現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ヤングケアラー(若年介護者)

2020-08-31 08:25:06 | 作品

優香は中学三年生。ジャニーズ事務所のアイドルグループが好きな、ごく普通の女の子だ。

学校の休み時間には、クラスの女の子たちと、ネットや雑誌で仕入れたお気に入りのメンバーの噂話で盛り上がっていた。
しかし、優香には、クラスの他の子たちとは違う点がひとつだけあった。
 それは、クラスメートがどんなに誘っても、放課後は寄り道せずにまっすぐ家に帰ることだ。
学校では禁止されているけれど、他の子たちは、時々はコンビニやファンシーショップやショッピングセンターなどに寄り道している。
でも、優香だけは、それに加わらなかった。
 もちろん、部活は帰宅部だったし、塾にも通っていない。
「まったくユウったら、付き合いが悪いんだから」
 みんなに文句を言われても、
「ごめーん」
といって、先に帰ってしまう。
 しかも、その理由を誰にも話さなかった。
実は、優香は、自宅でおとうさんを介護していたのだ。
優香の帰宅を待って仕事に出るおかあさんと交代しなければならないから、帰宅を急いでいたのだ。

おとうさんは、五年前の四十八歳の時に、若年性認知症を発症していた。

その後、なんとか二年間は会社に勤めていた。
でも、その間に症状が悪化して、とうとう休職を余儀なくされてしまった。
おとうさんが休職中は、母親が自宅で介護していたので、優香には過度な負担はなかった。せいぜいおかあさんの代わりに買い物へ行ったり、ご飯の支度をしたりするぐらいだ。
おとうさんが休職している間は、健康保険組合から傷病手当金というお金が出ていた。
給与の85%ももらえたので、おかあさんが働かないでも、そのまま生活をすることができた。
 しかし、二年間の休職期間が過ぎると、おとうさんは退職しなければならなくなった。
その間に認知症の進行を抑える治療は受けていて、会社には復職の希望は出したのだが、こうした休職者が復帰する際の条件は思いのほか厳しかった。会社には、若年性認知症を発病した社員に対応する体制は、まだ整備されていなかった。
 それでも、会社からは、退職金以外に見舞金まで出た。
しかし、それだけでは生活を賄えなかった。
 それに、優香や弟の俊平の将来の学資に、それらのお金は取っておかなければならない。
 そのため、今は母親が働いて、生活を支えなければならなくなっている。
おかあさんは、昼間は今まで通りにおとうさんの介護をしていたが、夕方から深夜まではコンビニで働いている。それまで専業主婦だったおかあさんには、就職に有利な資格などなかった。
 優香は、学校から急いで帰ると、出勤するおかあさんと入れ替わりにおとうさんの介護をしている。
 夕食の支度、食事の補助、トイレの補助、着替え、入浴の補助、洗濯など、やらなくてはいけないことは山ほどあった。
 おかあさんが帰ってくる深夜になって、大急ぎで自分が入浴してから、ようやく寝ることができる毎日だった。
 とても、勉強をしている暇はなかった。
 弟の俊平も、学童クラブから帰ると手伝ってくれたが、まだ小学三年生なので、簡単なことしかできなかった。夕食の配膳や、優香が手の離せない時に、おとうさんの相手をするくらいだった。
優香は、父親っ子でおとうさんの事が大好きだったので、介護自体は嫌じゃなかった。
優香の悩みは、宿題や受験勉強をする時間がないことだ。
 それに、いつも寝不足なので、学校も遅刻しがちだった。
 経済的な理由もあり、今の優香には将来の進路に、希望がぜんぜん持てなかった。

 二学期になると、進路相談についての三者面談が行われることになった。
 しかし、優香の場合は、おとうさんの介護があるので、おかあさんは三者面談にも出られなかった。
そのこと自体は、大きな問題ではなかった。優香の家庭の状況は、去年の途中から優香が本格的な介護を始める時に、おかあさんから担任に説明してあった。そのため、本来はこの学校にはない帰宅部も、優香の場合は特例として認められていたのだ。
 優香の志望校は、地元の公立高校だった。
その学校に、特別な魅力を感じていたわけではない。現実問題として、授業が終わってから、おかあさんが仕事へ出かける前に帰宅できるのは、その学校しかなかったからだ。
その学校のレベルはそれほど特に高くなく、二年生のころまでの優香の成績だったら十分合格できるはずだった。
二人だけの三者面談が始まった。
 担任の宮本先生は、最近の優香の成績と、それによる志望校の合格確率について、データを使って説明してくれた。
 優香の成績は、介護を始めてから目に見えて下がっていた。二年生の時の内申点は、介護を始める前の貯金もあってそれほど悪くなかった。
 しかし、本格的な介護が始まった三年の一学期の成績は大幅に下がっていた。内心で重視される時だっただけに痛かった。それに、二学期もそれを回復できる見込みは全くなかった。
 合計の内申点が悪いので、宮本先生の分析では、志望校に合格できる確率はかなり低かった。
「あなたの置かれている状況は、本当に気の毒だと思っています。でもね。今の入試制度では、そういったことは一切考慮されないのよ」
 担任の山本先生はそう言って、優香に志望校のランクを落とすように指示した。もともと、経済的な理由で優香の場合は私立高校を受ける選択肢はなかった。そのため、先生がますます公立校の受験には慎重にならざるを得ないのも、その理由だった。
 ショックだった。
 その学校が嫌なのではない。そもそも、そういったえり好みをしている状況ではないのは、優香も十分承知していた。
 それよりも問題なのは、その学校だと、自転車を使っても通学に三十分以上かかってしまうことだ。これでは、おかあさんが仕事に出るのに間に合わない。徘徊する可能性のあるおとうさんを、その間、家に一人っきりにしなければならなくなる。 

「それじゃ、おとうさんをお願いね」
 すでに身支度を済ませていたおかあさんは、大急ぎで帰宅した優香にそう言うと、入れ替わりにあわただしく仕事に出かけていった。
 三者面談での志望校変更について、おかあさんと相談する余裕はまったくなかった。
 おかあさんが帰ってくるのは、12時過ぎだ。いつも疲れ切って帰ってくるおかあさんには、その時もとても言えやしない。ましてや、学校からの帰宅が大幅に遅れることになるのは、おかあさんの仕事にも大きな影響が出るだろう。優香だけでなく、おかあさんにもショックに違いない。
 優香は、着替えもせずに、最近はあまり使わなくなった勉強机の椅子に、ぼんやりと腰を下ろしていた。
 本当だったら、いつも早い時間に食事をしたがるおとうさんのために、すぐに着替えて、夕ご飯の支度にかからなければならなかった。
 でも、今日だけはそのエネルギーがわいてこなかった。
 こんな時、(電話かLINEで、愚痴を聞いてくれる友だちがいたらなあ)と、優香はつい思ってしまった。
 介護をするようになってからいつも一緒に遊べなくなったので、いつのまにか親しい友達がいなくなっていた。
「………」
おとうさんが、大声で何か叫んでいるのが聞こえてきた。
「はーい。今、行きます」
 優香は努めて明るい声を出して、おとうさんの部屋に向った。

      

 

 

 

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となりのトトロ

2020-08-30 09:47:42 | 映画

1988年公開の、言わずとしれたジブリのヒット作品です。

しかし、公開当時は、中編二本(同時上映は「火垂るの墓」)同時上映で、どちらも娯楽性も乏しいこともあって、興行的には不振だったようです。

 しかし、キネマ旬報の一位を始めとして各種の映画賞を受賞したため評価が定まり、さらにテレビで再三ノーカット放送(上映時間が88分なので、通常の放送枠で可能です)されて毎回高視聴率を獲得して、ジブリの年少者向けアニメの決定版になりました。

 この作品を評するのに、昭和三十年代前半の田園地帯(埼玉県所沢市周辺だと言われています)を舞台に、日本の原風景を描いたとよく言われます。

 たしかに、当時は高度成長時代が始まった頃で、日本人の大半が農民でした。

 一方で、作品が公開された1988年はバブル経済最盛期です。

 このバブル景気を当時支えていた四十代が、この映画のターゲットの観客である子どもたちの親の世代にあたるわけで、彼らの原風景である昭和三十年代前半の田園地帯を、自分の子どもたちと共有する働きをしたかもしれません。

 それから三十年がたち、彼らの多くは七十代になりました。

 私の住んでいる地域は、この映画が公開された頃の新興住宅地なので、ちょうどこの世代の人たち(多くは地方出身者)がたくさん住んでいます。

 会社などをリタイヤした彼らの多くは、近隣に畑や田んぼを借りて、いそいそと農作業に励んでいます。

 一方で、児童文学的な観点で言えば、この映画はすべての「大人」たちの原風景である「子ども」を、鮮やかに描き出しているとも言えます。

 残念ながら男の子の描き方は類型的なのですが、さつきもめいも、典型的なこの時期の少女と幼女を見事に描き出していると言えるでしょう。

 もちろん、トトロを始めとして、マックロクロスケやねこバスなどのキャラクターも、非常に魅力的なのですが。

 

 

 

 

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病院

2020-08-29 13:31:38 | 作品

 学校の帰りに、おかあさんのお見舞いに病院へ行った。

おかあさんは、先月から内臓の病気で入院している。仕事と家事におわれて、働きすぎたったのが原因のようだった。ぼくの家にはおとうさんがいなかったから、おかあさんが一人でがんばりすぎたのかもしれない。
入院するときにおかあさんと一緒に行ったけれど、一人で病院へ行くのは初めてだった。
 病院は、通学路から外れて大通りを越えたところにある。歩いていくと、学校からもぼくの家からも十分ちょっとかかる。
 病院の建物は、古い木造だった。廊下も階段も、歩くたびにギシギシなった。階段の真ん中あたりは、すりへってへこんでいる。
 二階の一番奥が、おかあさんの病室だった。入り口には、その部屋に入院している人たちの名前がはってある。
 石川雅美。それがおかあさんの名前だ。
部屋には、ベッドが四つあった。おかあさんのベッドは、窓際の左側だった。
病室の中はシーンと静まり返っていた。病人たちはみんな眠っているようだった。
 ぼくは、まわりの人に迷惑がかからないように、忍び足で近づいていった。
 おかあさんは、じっと目をつむって眠っていた。顔色が真っ黄色で、何だかしなびてしまったように見える。ぼくは、おかあさんの髪の毛にずいぶん白髪がまじっていることに、初めて気がついた。
(どうしようか?)
と、ぼくは困ってしまった。
 せっかく良く寝ているのに、おかあさんを起こしてしまうのは悪いと思う。
 でも、そばで目を覚ますのを待つのも、なんだか恐ろしいような気がした。
迷った末に、ぼくは一階の待合室で、おかあさんが目を覚ますのを待つことにした。家から持ってきた着替えの包みを、ベッドに作り付けになっているテーブルの上に置いて、また忍び足で病室を出ていった。 

 待合室には、いろいろな人たちがいた。
 頭に包帯をグルグルまきにしたおじさん。移動式の点滴を付けたままのおばさん。
 この病院は全館禁煙なので、タバコを吸っている人はいない。タバコを吸うには、建物の外まで出なければならなかった。おかげで、ぼくの嫌いなタバコの煙に悩まされることはなかった。
 みんなは、ぼんやりとテレビを眺めていた。テレビでは、時代劇の再放送をやっている。古いテレビのせいか、画面の色がにじんでいる。画面も上下が黒くなってその分小さくなっていた。
 ぼくは、ソファーの端に腰を下ろした。時代劇には興味がないので、ランドセルからコミックスを出して読み始めることにした。
 ウーーン、ウーーン。
 突然、どこからかうめき声が聞こえてきた。ぼくは、コミックスから顔を上げた。どうやら近くの病室からのようだ。
「かわいそうにねえ。まだ若いのに」
 点滴のおばさんがいった。
「頭に水がたまって苦しいんだってよ」
 包帯のおじさんが答える。
 ぼくは体を縮めるようにして、またコミックスを読み始めた。
「ねえ、ぼく何年生?」
 点滴のおばさんが話しかけてきた。
「三年です」
「そうかい。誰か入院してるの?」
「おかあさんが」
「そうかい、そうかい。大変だねえ」
 おばさんは、一人でうなずいていた。

 ピーポ、ピーポ。……。
 救急車のサイレンが鳴り響いてきた。
「急患でーす」
お医者さんや看護士さんたちが、あわただしく走りまわっている。
「交通事故です!」
 誰かが叫んだ。
「ストレッチャー!」
 ガチャーン。
 非常ドアが力いっぱい開けられて、救急隊員たちが入ってくる。移動式のベッドのような物の上には、患者さんが乗っているようだが、ぼくは怖くてそちらが見られなかった。
「ICU(緊急治療室)へ!」
 看護士さんが叫んでいる。みんなはすごい勢いで、ぼくのそばを駆け抜けていった。
「ぶっそうだねえ」
 包帯のおじさんがいった。
「おお、やだやだ」
 点滴のおばさんは、肩をすくめている。
 ぼくはそんな騒ぎの中で、みんなから隠れるように首を縮めて、じっとコミックスを見つめていた。
 でも、なかなかキャラクターもストーリーも頭に入ってこなかった。

「たけちゃん、やっぱり来てたのね」
 顔を上げると、おかあさんが立っていた。ピンクのガウンをはおって、水色のスリッパをはいている。
 かあさんの顔色は、やっぱり黄色っぽかった。
 でも、いつものやさしい笑顔を浮かべていた。
「うん」
 ぼくもけんめいに笑顔を見せようとしたが、うまくいかなかった。
「どうしたの? 何か怖いことでもあったの?」
 おかあさんが心配そうにたずねた。ぼくの顔が、こわばっていたからかもしれない 
「ううん」
 ぼくは、首を横に振った。さっきまでの恐ろしかった事は、おかあさんには言いたくなかった。
「もう、一人では来なくてもいいよ。世田谷のおばさんが来られる時に、一緒に来ればいいんだから」
「うん、わかった」
 ぼくはコクリとうなずくと、一番聞きたかったことをおかあさんにたずねた。
「おかあさん、おかあさんは絶対に死なないよね」
「うんうん、たけちゃんを残して死んだりしないよ」
 おかあさんは、笑いながら答えてくれた。ぼくは、そんなおかあさんの顔をじっと見つめた。

      

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登校拒否

2020-08-27 13:37:32 | 作品

 目が覚めてもあたりは真っ暗だった。雨戸を閉めた窓には厚手の遮光カーテンをぴったりと閉ざしてあるので、外部からの光は一筋も差し込んでいない。

 今が何時なのかわからない。枕元に置いた携帯を見ると、もう八時を過ぎている。本当ならば、もう学校に行かなければならない時刻だ。
 でも、浩紀はもう二カ月以上も学校へ行っていなかった。
 今年の四月に、浩紀は中学に入学した。当初は、浩紀もそれなりに中学での新しい生活に期待していた。新しい友だちも作りたいし、部活にも入りたかった。
 ところが、その期待はあっさりと裏切られてしまった。授業の内容は、小学校の時と同様によくわからなかった。部活も少子化の影響で数が少なく、入りたかった野球部は三月いっぱいで廃部になっていた。
 そうこうしているうちに、浩紀はだんだん学校へ通えなくなってしまったのだ。
 理由は浩紀にもよくわからない。もしかすると、クラスを牛耳っていた他の中学から来た子たちになじめなかったからかもしれない。
学校へ行かれなかったのは、初めは月曜日だけだった。毎週、日曜日の午後から調子が悪くなる。それがだんだんひどくなり、月曜日の朝は起きられない。そのため、学校を休むことになってしまった。
初めのころは、月曜日の午後になると元気になっていた。だから、火曜日からは、なんとか学校に通えたのだ。
ところが、調子の悪いのが、火曜日、水曜日とだんだん長くなっていった。そして、七月ごろには、ほとんど学校に通えなくなってしまっていた。
夏休みをはさんで、二学期になってからは一日も学校へ行っていない。
 トントン。
 ドアが軽くノックされた。
「おはよう。ヒロちゃん、ごはんができているわよ」
 ドアが開いて、明るい光とともにおかあさんが顔をのぞかせた。
「はーい。今行く」
 浩紀は、ベッドから体を起こした。
 最近は、朝、昼、晩ときちんと食堂で食事をしている。
 学校へ行かなくなったころは、昼過ぎまで寝ていたが、このころはだんだん規則正しい暮らしになっている。夜は十二時前には寝ているし、朝は八時ごろには起きていた。
 初めは自分の部屋にこもりっきりだったが、今では家の中ならどこでもいけた。さすがに外に出ることはなかったが。
浩紀がまったく学校へ行かなくなったころ、時々学校の先生たちが家にやってきた。主には、担任の青木先生と副校長先生だった。
そのころは、浩紀の両親は、なんとかして浩紀を学校に通わせようとしていたので、どうしたらいいか相談するためだった。
「浩紀くんも一緒に話をしよう」
 青木先生は浩紀の部屋の外まで来て声をかけてくれたが、浩紀は部屋にこもったまま先生たちには会わなかった。
 浩紀の両親は、こちらからも学校や教育委員会に出かけていって、相談していたみたいだ。青木先生も一緒に相談にのってくれていたらしい。

 ある日、夕食の時に、おかあさんがいった。
「ヒロちゃん、明日、病院に行ってみない?」
「なんで?」
 浩紀は、ハンバーグをほおばりながら聞いた。ずっと家にこもりっきりで運動不足なのに、食欲は旺盛だった。おかげでだいぶ肥ってしまった。
「ヒロちゃんみたいに、学校へ行かれない子に詳しい先生がいるのよ」
 どうやら、相談の結果、本人を連れて専門家のいる病院へ行くことになったのだろう。
「ふーん。別にいいけど」
 浩紀だって、できたら学校に行きたかった。だから、病院でそういうのが治るのなら、行ってみても良かった。
病院へは、おかあさんと一緒に駅からバスに乗っていった。
その病院は、大学の付属病院だった。明るく広々としていていい感じだった。
総合受付でおかあさんが手続きをしてから、「心療内科」と看板の出ている部屋の前に行った。
「お願いします」
 おかあさんが、そこの受付にいた女の人に診察券を出した。
「5番のドアに入って、中の待合室でお待ちください」
 浩紀がおかあさんといっしょに中に入っていくと、そこにはソファーが置かれていて、先客が五、六人座っていた。
「市川さん」
 しばらくして、診察室の中から名前を呼ばれた。
 おかあさんと一緒に中に入ると、眼鏡をかけた中年の白衣を着た男の人が、パソコンに向かって座っていた。
医師は、浩紀とおかあさんにいろいろと質問した。そのうえで
「良く眠れているようですし、食欲もある。薬は必要ないでしょう」
「はあ」
おかあさんは少しがっかりしたみたいだ。もしかすると、何かすごく効き目のある薬を出してもらって、浩紀がまた学校に行かれることを期待していたのかもしれない。
「おかあさんも、まわりの方々も、無理に学校へ行かせずに、しばらく浩紀くんをほうっておいてください。その方が自分で立ち直れるようになりますから」
と、医師はアドバイスした。
浩紀の家では、おとうさんだけでなく、おかあさんもフルタイムで働いている。小学校の低学年の時は、学校が終わると学童クラブへ行って、放課後の時間を過ごしていた。
浩紀が登校拒否になってからは、おかあさんは仕事を休まなければならないことが増えていた。
おかあさんによると、そのことで、どうやら会社での立場が悪くなっているみたいだ。
「おねえちゃんの時はこんな問題はなかったのに」
と、おかあさんが愚痴をこぼしていた。
 高校生のおねえちゃんにも、
「いいなあ、浩紀は。毎日お休みで」
と、時々嫌味をいわれていた。

 薬はもらえなかったけれど、お医者さんから正式に学校を休むことのお墨付きをもらったことは、浩紀にはプラスに働いた。
 家族が愚痴や嫌味を言うことはなくなったし、浩紀自身も気持ちが落ち着いた。
「学校へ行かせなければ」とか、「学校へ行かなくっちゃ」とかいうプレッシャーがなくなったせいかもしれない。
学校に行かなくなったころは、みんながいない時には、浩紀は居間でぼんやりテレビを見ているだけだった。
でも、最近は、本を読んだり、勉強したりもしている。
(学校の勉強がますます遅れてしまうんじゃないか)
と、かなり気になってきたのだ。
青木先生が、定期的に学校のお知らせや勉強のプリントなどを届けてくれていたので、勉強の進捗状況は分かった。前から、学校の授業に合わせた通信教育に入っていたので、それを使って自分勉強できた。学校に行っていたころは、それらの教材をほとんどさわりもしなかったので、なんだか不思議な気分だ。
「元気にしてる?」
「今日の給食はカレーだったよ」
などと、クラスメートからもこちらの様子を尋ねたり、学校の様子を知らせたりするようなメールがくるようになった。
 今までは、腫れ物に触るようにそっとしていて、たまに「早く学校に来られるようになるといいね」って感じのメールが来るだけだった。
どうやら、青木先生がおかあさんからお医者さんが言ったことを聞いて、みんなに知らせてくれたみたいだった。

 目を覚ました。今日も真っ暗だ。枕元の携帯を見ると、まだ、七時前だ。
「よし、今日だ」
浩紀は、思い切って久しぶりに登校してみることにした。
「おかあさーん。朝ごはん、早くして」
 ドアを開けて大声で叫んだ。
「どうしたの?」
 おかあさんが台所から飛んできた。
「学校へ行こうと思うんだ」
と、浩紀がいうと、
「ええー!」
 おかあさんは驚いていた。
 浩紀は、家を出るとどんどん学校に向かって歩いて行った。
「おはよう」
 校門の所で女の子に声をかけられた。
「お、おはよう」
 浩紀も小さな声であいさつした。女の子は、浩紀に向かってニコッとほほえんだ。たしか同じクラスの柳下愛美さんだ。前にメールも送ってくれたことがあった。
 浩紀は、下駄箱から上履きを出してはきかえた。三ヶ月ぶりなのに、ちゃんと上履きがあったのがなんだか嬉しかった。
 廊下を自分のクラス、一年二組にむかって歩き出した。
クラスが近づくにつれて、ドキドキしてくる。
教室が見えた時、浩紀はクルリとまわれ右をしてしまった。
浩紀は、そのまま保健室にいった。
ドアを軽くノックすると、
「どうぞ」
 中から声がした。たしか養護の花岡先生だ。
 花岡先生は、こういう生徒には慣れているのか、浩紀の面倒をよく見てくれた。
 浩紀はしばらくベッドで休んだ後は、花岡先生とおしゃべりして時間をすごした。
担任の青木先生も、保健室に様子を見に来てくれた。
「元気?」
休み時間には、クラスメートたちも、保健室をのぞきに来た。その中には、柳下愛美もいた。
お昼には、当番の子が保健室に給食を運んでくれた。浩紀は、久しぶりに給食を食べた。食欲も上々で残さずに食べられた。
 浩紀が保健室登校をするようになってから、二週間がたった。
 浩紀はだんだん元気になって来ていた。
ある日、ようやく自分の教室に戻ることができた。
パチパチパチ……。
クラスメートたちが、拍手で浩紀を迎えてくれた。

      

 

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双頭山攻防戦始末記

2020-08-26 09:50:40 | 作品

 若葉小学校の校庭を東西からはさむように、二つの小山があった。もともとは山というよりは名もない小さな丘にすぎなかったが、最近になってポコッと名前がついた。
 校庭の西側の丘は白頭山。東側は赤頭山という。二つまとめて双頭山と呼ばれている。
 白頭山は、校庭から自然観察林をへだてた向こう側にあった。名前の由来は、どういうわけか、頂上付近にシラカンバが数本生えていて白っぽく見えるところからきている。
自然観察林というのは、自然の草花を観察したり、原木に菌をうえてシイタケを育てたりする場所だ。校庭からは、丸太で作った階段が、谷へ向かって降りていっている。観察林のひろがる谷からその向こう側の白頭山へは、一面熊笹でおおわれた急な斜面を登っていかなければならない。
 白頭山の頂上へは、三方から道が続いている。ひとつは、バスの折り返し場の奥にある石段への道。それは頂上を抜けて、反対側の八潮公園の裏側へとつながっている。もうひとつは、頂上からやや下がった所から右へと折れる小道で、これは谷津公園に降りていく道だった。
 対する赤頭山は、秋になると紅葉する木が多いことから名付けられた。
赤頭山は東から北側をへて西まで、三方をグルリと小道に取り囲まれていた。小道は、片栗公園と小栗公園、それに若葉地区の中心にあるショッピングセンターを結んでいる。残りの南側は、小さな池をはさんでバス道路に面していた。
 いずれの山も、新興住宅地の若葉地区が開発されたときに取り残されて、自然のままの姿で残っている。なんでも噂によると、これらの山の持ち主はすごいケチで有名なのだそうだ。最後までしつこく値段をつり上げたので、とうとう開発業者が買い上げるのをあきらめて、そのまわりをぐるりと取り囲むように開発したのだという。
 でも、そのおかげで若葉小学校は、自然に囲まれたすばらしい環境の中に建っていた。

 そもそもの発端は、カッチンこと、野村和也にあった。カッチンは若葉小学校の6年2組の児童で、今の男の子には珍しく本の虫なので図書委員をやっている。なにしろ、学校の往き帰りも本を持って歩いているので、ランドセルを背負ったその姿は校庭の片隅にある「二宮金次郎」の生き写しと言われているほどだ。
歴史小説好きで三国志マニアであるカッチンは、自分のことを蜀の軍師、諸葛亮孔明の生まれ変わりとかたく信じていた。そこで、「千年に一度の大才」と自称している。
 ある日、カッチンは、白い布に「白頭山」と大書した旗を作った。この軍師は、小さいことから字の上手なおじいちゃんから習ったおかげで、習字も得意なのだ。
 それをもって自然観察林の裏山へ行くと、頂上にある松にスルスルと上った。この軍師は、習字が得意なだけでなく、木登りも得意だった。
 カッチンは、「白頭山」の旗を松のてっぺんに結わえ付けた。そして、ここにこの山が「6年2組王国」の領地であることをおごそかに宣言したのだ。
 白は2組のチームカラーで、運動会では全学年の2組が白組となっていた。ちなみに若葉小学校は小さな学校なので、各学年とも2クラスしかなかった。
 この知らせは、心ある6年2組の男子たちをおおいに喜ばせた。カッチンのもとには、続々と王国への参加者が集まってきたのだ。彼らはカッチンのようには本は読まないが、全員ゲーム好きだったので、「三国志」は歴史シミュレーションゲームでお馴染みだったのだ。
いや、参加したがったのは6年2組の児童だけではない、他の学年の2組からも、王国の国民になりたいとの希望が次々によせられてきた。
 カッチンは、すぐに王国の名前を「2組王国」に改め、他の学年の子たちも受け入れた。一週間もたたないうちに、「2組王国」の国民は50名を越えた。

 そんな「2組王国」の誕生を面白く思わない勢力があった。
もちろん、1組の男子たちだ。
やっぱり男の子たちにとっては、こういった「王国ごっこ」はえもいわれぬ魅力があるらしい。彼らは、「2組王国」の出現に対して、ずいぶん悔しい思いをしていたようだ。
しかし、1組にも、カッチンたちに負けないようなガッツを持った連中がいたのだ。
「オオッ!」
 次の月曜日に、登校してきた2組の男の子たちは、反対側の東の小山を見て驚いた。「白頭山」よりも大きな赤旗が、てっぺんにひるがえっていたからである。旗には、「赤頭山」と黒々と書かれている。もちろん、赤は1組のチームカラーだ。
 1組の有志たちは、この山が「1組王国」の領土であると、おごそかに宣誓した。
 こうして、双頭山攻防戦は、火ぶたをきっておろそうとしていたのだ。
しかし、残念ながら、両方の「王国」ともに、国民には一人の女子もいなかった。どうやらこういったことを喜ぶのは、男の子のだけのようだ。
 女の子たちは、
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
「まるで、子どもね」
と、この「王国ごっこ」を軽蔑していた。
 こうして、双頭山攻防戦は、男の子たちの間だけで行われることになった。

OK4.攻防戦
 カッチンは、学級委員のムラマサこと村山勝(まさる)に、2組王国の領主になることを依頼した。
王国ごっこにすでに夢中になっていたムラマサは、もちろん快諾した。
 カッチンは、すぐにムラマサに頼んで、自分を念願の軍師に任命してもらった。
 さらにムラマサに、2組の男子の参加者全員に、征東将軍だの征北将軍だのの位をさずけさせた。
 また、カッチンは、自ら使者になって1組へ向かうと、彼らと戦闘のルールについて話し合った。
 戦闘は、撃ち合いと斬り合いと組みうちとにわかれる。
 撃ち合いは、もちろんエアガンだ。目に当たるとあぶないので、両軍の狙撃隊は必ずサバイバルゲーム用のゴーグルをつけることになった。また、ゴーグルをつけていないその他の軍勢には射撃をしてはいけない。弾があたった者は、いったん自分の陣地までもどらなければならない。こうして、校庭や自然観察林には、無数のビービー弾がばらまかれることになった。
 剣を使った切り合いは抜刀隊の役目だ。斬り合いに使う剣は、自然観察林の枝打ちの時に切り落とされて、体育館裏に山積みになっていた細い枝で作ることになった。これも顔や頭はあぶないので、胴体や手足しか斬ってはいけない。斬られた者は、撃たれた時と同様に、いったん陣地に戻って復活しなければならない。
 組み打ちをやるのは白兵戦チームだ。組み打ちでは、パンチやキック、頭突きなどの打撃技は禁止された。相手を倒しておさえこんだ方が勝ちとなる。もちろん、これも負けた者はいったん味方の陣地に戻って復活しなければならない。
 攻防戦の勝敗は、相手の旗を先に奪うことによって決まる。木に登ろうとする者を、地面から引きずりおろすのはありとされた。だから、旗のついている木に取り付いて登り出すまでが実際の勝負だ。中には木登りの苦手な子もいたので、実際には木登りができるメンバーだけが、木登り隊としてこの最後の攻防に参加できる。
 でも、防御側は木に登ってはいけないことになっていた。さすがに、両者が途中でもみあって木から落下したら、けが人が出てしまう。だから、下から手が届かないところまで登ってしまえば、事実上旗は奪うことができる。手の届かないところまで登るスピードが勝負なので、木登り隊には両軍とも特に身の軽い子たちが選ばれていた。
 さっそく、その日の放課後から攻防戦が始まった。
 一年生から六年生まで、それぞれ五十名以上もの軍勢が参加しての戦闘は、なかなか壮観だった。
 両方の陣地の間のあちこちで、撃ち合いや斬り合いや組みうちが行われた。

  

 

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夏、小倉橋で

2020-08-20 18:12:55 | 作品

「よっちゃん、いくぞ」

 隣のレーンから、兄の正貴が声をかけてきた。芳樹は、緊張しながらコクンとうなずいてみせた。高い所が苦手なので、スライダープールは滑り出すまでの方が怖い。 
 ピッ。
 監視員のホイッスルを合図にして、二人は同時にスタートした。
 いったん滑り出してしまえば、もう平気だ。スピードを上げるために、両腕で懸命に手すりをこいでいく。
 中間にある段に着くまでは、だいたい二人は一緒だった。
 でも、そこからは、芳樹の方がスルスルとリードをひろげていく。
 バシャーン!
 下のプールで大きな水しぶきをあげたときには、1メートルぐらい差をつけていた。
「やりーっ!」
 芳樹がプールの中でガッツポーズをしていると、
「はい、そこの子。早く水から上がって!」
 監視員のおねえさんに、叱られてしまった。芳樹は、しぶしぶ水の中を端まで歩いていってプールから上がった。
「ちぇっ、よっちゃん、フライングしただろう」
 プールサイドに上がってから、正貴はそんな負け惜しみを言っている。
「してないよ。そんなら、もう一回やってやろうか」
 芳樹もプールサイドに上ると、すぐに言い返した。
「いいよ、もう。だって、あんなに並んでるんだぜ」
 正貴が、階段の方を指差した。確かにスライダープールには、いつのまにか階段の下まで行列ができている。それに、ノロノロとしか、前へ進まないようだ。
「けつがこすれて熱くなったから、冷やしてくるよ。おまえは、チビでヤセッポチだから、いいよなあ」
 そんな捨てゼリフを残して、正貴は走っていってしまった。五十メートルプールの方だ。芳樹も、ピョンピョン跳ねながら、その後を追っていった。プールサイドは、もう焼けつくように熱くなっている。足の裏がやけどしそうだ。いつもの年より一週間も早く梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきていた。
「アチチチーッ」
 五十メートルプールに、あわてて足から飛び込んだ。
「ほら、ぼく。飛び込みは禁止だよ」
 今度は、監視員のおにいさんに、怒られてしまった。
 芳樹はそれを無視して、構わずにどんどん泳いでいった。
 五十メートルプールの方も、すごく混み合っていた。まるで、学校の水泳の授業の時みたいだ。
(あっ!)
 スイミングで習ったクロールで泳いでいたら、すぐに人にぶつかっちゃった。これじゃ、五メートルと、まっすぐに泳げやしない。
 みんなを避けるようにして、ゴーグルをつけて水の中にもぐった。
 朝のうちは、陽の光がキラキラと差し込んでいて、水はとてもきれいだった。
 でも、人が増えてきたので、もう水の中は濁り始めている。
 それでも、水面を見上げると、太陽の光りがさざめいていて、なんだか別の世界に入ったみたいだ。
 芳樹は、立っているみんなの足をぬうようにして、あちこちと泳ぎ回った。
 プハーッ。
 息が苦しくなって、ようやく水面に顔を出した。あたりをキョロキョロしていると、プールの真ん中あたりに正貴が見えた。芳樹たちの少年野球チーム、ヤングリーブスのメンバーたちと、ビーチボールで遊んでいる。芳樹はクロールで泳ぎながら、正貴たちの方へ向かった。
「よお、よっちゃん」
 声をかけてくれたのは、四年生のトールちゃんだ。
「よっす」
 芳樹は、その場でジャンプしながら答えた。
 プールの真ん中の深さは、一メートルニ十センチ。つま先で背伸びをしたり、小さくジャンプしたりしていないと、芳樹の口や鼻は水の上に出ない。
「背の立たない人は、端の方で泳いでくださーい!」
 監視員のおねえさんが、メガホンで怒鳴っている。きっと芳樹のことだ
 でも、芳樹はその警告も無視して、そのまま正貴たちのそばにいた。

休憩時間になると、建物の横にある自動販売機コーナーは、急にごったがえしてくる。列が長くなって建物の影からはみ出すと、足の裏が熱くて立っていられない。
 芳樹は、正貴と交代で、床がぬれている所まで行って足を冷やしてきた。そこでは、プールサイドを冷やすために、ホースの水がチロチロと出しっぱなしになっている。
「よっちゃん、氷なしのボタン、忘れるなよ」
 メロンソーダのボタンを押そうとした時、後ろから正貴が言ってくれた。氷を入れると、その分ソーダやコーラが出る量が少なくなってしまう気がする。
「よっちゃーん!」
 後ろから、誰かが呼んでいる。聞き覚えのある声だ。
 でも、すぐには振り向けなかった。メロンソーダをこぼさないように、しかも足が熱いから素早くなんて、難しい歩き方をしていたからだ。
 ようやくビーチパラソルの下に飛び込むと、続いて女の子が駆け込んできた。同じ三年ニ組の裕香だった。トレードマークのポニーテールを、ピンクのスイミングキャップに押し込んでいたから、すぐには分からなかった。ヒラヒラ飾りのついた赤いチェックの水着が大人っぽくって、芳樹はドギマギしてしまった。
「来てたんだあ」
 芳樹は、まぶしそうに目を細めながら言った。
「うん、おとうさんと」
 裕香が指差す方を見ると、でっぷり太った男の人が日かげのベンチで雑誌を読んでいた。

 芳樹が裕香にまた話しかけようとした時、急に後ろから声がした。
「あっ、裕香ちゃんだーっ」
 振り向くと、高橋くんやしゅうちゃんたち、同じクラスの男の子が四、五人いた。
「ちょっと、ちょっと、裕香ちゃん」
 高橋くんは、いつものようにニコニコしながら近づいてきた。
「なあに?」
 裕香は、高橋くんの方を向いた。
「うん、しゅうちゃんがね、 ……」
 高橋くんは、ニコニコしたまま話し続けている。
裕香は、そのまま高橋くんたちに囲まれるようにして、話しながら向こうへ連れて行かれてしまった。
高橋くんは、芳樹の事なんかまったく無視しているようだった。
芳樹は、ぼうぜんとしてみんなを見送った。
「なに、ぼんやりしてんだ」
 正貴が、コーラを飲みながらやってきた。
「ううん、なんでもない」
 裕香の後ろ姿をもう一度見送りながら、芳樹はメロンソーダを一気に飲み干した。

 休憩時間のプールサイドは、こんなにいたかと思うほどの人たちであふれていた。
ビーチパラソルの下や日陰にレジャーシートを広げて、早くもお弁当をぱくついている家族連れ。大人たちは、泳ごうともせずに一日のんびりするつもりらしい。
 ビーチデッキにズラリと並んで、日光浴をしている男子高校生たち。横目で、水着姿の女子高校生たちを品定めしているらしい。
 それに、あちこち駆け回っている圧倒的多数の子どもたち。
 プールにきていたのは、芳樹のクラスの子たちだけではない。他の学年や別の小学校の子たち。それに、中学生たちもたくさんきていた。ここに来れば、誰かしら知っている子に会える。
 そう、やまびこプールは、小中学生のちょっとした夏の社交場になっていたのだ。
 なにしろ、大人は三百円だけど、小中学生は百五十円で一日遊べる。しかも、今日のような日曜日には、学校のそばから無料の送迎バスまでが出ていた。こんな素敵な場所なんて、他には絶対にない。
 芳樹たちは、プールのはずれに敷いておいたビーチタオルの所まで戻った。
 そこからは、鉄柵越しに外が見える。すぐ下には、相模川がゆったりと流れている。まわりは緑の木々におおわれなかなかいい眺めだ。
 芳樹たちは、ビーチタオルの上に横たわって、休憩時間をのんびりと過ごしていた。眼の上には、真夏の青空が広がっている。所々、むくむくとした白い雲がわき起こっていた。
 休憩時間の終わりが近づいてきた。芳樹と正貴はビーチタオルから起き上がると、プールサイドへ歩いていった。
開始時間を待ち切れずに、いつのまにか子どもたちはプールのそばまで集まってきている。もちろん、芳樹も正貴と一緒に並んでいた。
 でも、監視員のホイッスルが鳴るまでは、水の中には入れない。
「白い部分には、まだ乗らないでくださーい!」
 監視員のおにいさんが、大声で怒鳴った。みんなは、少しだけ足を引いた。なんだか監視員にわざとじらされているような気分だ。
 プールサイドを、グルリと取り囲んで白く塗られた排水口がある。そこのギリギリに、みんなは足を並べている。
 ピーッ。
「ワーッ!」
 歓声をあげながら、みんなは派手にしぶきをあげながらプールになだれ込んでいった。
「急げ!」
 正貴が、芳樹に声をかけながらプールの中ほどに泳いでいく。
「待ってよお」
 芳樹もあわてて追いかけていった。

 プールが終わる四時半を過ぎると、更衣室は大混雑になっていた。
出口の所で、芳樹はようやく正貴に追い付く事ができた。自動販売機で、コーラを買っている。コインロッカーから戻ってきた百円での、最後のお楽しみだった。
 正貴の顔や腕は、今日一日ですっかり日に焼けていた。芳樹の腕だって、負けずに同じように黒くなっている。コインロッカーのキーのゴムバンドの所だけが、白いままだ。
(あれ?)
 芳樹は、それを見てハッとした。コインロッカーの百円玉を、取り忘れていたのだ。
(106、106、……)
 あわてて、更衣室に駆け戻った。
 でも、百円玉は返却口にはなかった。
 まわりに落ちてないかと、床やスノコの下まで捜してみた。
 でも、やっぱり見あたらない。
(誰か、拾ってくれたのかなあ)
 芳樹は、あわてて受付へ駆けていった。
「すみませーん」
「なあに?」
 親切そうなおばさんだったので、少しホッとした。
「ロッカーの鍵のとこに、百円玉を忘れちゃったんですけど」
「えーっと、……、届いてないわねえ」
 落し物入れをチェックしてくれたおばさんは、なんだかすまなそうな顔をして言った。
 またロッカーに引き返そうとした時、壁の時計が目に入ってきた。
 四時四十八分。最終のバスは五十分に出てしまう。残念だけど、百円はあきらめなければならなくなった。
 芳樹は急いでビーチサンダルをはいて、バスに向かって駆け出していった。
「おーい、おそいぞお」
 バスの後ろの方から、正貴が手を振っていた。
「百円、なくしちゃったあ」
 一番後ろの席に腰を下ろしてから、芳樹がポツリと言うと、
「どうしんだよ?」
 正貴が、ひとつ前の席から振り返った。
「コインロッカーのやつ、取り忘れちゃったんだ」
「なんだあ。それじゃ、きっと誰かにネコババされちゃったんだよ」
 正貴は、コーラをチビチビ飲みながらそう言った。いつもわざと少しずつ飲んで、先に飲み終わってしまう芳樹に見せびらかすんだ。
「そんなあ、ぼくのお金なんだよ」
 そう言いながら、ひと口でもいいから飲ませてくれないかと、正貴のコーラをじーっと見ていた。
「まったく、どじだなあ」
 正貴はうまそうな顔をして、とうとうコーラを飲み干してしまった。
(あーあ、ひと口ぐらい飲ませてくれたっていいのに)
 そう思ったら、こらえていた涙がポロリとこぼれてきた。
「すみませーん!」
 その時、運転手さんにペコリと頭を下げながら、裕香がバスに乗り込んできた。
「あった、あった! やっぱり洗面所だった」
 右手のミニーのハンカチを、隣の女の子に見せている。
 裕香に涙を見られないようにと、芳樹はあわてて窓の方を向いた。

 バスが走り出してすぐに、前方に小倉橋が見えてきた。コンクリートの古い橋で、下を流れる相模川からは、三十メートル以上の高さの所にかかっている。
 去年の夏休み、河原で行われた花火大会に、おとうさんに連れてきてもらったことがあった。夜になると、四つ連なったアーチ型の橋脚が、ライトに照らし出されてとてもきれいだった。
 今日はその河原で、大勢の人たちがバーベキューでもやっているようだ。車やテントがまるでLEGOでできているかのように小さく並び、その周りにはたくさんの人たちが群がっている
 でも、誰一人として水の中には入っていない。
 向こう岸には、「遊泳禁止」と書いた大きな看板が見える。すぐそばにダムの放出口があるので、ここでは泳げないのだ。
 バスは左に大きくカーブして、橋の上に差し掛かった。
 橋の横幅はすごく狭い。ミラーをこすりそうにして、車二台がぎりぎりにすれ違えるぐらいだ。バスなんか一台でいっぱいだ。
 もちろん歩道なんかないから、歩行者も車道を歩かなければならない。前や後ろから車が来ると、欄干にへばりつくようにしてやり過ごしている。 
 反対側からの車が、橋の途中の両側がややふくらんだ場所に停まって、バスを待っていた。そこだけは、バスやダンプカーなどとでも、なんとかすれ違える。
 バスは左側ぎりぎりに車体を寄せて、ゆっくりゆっくりと進んでいく。
 なるべく窓の方を向かないようにしていたけれど、ついつい横目で外を見てしまった。こうしてみると、やっぱり川までは目もくらむような高さだ。河原の人たちが、まるでアリみたいに見える。
 芳樹は思わず腰を浮かせて、シートの真ん中よりに座り直した。
「まったく弱虫だなあ」
 正貴が、振り返って笑っていた。
(裕香ちゃんにも、恐がってるのがばれちゃったかな)
と、前の方をそっとうかがってみた。
  でも、裕香は隣の子と夢中で話していて、芳樹がいることにすら気づいていないようだ。
 なんだかほっとしたような、少しがっかりしたような妙な気分だった。
 芳樹の「高所恐怖症」は、小さいころからずっとだった。山の展望台、ビルの屋上、とにかく高い所はどこでも苦手なのだ。そんな場所がテレビに映っただけでも、足が震えて下腹がキューンとしてしまう。まるでおしっこをちびってしまいそうな気分だ。
 中でも、苦手なのが観覧車。
それに比べれば、ジェットコースターなんかの方がむしろましなくらいだ。タンタンタンと音を立てて上っていく時は、さすがにいやな気分がする。
 でも、その間は安全バーにしっかりつかまって足元をじっと見てやり過ごせばいい。頂上につくと、一瞬あたりは静かになる。と、次の瞬間、ゴーッと猛スピードで上下したり、左右に振り回されたりしてしまう。そんな時は、懸命にバーにしがみついているだけで、高さをしみじみと恐がっている暇なんかない。
 それに引き換え、観覧車の方はじっくりじっくりと高くなっていく。地上からだんだん遠ざかっていく時のあの心細さ。それに連れて、下っ腹はだんだん重苦しくなってしまう。頂上付近に着くと、なんだか動いているんだか停まっているんだかわからないぐらいに、動きがゆっくりになる。高い所が大好きな正貴は、やれ富士山が見えるだの、新宿の高層ビルはあっちだのと大はしゃぎしている。
 でも、芳樹はその間じーっと下を向いたままで我慢しなければならない。
 運の悪い時には、上空で風が吹いてきてゴンドラが大きく揺れたりした。そんな時などは、まるで生きた心地がしない。面白がってあちこち移動してわざと揺れを大きくしたりする正貴を、ぶんなぐってやりたいくらいだ。ようやく地上に戻ってきて地面に足を降ろした時には、本当にホッとしていた。
 やまびこプールのスライダープールも、上まで登る時が苦手だった。鉄製の階段はまわりがむき出しで下が丸見えなので、足が震えてきてしまう。
 でも、去年、正貴が特訓してくれたおかげで、なんとか大丈夫になった
 そんな芳樹にとって、小倉橋は大好きなやまびこプールの前に立ちふさがる恐怖のゴールキーパーのような物だった。

 次の日も、朝からカンカン照りだった。
 夏休みまであと三日、先週で給食はおしまいで、学校は午前中だけになっている。
(あーあ、今日もプールに行きたいなあ)
 むくむくした白い雲が、びっくりするほど青く澄んだ空に浮かんでいる。
 夏休みになれば学校のプール開放が始まるけれど、このあたりで今泳げる所はやまびこプールしかない。
 でも、無料送迎バスは日曜日しかなかった。自転車で行くことは、例の小倉橋が危険なので学校で禁止されている。歩いて行ったら、たっぷり三十分はかかってしまうだろう。
「よっちゃん」
 振り向くと、いつのまにか裕香がそばに来ていた。
「今日も、やまびこプールに行くの?」
「うーん、どうかな。まだ分かんないけど」
「あたしは、あやちゃんのママが、車で一緒に連れてってくれるって」
「ふーん、いいなあ」
 芳樹のうちでは、おとうさんもおかあさんも平日は仕事なので、車での送り迎えはとても無理だ。
 その時、教室の後ろの方で、しゅうちゃんがまわりの子に話しているのが聞こえてきた。
「おかあさんが、今日も送ってくれるって。一緒に乗ってく?」
「はい」
「はい、はーい」
「はい」
 まるで、一年生が先生の質問に答える時みたいに、みんなの手がいっせいに上がった。
「はい、はい、はい」
 芳樹もあわてて飛んで行って、その仲間に入った。
「うーん、昨日の五人に、よっちゃんも入れると、六人か。そんなに、乗れるかな」
 高橋くんが、しゅうちゃんに代わって人数を数えながら言った。やっぱり、いつものようにニコニコしている。
「大丈夫だよ、あと一人ぐらい。でも、一応おかあさんに聞いてみるから、後で電話くれる?」
 そう言ってくれたしゅうちゃんの手を、芳樹は思わず握りしめていた。

「よっちゃん、俺、今日もプールに行くけど、おまえも連れてってやろうか?」
 おかあさんが作って置いてくれたお昼のサンドイッチを食べていたときに、正貴が言った。
「うん。でも、しゅうちゃんが、車に乗せてってくれるって」
「ふーん、いいなあ」
 正貴は、うらやましそうな声を出していた。
「でも、その方がいいかもな。おまえじゃ、小倉橋を歩いて渡れないかもしれないからなあ」
「そんなに、怖い?」
「ああ。俺だって、最初の時はしょんべんちびりそうになったもの」
 芳樹とは違って、正貴は高い所でも平気だ。得意のフィールドアスレチックなんかでは、まるでサルのようにスルスルとロープや丸太をよじ登ってしまう。おとうさんに、「アスレの王者」なんて呼ばれているくらいだ。
 そんな正貴でさえ恐いのだったら、芳樹にはとても無理だ。昨日の橋からの眺めを思い出しただけでも、ブルブルって体が震えてきちゃう。芳樹は頭の中で、もう一度しゅうちゃんに感謝した。
「じゃあ、先に行ってるから。鍵かけるの、忘れるなよ」
 正貴が、玄関の鍵を放ってよこした。
「待ってよ。ぼくも電話したら、一緒に出るから」
 芳樹は、あわてて電話をかけながら正貴に言った。
ルルル、……、ルル。
「はい」
(あれ、変だ。しゅうちゃんでなくて、高橋くんの声がする)
 一瞬、芳樹は電話番号を間違えたのかと思った。
「えーっと、……」
「あっ、よっちゃん? しゅうちゃんに代わるね」
(なーんだ、やっぱり間違えてなかった)
「もしもし」
 しゅうちゃんの声が聞こえてきた。
「しゅうちゃん、乗せてってもらえるって?」
「うーん、それがあ、だめになったんだ」
「えっ! おかあさんが、だめだって?」
「うーん、そうじゃないんだけどお、……」
 しゅうちゃんは、なんだか言いにくそうにしている。
「じゃあ、どうしてなんだよ」
「高橋くんが、……」
「高橋くんが、どうしたの?」
「高橋くんが、よっちゃんはだめだっていうんだ」
 とうとう思い切ったように、しゅうちゃんが言った。
「……」
 芳樹は、びっくりしてしばらく何も言えなかった。しゅうちゃんも黙っている。
「高橋くんに、代わってくれる?」 
 芳樹は、ようやくそれだけ言えた。
 でも、向こう側でなんだかガヤガヤしていたかと思うと、いきなり電話が切れてしまった。
「もしもし、もしもし、……」
 芳樹が何度呼びかけても、受話器からはツーーという音しか聞こえてこない。芳樹は、とうとうあきらめて受話器を下ろした。
(どうしてなんだろう?)
 芳樹は、いつもニコニコしている高橋くんの顔を、改めて思い浮かべてみた。
 でも、どうしてもいじわるされる理由は分からなかった。
(そうだ、にいちゃんに、……)
 芳樹はあわてて玄関を飛び出して、正貴を追いかけた。
 でも、もうどこにも姿が見えなくなっている。
(いやに素早いなあ)
 その時、門の横に芳樹のと並んでいるはずの、正貴の自転車がないことに気がついた。プールの途中にある友だちの家まで、自転車で行ったのかもしれない。それでは、もうとても追いつけそうもなかった。

 芳樹は家の中に戻ると、部屋中をぐるぐると歩きまわりながら考えていた。
(もう一度、しゅうちゃんに頼んでみようか?)
 でも、最近は高橋くんを中心にして、あの五人はグループのようになっていた。もしかすると、それで芳樹だけを仲間はずれにしたのかもしれない。
 といって、いまさら高橋くんにペコペコして、仲間になんか入れてもらいたくない。
 こうなったら、プールへは一人で歩いて行くしかなかった。プールにはしょっちゅう行っているから、道だったらなんとか分かる。
(よーし、行こう)
 そう思って、青いスイミングのバッグを手にした時、急に小倉橋の事を思い出した。
(だめだ、とても一人では橋を渡れやしない)
 自分だけで行こうとしていた元気が、ヘナヘナと消えてなくなっていく。
(どうしよう?)
 プールに行けば、裕香たちにだって会える。そうすれば、帰りはあやちゃんのおかあさんの車に、乗せてもらえるかもしれない。もし、それがだめでも、少なくとも正貴たちとは一緒には帰れるはずだ。
(でも、往きの小倉橋が、……)
 窓を締め切っていたので、部屋の中はだんだん暑くなってきていた。なかなか決心がつかずに、芳樹は汗をだらだら流しながら歩きまわった。
 とうとう我慢できずに、芳樹は洗面所で勢いよく顔を洗った。すると、スライダープールで大きな水しぶきをあげた時の気持ち良さがよみがえってきた。
 ついに芳樹は、机の上のカエルの貯金箱を持ってきた。中から五百円玉をひとつ取り出すと、イルカの絵のついた丸い財布に入れた。
(とにかく、一人で行ける所まで行ってみよう)
 小倉橋を渡れるかどうかは、その場に着いてから考えようと、芳樹は決めていた。

 暑い。とにかく暑い。五分も歩かないうちに、芳樹は汗びっしょりになってしまった。
 家の外には、人っ子一人いなかった。この暑さのせいで、家の中に閉じこもっているのだろう。
 でも、なんだかみんなが、やまびこプールへ行っているような気もしてくる。
 ミーン、ミンミンミン。
 ミンミンゼミだけは、あちこちでうるさいくらいに鳴いている。そんな中を、芳樹一人だけが、黙々と歩いていた。
 丘の上にあるこの住宅地は、何ヶ所かのつづれおりの坂道で、ふもとの地区とつながっている。そのひとつ「都井沢ジグザグ」まで来たとき、ようやく自転車を押しながら登ってくる中学生たちと出合った。部活の帰りなのだろうか、トレーニングウェアを着てだらだらと汗を流している。
 芳樹はそれを横目にしながら、一気に「都井沢ジグザグ」を駆け下りた。一刻も早くプールに入りたくてたまらなかった。
 「都井沢ジグザグ」を下り切ってからしばらく行くと、広いバス道路にぶつかる。そこでは、今日も車がビュンビュン飛ばしていた。
 本当は、
(バス道路の向こうへは一人で行ってはいけない)
と、おかあさんに言われている。
 でも、今日はそんな事には構っていられない。信号が青になってからも何度も左右を見て、一気に横断歩道を突っ走った。 
 広々した浄水場の先を右に曲がると、ようやく相模川へと続く坂道に出た。S字のカーブを何度も曲がりながら、小倉橋まで下りていく。
 芳樹は道路の左側にある歩道を、どんどん歩いていった。その横を乗用車やライトバンやトラックが、ブレーキをかけてスピードを落としながら下っていく。
 初めのカーブに差し掛かった時、はるか下の方に相模川が大きく曲がりながら流れているのが見えた。両岸の河原の石が白く光っている。
 視線をずーっと右手に移していくと、小倉橋も見えた。
(高い!)
 気のせいか、今日は一段と高く感じられる。まるで、川をまたいでそびえる灰色の巨人のようだ。とても、向こう側まで渡れそうもない。
 芳樹はがけの方へ寄り過ぎないようによく注意しながら、じーっと小倉橋を見つめていた。
(やっぱり引き返そうか?)
 でも、せっかくここまで来たのに、それも残念に思えてくる。
 芳樹のそばを車がどんどん通っていくけれど、歩いている人は一人もいない。
 と、その時、少し先の方にオレンジ色のポールが立っているのに気がついた。
 バス停だ。
(なーんだ、路線バスも通ってるのか)
 急にホッとして、なんだか笑い出したいような気さえしてきた。路線バスはやまびこプールには行かないだろうけれど、橋さえ渡ってくれればOKだ。向こう岸の停留所から、プールまで歩けばいい。
 芳樹はまるでスキップでもするような感じで、バス停に近づいていった。
『小倉橋北』
 丸い表示板に、バス停の名前が大きく書いてあった。次の停留所は、期待どおりに橋のむこう側の『小倉橋南』だ。
( あーっ!)
 バス停の時刻表を見て、芳樹はがっかりしてしまった。一時間に一本、朝や夕方でもたった二本ずつしかない。しかも、かんじんの午後一時台には、一本もなかったのだ。十二時十五分のはとっくに行っちゃったし、次は二時三十分まで来ない。
 芳樹は、バス停のポールの丸いコンクリート製の重石に腰を下ろしていた。
(もうあきらめて、家に帰るしかないかなあ)
 梅雨明けの太陽は、容赦なくギラギラと照らしている。気のせいか、ますます暑くなってきたようだ。
 頭の上を、トンビがゆっくりと風を受けながら飛んでいる。
(あんなに高い所を飛んでいて、ちっとも怖くないんだろうか)
 そんな事をぼんやりと考えていると、トンビは大きな円を描きながら、だんだん小倉橋の方へ近づいていった。
 その時、橋のこちら側のたもとに、誰かがいるのに気がついた。
 女の子だ。芳樹と同い年ぐらいだろうか。
 その子がポニーテールの頭をピョンと振って、こちらに振り返った。
 裕香だった。
(どうして、こんな所に?)
 そう思いながらも、芳樹は立ち上がった。とにかく、たもとまで行ってみることにして、裕香を目指して懸命に走り出した。
 裕香はこちらから向こう側をのぞき込むようにして、橋の上の様子をうかがっている。そのそばを、乗用車やトラックが次々と追い越していった。
「おーい、裕香ちゃーん」
 大声で呼ぶと、裕香はもう一度こちらを振り返った。
初めはびっくりしたような顔をしていたけれど、すぐに芳樹だと気づいてニッコリした。
 芳樹は、大急ぎで裕香に駆け寄っていった。
「助かったあ!」
 そばまで行くと、なぜだかホッとしたように裕香が言った。
「あやちゃんのママの車で、来たんじゃないの?」
 芳樹がたずねると、
「ううん」
 裕香が首を振ると、頭の後ろのポニーテールがピョコピョコ跳ねる。
 話によると、あやちゃんが急にプールへ行かれなくなっちゃったんだそうだ。
 でも、我慢できなくなって、とうとう芳樹と同じ様に一人で来てしまったのだ。
「よっちゃんに会えて良かったあ。やっぱり小倉橋は怖いんだもん。あたし、高いとこ、苦手なんだあ。でも、よっちゃんと一緒なら、大丈夫よね」
 裕香は、ニコニコしながら話している。
 先にそう言われると、自分も高い所が怖いんだとは言えなくなってしまった。
(うーん!)
 小倉橋のたもとから改めて下を眺めて、思わずため息をついてしまった。
 高い。とにかく高い。はるか下を、相模川がキラキラ光りながら流れていた。その流れる音さえ、遠すぎてここからはまったく聞こえない。とても、こんな高い所を渡っていけそうになかった。
 でも、裕香にこんなに頼りにされているのに、いまさら「ぼくもこわいんだ」なんて、とても言えやしない。
 芳樹は、おそるおそる足を橋の上に踏み出した。
(あっ!)
 いきなり後ろから、裕香が右手をギュッと握ってきた。
 芳樹は左手で欄干につかまりながら、そろそろと歩き続けた。裕香は、芳樹の手に引きずられるようにしてついてくる。右手にギュッと力を込めて、裕香を放さないように気をつけた。
 五メートルほど進んだ時、つい横目で橋の下を見てしまった。
 欄干の下半分はコンクリート製だけど、上半分は錆びた鉄製の格子状の手すりだ。隙間だらけなので、川の流れが丸見えだった。
 一瞬、そのまま下に吸い込まれるような気がして、思わず目をつぶった。そのはずみに、裕香の手を放しそうになる。
 あわてて手をギュッと握り直すと、今度は目が開いてはるか下の川が見えてしまう。
 芳樹たちは、そこからもう一歩も動けなくなってしまった。
「大丈夫かい?」
 気がつくと、そばに一台の小型トラックが停まっていた。ウインドーから、タオルでハチマキをしたおにいさんが心配そうな顔をしてのぞいていた。
(助かったあ!)
と、芳樹は思った。もしかすると、向こう側まで乗せていってもらえるかもしれない。
 でも、裕香がすぐにきっぱりと言ってしまった。
「大丈夫です。よっちゃんと一緒だから」
 そう言われると、とても、「乗せてください」なんて、言えやしない。
 おにいさんはまだ少し心配そうだったけれど、ウインドーを上げてそのまま行ってしまった。
「知らない人の車に乗ったらいけないって、言われてるでしょ」
 車が見えなくなってから、裕香が芳樹にささやいた。
(そりゃ、確かにそうだけど)
 今はそんな事を言っている場合じゃない。裕香は気づいてないかもしれないけれど、芳樹たちは前にも後ろにも進めなくなっているんだから。
 その時、十メートルぐらい前に、昨日、バスやダンプカーが車とすれ違う両側にふくらんでいる場所が見えた。そこまで行けば、なんとかひと息つけそうだ。
(よーし)
 芳樹は大きく息を吸うと、「ふくらみ」を指さしながら裕香に言った。
「あそこまで、ダッシュするよ」
 裕香も、コクンとうなずいた。
 芳樹は、振り返って車の流れをチェックした。
 ちょうど、前からも後ろからも車は来ない。
「ゴー!」
 裕香の手をギュッと握りしめて、全速力で走り出した。裕香も、懸命についてくる。横を見ると怖いから、まっすぐ正面だけを見つめて走った。
 なんとか「ふくらみ」までたどり着くと、芳樹たちはそこに座り込んだ。しゃがんでしまえば、欄干の手すりより顔が下になるので、外が見えなくてあまり怖くない。
 芳樹たちの横を、うしろで待っていてくれていたらしい車が、四、五台続けて通り過ぎていった。芳樹は、裕香と手をつないだままその場にしゃがみ込んでいた。
(あれ、どうしたんだろう?)
 ホッとしたのもつかの間、芳樹は橋がかすかに揺れていることに気づいてしまった。
 振り向くと、後ろからダンプカーがやってくる。
 グラ、グラグラ、グラグラグラ。
橋の揺れが、だんだん大きくなる。
 ダンプカーは、芳樹たちのいるふくらみの反対側で待っていた車と、すれ違おうとしている。汚れた大きなタイヤが、どんどん二人に近づいてくる。
「キャー!」
 裕香が芳樹に懸命にしがみついた。二人は欄干にへばりつくようにして、やっとダンプカーをやり過ごした。
 でも、橋はまだ大きく揺れている。とても、ここでのんびりとはしていられない。
 橋の上には、「ふくらみ」がもう一ヶ所あった。
 芳樹たちは、抱き合ったまま車の列が途切れるのを待った。
「よし、今だ!」
 芳樹は、裕香を引っ張るようにして立ち上がらせた。そして、手を引きながら懸命に次の「ふくらみ」を目指して走り出した。

「よっちゃん、今日はほんとにありがと」
 ようやく『小倉橋』の向こう側にたどり着いた時に、裕香がニッコリしながら言ってくれた。いつもは色白の裕香も、すっかり日焼けして歯の白さだけが目立っている。
「明日も、一緒にプールに行こうね」
 裕香がそう言った時、芳樹は思わずコクンとうなずいていた。
 橋のたもとで右に曲がると、後はやまびこプールやテニスコートまで続いている上りの一本道だ。河原には、昨日とは違って、釣りをしている人たちが何人かいるだけだった。
 しばらく歩いていくと、左手に工事現場が見えてきた。 『新小倉橋』を作っているのだ。交通量が増えて今の橋では不便になったので、去年から工事が始まっている。来年の夏までには、新しい橋ができあがるはずだ。
 『新小倉橋』は、今の橋よりもさらに高い所にかけられる。
 でも、前に町役場で模型を見たことがあるけれど、広い歩道がちゃんとついていた。だから、芳樹たちでも安心して渡ることができる。それに川の両側でわざわざ坂道を下らなくてもすむから、やまびこプールまでずっと近道だ。
「早く新しい橋ができればいいのにね」
 道の上に張り出した『新小倉橋』をくぐった時、裕香が上を見上げながら言った。
 確かに新しい橋ができれば、やまびこプールへ行くのはずっと便利になるだろう。自転車で行くのだって、OKになるかもしれない。もう裕香と一緒に、車の流れをぬって懸命に駆け出して渡る必要なんかない。
 でも、なんだかそれは少し残念なような気もしていた。
 前の方に、スライダープールのてっぺんあたりが見えてきた。芳樹は、まだ裕香と手をつないだままだったことにようやく気がついた。

 

 

 

          

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「見えない人間 ― 伝記的コラージュ」アメリカ文学作家論選書J.D.サリンジャー所収

2020-08-16 07:55:06 | 参考文献

 サリンジャーの作家論を集めた本の巻頭文です。
 著者名は書かれていないのですが、巻末の収録論文原題一覧によると、「フラニーとズーイ」(その記事を参照してください)が出版された時に「タイム」誌に書かれたカヴァー・ストーリーをベースに、その執筆の中心人物だったジョン・スコウが1962年に書いたもののようです。
 そのため、サリンジャーの作品としては「シーモァ ― 序章」(その記事を参照してください)までで、この時点では「ハプワース16、一九二四」(その記事を参照してください)は書かれていません。
 特に、重要な新情報はないのですが、真偽不明なゴシップ的な情報もあるのでなかなか楽しく読めます。
 また、少なくともこの時期までは、サリンジャーは、書斎に使っていた離れ(独房と呼ばれています)で、毎日弁当持ちで8時30分から17時30分まで執筆していたようです。
 全体に、サリンジャーを過大評価はしていないものの、彼や彼の作品への愛情が感じられて、サリンジャーファンとしては読み味がいいです。
 また、サリンジャーが妻のクレアと離婚する前なので、二人の子どもとも一緒に暮らしていて、親しい友人たちに守られて執筆に集中している姿は、ある意味内向的な作家にとっての理想郷のようです。

 

 

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NANA

2020-08-12 09:16:37 | 映画
 2005年公開の少女漫画の実写版映画化です。
 漫画の実写版というと、キャラクターのイメージが狂って興ざめすることが多いのですが、この作品の場合は、主演の宮崎あおいや中島美嘉だけでなく、他の登場人物も原作以上にキャラが立っていて、そのおかげもあって大ヒットしました。
 また、作中での二つバンド、ブラストとトラネスの演奏シーンもすごくかっこよく、中島美嘉が歌った「グラマラス・スカイ」も、伊藤由奈の「エンドレス・ストーリー」も大ヒットしました。
 ストーリー自体は他愛のないものですが、音楽映画としては成功しています。




 
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村中季衣「語りつがれていくものがたりのなかで」日本児童文学1990年9月号所収

2020-08-10 09:11:20 | 参考文献
 1990年3月17日に60歳で亡くなった児童文学者(創作、評論、翻訳、研究、大学での後進の指導など、多面的に活躍しました)、安藤美紀夫の追悼特集に発表された論文です。
 著者は日本女子大学大学院での安藤の教え子なので、個人的な思い出やいつも明晰な文章を書く著者にしてはやや感傷的な文章も含まれていますが、重要な指摘がいくつもあり、安藤の多面的な仕事を理解するのに参考になります。
 著者の指摘で最も印象に残ったのは、「安藤のことばの明解さと力強さ」です。
 私は、生前の安藤とは二回しか会ったことがないのですが、そのいずれの時にも彼のことばの持つ明解さと力強さが記憶に残っています。
 初めは、1973年4月に行われた早稲田大学児童文学研究会の新人勧誘のための講演会での、彼の講演(もうひとつの講演は後藤竜二でした)です。
 具体的な内容は忘れましたが、その時の児童文学に対する信頼を力強く語る安藤の話に、おおいに感銘を受けたことを覚えています。
 また、当時の安藤は日本女子大学の教員になったばかりで、早稲田大学で行われた講演の会場にはそれまで安藤が務めていた北海道の高校の教え子がいて、70年安保後の高校紛争中の彼らを捨てて大学の教員になったことを糾弾したのに対して、率直に謝罪したことにも好感を持ちました。
 この講演の効果もあって、私は児童文学研究会に入会することを決めました。
 二回目は、1984年2月の日本児童文学者協会の合宿研究会においてです。
 その時、私は幸運にも安藤、古田足日と同室で、夜は酒を飲みながら両先生と話す機会があり、その後参加する同人誌も安藤に紹介してもらい、七年ぶりに児童文学活動を再開することができました。
 その合宿を通して一番記憶に残ったのは、安藤の「児童文学は、アクションとダイアローグの文学だ」という力強く明解な言葉でした。
 「自己弁護的なモノローグ、くどくどした心理描写、状況説明的な文章などを廃して、主人公の行動と会話だけでスピーディーに物語を展開するのが児童文学だ」と、私はその言葉を解釈しました。
 そして、この安藤の定義は、その後の私の創作や批評の指針になりました。
 また、このことは、安藤の教え子である著者の初期の作品(彼女も、安藤と同様に、研究、評論、創作、幼児や大人の読書療法の実践活動など、多面的に活躍しています)、「かむさはむにだ」や「小さなベッド」にも大きな影響を与えているように思われます。

 
読書療法から読みあいへ―「場」としての絵本
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教育出版
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宮川健郎「「楽園」の喪失について」現代児童文学の語るもの所収

2020-08-09 14:36:39 | 参考文献
 ここにおいては、二種類の「楽園」が混在して論じられています。
 ひとつは、日本の高度成長に伴って失われていった、農村や都市周辺のはらっぱなどです。
 もうひとつは、「子ども時代」です。
 これら二つをからませて描くことは、昔からの児童文学の大事なモチーフで、主人公の少年の死(第二の主人公である彼の友人にとっては、少年期の終わりを象徴しています)と都会に残されていた空き地(主人公の少年が自分の死を賭して敵グループから守ったもので、「楽園」そのものです)の喪失を描いたモルナール「パール街の少年たち」が書かれたのは1907年のことです。
 「楽園」としての故郷(農村)の喪失の例として著者があげたのは、後藤竜二の「天使で大地はいっぱいだ」(1967年)と「故郷」(1979年)です。
 前者が貧しいながらも労働の喜びにあふれていた「楽園」(農村)の子どもたちを明るく描いたのに対して、わずか十二年後には、母の死、父の離農といった「楽園」(故郷)が失われていく姿を敗北感いっぱいに描いています。
 これら二つの作品では、書かれている対象だけでなく、文体や視点も大きく変化して、子どもを仮装(これは著者がこの作品を語るときにいつも使う用語です)した話し言葉から、同じ一人称でも昔をしのぶ大人の言葉へ、大きく変化していると指摘しています。
 著者は、こうした「楽園」の喪失及び後藤の書き方の変化を、高度成長期による農村の破壊によるものとしていますが、それだけではないように思います。
 背景には、「故郷」の主人公たちの現在でもある1970年代における若者たちの閉塞感(70年安保の敗北と革新勢力の衰退、大学のマスプロ化への幻滅、アイデンティティの喪失など)があると思われます。
 社会主義的リアリズムの作品の書き手でもあった(彼は非常に才能のある書き手で、子どもたちの周辺に取材した作品や時代物やエンターテインメントに近い作品まで書き分ける多面的な能力の持ち主でした)後藤の敗北感の投影を抜きにしては、この大きな変化は説明できないでしょう。
 都市部の原っぱの喪失の例としては、古田足日「モグラ原っぱのなかまたち」(1968年)をあげて、この作品では「楽園」(はらっぱ)そのものと、その喪失(市営住宅の建設)の両方を書ききったとしています。
 他の「楽園」の例として、自分や仲間だけの閉じた世界(これは児童文学の世界では、「子ども時代」の比喩で、この世界を描いたほとんどの作品のラストでは、この世界からの自立(「子ども時代」の終わり)が描かれています。そのもっとも有名な例は、ミルン「クマのプーさん」(正確には「プー横丁にたった家」)のラストシーンでしょう)を描いた「現代児童文学」の始まりとされる1959年出版の二つの小人物語(佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」)を挙げています。
 そして、前者はいつまでもその「楽園」が失われない(そのかわりに閉鎖的(著者は「牢獄」という言葉を使っています)になったとしています。この論文の初出は「日本児童文学」1984年2月号なのですが、その直前だった1983年9月(「だれも知らない小さな国」の出版から二十四年後)にコロボックル・シリーズの完結編が出版されたので、特に印象が強かったのかもしれません)のに対して、後者は「楽園」の消滅と小人たちの自立までが描かれていると評価しています(言うまでもありませんが、この「楽園」の消滅も、主人公たちの「子ども期の終わり」を意味しています)。
 最後に、著者は、現在(1980年代前半)における「楽園」や「子ども期の終わり」の描かれ方として、いくつかの問題点を指摘しています。
 後藤竜二の「キャプテンはつらいぜ」(1979年)に始まるキャプテンシリーズの少年野球チームの世界を、「大人たちの愛情にささえられて、かろうじて成り立つ(ずいぶん手狭な)「楽園」なのだ」と批判しています。
 後藤の作品の中ではエンターテインメントに近いキャプテン・シリーズを、他の「現代児童文学」の作品と同じ切り口で論じるのも問題(これは著者だけの問題ではなく、エンターテインメント系の作品を批評する方法論は今でも確立されていません)ですが、都市部の少年たちの「楽園」の姿とかつての農村部の少年たちの「楽園」をそのまま比較すること自体が、著者の(というよりは高度成長期以前に生まれた日本人全体の)ノスタルジーにすぎないのではないでしょうか。
 そのことは、著者も気づいていたようで、「都市のなかで生きる像がもっともっと書かれてもよいのではないか」(川北亮司「ひびわれ団地4号館」や日野啓三の小説「天窓のあるガレージ」を例として示しています)とも指摘しています。
 初稿が書かれた1984年の段階では確かにそうだった思われますが、その後、日本の児童文学で描かれる世界には都市に住む子どもたちが非常に増えて(都市部で成長した作家が増えたこともその一因だと思われます)、1996年にこの本が発行された段階では状況はかなり変化していたので、少なくともこの部分は加筆訂正するべきだったでしょう。
 また、著者は、現実の閉塞感の中で生きる中学生たちの状況を描いた後藤竜二(どうも取り上げる書き手が偏っている気がするのですが)「少年たち」や横沢彰「まなざし」を、「抒情的な雰囲気でごまかしている」と批判していますが、ならばこうした状況を「叙事的」に描くにはどうしたらよいのかの可能性を示さないと、たんなる現象(作品)の後追いになってしまっていると思われます。
 最初に述べたように。「楽園」の喪失は特に新しいことではなく、児童文学にとって重要なモチーフの一つです。
 スマホなどの携帯機器とSNSの爆発的な普及(その裏には通信技術、半導体技術、VR、AIなどの飛躍的な進化があります)によって、大きく変化している子どもたちの世界における、新たな「楽園」およびその喪失をどのように描くかの方法論が、今一番求められています。


現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
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日本放送出版協会
 

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過食

2020-08-07 15:32:46 | 作品
珠樹は養子だ。
乳児院から川島家へ、もらわれてきた男の子だった。
新しい両親である川島夫妻に、養子縁組されて新しい家族になったのだ。
珠樹を産んだ母親はシングルマザーで、自分で育てることができなかった。収入も少なかったし、周りには頼れる人もいなかった。
それで、珠樹を乳児院にあずけたのだった。
川島夫妻の方は、夫の豊は45歳、妻のみどりは43歳、結婚して十年以上になるが、子どもができなかった。
当初は共働きをしていたが、みどりが退職して不妊治療に専念することになった。
しかし、川島夫妻の場合は、妻だけでなく夫の方にも妊娠しにくい要因があって、五年以上に及ぶ不妊治療も成果が上がらず、とうとう二人は妊娠出産することをあきらめたのだった。
子どもの好きだった二人は、里親制度に応募することにした。
でも、その過程で、特別養子制度があることを知った。
これを利用すれば、たとえ血のつながりがなくても、法律上は実子と変わりなく、子どもが得られるのだ。
川島夫妻は、この制度を利用することになって、養子にする子どもを乳児院で探した。
そして、めぐり合ったのが、珠樹だった。
珠樹が川島夫妻に養子になることが決まった時に、正式に親権を放棄した。

川島家に来た一日目、珠樹は緊張で何も食べられなかった。乳児院で聞いてきた珠樹の好物ばかりが並んでいても、ニコリともしなかった。
川島夫妻が話しかけても、何も答えない。貝のように押し黙ったままだった。
そんな状態が三日続いた。
川島夫妻は根気よく、珠樹の好物を並べて、二人で優しく話しかけた。
三日目の晩に変化が出た。
空腹に耐えきれなかったのか、ビスケットを少しかじり、牛乳も一口飲んだのだ。
それから、日がたつにつれて、珠樹は次第に新しい家庭に慣れていった。
ごはんも食べるようになり、おかわりもできるようになった。
そして、きちんと三食食べられるようになった。
その後も、珠樹の食べる量がだんだん増えていった。
初めはよく食べるようになったことを喜んでいた川島夫妻も、今度は食べ過ぎを心配するようになった。
まるで過食症になってしまったようだ。
茶碗で、ご飯を3杯も4杯もおかわりする。
ヨーグルトを何個も食べる。
ジュースを何本も飲んだ。
牛乳もコップに何杯も飲んだ。

川島夫妻は、珠樹の食べ過ぎが心配だった。慣れない環境に来たために、過食症になってしまったのかもしれない。それに、自分たちが、珠樹に食べ物を薦めすぎたのかとも思ったのだ。
川島夫妻は、施設に相談することにした。
「大丈夫ですよお」
 電話で、施設長は笑いながら答えた。
「養子先ではよくある事なんです。
「そうですか?」
「ええ、これは一種の通過儀礼のようなものなのですよ」
「通過儀礼?」
「そう、いくら食べても、怒られないか、確かめているんですよ」
「えーっ、でも、こちらが勧めていたのに」
「そう。それがほんとかどうか確かめているんですよ」
「そうだったのですか」
施設長の話を聞いて、夫妻は珠樹に好きなだけ食べさせるようにした
内心では食べ過ぎじゃないかと、ひやひやしながらも制止しなかった。
珠樹の食べたいもだけを食べさせたり、飲みたいだけを飲ましたりした。

しばらくして、珠樹の食べる量がだんだん落ち着いてきた。
一か月たったあたりから、もっともっととおかわりすることが、だんだんおさまってきたのだ。
どうやら、施設長が言っていたことは、本当だったようだ。
落ち着いて珠樹の様子を見ていると、おかわりする時にはこちらの様子を確かめているようにも見えたのだ。
そして、おかわりを与えると、ホッとしたように食べ始めている。
夫妻は、そんな珠樹のことをたまらなくいじらしく感じるようになっていた。
珠樹は、施設にいた時には、ごく普通の体型だった。
それが、今では丸々と太って、ほっぺたなどはつやつやと光っている。
夫妻には、そんな珠樹がとてもかわいく感じられた。
そして、気が付いた時には、夫婦に珠樹をいとおしく思う気持ちがわきあがり、何があろうともこの子を絶対に手放すまいという強い感情が生まれていた。
珠樹の過激な食行動には、全く見知らぬ人を親へと作り変えたい必死の願いがあったのだろう。
新しい家族との出発のために、この過食は必要だったのである。
夫婦は、食べまくる我が子を「あまりにも気持ちよく食べるな」とさえ思えるようになっていた。
子どもの存在、行動が、まるごとの肯定的なまなざしに包まれていたことが、「真の親子になる」のに成功したのだろう。
そして、このことは、珠樹だけでなく、川島夫妻にとっても通過儀礼だったのかもしれなかった。




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ハドソン川の奇跡

2020-08-06 17:01:50 | 映画
 2009年に起こった、実際の飛行機事故を題材にした映画です。
 鳥の群れと衝突してエンジンをふたつともに破壊されたものの、機長の冷静な操縦でハドソン川へ不時着水して、奇跡的に乗客全員が生還します。
 お話としては、機長の判断が間違いで、離陸した空港や近隣の他の飛行場へ戻れたのではないかとの疑いをかけられて、機長が追い詰められていくところが中心です。
 最後には、疑いが晴れてハッピーエンドになるのですが、それは史実として知っていたのであまり重要ではありません。
 主演のトム・ハンクス(実際の機長に似せたふけメイクが素晴らしいです)を除いてはあまり有名な俳優は出ていないのですが、全員が重厚な演技で、それを監督のクリント・イーストウッドが円熟の演出でいかしています。
 飛行機の不時着水や乗客の救出シーンは、CGや実写で見事に再現されていました。
 難を言えば、作品の上映時間が短く、ややあっけない印象を受けた点です。
 最近の日本の映画と違って、一人のイケメンも美人女優が出なくても、観客を満足させる映画が作れることを証明しています。

ハドソン川の奇跡
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ロバート・A・ハインライン「夏への扉」

2020-08-05 09:54:07 | 参考文献
 1956年に発表されたハインラインの代表作です。
 タイムマシンと冷凍睡眠を用いたタイム・パラドックス物のSFで、個々のアイデアは当時でも新しくないのですが、それらを緻密に組み合わせて、第一級のエンターテインメントに仕上げています。
 ロマンティックなハッピーエンドも支持されて、日本のSFファンの投票では、たびたびナンバー1になる人気作品です。
 当時の近未来だった1970年と、遠い未来だった2000年(夢の21世紀ですね)の様子を、当時の最新の知見を元にいきいきと描き出しています。
 当時は核戦争が起こるのは確実視されていたようで、ほとんどの他のSF作品と同様に、その後の世界を描いています。
 しかし、それにもかかわらず、21世紀には明るい未来が待っていると信じていた、古き佳きアメリカ人の考えを知ることができます。
 1970年はおろか、2000年もとっくに過去のものになった現在読み返してみると、書かれている風物はかなりちぐはぐなのですが、一番大きいのは、他の記事にも書きましたが、パソコン、インターネット、スマホの不在でしょう。
 そして、それらを実現させた半導体がいかに偉大な発明だったかが、改めて認識できます。


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宮川健郎「「声」をもとめて」日本児童文学2013年3-4月号

2020-08-04 09:11:26 | 参考文献
 「子どもが読むはじめての文学、その現在」という副題のもとに、「幼年童話」の現状について書かれています。
 「読み聞かせ」と「黙読で読む児童文学」をつなぐ存在として、「幼年童話」において「声」が聞こえてくることの重要性をあげています。
 これらの対象時期として小学校三年生ぐらいとしていますが、私の体験(「読み聞かせ」をしてもらったっことがなく、幼稚園のころから5才年上と3才年上の姉たちが買ってもらった本を黙読していました)と較べるとずいぶん年齢が高いような気がしますが、子どもの読書力が低下している現在ではこなんなものなのでしょう。
 石井桃子が1959年に書いた、出版されたばかりの佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」(「現代児童文学」の出発を飾った作品のひとつと言われています)が、いかに「読み聞かせ」に向かないかを批判した文章を引き合いに出して、「現代児童文学」(定義などは他の記事を参照してください)が「声」や「語り」から離れた「黙読で読む児童文学」中心であったかを述べています。
 「現代児童文学」が一般文学との境界がなくなってしまった現在、「声」が聞こえる幼年文学が相対的に重要性を増しているのでしょう。
 「幼年文学」の現状の代表として、以下の作家と作品をあげています。
 石井睦美「すみれちゃん」、竹下文子「ひらけ! なんきんまめ」、市川宣子「きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは……」、岡田淳「願いのかなうまがり角」、たかどのほうこ「お皿のボタン」、三木卓「イトウくん」、長崎夏海「星のふる よる」、村上しいこ「図書室の日曜日」「れいぞうこのなつやすみ」など、内田麟太郎「ぶたのぶたじろさん」シリーズ、いとうひろし「おさる」シリーズ(それぞれの記事を参照してください)。
 そして、この「声」をもとめる動きと呼応する形で、小川未明、浜田広介、新美南吉などに代表される近代童話が復権しつつあるとしています。
 これらの動きを含めて今の「児童文学」をマーケティング的に整理すると、文字を読まなくても(あるいは補助的に使う)絵本は大人から幼児までの幅広い読者を獲得し、「読み聞かせ」の本などは親と子、先生と児童などの共有する世界として存在し、子どもたちの読書力の低下で黙読できる年齢が上がることにより「幼年童話」の対象読者が増大し、読書が娯楽化することによって子どもと大人(特に女性)が共有するエンターテインメントとしての<児童文学>が隆盛していることになります。
 どちらにしても、「散文性を獲得し」、「子どもをとらえた」、「変革の意志も持った」、いわゆる「現代児童文学」の出る幕はなく、その役目を終了したと言えます。

日本児童文学 2013年 04月号 [雑誌]
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小峰書店
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古田足日「日本児童文学・現在の問題 ― リアリズムを中心に」児童文学の旗所収

2020-08-03 09:11:04 | 参考文献
 60年代初めのリアリズム作品を中心に、当時の課題について論じています。
 初めに、「子どもの家」同人による「つるのとぶ日」が取り上げられて、原爆を子どもたちに伝えるために「童話」を勉強したとする書き手たちの姿勢に対して、「童話」という手法では被爆の実感を象徴的に描いくことはできても、もっと散文的に書かないと戦争そのものやそれが現在の子どもたちとどのようにつながるかを描き出せないとしています。
 東京大空襲を描いた早乙女勝元「火の瞳」も実感に頼っていて、自分のうちにある子どもと対話して(これは「現代児童文学」の書き手固有の感覚で、私も本当の意味で創作をしていた80年代後半のころは、「内なる子ども」に向けて書いていました)、その子どもの可能性(人間存在の根源的な意味や変革の可能性など)まで引き出した作品を描かなければならないとしています。
 これらの作品は、現在では「戦争児童文学」とカテゴライズされていますが、当時はまだこの用語は一般化されていませんでした(関連する記事を参照してください)。
 著者は、この時期にリアリズム作品のある到達点に達したとして、山中恒「とべたら本こ」、吉田とし「巨人の風車」、早船ちよ「キューポラのある街」をあげています。
 「とべたら本こ」と「キューポラのある街」は、それまで子どもは大人から抑圧されている被害者だとする児童文学から、抜け出ようとしているとしています。
 ただし、「キューポラのある街」は子どもたちには分かりにくいシーンもあると指摘しています(当時の著者は、児童文学の読者を中学下級以下としていたようです)。
 「とべたら本こ」も、現状で生き抜くことを描いていて、こうした現状を作り上げている権力への批判はないとその限界を示しています。
 「巨人の風車」は、そこで語られている夢のイメージを高く評価していますが、外国の事件を描いていて日本の子どもたちとの関わりは留保されているとしています。
 著者は、全体として実際の事件をもとに書かれた作品が多いとし、それを個人の実感だけを描くのではなく、もっと事実を調査して、その事件の運動体(例えば戦争)の法則と微小な個人の実感を統一する記録にまで高める必要があり、そのためにもよりフィクション化することを求めています。


児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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理論社

 
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