。
 実際、戦前から読まれていて、現在でも読書調査などに顔を出すのですから驚異的です。
 戦後の雑誌文化として、小学館などで出していた学年別誌(「○○の学習」、「○○時代と「○○コース」)に入っていたり、付録でついていたりしたSFジュブナイル(例・筒井康隆『時をかける少女』、眉村卓など)を紹介していましたが、私は講師とほぼ同世代なので非常に懐かしいです(いまでも、映画化されたりするので、ノスタルジアだけでなくエンターテインメントとして非常に優れていたのでしょう)。
 その一方で、週刊少年誌はマンガだけになって、初めはあった小説は姿を消したとしています(実際は、初めから純粋な小説は少なく、マンガ以外は絵物語が主流だったようです)。
 ジュニア小説(佐伯千秋、吉田とし、富島健夫など)というジャンルも、「児童文学」の周辺として紹介されています(前述の学年別誌にも掲載されていて、結構きわどい内容もありました)
 80年代に入って「ズッコケ」「はれぶた」現象を紹介し、特にその中心として那須正幹の仕事(他に「百太郎」シリーズなど)をあげています。
 ここでも、挿絵の変化(70年代ころまでのリアルなものから、マンガ的なものへ)にも触れていますが、私自身もシリアスなデビュー作に内容にそぐわないマンガ的な絵をつけられて辟易した記憶があります。
 また、文庫を中心にした、児童文学の周辺のエンターテインメント(赤川次郎、新井素子、氷室冴子、宗田理など)にも触れています。
 現在(2005年)の状況としては、幼年・中級向けは「乱太郎」シリーズ、「ゾロリ」シリーズなどの遊びの要素を取り入れたものが人気があることや、大人と子ども、芸術と大衆がさらに入り混じっている例として「バッテリー」、「DIVE!!」シリーズ、「西の善き魔女」などをあげています。
 最後に、「読書」行為の意味づけとして、いまだに「芸術的児童文学」対「大衆的児童文学」という意識が読書運動の現場に残っていることや、物語受容の方法が本からゲームや電子機器などに移っていることにも触れていますが、そこに対しては特に明確な意見は発言しなかったようです。
 全体的には、あまり研究する人がいなくて、消費財なので研究もしづらい、エンターテインメントの分野の変遷が、要領よくまとめてあって、非常に参考になりました。
 ただ、どんなエンターテインメントがその時代に流行っていたかはわかるのですが、どんなエンターテインメントがすぐれていたかにはあまり触れていませんでした。
 講師もその立場であると思いますが、あらゆるジャンルに貴賤がないように、「芸術的児童文学」と「大衆的児童文学」にも貴賤はありません。
 ただあらゆるジャンルに、一流と三流は存在します。
 「芸術的児童文学」については、どれが一流かはよく議論されて賞やブックリストなども存在します。
 しかし、「大衆的児童文学」については、未だに「売れている」や「はやっている」などが唯一の評価基準になっているように思えます。
 三十年前に、有名な児童書の編集者だった偕成社の相原法則さんが言っていた、「褒められる本」と「売れる本」という二分化する評価基準が今でも有効なのです。
 「褒められてしかも売れる本」といったような評価基準(実際に作るのは難しいですが)が作られることが、今のエンターテインメント主体の児童文学界には必要だと思えてなりません。

-->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎「わたし」

2017-10-18 17:47:43 | 作品論
 1976年発行の長新太によるさし絵のついた古典的な絵本です。
 有名な福音館の「かがくのとも」シリーズの中の一冊です。
「わたし
 おとこのこからみると おんなのこ
 あかちゃんからみると おねえちゃん
 おにいちゃんからみると いもうと
 おかあさんからみると むすめのみちこ
 おとうさんからみても むすめのみちこ
 <中略>
 がいじんからみると にほんじん
 うちゅうじんからみると ちきゅうじん
 <後略>」
 という風に、「やまぐちみちこ」という女の子が、他から見るとどう見えるかを延々と述べていきます。
 単純な繰り返しの中で、「わたし」を多面的的に捉えることができます。
 谷川の簡潔な言葉と、長新太のこれまた簡略化された絵が、独特のリズムを生み出して、子どもたちが大好きな「繰り返しの手法」がうまく生かされています。
 児童文学作家で研究者の村中李衣は、「あいまい化される「成長」と「私」の問題」(日本児童文学1997年11-12月号所収、その記事を参照してください)という論文で、以下のようにこの詩が主体を欠いているのではないかと指摘しています。
「人は、いろんな人の関係で、沢山の呼ばれ方があり、役割もある、ということは分かるのだが、何か大事な核が抜けている気がする。多分それが「主体の欠損」であると思う。例えば「がいじんからみると」と書いてあるが、この男を「がいじん」と呼んでいるのは誰なのか? 語りの主体が、やまぐちみちこ自身であるならば、「トムからみるとわたしはミチコ」と語るかもしれないし、「やつからみると、へんな子かな」と語るかもしれない。しかし、この文章の中には、はっきりした「主体」の居場所がない。」
 たしかに、この絵本が幼い読者に手渡されたときには、作者の「主体」、登場人物の「主体」、そして読者たちの「主体」が、うまく絡まりあわない恐れはあるかもしれません。
 おそらくこの欠損を埋めるためには、媒介者(作者と児童文学の読者である子どもたちを結びつける存在で、両親などの家族や、幼稚園や小学校の先生、図書館の司書、読み聞かせのボランティアなどのことです)が、幼い読者に「やまぐちみちこ」を読者自身に置き換えて読むことを示唆すればいいのではないでしょうか。
 そうすれば、作品世界が絵本の中にとどまらず、読者のまわりにまで広がりを見せて、子どもたちはこの絵本を自分のこととして楽しめるようになると思います。

「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書)
クリエーター情報なし
久山社
わたし (かがくのとも傑作集―わくわくにんげん)
クリエーター情報なし
福音館書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする