現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

長 新太「キャベツくん」

2020-02-28 08:44:14 | 作品論
1981年発行の絵本にっぽん大賞を受賞した作品です。
 私が読んだ本は1990年12月の18刷ですが、その後も増刷を重ねてロングセラーになっていることでしょう。
 この絵本も、児童文学研究者の石井直人が「現代児童文学の条件」(「研究 日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」所収、詳しくはその記事を参照してください)において、赤羽末吉の「おおきなおおきなおいも」や田島征三の「しばてん」などと並べて、「これらの絵本の画面には、およそ(読者の)「内面」に回収できない、とんでもない力が充溢している。」と、評しています。
 しかし、長の絵はのんびりとしたタッチなので、この作品に対しては石井の評はあまりあたっていない感じです。
 お話は、キャベツくんを食べた動物たちがどこかにキャベツがついた形に変身してしまうシーンが延々と続くだけなので、長が得意とするナンセンステールでしょう。
 長には、「おしゃべりなたまごやき(文:寺村輝夫)」や「のんびりこぶたとせかせかうさぎ(文:小沢正)」のような傑作絵本がたくさんありますが、どちらかというと絵だけを担当した作品の方が優れているものが多いようです。

キャベツくん (ぽっぽライブラリ―みるみる絵本)
クリエーター情報なし
文研出版
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中野みち子「海辺のマーチ」

2020-02-26 08:35:09 | 作品論
 この作品は、労働組合のことを取り上げた児童文学の代表作の一つです。
 1971年初版なので、70年安保の挫折感がどのように出てくるのかと思ったのですが、時代設定が1966、67年ごろで、執筆されたのも1960年代末と思われますので、まだ社会主義リアリズムは破綻していなくて、組合運動の未来に作者は希望を持って書いています。
 主人公に作者の意見を代弁される部分があってかなりテーマ主義なにおいがするのですが、主人公を組合側でなく管理者側の娘にしたことが、一方的な組合賛美にならなくてすむことに成功しています。
 営林署や労働組合への取材もかなりきちんとされていますし、登場人物や風景もしっかりと書き込まれています。
 私の読んだ本は1980年8月で10刷なので、少なくとも1970年代にはかなり読まれたのだと思います。

海辺のマーチ (ジュニア・ライブラリー)
クリエーター情報なし
理論社
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フレデリック・フォーサイス「イコン」

2020-02-24 14:34:30 | 参考文献
 国際サスペンス小説の第一人者である作者が、最後の作品と宣言して1996年に出版した1999年頃のロシアを舞台にした近未来小説です(その後、絶筆宣言を取り消して数冊の本を出版していますが)。
 カリスマ政治家が大衆的な人気を背景に大統領に立候補し、部下の狂信的な軍人が率いる私的な軍事組織の恫喝と有能な広報マンの巧みなプロパガンダによって当選確実になります。
 しかし、この政治家の本質はヒトラーのようなファシストで、当選後はマイノリティの虐殺や周辺各国への侵略を密かに企んでいます。
 この情報を入手した、引退したイギリスのスパイマスター(フォーサイスのいろいろな作品でおなじみのナイジェル・アーヴィン卿です)が、英米の引退した政財界の大物たちの支援をバックに、これも引退していたCIAの伝説の諜報員を復帰させて、大統領候補の反対勢力(少数民族、教会、軍部、警察など)を糾合して打倒する話です。
 まあ、エンターテインメントなので目くじらは立てたくないのですが、かなりご都合主義な強引な筋立てで、かつてのフォーサイス作品が持っていたドキュメンタリーのような細部の緻密さやリアリティはかなり失われています。
 カリスマ政治家、私的軍事組織、プロバガンダによる大衆的な人気、マイノリティの虐殺、周辺諸国への侵略などは、ワイマール共和国時代のドイツにおけるヒトラー率いるナチスの台頭を下敷きにしているのはミエミエです。
 また、いい役と敵役がはっきりしすぎていて、主人公の諜報員やアーヴィン卿はスーパーマン過ぎますし、敵役の政治家や軍人は型にはまり過ぎていて、どちらにも人間的な魅力はあまり感じられません。
 ご存知のように、その後のロシアは、プーチンによる独裁政治の支配下に置かれるわけですが、その成立や政治プランはもっと巧妙なもので、もしそれをかつてのフォーサイス流にきちんと取材して小説にしたらはるかに面白いものになることでしょう。

イコン〈上〉
Frederick Forsyth,篠原 慎
角川書店


 
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ロコモティブ症候群

2020-02-23 09:18:36 | 作品
「じゃあ、最初は三段にして」
 担任の村岡先生の指示で、みんなで用具室から運んできた跳び箱の高さを三段にして、マットの向こうに置いた。
 今日の体育の授業は、五年生になってから初めての跳び箱だった。
ジャンプ力に自信のある翔太にとっては、体育の中でも得意種目のひとつだったので、朝から楽しみにしていた。四年の時の最高記録は七段だったから、今年は最低でも八段を跳びたいと思っている。
 久しぶりの跳び箱だったので、まずはウォーミングアップとして、誰でも跳べそうな三段にセットされている。それから、一段ずつだんだんに高くしていくのだろう。
 ピッ。
 先生の笛の合図で、男子から次々に跳んでいく。
 五年生には三段はさすがに低すぎるので、みんな軽々と跳べている。このあたりはまだ余裕だから、あまり緊張しないせいか、待っている列ではおしゃべりしている子たちもいた。
 翔太の番が来た。
 ピッ。
 翔太も、軽く助走して跳ぼうとした。
(あっ!)
 踏み切り板を強く蹴りすぎたのか、跳び箱が低すぎて前につんのめりそうになった。手首が逆に曲がりそうになってヒヤリとしたが、何とかバランスを立て直して着地した。
(ちぇっ、低すぎるよ)
 翔太は思わず舌打ちした。この高さなら、一年生だって跳べるだろう。
「あーあっ!」
 その時、みんなから歓声とため息が同時に起こった。翔太の次の石井くんが、初めて跳びそこなったのだ。
 お尻を跳び箱の角に、ガツンとぶつけてしまっていた。踏み切りまでの助走の勢いがぜんぜん足りなかったので、身体が十分に前に進まなかったようだ。
 石井くんは、顔をしかめながら戻ってくる。
(ふーん、こんな高さでも跳べない子もいるんだ?)
 跳びすぎだった翔太は、少し優越感に浸りながら、お尻をさすりながら戻ってきた石井くんを見ていた。
 それからも、何人か跳び越すのを失敗した。みんな、運動の苦手な子ばかりだ。五年生だというのに、こんなに三段を跳べない子がいるとは、翔太にはすごく意外に思えた。

 横山くんの番になった。クラスで一番やせっぽちで、この子も運動が苦手だった。
 バン、…、バチーン。
 横山くんは、跳び箱に手をついたまま前のめりになり、向こう側へ倒れてしまった。助走のスピードや踏み切りはよかったのだが、腰が高く上がりすぎて前につんのめったようだ。
「大丈夫かあ!」
 村岡先生が、あわてて横山くんに駆け寄った。
「いたーい!」
 横山くんは、両腕を上に差し伸べて、床に倒れたままうめいている。
「大変だ。誰か、職員室の他の先生を呼んできて」
 村岡先生に言われて、学級委員の石戸谷くんが全速力で走っていった。

 ピーポ、ピーポ、…。
 外からサイレンが聞こえてくる。
 翔太が教室の窓からのぞくと、救急車が赤いライトを点滅させながら校庭から走り出していく。横山くんを運んでいるのだろう。村岡先生も付き添って病院へ行くことになったので、翔太たちのクラスは代わりに教頭先生が来て自習をしていた。体育の授業は、あのまま打ちきりになっていた。

 次の日、先生の説明によると、横山くんの怪我は、翔太たちが予想していたよりもずっと重かった。骨折、それも両腕の手首を同時に骨折してしまっていたのだ。しばらくの間は、そのまま入院しなければならないだろう。
 横山くんの怪我は、極度の運動不足のせいのようだった。たしかに、横山くんは、いつも携帯ゲーム機やトレーディングカードばかりで遊んでいて、ぜんぜん運動をしていなかった。
 先生の話によると、使わないために両腕の手首の関節が固くなっていて、もともと十分に曲がらなかったようだ。そこへ、跳び箱で両手をついた時に、踏み切りが三段にしては強すぎたために、腰だけ上がってつんのめってしまい、全体重が手首の骨にかかって支えきれずに折れてしまったのだという。
 その話を聞いて、翔太は自分も手首が逆に曲がりそうになってヒヤリとしたことを思い出した。
(五年生に三段なんて、低すぎる設定にしたのがいけないんだ)
 翔太はそう思ったけれど、その三段も飛べない子がいたのだから仕方がなかったのかもしれない。

 横山くんの事故は、学校内だけでなく、市の教育委員会の方でも問題になってしまった。横山くんの両親が、今回の怪我について、教育委員会へ強くクレームをつけたためだ。
「息子の事故は、怪我の防止について、学校側の注意が足りなかったからだ」
と、主張している。場合によっては、学校や村岡先生の責任が問われかねない。
 教育委員会では、今回の事故の原因究明のために、緊急に調査委員会を設置した。
 その一環として、市の小中学校では、児童や生徒の運動時間や生活習慣について、大掛かりな調査が行われることになった。
 そんなまわりの大騒ぎを、翔太は他人事のように感じていた。自分は、ふだんからたくさん運動をしているから大丈夫だと思っていたのだ。
 翔太は、一年生からサッカーのスポーツ少年団に入っている。ポジションはゲームをコントロールするミッドフィルダーで、六年生たちにまじってレギュラーをまかされている。ミッドフィルダーは、攻撃も防御もする忙しいポジションなので、一番運動量が多い。
 少年団では平日は週三回も練習があるし、週末も試合などが行われることが多かった。少年団が休みの日にも、翔太はチームメイトとの自主練にいつも参加して、河川敷にある市のグラウンドまでおかあさんに車で送ってもらって、ボールを追っかけている。

 翔太は、横山くんとはクラスで同じ班だったので、班のメンバーの人たちと一緒に、クラスを代表して病室へお見舞いに行くことになった。みんなの寄せ書きの色紙や、手作りの千羽鶴(百羽ぐらいしかいなかったけれど)を持っていった。
 病室に入って驚いたことには、横山くんはベッドの上でも携帯ゲームをやっていた。横になったまま、ギブスをはめた両腕を上に伸ばして、器用にゲーム機を操作している。どうやら、骨折していても指はよく動くようだった。まったく懲りない奴だ。
「なんだよ。ここでもゲームかよ」
 翔太が言うと、横山くんはさすがに少し恥ずかしそうな顔をしていた。

お見舞いの帰りに、病院のホールで、翔太たちは隣のクラスの竹下くんに出会った。
「どうしたの?」
と、翔太がたずねると、
「うん、ひじを痛めちゃってさあ」
と、竹下くんはサポーターをした右腕を上げて見せた。
 竹下くんは、主に翔太の学校の子どもたちで構成されている少年野球チームで、エースピッチャーをやっている。
「ふーん」
「ここの整形外科に通ってるんだ」
 竹下くんの話だと、ピッチングのやりすぎでひじの腱を痛めてしまったようだ。先月の市大会の時に、試合で連投して、無理をしたのがいけなかったみたいだ。
(ふーん)
 対照的な横山くんと竹下くん。どうやら運動のしなさすぎでもダメだし、やりすぎてもダメなようだ。
 翔太は、なんだか自分までが不安になってしまった。

 横山くんや竹下くんのような身体の機能性障害のことは、ロコモティブ症候群と呼ばれている。本来は高齢者が加齢や運動不足で陥る状態のことだが、最近は子どもたちにもその予備軍が増えていた。あまり運動をしないために、手首やひじや肩や足首やひざなどの関節やそのまわりの筋肉の柔軟性が失われたり、逆に特定の運動ばかりやりすぎていて、その部分を痛めてしまったりすることによって起きていた。
 子どもたちのロコモティブ症候群を防ぐためには、鬼ごっこ、木登り、石蹴り、縄跳び、ゴム段などの、昔からの多様な外遊びで体中の関節や筋肉を使うことが必要だった。以前と違って、そういった外遊びをする環境は、翔太たちのまわりではほとんど失われてしまっていた。学校の休み時間は短すぎたし、下校時間になったらさっさと学校を追い出されてしまう。校長や教師たちが、学校での事故を極度に恐れているからだ。もっとも、今回の横山くんの骨折のような件があることを考えると、あながち学校側の態度だけを責められないかもしれない。
 近くの公園には、滑り台やブランコなどのもっと小さな子どもたちのための遊具がたくさんあって、小学校高学年の子どもたちが自由に遊べる空間はあまりなかった。そのうえ公園では、木登りやボール遊びは禁止されている。ここでも、事故とそれに伴うクレームを極度に恐れる行政サイドの姿勢が表れている。
 しかし、仮に自由に遊べる場所があったとしても、肝心の子どもたちが少なすぎるので、人数が必要な外遊びが成立しないのも事実だった。昔に比べて子どもの絶対数が圧倒的に少ないし、その希少動物のような子どもたちも、いろいろな習い事や塾などに追われていて、自由に遊べる時間がすごく少なかった。だから、たまに暇があっても、少人数で遊べる携帯ゲーム機、スマホ、トレーディングカードなどでしか遊べないのだった。
 今の子どもたちが身体を動かそうとしたら、竹下くんや翔太のように、野球、サッカー、ミニバスケットボール、バレーボール、水泳、体操などのクラブに入らなければならない。
 でも、そこでは、同じ種目だけを長時間やることが多いので、逆に身体の特定部位の使いすぎで、関節や腱などを痛めてしまったり、特定の場所に筋肉がつきすぎて体全体の柔軟性が失われてしまったりする危険性があった。

 翔太のクラスでも、ロコモティブ症候群の調査のための問診表が配られた。一週間の運動時間や内容を記入するようになっている。
「みんな、家族の人たちにも聞いて、きちんと記入して、今週中に提出してください!」
 教壇では、村岡先生が、真剣な表情で声をからしている。今やロコモティブ症候群は、翔太の学校ばかりではなく市全体でも大きな問題になっている。
 翔太は、おかあさんに確認しながら、家で問診表を記入してみた。
 運動時間は予想通りにけっこう長かったが、サッカーだけに偏っていることがわかった。驚いたことには、それ以外の運動時間は、一週間合計で一時間にも満たなかったのだ。
 翔太の学校では、問診表の提出に続いて、クラスごとに交代で体育館に集められて、身体の柔軟性を調べる検査が行われた。
 最初の立位体前屈は、翔太はOKだった。手のひらまでは着かなかったけれど、指先は楽に床に着いた。
 しかし、まるで床に着かない子も多い。中には、ふざけているんじゃないかと思うほど、身体が曲がらない子もいる。指先が床から30センチ以上も離れている。
 でも、逆に余裕で手のひら全体がペッタリと床に着く女の子たちもいた。彼女たちの身体は、折り畳みナイフのように、ぴったりと二つ折りになっている。そんな子は、たいてい新体操かバレエを習っていた。
 次の検査に移った。かかとを浮かさずにそのまましゃがみこむテストだ。
「あっ!」
ショックなことには、翔太は足の裏をつけたままだと、きちんとしゃがむことができなかった。どうしてもバランスを崩して後ろに倒れてしまう。
 サッカーで走りすぎて、足に筋肉がつきすぎているせいかもしれない。翔太自慢の太ももの太さが仇になっている。膝や腰の関節の柔軟性が、太ももの太さに追いついていなかった。
 内心恐れていたことが事実になった。翔太自身も、ロコモティブ症候群予備軍だったのだ。

 市内の小学校の検査結果がまとまった。
 実に20パーセント以上の子どもたちが、なんらかの機能障害を抱えていることがわかった。ロコモティブ症候群予備軍は、知らないうちに子どもたちの間に蔓延していたのだ。
 その後、市では、大学の先生の指導の元に、ロコモティブ症候群を予防するためのストレッチを、すべての学校で導入することになった。体育の授業では、初めに、ラジオ体操に続いて、このロコモティブ症候群対策ストレッチを、必ずやるようになった。
「このストレッチは狭いところでもできるから、家でもやるように」
 村岡先生は、口を酸っぱくしてクラスのみんなに言っていた。横山くんのような事故を再発しないようにと、先生たちも必死だったのかもしれない。
 翔太も、学校だけでなく、サッカーをする前などにも、このストレッチをやるようになった。なんとか、ロコモティブ症候群予備軍の汚名を晴らしたかった。


ロコモティブ症候群
平野 厚
メーカー情報なし


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万馬券

2020-02-20 16:26:23 | 作品
 塾も部活も何もない、ゆっくり休める久しぶりの日曜日。目を覚ましたのは、とっくにお昼を過ぎているころだった。
 何もやる気が起こらない。そのままベッドの中でグズグズしていたら、いつのまにか二時近くになってしまった。さすがに腹が減ってきて、グルグルと音を立てている。
エイヤと気合を入れて、ようやくベッドから起き上がった。
 パジャマのままキッチンへ行くと、テーブルの上には卵焼きとハムサラダが置いてある。月末だから、かあさんは気の毒にも休日出勤なのだろう。
 冷凍のスパゲッティーをチンしている間に、インスタントのスープにお湯を注ぐと、朝昼兼用の食事が完成だ。
 ベランダ越しに見える外は、気持ちよく晴れ上がっている。五月晴れってやつだろう。
 一人でもくもくと食べるだけだから、あっという間に終わってしまう。
 洗うのが面倒なので、お皿やコップなんかは流しに突っ込んでおく。かあさんが、夕食の時の食器と一緒にやってくれるだろう。ちょっと後ろめたい気がしたけれど、どうにもやる気が起きない。
 洗面所で歯をみがいて顔をあらったら、少しはさっぱりとした。
 それでも、いぜんとして何もやる気が起こらない。外へ遊びに行く気も、コミックスを読む気にもなれない。友達にスマホ連絡する気さえ、起きてこなかった。
 パジャマをぬぎかけたまま、居間のソファーねころがった。おなかがくちくなったので、また眠ってしまいそうだ。

 何気なくテレビをつけたら、ちょうど競馬中継が始まるところだった。
 どうやら、今日はダービーが行われるらしい。競馬に特に関心があるわけではないけれど、このレースの名前は聞いたことがある。ソファーの手すりに足を乗せて寝そべりながら、中継を見ることにした。
 画面いっぱいに、初夏のあたたかな日差しがあふれている。薄緑のじゅうたんをしきつめたようなコースも、大きな弧を描いて続いていく白い柵も、ぎっしりとつめかけた人々のシャツも、明るい日の光の中ですべてが輝いて見える。
 ダービーのひとつ前のレースが始まった。カラフルな衣装をまとったジョッキーを背に、黒やこげ茶や栗色のサラブレッドがけんめいに走っていく。
 集団が直線に差しかかった。観客席から歓声がわきおこる。サラブレッドたちは、ひとかたまりのままゴールを過ぎて行った。
 ゴール前では、紙ふぶきが舞っている。どうやら、ハズレ馬券を投げているらしい。
「三連単で十万馬券が出ました! 3番12番7番で、2236.8倍」
 アナウンサーが、興奮気味に叫んでいる。
 わずか百円の馬券が、二十二万三千六百八十円にもなったというのだ。
(千円買ってたら、二百二十三万六千八百円)
 頭の中ですばやく計算してみた。
 テレビの中から、大喜びしている人たちの歓声と、がっかりしているずっと多くの人たちのため息とが聞こえてきそうだ。
「いよいよ、ダービーのパドックです」
 放送席のふんいきも、明るくはなやいでいる。
 白いタキシードを着た司会者も、花をあしらった大きな帽子をかぶった女性アシシタントも、ダービーというお祭りを前にしてにぎやかにはしゃいでいた。
 画面が切り替わった。
 ゼッケンをつけたサラブレッドが、手綱を引かれて歩いている。楕円形のパドックを番号順に十八頭が一列に続いている。
さまざまな毛色をしたサラブレッドたちが、あるものはゆっくりと、あるものは小走りに歩いていた。
 さまざまな模様の衣装を着たジョッキーたちが、いっせいにサラブレッドにまたがった。
「わーっ」
場内の興奮が高まってくる。
(XXXX、がんばれ!)
(XXXX、参上!)
 馬名に思い思いの言葉がそえたいくつもの横断幕が周囲にはりめぐらされて、その外側を大勢の人たちが取り囲んでいる。ここにも、初夏の日差しがあたたかくあふれていた。
 でも、ぼくはもうひとつの競馬場の風景を知っていた。
 そこは、ひどく寒くて暗い場所だった。

 寒いふきっさらしの中で、ぼくはせいいいっぱいの声をあげて泣いていた。まだ小さいころのぼくだ。4才か、5才ぐらいだっただろうか。
よれよれになった新聞を手に、あたりを歩き回っている男たちは、そんなぼくの方をチラリと見ているのだが、誰一人として足をとめてくれない。
 あたりには、たばこやほこりに混じって、かすかに潮の香りがした。ぼくは、海のそばの競馬場へ連れてこられていたみたいなのだ。来る途中のモノレールから、近くに海が見えたような気がする。
 ピューッと冷たい風が吹いてきた。風に巻き上げられたはずれ馬券が、ぼくの頭の上でクルクル回っている。
「馬鹿だなあ、だからそばにいろって、言っただろ」
 遠くから人々をかきわけるようにして、ようやくとうさんがやってきた。くしゃくしゃになった新聞を片手に、反対の手でぼくの頭をゴシゴシとなでた。そして、ヒョイとぼくを肩車すると、人ごみの方へ歩き出した。
 大勢の人たちの頭越しに、馬たちが走ってくるのが見えてきた。
 ワーッ。
 歓声がわきあがる。
 馬たちがかけぬけていったとき、とうさんはポケットから馬券を取り出すと、だまって破り捨てた。

「腹へったな、なんか食うか?」
 とうさんに聞かれて、ぼくはコクンとうなずいた。
 ぼくを肩車したまま、とうさんは建物の外へ連れて行った。そこには、食べ物を売っている売店がならんでいる。
 とうさんは、その一軒の店先の椅子にぼくをおろすと、ポケットからさいふを取り出した。そして、それをさかさまにして、しょうゆやビールがこぼれたままになっているテーブルの上にぶちまけた。
 一円玉や十円玉がほとんどで、百円玉は少ししかない。
その中に、四角い小さな紙が混じっていた。
「帰りの切符だよ。これまですっちまうと帰れなくなるからな」
 とうさんは、切符を大事そうに胸のポケットにしまった。
 とうさんは、小銭の山から十円玉と百円玉を拾い出すと、手の中でジャラジャラさせながら、窓口のそばまで歩いていった。壁のメニューをしばらくにらんでいたが、やがて窓口のおばさんにいった。
「スイトン、ひとつ」
 しばらくして、四角いオレンジ色のおぼんに、あたたかそうな湯気を立てたどんぶりをのせて戻ってきた。
「ここの食いもんも、高くなっちまったな。一杯しか買えなかった」
 ぼくが困ったような顔をしていると、
「おれはおなかがすいてないから、おまえが食べな」
と、とうさんはいった。
 とうさんは割り箸を割ってどんぶりにのせると、こちらに押してよこした。
 薄茶色のおつゆの中に、ほうれん草やだいこんや白いおもちのような物が浮かんでいる。プーンと、おしょうゆのおいしそうなかおりがしていた。
 ぼくはどんぶりに顔をつっこんで、おつゆを飲もうとした。
(アチチ!)
 熱すぎて、とても食べられない。
「ちょっと、待ってな」
 とうさんはまた窓口にいくと、おちゃわんとスプーンをもってきた。
 スプーンで少しだけ中身をおちゃわんに移すと、
「フーフーして、食べるんだぞ」
といって、手渡してくれた。
 ぼくは本当にフーフーと息をふきかけてから、スイトンを食べ始めた。
白いかたまりはおもちではなくて、うどんのかたまりのようでへんなかんじだったけれど、おつゆも野菜もちょっとだけ入っていた鶏肉も、あたたかくてすごくおいしかった。
 ふと気がつくと、とうさんはたばこをすいながら、夢中で食べているぼくのことをうれしそうな顔をして見ていた。
「おとうさんも、食べる?」
 ぼくがたずねると、
「おれはいいから、もっと食べな」
 とうさんは、もういちどおちゃわんに少しよそってくれた。どんぶりの中には、まだ半分くらい残っている。
 少しさめてきたのか、今度はすぐに食べ終わった。まだ、おなかはすいている。
 でも、ぼくはいった。
「おなかいっぱいになっちゃった」
「もういいのか?」
 ぼくがコクンとうなずくと、とうさんはどんぶりに残っていたスイトンをすごいいきおいで食べ始めた。そして、あっという間に、おつゆ一滴も残さずにたいらげた。
「もう帰ろうな」
 立ちあがったとうさんの手を、ぼくは急いでギュッと握り締めた。

 ぼくが小学校に上がる前に、とうさんは突然家からいなくなった。ハンコを押した離婚届一枚を残して、失踪してしまったんだそうだ。
 かあさんに言わせると、
「あちこちに借金の山をこしらえてしまっていたから、離婚してこちらに迷惑が及ばないためにしたんだろうね。それがあの人のせいいいっぱいの思いやりだったのよ」
って、ことになる。
 かあさんは口癖のように、
(結婚はもうこりごりだ)
と、言って、ぼくとの二人きりの生活をずっと続けている。
そのくせ、とうさんに対してそれほど恨みに思ってもいないらしく、あまり悪口は聞いたことはない。
 それは、かあさんのさばさばした性格に原因があるのかもしれない。あっさりととうさんをあきらめると、かあさんはすでに始めていた保険の営業の仕事に専念していった。けっこう元から向いていたみたいで、今では全国でもトップクラスの営業成績らしい。
 ぼくも、とうさんに恨みも未練もあるわけではない。
でも、たまに母方のおじいちゃんに、
(浩子は悪い男にだまされた)
なんて、とうさんの悪口をいわれたりすると、なんだか顔がこわばってしまう。
 ぼくのとうさんの記憶は、もうはっきりしなくなっていた。遊園地へ一緒に行ったり、入園式にとうさんが来たり、だのの記憶がぼんやりとはあるのだが、それらは写真やビデオによって、後からうえつけられたものかもしれない。
 うちでは、テレビドラマの離婚家庭のようには、写真から何からとうさんの物がすべて捨てられてしまったわけではない。だから、見ようと思えば今でもとうさんの姿を見ることができた。それが、頭の中でごっちゃになっていたのかもしれない。
 その中で、写真もビデオもないのに、すごく鮮明に残っている記憶。それが、競馬場でのものだった。
 競馬場の記憶は、他にもたくさんあった。どうやら、とうさんは競馬場へ行く時に、いつもぼくを連れて行っていたようなのだった。それが、せめてものぼくとのふれあいの時間だったのかもしれない。
 歓声の中をかけていく馬たち。とうさんとさくに寄りかかるようにしてながめていると、ずいぶん遠くからヒズメの音が聞こえてきて、やがて目の前をすごいスピードでかけぬけていった。
 パドックの中を、手綱を引かれてグルグルまわっている馬たち。ぼくはとうさんに肩車されて、大勢の人たちのうしろからながめていた。あたたかい糞のにおいが今でも記憶に残っている。

 ある時だった。
「やった、やった!」
 とうさんが興奮して叫んでいた。
「どうしたの?」
 わけがわからずに、ぼくがたずねると、
「万馬券だあ!」
 とうさんは、にぎりしめていた馬券をぼくの方に突き出した。
「まんばけん?」
「そうだ。大当たりだあ。いくらつくかなあ」
 とうさんは、コースの反対側の大きな電光掲示板の方をながめている。
「やった、三万二千二百円だ」
 ぼくがキョトンしてみていると、
「この千円の馬券が、三十二万二千円になったんだぜ」
「すげえ!」
 わけもわからずに、ぼくは答えていた。
 とうさんは、ぼくの手を引いて払い戻しの機械に並んだ。

「新宿まで」
 とうさんは、競馬場の正門でタクシーに乗りこむと、大きな声で運転手にいった。
 いつもなら、帰りにはスッカラカンになっていて、往きに買っておいた切符で電車を乗り継いで帰っているところだ。
「だんな、いい景気ですね。勝ったんですか?」
「うん、今日もぜんぜんだめでさあ。それがさいごの12レース」
「えっ。じゃあ、あの馬券、取ったんですか?」
「おお、6番、13番、8番よお」
「そりゃあ、どうもおめでとうございます」
 とうさんは、ごきげんで運転手と話をしている。
 やがて、車はにぎやかな場所に着いた。
 タクシーを降りるときに、とうさんは、
「釣りはいいから」
とかいって、一万円札を運転手に押し付けていた。
 とうさんは、大きな看板のかかったレストランにぼくを連れていった。そして、テーブルにならべきれないくらいのごちそうを取ってくれた。
 ビーフステーキ、エビフライ、とんかつ、サラダ、……。
 でも、それらがどんな味だったかは、もう忘れてしまった。もしかすると、いつか海の近くの競馬場で食べたスイトンの方がおいしかったのかもしれない。
 その後、とうさんはきれいなおねえさんがいっぱいいる場所に、ぼくを連れていった。ふだんはお酒を飲まないとうさんは、一番きれいなおねえさんにつがれたビール一杯で、真っ赤になってしまった。
 そして、ぼくにむかって、
「おかあさんには内緒だぞ」
と言って、わらっていた。

 ふと気がつくと、いつのまにか競馬中継は終わっていた。
ぼんやりしていたので、ダービーの結果は覚えていない。ただ、アナウンサーの絶叫と、観衆の大歓声が遠くに聞こえたような気がした。
 でも、きっと今日も馬券をめぐって、泣き笑いをしている人たちがいることだろう。
 テレビは、次のゴルフの番組が始まろうとしていた。
 リモコンでテレビを消した。
(競馬場かあ)
 遠く離れたこの部屋にいることが、なんだか少し物足りない気分だった。
そして、急に競馬場へ行きたくなってしまった。
 ぼくは、思わず椅子から立ち上がっていた。
 もうあれから、十年近くもたってしまっている。どうやって競馬場へ行けばいいかさえもわからない。だいいち、中学生だけで競馬場に入れるのかどうかさえあやしかった。
 それに、今から行ったのでは、最終レースにも間に合わないだろう。きっと、今ごろは、大勢の人たちが競馬場からはき出され始めているに違いない。
 でも、ぼくはどうしても競馬場に行きたかった。
そして、そこでまた迷子になろう。ぼくが競馬場をさまよっていたら、どこかでとうさんに会えるような気がした。万馬券をにぎりしめて、あの笑顔を浮かべて。


万馬券
平野 厚
メーカー情報なし
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エリン・ブロコビッチ

2020-02-19 09:10:46 | 映画
 2000年公開のアメリカ映画です。
 法律の専門教育を受けていない、三人の子持ちのバツ2のシングル・マザーが、持ち前の行動力と正義感(プラス美貌?)で、数百人の大原告団をまとめあげて、大会社から3億3300万ドルもの巨額な賠償金を勝ち取った、実際にあった公害訴訟を描いています。
 大企業の無責任体質、悲惨な公害被害、硬直したエリート弁護士たちなども描かれていますが、この映画の魅力は、なんといっても型破りでチャーミングな主人公を演じたジュリア・ロバーツの演技でしょう。
 セクシーな美人なだけでなく、一人で三人の子どもを育てるたくましさ、学歴がないことにチャレンジして弁護士事務所に務めるヴァイタリティ、ときおり見せるか弱さや優しさも含めて、実在のの主人公の女性の持つ多面的な魅力を演じきって、アカデミー主演女優賞に輝きました。
 「プリティ・ウーマン」で可愛い娼婦を演じて、一躍スターになった彼女が、そこから一歩前進って感じです。
 さらに気持ちがいいのは、アメリカらしく、原告の被害者たちが高額の賠償金(最高は500万ドル)を得ただけでなく、弁護士事務所も大儲け(獲得した保証金の40%、ただし訴訟が大掛かりになったので、途中からは大手の弁護士事務所と共同になったので全額がもらえたわけではありません)し、エリン自身も200万ドルのボーナスをゲットしたことです。
 こうした場合、日本だったら善意やボランティア精神ばかりが強調されがちですが、弁護士も仕事としてやっているわけですから、こうした成功シーン(アメリカン・ドリームの一つでしょう)をきちんと描いた方が観客もスッキリします。


エリン・ブロコビッチ (字幕版)
Danny DeVito,Michael Shamberg,Stacey Sher
メーカー情報なし

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サイレント・ウォー

2020-02-18 08:57:20 | 作品
 目標まで、あと五キロメートルになった。
そこを過ぎると、ミサイルはぐんぐんと高度を落としていった。
 地上は、徹底した燈火管制でまっ暗だった。
 でも、赤外線カメラは、ところどころすでに破壊された町並みをとらえていた。
(見えた!)
 前方に、目標とする軍需工場の建物が映った。
 ミサイルはますます高度を下げていく。みるみる工場の建物が大きくなっていった。そして、画面いっぱいにひろがった。
 ガガガーン!
 大音響とともに、一瞬、画面いっぱいにまぶしいほどの白い閃光が拡がった。
 次の瞬間、画面は上空高くに舞い上がっていった。
もうカメラの視点は、ミサイルからは切り離されている。
 画面の視野が、どんどん広がっていく。
真っ赤な火柱をあげた工場の全景が見える。モクモクと立ち上る黒煙を、カメラはとらえていた。
(やったあ!)
ミサイル攻撃は見事に成功した。

 最終戦争が始まって、四年の月日が流れていた。紆余曲折はあったものの、最終的にはわが国の一方的な勝利で終結することが、確定的になりつつあった。
 ある国の独裁者によって始まった世界中を巻き込んだ果てのない軍拡競争。それに、とうとうひとつの終止符がうたれるのだ。
 でも、それは、ひそかに世界制覇を目指していた我が国の支配層にとっては、またとない機会だったかもしれない。
 巧みな外交戦略によって国際情勢をこちらの思う通りに操り、戦争の大義名分は完全にこちらのものとなっていた。
我が国は、単独ではなく多国籍軍の一員として、敵と戦えばよかった。
たとえその戦力が、実質的には我が軍が大多数を占めているとしても、国際世論は完全にこちらを支持していることになる。
 しかも、他国との長い戦争で疲れきっている敵側には、最新兵器で武装した我が軍に立ち向かえるはずもなかった。わが国は、漁夫の利を得ていたのだ。ミリタリーバランスは、初めから崩れていた。あとは、定石どおりに相手を孤立させて、攻めていけば良かった。 
 そして、それももうじき全てが終了する。世界制覇に向けての最終戦争は、いよいよ最後の段階を迎えていたのだ。

 ジェット戦闘機のコックピット。ディスプレイには、さまざまな計器が表示されている。
 すでにディスプレイで、ミサイル攻撃がねらいどおりに成功したことを見とどけていた。
(よしっ)
 機体を百八十度旋回させた。これから、自軍の基地へ帰還することにした。今日の使命は、見事に果たしている。後は、無事に基地にたどりつけばいい。
 ビーッ、ビーッ、ビーッ、……。
 突然、激しいブザーの音とともに、赤い警告ランプが点った。
(しまった。地対空ミサイルか?)
 すぐに、敵のミサイルの誘導装置をかく乱させるために、妨害電波を発射した。そして、左へ大きく旋回してミサイルから逃げようとした。
 しかし、それは遅すぎたようだ。
 ディスプレイには、ミサイルがぐんぐん接近してくるのが映っている。
 グガガーン!
 すさまじい命中音とともに、機体が激しく揺れた。
 急いで緊急脱出装置のスイッチを押して、空中に飛び出した。
次の瞬間、コックピット内は真っ赤な炎に包まれた。

「ちぇっ、最後につまらない失敗しちゃったなあ」
 ススムはそうひとりごとをいうと、画面を戦闘モードから戦略モードへ切り換えた。
『 (戦果)
    軍需工場    6
    飛行場     2
    戦車     23
    戦闘機    46
    移動ミサイル 17
  (損害)
    戦闘機     5
    爆撃機     2   』
 画面に、今回の戦闘の結果が表示された。最小の損害で、最大の戦果をおさめている。作戦全体の成績については、ススムは満足していた。
 インターネットを通して、七人の対戦相手とともにはじめた世界制覇ゲーム「ファイナル・ウォー」は、いよいよ最終局面をむかえている。
 ゲーム開始の時に覇権を争っていた八カ国も次々に淘汰されて、今ではススムのひきいるキチーク共和国と、ヒロシのダトーア帝国との間の最終戦争に突入していた。
 「ファイナル・ウォー」では、国家としての立場での戦略モードから、一兵士としての戦闘モードまで、さまざまなレベルでの戦争をシミュレーションできる。
 戦略モードでは、他国との同盟関係の構築や他国同士を先に戦わせるための謀略といった外交政策が重要だ。また、兵器や食糧の増産、戦時国債の発行といった内政にも、手腕をふるわなければならない。ここでの戦争は、結果としての死者数、負傷者数、残存兵器数といった単なる数字でしかない。
 それにひきかえ戦闘モードは、個々の戦闘のリアルシュミレーションだった。ここでは、歩兵でも、砲兵でも、戦闘機パイロットでも、何の立場にも自由になることができる。さらに、人間だけではなく、ミサイルそのものになって空を飛び、目標を破壊するところをモニターすることさえ可能だった。

『敬愛するダトーア帝国の皇帝陛下へ。
 陛下もご承知のとおり、このたびの戦争はわが共和国側の一方的な優勢のまま、最終局面をむかえています。
 これ以上の無駄な血を流すことは、我々の本意ではありません。
 よって、即時、無条件降伏を勧告いたします。
 もし、降伏されないならば、当方としては重大な決意で臨まなければなりません。
                           キチーク共和国大統領より』
 ススムは、ヒロシへの最後通告をキーボードで打ち込んだ。
(さて、どんな返事が来るものやら)
 ピロロロン。
 すぐに、ヒロシがメールを受け取ったことを示すサインがあらわれた。渋い表情でメッセージを読んでいるヒロシの顔が画面に見えるようで、ススムはついニヤリとしてしまった。
(おっと、最後まで油断しちゃだめだ)
 ススムはどんな返事がきても大丈夫なように、ICBM(大陸間弾道弾)でダトーア帝国の首都を地上より抹殺できるようにセットした。
 もうすでに今までの戦闘で、ダトーア帝国の迎撃ミサイル網は完全に破壊してある。ヒロシには対抗手段はないはずだった。
 やがて、ヒロシからの返事が届いた。
『親愛なるキチーク共和国の大統領閣下へ。
 丁重なる御勧告、痛み入ります。
 しかしながら、わが帝国には、敵に対して降伏するような非国民はただの一人もおりません。最後の一兵になるまで戦い続けて、潔く玉砕するつもりですので、遠慮なく「重大決意」とやらを実行してください。
                             ダトーア帝国皇帝より』
 ヒロシには、降伏する意思はぜんぜんないようだ。
(ちぇっ、手間をかけさせやがって!)
 ススムは即座に、ICBM発射の命令をキーボードから打ち込んだ。
 ブロロローン。
 ミサイルが発射台から打ち出されていく。
 十分後には、ダトーア帝国の首都は、地上より抹殺されるはずだ。

 結果が出るまでの間、ススムは一息入れるために階下の食堂へ降りていった。
 冷蔵庫からグレープジュースの1リットルの紙パックを取り出す。
「フーッ」
 コップ一杯を一息に飲み干して、小さくため息をついた。
 口の端からツツーと垂れたジュースが、ススムの白いシャツに小さな赤黒い染みを作った。

 白黒の画面にぼんやりうつった建物が、みるみる大きくなってくる。画面の右すみに表示されているミサイルの高度を示す数字は、どんどんゼロに近づいていく。
 建物が画面いっぱいにひろがった。
 命中と同時に、画面はグシャグシャに乱れてとまった。
 爆発音もしなかった。
 しばらくして、アナウンサーが抑揚のない声でしゃべり出した。
「ただいまお送りしたのは、ミサイルに取りつけられたカメラによる映像でした。一月十七日に勃発した多国籍軍と政府軍の戦闘は、今日で四週間目に入りました。多国籍軍による延べ四万八千回以上の空爆により、すでに政府軍の軍事施設は壊滅的な打撃を受けている模様です。軍事専門筋によると、戦闘は地上戦も含めた次の段階に、……」
 プツン。
 ススムは、リモコンでテレビのスイッチを切った。
 もう何回も見たミサイルの映像。
 でも、なぜか実感がわいてこない。
 色彩も音もないまったく無機質な世界。
(映像の向こうで何が起こっているのか?)
 まったく想像できない。誤爆によって一般市民にも被害が出ているというけれど、もうひとつピンとこない。よっぽど「ファイナル・ウォー」の方が、実感があった。

 勢いよく階段を駆け上がって、ススムはパソコンの前へ戻った。
 さっき発射したICBMは、すでにダトーア帝国の首都を、きれいさっぱりと地上から消滅させていることだろう。
 今度こそ、さすがの頑固なヒロシ皇帝陛下も無条件降伏するに違いないと、ススムは思っていた。
 まず、メールをチェックする。
 何も来ていない。
(ちぇっ、強情な奴め)
 まだ無条件降伏しないなんて、とても信じられない。
 ススムはマウスを操作して、パソコンにダトーア帝国の首都を表示させた。
 パソコンの画面が切り替わった。
 あたり一面、完全に破壊されつくされている。
(やったあ!)
 ミサイル攻撃は、完全に成功だ。
 ススムは、もう一度メールをうった。
『ヒロシ、
 もういいだろ。いいかげんに降伏しろよ。
          ススム』
 今度は、単刀直入な文面にした。
 それでも、返事は来ない。
 しびれをきらしたススムは、スマホでヒロシに電話をかけた。
 ルルー、ルルー、ルルー、……。
 呼び出し音が鳴っているのに、誰も出ない。
(まさか?)
 ススムは急に不安になって、荒涼としたパソコン画面の風景を見つめた。


サイレント・ウォー
平野 厚
メーカー情報なし
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ウォール街

2020-02-17 17:24:57 | 映画
 1987年公開のニューヨークのウォール街を舞台にした作品です。
 チャーリー・シーンが演じる証券会社に務める若者が、合法でも非合法でも、とにかくあらゆる手を使って、乗っ取りや売り抜けなどで巨額の富を手にしている投資家にあこがれ、その手先になってインサイダー取引きなどの犯罪に手を染めていきます。
 主人公は、投資家をバックにが巨額の収入を得て、マンハッタンの高級マンションや美人の恋人(彼女も投資家の手先)を手に入れますが、やがてすべてを失って勤め先の証券会社の同僚たちの目の前で手錠をかけられて逮捕されます。
 後半で、主人公の父親が務める中規模航空会社も投資家によって乗っ取られ、投資家の手先の主人公が社長に就任します。
 しかし、投資家が、航空会社をバラバラに解体して売り払おうとしていることを知った主人公は、急に家族愛に目覚めて投資家を裏切り、警察にも投資家が黒幕である証拠を提出して刺し違えます。
 このあたりは、家族愛や組合活動に甘いハリウッド映画らしいラストですが、実際の世界はもっと冷徹でしょう。
 この映画で、マイケル・ダグラスは、非情な投資家を怪演して、アカデミー主演男優賞を獲得しました。
 彼はこの映画に限らず憎まれ役を演じると実力を発揮しますが、彼の父親で2020年に103歳で亡くなったカーク・ダグラスはもっと正統派のたくましい主人公役が多かったです。
 なお、この映画が制作されたころは、日本ではバブルの真っ盛りで、アメリカをも凌駕しそうな勢いだったので、それを思わせるシーンが随所に出てきて面白いです。
 また、コンピューターの世界では、パソコンもインターネットも実用化されておらず、証券会社では大型コンピューターに接続されたブラウン管表示の端末を使っていて、とても懐かしいです。

ウォール街 (字幕版)
Daryl Hannah,Michael Douglas,Charlie Sheen
メーカー情報なし
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最上一平「へんてこテーマソング」

2020-02-16 10:56:23 | 作品論
 小学校一年生の、おっちょこちょいで元気ないがらしくんを主人公にしたシリーズの第二作です。
 この作品でも、いがらしくんの一見ノーテンキな行動が、周囲の友だちを元気づけます。
 今回のお相手は、学校に来られなくなった花山しずくちゃんです。
 力持ちのいがらしくんが、五キロのお米を運ぶためにおかあさんとスーパーに来たときに、
しずくちゃんと出会います。
 いがらしくんが歌っていたデタラメなへんてこテーマソングを、しずくちゃんが気に入ったのをきっかけに二人は仲よくなり、手紙のやりとりが始まります。
 そのやりとりの中で、いがらしくんはしずくちゃんが学校に来られなくなった訳を知りますし、しずくちゃんはへんてこないがらしくんのことを気に入ります。
 やがて、しずくちゃんは新しい方向へ一歩を踏み出すのですが、いがらしくんとの出会いが、そのきっかけになったかもしれません。
 楽しいいたずらや言葉遊びなどを通して、幼い子どもにとっての、他者を知ること、他者を理解すること、他者を応援することなどを考えさせくれる作品です。


へんてこテーマソング
有田 奈央
新日本出版社
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天使たちの夏

2020-02-16 10:50:14 | 作品
 まとわりつく熱い風、思わずクラクラッとする強い日ざし。ぼくは夏がきらいだ。
 今、ぼくは走っている。どこかへって、いうよりは、一日に向けて走っている。
だって、夏休みの初日だもの。そうしないわけにはいかないじゃないか。
 前の方に、このあたりでは見かけない男の子が歩いている。
「おい、きみ」
 クルッとふりむいたその子は、色白でふっくらしたほほをしていた。
「きみ。わるいけど、このひもをもって、ここに立っていてくれないか」
「えっ!」
「きみ、急いでる?」
 どぎまぎした顔でその子は首を横にふった。
「それじゃ、持っててよ」
「うん」
「ピンとはっててくれよな」
 ぼくは男の子にはじをにぎらせると、ひもをくり出しながら角をまがった。そして、そばの電柱に、のこりのひもをしばりつけた。
 これで、いたずらは一丁あがり。しばらくして、あの子が一杯くわされたのに気づいた時には、ぼくはいなくなっているってわけだ。

 永遠に続くかと思われた夏の一日もようやく終わりかけ、街灯にもあかりがともった。おなかがすいて、手で押したらペコンとへこんでもとに戻らないような気さえする。
「あっ!」
 なんとさっきの男の子が、まだひもをもって同じ場所に立っていた。さすがにくたびれたのか、フェンスによりかかっているけれど、できるだけピンとはろうとがんばっている。
「ああ、やっときたね。ずいぶん長くかかったね」
 そういいながらも、にこにこしている。
 信じられない。あれからはかなりの時間がたっているんだ。
「う、うん。ここにずっと立ってたの?」
「うん。でも、少しくたびれて、時々ひもがゆるんじゃったけど、だいじょうぶだった」
 そんな言い方をされると、こっちは困ってしまう。いたずらは好きだけれど、相手を選ぶべきだった。あやまろうと思ったけれど、何といっていいのかわからない。
「ちょっと待ってて」
 ぼくはあわてて角をまがると、ひもをはずして戻ってきた。
「ありがとう。お礼にひもをあげるよ」
「わあっ。ありがとう。ほんとにいいの」
 小さな目を、せいいっぱい大きくまんまるにしてよろこんでいる。こうむじゃきに喜ばれると、また胸が痛む。

「とうさん。この子が今日ぼくと遊んでくれたんだ。それに、このひももくれたんだ。」
 ふりむくと、いつのまにか、ぼろぼろのレインコートに山高帽の男が立っていた。手にはヴァイオリンの古いケースをさげている。
(この人に、ひもをほどくところを見られたかもしれない。なぐられるかな?)
 思わず、ぼくは手足を緊張させた。
 でも、その男は、ジーッと暗いどこか悲しげな目でぼくを見ただけだった。
「とうさんは、ことばがしゃべれないんだ。でも、耳は聞こえるんだよ」
 男は何かしゃべりたそうに、口をもごもごと動かした。何も聞こえなかったけど、この子にはわかったようだ。男は、とってもやさしい目で男の子を見ていた。
「何かきみにあげたいんだけど、何もないから踊りを見せてやれってさ。」
 男の子が、ぼくにいった。
「踊り?」
 ぼくは驚いて聞き返した。
「そう、いつも踊っているんだ」
(もしかすると、この親子は大道芸人なのかもしれないな)
と、ぼくは思った。

 男の子はポケットから小さなハーモニカをとり出した。男もケースからヴァイオリンを出すと、ぶしょうひげのはえたあごにあてた。
 まずハーモニカがやわらかくふるえながら鳴り出すと、すぐにヴァイオリンが続いた。
 その旋律は、夏の夜の闇の中へとすいこまれていくようだ。
 しばらくすると、ハーモニカはやみ、ヴァイオリンの調べのみとなった。
 弱く強く、強く弱く。その音はぼくたちがいる街角を中心にして、町中に輪をひろげていく。
 ゆるくはやく、はやくゆるく。ぼくは、しだいにそのうずの中に入り込んでいった。
 男の子が踊り出した。軽やかなステップ。ゆるくそっと胸にくんだ腕。踊りながら、円を描くようにぼくのまわりをまわった。
 ヴァイオリンの調べは、始まった時と同じようにゆっくりひっそりとやんだ。
 男はヴァイオリンをさも大事そうにしまうと、さっき自分の子どもを見ていた時のようなやさしい目でぼくを見ていた。
「それじゃ、さよなら。今日はありがとう。」
 男の子はそういうと、右手でそっとぼくのほほにふれた。その手は、夕立の後のそよ風のような心地よい冷たさをもっていた。
 立ち去って行く二人の後ろ姿が、やがて道の向こうに消えていった時、ぼくはようやく自分の空腹を思い出した。



天使たちの夏
平野 厚
メーカー情報なし




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ぼくの探偵たち

2020-02-16 10:47:50 | 作品
「フンフンフン、ハはハチミツのハ、ニはニンジンのニ、ホは……」
 ぼくは、タンポポの花をふりふり、ハニホの歌を歌いながら、ウカレ山からの一本道を下りていきました。
 ウカレ山は、アニマン市のはずれにある小さな山です。毎年、春になると、横から見た形が三角形の山は、一面サクラの花におおわれて、まるでピンクのオムスビみたいです。
 今年も、同じクラスのコブタくんやウサギさんたち、それに幼なじみのジュンちゃんと、お花見ピクニックへ行くことになっていました。今日はその下見に来たのです。
ふもとの方では、もうサクラはチラホラ咲き始めていました。これから、だんだんと上へ向かって花が開いていくのでしょう。頂上付近のサクラの木も、いっぱいにツボミをつけていました。
 あと一週間。そう、来週の日曜日にはちょうど満開になりそうです。

ふもと近くまで下りてきたとき、タヌキのうらないばあさんに出会いました。
「こんにちは、おばあさん」
 ぼくは大きな声であいさつすると、手にしたタンポポの花をふってみせました。
「あら、タツルさん、こんにちは」
 うらないばあさんは、ヨッコラショとこしをかがめてあいさつしました。
「フンフンフン、ハはハチミツのハ、……」
 また歌い始めようとしたとき、うらないばあさんにうしろから呼びとめられました。
「おやおや、タツルさん、たいへんだこと」
「えっ、なーに?」
 ぼくがうらないばあさんの方にふりむくと、
「タツルさん、今度の土曜日に、おまえさんの一番大切なものを盗まれるよ」
「えっ、大切なものって?」
「そこまではわからないよ。でも、おまえさんの顔を見ていたら、三つのものが浮かんできたよ。リンゴとシャボンとスミレさ」
 タヌキのうらないばあさんはそれだけをいうと、スタスタと山のほうへ行ってしまいました。

ぼくは、家へ帰ってからもいろいろと考えてみました。
(一番大切なものって、なんだろ?)
(誰に盗まれちゃうんだろ?)
 いくら考えてもわかりません。そこで、ぼくの探偵たちに相談することにしました。

机の一番上の引出しから金の鈴を取り出すと、一回だけ鳴らしました。
 チリリリン。
 きれいな鈴の音がまだ消えないうちに、大きな茶色のかたまりが窓から飛びこんできました。
 バタン、ドシン、ガチャン。
 すごい勢いで突っ込んで机にぶつかりました。机の上の筆箱、本立て、電気スタンド、読みかけのコミックスなんかが、みんな床に落っこちてしまいました。
 茶色のかたまりは、落っこちたものの中からなんとかはいだすと、きちんとすわって前足で敬礼しました。ふさふさの茶色い毛の中に、真っ黒な眼だけがギロギロと光っているムクイヌ。
 これが、一番目の探偵です。
「およびの、ゼイゼイ、鈴の音を聞いて、ハアハア、急いで、ゼイゼイ、飛んできました」
「じつはね、……」
 ぼくはタヌキのうらないばあさんの不吉な予言について、ムクイヌ探偵に説明しました。ムクイヌ探偵は、鼻をピクピクさせながら話を聞いています。
「一番大切なものって、なんだろ?」
「さて、何でございましょうな。私でしたらこのメダル」
 ムクイヌ探偵は、首輪にぶらさがっている金メダルをチャラつかせながらいいました。
「これは、去年、川でおぼれていた子どもを救ったときにいただきました」
「ぼくは、金メダルなんてもらったことないよ」
 ムクイヌ探偵の自慢そうな顔を見て、ぼくはちょっと腹をたてました。
「そうですか。でも、ご安心ください。私にはもう見当がついております」
 ムクイヌ探偵は、得意そうに胸を張りました。
「なんだって!」
 ぼくはびっくりして、ムクイヌ探偵の顔を見ました。
「なにしろ、リンゴといえば八百屋、シャボンといえば洗濯屋、そしてスミレといえば花屋に決まっています。これからひとっぱしり、その三人をふんじばってまいります」
 いうが早いか窓から飛び出そうとするムクイヌ探偵を、ぼくはあわててやっとの思いで捕まえました。
「待って、待って。なんだよ、リンゴとシャボンとスミレだからって、それを売っている人たちが犯人とは限らないじゃない。その三つが好きな人かもしれないし、その三つを使って何かを作っている人かもしれないよ」
 ぼくがそういうと、ムクイヌ探偵は、面目なさそうにシッポをたれて、部屋を出ていきました。

「あーあ」
 ぼくは大きなためいきを一つつくと、机の二段目の引出しから銀の鈴を取り出して、二回鳴らしました。
 チルン、チルルルン。
 鈴の音が長く尾を引いて鳴り止んでも、誰もあらわれません。ぼくがもう一度鳴らそうと鈴に手を伸ばしたとき、頭の上で声がしました。
「もう、とっくに来ていますよ」
 本棚のてっぺんに、何かが丸くうずくまっています。ベージュ色のスラリとした身体、四本の足にはこげ茶色のストッキング。とがった顔に、エメラルド色の目がチロチロと燃えています。
 そう、二番目の探偵、シャムネコでした。
(うすきみの悪い奴だな)
と、ぼくは思いました。
「それじゃあ、ご用件を聞かしていただきましょうか」
といいながら、しなやかな身体を宙におどらせて、一回クルリと宙返りをすると、部屋の真ん中に置いてあるテーブルの上に着地しました。
「じつはね、…」
 ぼくは、またタヌキのうらないばあさんの不吉な予言について、シャムネコ探偵に説明しました。
 シャムネコ探偵は、大きな伸びをしたり、耳の後ろを足でかいたり、ちっとも落ちついて人の話を聞こうとしません。
 最後に、シャムネコ探偵は、面倒くさそうにいいました。
「じゃあ、その大事なものを、金庫にでもしまっておけばいいじゃないですか」
「だから、何が大事なのかがわからないんだって、いってるんじゃないか!」
 あきれはてたぼくは、シャムネコ探偵を怒鳴りつけてやりました。
「はあ? なーんだ、それなら問題なし。あなたでさえわからないものを、犯人はもっとわかりっこない。だから、盗まれっこありませんよ」
 頭にきたぼくは、シャムネコ探偵の首根っこを捕まえて、窓から放り出しました。

「あーあ、あーあ」
 ぼくは二つためいきをつくと、机の一番下の引出しから銅の鈴を取り出して、三回鳴らしました。
 チロン、チロロン、チロロロン。
 最後の鈴の音が鳴り止んだでも、何もおきません。
(おや、どうしたんだろう)
 ぼくがしびれをきらし始めたころ、ようやくドアをノックする柔らかな音がしました。
 ドアをあけると、三番目の探偵が入ってきました。
 モグラ探偵です。
 ビロードのフロックコートを着こみ、まぶしいのかサングラスをかけています。
「失礼します」
 モグラ探偵は、もったいぶった身振りで部屋のいすに腰を下ろすと、短い足を組みました。
「じつはね、…」
 ぼくは、またまたタヌキのうらないばあさんの不吉な予言について、モグラ探偵に説明しました。
 モグラ探偵は、ピクリとも身体を動かさずに、いっしんに話を聞いているようです。
 でも、ぼくが話し終わっても、モグラ探偵はぜんぜん動こうとしません。
 そばに近寄ってのぞきこんでみると、モグラ探偵は足を組んだままスヤスヤと眠っていました。
「あーあ、あーあ、あーあ」
 ぼくはがっくりして、大きなため息を三つもつきました。

とうとう一週間がたって、予言の日がやってきてしまいました。
 ぼくは、たよりにならないけれど、もう一度三匹の探偵たちを呼ぶことにしました。
 金の鈴は、チリリリン。
 銀の鈴は、チルン、チルルルン。
 銅の鈴は、チロン、チロロン、チロロロン。
 部屋の真ん中にせいぞろいした探偵たちは、今日はまじめくさった顔をしてならんでいます。
「いよいよ、予言の日だからね。しっかり見張ってくれよ」
 ムクイヌ探偵は、さもぼくのことばを聞いているような顔をしています。
 でも、時々、隣のシャムネコ探偵に、鋭いキバを見せて脅していました。
 シャムネコ探偵のほうは、そんなムクイヌ探偵には知らんぷりで、時々、前足で顔を洗ったりしています。
 ただ、モグラ探偵だけが、いっしんに話を聞いているようです。
「それじゃあ、みんな配置に着いてくれ」
 ムクイヌ探偵は玄関の外に、シャムネコ探偵は二階のベランダに、それぞれ持ち場に向かいました。
 でも、モグラ探偵だけは、突っ立ったまま動こうとしません。
 そばに近寄って覗き込んでみると、モグラ探偵は、また立ったままスヤスヤと眠っていました。

まあ、とにかく三匹のぼくの探偵たちは、持ち場に着きました。モグラ探偵も、床下にもぐって見張っているはずです。
 ぼくは、家の中で、ベッドにもぐりこんでかくれました。
 
トントン。
 ドアが軽くノックされました。
(誰だろう?)
 探偵たちが騒がないところを見ると、怪しい者ではなさそうです。
 ぼくは、ドアの覗き穴から、そっと外をうかがいました。
(なーんだ)
 外にいたのは、幼なじみのジュンちゃんです。手には、大きなバスケットを下げています。今日のことは話してあったので、差し入れに来てくれたようです。
「ジュンちゃん、来てくれたの」
 ぼくは、うれしくなってドアを大きく開けました。
「タッちゃん、そんなにベッドにもぐりこんでばかりじゃ、だめじゃない」
 ジュンちゃんは、パジャマ姿のぼくを見ていいました。
「はい、お弁当よ」
 バスケットの中から出てきたのは、ハムに、タマゴに、チーズに、レタスに、トマトをはさんだ大きな大きなサンドイッチでした。それに、冷たい紅茶とイチゴのジェリーまでついています。
(女の子って、どんな時でも食べることだけは忘れないんだな)
 ぼくは、ジュンちゃんに感心しながら、朝から何も食べないではらぺこだったので、サンドイッチにいきおいよくかぶりつきました。
 その後も、何事もなく、時間はどんどんすぎていきました。

 ドン、ドン。
 どこかで、ドアが大きな音でノックされています。
 ふと気がつくと、あたりはすっかり明るくなっていました。いつのまにか、眠ってしまっていたようです。時計を見ると、もう日曜日の朝の八時を過ぎていました。
(やったあ、何も取られなかったじゃないか!)
 もう時間が過ぎているから、外に来たのは犯人ではないでしょう。
 それでも、そっとドアの覗き穴から除いてみました。
外にいたのは、またジュンちゃんでした。
「おはよう、タッちゃん。やっぱり大丈夫だったじゃない」
 ドアを開けると、ジュンちゃんはニコニコしながらそういいました。
「うん。でも、ジュンちゃん、こんなに早くにどうしたの?」
「やだなあ、タッちゃんたら。お花見の約束じゃない」
 ジュンちゃんは、プッとホッペタをふくらまして、怒ったふりをして見せました。
(そうだった。例の騒ぎで、すっかり忘れちゃったけれど)
「もーう、そんなことだろうと思って、タッちゃんの分もお弁当を持ってきたわよ」
 ジュンちゃんはそういって、昨日の3倍はありそうな大きなバスケットをふって見せました。

 ぼくとジュンちゃんは、予定どおりに、ウカレ山にお花見ピクニックにいくことにしました。同じクラスの、コブタくんやウサギさんたちもやってきました。それに、ムクイヌ、シャムネコ、モグラのぼくの探偵たちも参加します。
 ジュンちゃんのバスケットの中のお弁当は、とてもたくさんあったので、ぼくの探偵たちの分もちゃんと間に合いました。

「フンフンフン、ハはハチミツのハ、ニはニンジンのニ、ホは…」
 みんなで、「ハニホの歌」を唄いながら歩いていくと、ウカレ山が見えてきました。
「ほんとに、ピンクのオムスビみたいね」
と、ジュンちゃんが指差しながらいいました。
 ウカレ山は、期待どおりにサクラが満開です。山全体が、サクラの花におおわれていました。
「うわーっ!」
 みんなは、歓声をあげながら、ウカレ山に走っていきました。
 今日は風が強くて、サクラは早くも散り始めています。
桜吹雪の中をかけていくジュンちゃんから、ぼくは目を離せなくなっていました。
 途中の道端で積んだスミレの花を片手に、両方のホッペをリンゴのように赤く染めて走り回るジュンちゃんのまわりを、ピンクの花びらがヒラヒラと舞っています。
 ジュンちゃんがクルリと回ると、シャボンの香りがします
(そうだったのか!)
 その時、ぼくは初めて気がつきました。
 やっぱり、タヌキのうらないばあさんは正しかったのです。ぼくは、一番大切なものを盗み取られていたことに、その時気づいたのでした。
 それは、ぼくのハート。そして、それを盗んだのは、…。
 

ぼくの探偵たち
平野 厚
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ビリッケツなんかに、なりたくない!

2020-02-16 10:45:15 | 作品
「これ、運動会の招待状」
 朝ごはんのときに、おとうさんにわたした。
「どれどれ」
 おとうさんは、ウインナをはさんだパンをほおばりながら開いている。
「一年生は、五十メートル走と、鈴割りに、だるま運びか」
 招待状のはじには、ユウキの目標も書かれている。
「もしかして、『四とうになりたい』の『なり』がぬけてるんじゃないか?」
 招待状を見ながら、おとうさんがいった。
「えっ?」
 あわてて、招待状を見てみる
『四とうにたいから がんばるからみにきてください』
 急いで書いたので、うっかりぬかしてしまった。
「四とうって、五十メートル走のことかい?」
 おとうさんが、またパンに手を伸ばしながらいった。
「うん、そう。練習で五人で走って四等だったから」
 ユウキがそう答えると、
「ずいぶん遠慮した目標なんだなあ。どうせなら一等になりたいって、書けばいいのに」
って、おとうさんにいわれてしまった。
「そんなの無理だよ。一等の子なんて、ビューンって、このくらいのスピードで走るんだよ」
 ユウキは、手を左から右へ、サッと動かしながらいった。
「ふーん」
 どうやら、おとうさんをがっかりさせてしまったみたいだ。
「一等じゃなくて、四等って書くところが、ユウちゃんらしいところなんだから」
 台所で目玉焼きを作っていたおかあさんが、助け舟を出してくれた。

 去年、幼稚園の運動会で、年長さんのかけっこでユウキは四人で走っての四等。
 つまり、ビリッケツだった。
 その前の年の年中さんのときは、ビリから二番目だったからがっかりしていると、
「ユウちゃんは本当はもっと速いんだけど、コーナーで他の子に先をゆずっちゃったからだよ。しかたないんじゃない」
と、その時も、おかあさんがなぐさめてくれた。
 たしかに、運度会が行われた幼稚園の園庭は狭いので、まっすぐの所はちょっとしかない。だから、コーナーを何番でまわったかで、順位が決まってしまう。
 今年の運動会は、小学校の広い庭でおこなわれる。走るコースもきちんと分けられているし、五十メートル走はまっすぐだけだから、思いっきり走れる。
「おとうさんは、小学生のころ、運動会じゃ、いつも二等、いや一等の時だってあったんだぞ」
 おとうさんが、得意そうにいった。
「あらあら、おとうさんって、そんなに足が速かったかしら」
 たしかに、太っておなかが出ている今のおとうさんからは、とても想像できない。
「速かったって。もう少しで、リレーの選手にだってなれるところだったんだぞ」
 おとうさんが、むきになっていった。
「本当? 天国のおかあさんにちかって、そう言える?」
 おかあさんがそういうと、
「……」
 おとうさんは、急に顔を赤くしてだまってしまった。
 「天国のおかあさん」というのは、おとうさんのおかあさんのことだ。
 おとうさんが小学生の時に死んじゃったから、もちろんユウキは知らない。
 おとうさんは 小さい時から、
「天国のおかあさんにちかって、本当か?」
って、いわれると、絶対に嘘がつけないのだそうだ。
 おかあさんは、それを世田谷のおばさん(おとうさんのおねえさんだ)から聞いて、おとうさんの言うことが怪しい時にはいつも使っている。だから、おとうさんが一等になったことがあるというのは、どうも怪しいようだ。

「よーい」
 ドン。
 スタートのピストルが鳴った時、ドキンとしてしまった。思わず手足がこわばって、スタートで遅れてしまった。
 他の四人はいいスタートをきっている。ユウキは、あわてて後を追いかけ始めた。
 走りながら、前の人たちをキョロキョロとながめた。
 この前ビリッケツだった林くんも、今日は前を走っている。
 林くんとの差はまだ1メートルぐらい。
 でも、林くんはけんめいに走っている。とても追いつけそうにない。
(もうだめだ)
と、思ったら、足に力が入らずにフニャフニャとしてしまった。
 ユウキは、わざと手足をチャランポランにしながら、ゆっくりとゴールインした。
 ゴールでは、林くんとの差は3メートルぐらいに広がっていた。断然のビリッケツだ。
「北野くーん。もっとまじめに走りなさい。ビリだって、ぜんぜんかまわないんだから、ちゃんと走らなきゃだめよ」
 スタート地点で、担任の谷山先生がどなっている。
 『ビリ』って言葉に、ユウキは思わず顔を赤くしてしまった。

 ユウキは、とぼとぼと到着順に並んだ列の方に向かった。
「ユウちゃん、一緒、一緒」
 五等の列から、声をかけてきた子がいた。なかよしのリョウちゃんだ。小さいころから太っていて、幼稚園の 時もかけっこはいつもビリだったから、もう平気なのかもしれない。
 ユウキは、
(今日は、本気で走らなかったんだから、ビリッケツでもいいんだぞ)
って、顔をして、列のうしろに並んだ。
 こうしてみると、リョウちゃんだけではなく、五等の列にいる子たちは、いかにも足が遅そうだ。ユウキは居心地悪そうに、列の一番うしろに腰をおろしていた。
 と、その時、前の方から 笑い声がおこった。
 コースでは、次の組が走り出していた。五人のうち、一人だけがすごく遅れている。
 シュンくんだ。手と足の動きがバラバラで、ギクシャクギクシャク、まるで操り人形のように走っている。
「シュンくんって、ほんとに遅いなあ。」
 リョウちゃんが 大きな声でいった。自分より遅い子を見て、すごく嬉しかったみたいだ。細い目がますます 細くなって、鉛筆で描いた線みたいになっている。
「うん。シュンくんとなら、歩いても 勝っちゃうよな」
 他の子もいった。
(あーあ。シュンくんと同じ組だったらなあ。絶対に、ビリッケツなんかに ならないのに)
 ユウキもそう思いながら、ゆっくりと走ってくるシュンくんをながめていた。
 と、その時、急にとんでもないことを思い出した。年中さんの運動会で、ユウキがビリから二番だった時、ビリッケツは シュンくんだったのだ。そうすると、今まで運動会で勝てた相手は、シュンくん一人だけってことになる。
シュンくんとは、幼稚園の年中さんの時から、ずっと一緒のクラスだった。
おかあさんの話だと、一才になるかならないかの時に、公園の砂場で会ったのが最初だっていう。もちろん、
ユウキはそんなことは覚えていない。
 でも、気がついたら、いつもユウキのそばにいた。
 シュンくんの誕生日は、三月三十日。お誕生会は一番最後だった。それに、未熟児で産まれたとかで、体がすごく小さかった。今でも、背の順はクラスで一番前だ。そのうえガリガリにやせている。きっと体重は、二十キロもないかもしれない。
 シュンくんは、体が小さいだけでなく、運動がからきしだめだった。サッカーをやれば、ボールの上にのって しりもちをついてしまう。野球では空振りばっかりだ。小学生になったのに、自転車の補助輪が取れていない。とにかく、運動はなんでもクラスで一番へたくそなのだ。
 シュンくんの名字は亀岡だ。だから、クラスの男の子たちは、シュンくんのことをかげでは「ドンガメ」って 呼んでいる。
 みんなが、次々にゴールインしてきた。
 でも、シュンくんはまだだ。みんなからは、10メートル以上も引き離されていた。相変わらず、手と足の動きがバラバラで、ギクシャクギクシャク走っている。
「亀岡くん、がんばって」
 谷山先生が、声援を送っている。
 それに 応えるように、ようやくドンガメ、じゃなかった、シュンくんが ゴールインした。
 でも、シュンくんは、平気な顔をしている。ビリッケツになることなんか、もう慣れっこになっているのかもしれない。
「ユウちゃんもかあ」
 そういいながら、シュンくんは ユウキのうしろへ並んだ。
(あーあ)
 ユウキは思わずため息をついた。シュンくんと同じだと思うと、ビリッケツになったのが、ますますゆううつになってしまった。
「それじゃあ、これで徒競走の練習を終わります」
 先生が、みんなに向かっていった。

 次の朝、思いがけないことが起こった。
「昨日のダルマ運びの練習で、中川くんがころんだでしょ。その時に、足をねんざしてしまったの。さいわい、中川くんのけがはひどくありませんでした。でも、大事をとって、運動会は見学ということになったのよ。そのため、五十メートル走で、中川くんがいた第四組は 四人だけになってしまったのね」
 五十メートル走は、ひと組あたりほとんど五人で、六人の組もあった。
「四人じゃ少ないので、第四組の人たちを、他の組へ分けることにしました」
 最後に、谷山先生がそうみんなに説明した。
「……。岡本くんは二組、亀岡くんは三組、……」
(えっ、シュンくんが 同じ組に!)
 ユウキがそう思った時、
「超ラッキー!」
と、いきなり叫んだ子がいた。同じ三組の林くんだ。
「林くん、静かにしなさい」
 先生にしかられて、林くんがペロリと舌を出したので、みんなは大笑いした。
 でも、本当はユウキも林くんと同じ気持ちだった。
(ドンガメの シュンくんと一緒なら、もう絶対大丈夫だ)
六人で走っての五等と、五人で走っての五等。同じ五等でも、ぜんぜん違う。だって、ビリッケツじゃないんだから。
 ユウキは、シュンくんの席の方に振り返った。
(あれっ?)
 どういう訳か、シュンくんの姿も見えない。
「そうそう。亀岡くんも、今日はお休みです」
 先生が、シュンくんの席の方を見ながらいった。
(まずいぞ。絶対にまずいぞ。シュンくんも 運動会をお休みしたら、またぼくが五十メートル走でビリッケツになってしまう)
 ユウキが心配していると、
「でも、亀岡くんは軽い風邪なので、運動会には出られるそうです。だから、五十メートル走は さっきの組み合わせでやります」
 先生が、そう付け加えてくれた。
(ああ、よかった)
 ユウキは、ホッとしていた。

 その週の木曜日、秋分の日で、学校はお休みだった。
 ルルルルー、ルルルルー、……。
 朝ごはんの時、電話がかかってきた。すぐにおかあさんが出てしばらく話していたが、途中でユウキに向かっていった。
「ユウちゃん、シュンくんのママからよ」
 おかあさんは、ユウキに子機を差し出した
「えっ?」
 電話に出てみると、
「シュンが、どうしても運動会に出たくないって、言ってるのよ」
って、シュンくんのママがいった。
「どうして?」
「五十メートル走の時、みんなに笑われたくないんですって」
ビリッケツには慣れっこでも、笑われるのは やっぱり嫌だったらしい。
「……」
「それで、ユウちゃん。悪いんだけど、誰も笑わないから大丈夫だって、シュンに言ってもらえないかしら」
 シュンくんのママは、涙声になっている。
「でも、ぼくが言っても、……」
「ええ、本当に悪いんだけど。ほら、あの時も、ユウちゃんのおかげで、……」
シュンくんのママがいったあの時っていうのは、幼稚園に入ってすぐのことだ。
 そのころシュンくんは、幼稚園でなかなか友だちができなかった。何をやるのもとろいから、みんなに馬鹿に されてしまったんだ、
 シュンくんは、とうとう幼稚園を休むようになってしまった。
 その時、ユウキはおかあさんと一緒に、毎朝、シュンくんの家まで迎えにいってあげた。
 それでも、初めはなかなかうまくいかなかった。
 どうしても、
「幼稚園なんか、行きたくない」
って、シュンくんが言いはったのだ。
 でも、しばらくして、ユウキと一緒だったら幼稚園に行かれるようになった。そして、それからは、だんだん 平気になったようだ。
 だから、シュンくんのママは、今回もユウキに説得して欲しいようだ。
 でも、ユウキは、シュンくんのママの話を聞きながら、ぜんぜん違うことを考えていた。
(シュンくんが運動会に来ないと困るぞ。絶対に困るぞ。シュンくんが来ないと、ぼくが五十メートル走で、ビリッケツになっちゃうじゃないか)
 ユウキは自分のために、シュンくんを説得しにいくことにした。

 一人っ子のシュンくんの部屋は、二階にある南向きの広い部屋だ。ベッドの反対側には、ピアノまで置いてある。シュンくんは、スポーツはだめだけれど、音楽は得意だった。特に、ピアノは小さいころから わざわざ電車で通って、有名な先生に習っている。
 ユウキが部屋に入っていくと、シュンくんはベッドで布団を頭までかぶっていた。
「おっす」
 あいさつしたが、返事がない。
「シュンくん。ユウキだよ」
 何回か声をかけたら、ようやく顔を出した。布団から首だけ伸ばして、本当にカメみたいだ。
「シュンくん、五十メートル走なんか、平気だよ。みんな、笑ったりしないよ」
 ユウキがそう言うと、
「笑うよ、笑う」
 シュンくんは、顔をしかめながら言った。
「笑わないったら」
 ユウキは、布団を ひっぱって言った。
「笑うったら、笑う」
 でも、シュンくんは、強情に言いはっている。
「じゃあ、笑われないようにしたら、いいじゃん」
 とうとうユウキが 言った。
「えっ、どうやって?」
 シュンくんの小さな目が、キロッと光った。
「えーっと、みんなが笑うのは、シュンくんがビリッケツだからじゃないんだよ。走るかっこうがおかしいからなんだ」
 ユウキは、けんめいに考えながら話していた。
「ふーん」
 どうやら、シュンくんは 興味を持ったようだ。
「だから、ちゃんとしたかっこうで走れば、大丈夫だよ。たとえビリッケツでも、みんなは笑わないよ」
 ユウキは、自信満々に断言した。
「うん、でも、どうしたら、ちゃんと走れるようになるの?」
 そのとき、シュンくんがたずねてきた。
「うーん」
 そう聞かれると、ユウキにもいいアイデアがなかった。

 とうとうシュンくんを説得するのをあきらめて、ユウキは家へ戻っていった。
「やあ、ユウちゃん」
 公園のそばで、リョウちゃんに出会った。
 と、その時、ユウキの頭の中に、ピカッとひらめいたものがあった。
「そうだ!」
 ユウキは、シュンくんの家に引き返そうと走り出していた。
「おーい、どうしたの?」
 うしろでは、リョウちゃんが不思議そうな顔をして見送っていた。
 ユウキは、またシュンくんの部屋に戻ってきた。シュンくんは、相変わらずカメのように布団から チョコンと顔を出している。
「シュンくん、リョウちゃんのおねえさんって、知ってる?」
 ユウキは、シュンくんに向かって言った。
「うん、ユミカさん」
 どうやら知っているみたいだ
「そう、そのユミカさんに、五十メートル走を特訓してもらおうよ」
 ユウキは、シュンくんに提案した。
 ユミカさんというのは、リョウちゃんの中学生のおねえさんだ。デブのリョウちゃんとは、ぜんぜん似てなくって、スラッと背が高い。中学では、陸上部の短距離の選手だそうだ。
「特訓すれば、みんなのように、ちゃんと走れるようになるかな?」
 シュンくんが、ユウキにたずねた。
「そうだよ。特訓すれば、絶対に大丈夫だよ」
 ユウキは、念を押すように言った。
「そうかなあ?」
 なかなか信用しない。
「走るかっこうさえおかしくなければ、ビリッケツでも、ぜんぜんはずかしくないよ」
 そう言いながら、ユウキは なんだかへんなきもちだった。
(天国のおばあちゃんにちかって、ビリッケツがはずかしくないって、言えるか?)
 そんな声が、どこからかきこえてくるようなきがする。
 でも、とうとうシュンくんはベッドからでてきて、さっそくリョウちゃんの家へ行くことになった。
(本当はうそをついています。シュンくんに 運動会を休んでほしくないのは、シュンくんのためではありません。自分が、ビリッケツになりたくないからです)
 ユウキは心の中で、天国のおばあちゃんにそっと告白した。

「ふーん」
 ユウキの話を聞き終わると、ユミカさんは一つ大きなため息をついた。
 ユミカさんの部屋には、ユウキとシュンくんだけでなく、リョウちゃんも一緒に来ていた。二人だけでなく、リョウちゃんも特訓を受けることになったからだ。やっぱりビリッケツになるのは、少しは気にしていたみたいだ。
 リョウちゃんとユウキの目標は、四等になること。そしてシュンくんは、ビリでもいいから、みんなに笑われないようにきちんと走れることが目標だった。
 もちろんユミカさんは、いつも運動会で大活躍していただろう。そんなユミカさんには、三人の小さな小さな願いが、まだ信じられないようだ。
 ユミカさんは、目がぱっちりしていてアイドルみたいな顔なんだけど、髪を男の子のように短くしていて、少しこわそうに見える。
 三人は緊張しながら、ユミカさんの返事を待っていた。
「よーし。いいよ。引き受けた。でも、あたしの特訓は、厳しいよ。それでもいい?」
 とうとう、ユミカさんがOKしてくれた。
「お願いしまーす」
 三人が声をそろえていうと、ユミカさんはやっとニコッとしてくれた。浅黒く引き締まった顔に、真っ白な歯 だけがピカッと光っている。

 ユミカさんは、さっそく三人を近所の公園へ連れていった。いつも、みんながサッカーや野球をやっている所だ。もっとも、ユウキたちは、運動が苦手なのであまり参加していなかったけれど。
 公園は、いつもと違ってガランとしていた。休日なので、みんなどこかに出かけているのかもしれない。
 オレンジ色のジャージに着替えたユミカさんは、足がスラッと長くてとてもかっこいい。中学の陸上部のユニフォームのようだ。
 ユミカさんは、胸にストップウォッチをぶらさげていた。これで、三人のタイムを測るのだろう。なんだか、自分までが陸上選手になったようで、ドキドキしてきた。
「じゃあ、これから、五十メートル走の特訓を開始します。みんな、自分のタイムがどのくらいか、知ってる?」
 ユミカさんは、三人を前に並べていった。
 みんな、いっせいに首を横にブンブン振った。一年生はまだタイムなんか測ってもらってないから、もちろん ぜんぜんわからない。
「じゃあ、最初に測ってみようか。 五十メートルのスタートとゴールを決めるから、みんなは準備体操をやって
て」
 おねえさんは、足で スタートラインを引くと、
「1、2、3、……」
と、数えながら、大またに歩き出した。

「ほら、チンタラやってるんじゃない」
 ゴールラインを引いて戻ってきたユミカさんが、大声でどなった。ユウキたちが、元気なくバラバラに準備体操をしていたからだ。
「もっと、しっかりやらないと、後で体が痛くなっちゃうぞ」
 ユミカさんにそういわれても、準備体操なんてちゃんとやったことがないから みんなうまくできない。
「ほんとに しょうがないねえ。これじゃ、準備体操から教えなきゃなんないじゃない」
 ユミカさんは、あきれたような声を出していた。
「ほら、しっかり曲げて」
「いてててて」
 ユミカさんにぐいぐい体を曲げられて、シュンくんが悲鳴あげている。ユウキとリョウちゃんは、あわててしっかりと準備体操を始めた。
「はい、スタートラインに並んで」
 やっとの思いで、準備体操が終わると、ユミカさんは三人をスタートラインに並ばせた。リョウちゃん、ユウキ、シュンくんの順だ。
「まあ、そろいもそろって、いかにも、かけっこが遅そうねえ」
 フクフクと太ったリョウちゃん。ガリガリのユウキ。それに、幼稚園の子のように小さいシュンくんだ。
「じゃあ、スタートの体勢をして。うーん、そうじゃない」
 ユミカさんが、みんなの手や足をあちこち引っ張って、五十メートル走の特訓が始まった。運動会まであと三日。はたしてぼくたちの目標は達成できるだろうか。

 翌日の金曜日に、運動会の予行練習が行われた。
(「よーい」で、体重を前にかけて、ドンで勢いよく出る。あとはまっすぐ前を見て、腕を大きく振って走る)
 昨日、ユミカさんに教わった『かけっこが速くなる秘密』だ。
「よーい」
 バーン。
 ユウキは、うまくスタートがきれた。隣のシュンくんも、なかなかいいようだ。
 ユミカさんにいわれたように、他の子のことは気にせずに、前だけを見て一所懸命に走った。
 ゴールイン。
(やったあ。四等かな?)
 驚いたことには、シュンくんもビリッケツだったとはいえ、あまりみんなに遅れずにゴールインしていた。一番ひどかったシュンくんが、最も特訓の効果があったのかもしれない。
(やっぱり、特訓して良かったな)
と、思った。
 ところが、ゴール係の六年のおにいさんに連れていかれたのは、いつもの「5」の旗のうしろだった。四等は、林くん。また、少しだけ負けてしまったようだ。
「ユウちゃん」
 五等の列の一番前から、リョウちゃんが笑顔でVサインを送っている。いつもと同じ五等でも、のんきなリョウちゃんは満足しているようだ。
 隣の六等の列のシュンくんも、ニコニコしている。あまり遅れずに走れたし、フォームもずっとましになって いたので、今日は誰も笑う人はいなかった。
(うーん、今日も帰ったら、ユミカさんに特訓してもらわなくっちゃ)
 ユウキは、一人だけ浮かない顔でそう思っていた。

 運動会の朝がきた。すごくいいお天気で、絶好の運動会日和だった。
 今日は、体操着で登校だ。教室には入らずに、校庭にクラスごとに集まった。
「おはよう」
「おーすっ」
 声をかけあいながら、ユウキもクラスのみんなの中に入っていった。
(いた!)
 その中にシュンくんの姿を見つけて、ユウキはホッとしていた。
 昨日のユミカさんの最後の「特訓」が終わった時、シュンくんがポツリとこういったからだ。
「やっぱり、ぼくは、ビリッケツなのかなあ」
(えっ?)
 それまでは、みんなにあまり遅れないだけでも、シュンくんは満足していると思っていた。
 でも、やっぱりシュンくんも、ビリッケツになるのは嫌だったのだ。
 たしかに「特訓」で何回走っても、シュンくんはリョウちゃんにもユウキにもかなわなかった。このままでは、ビリッケツは確実なように思われた。
 と、いうことは、ユウキは、自動的にビリッケツを逃れることになる。
(もしかして、シュンくんは明日休むかもしれない)
 ユウキは、それがすごく心配だったのだ。

 いよいよプログラムの十番目、一年生の五十メートル走が始まった。
 まず、第一組の リョウちゃんが、スタートラインに立った。
 バーン。
 五人のランナーが、いっせいにスタートした。
 ユウキは、心配で伸びあがるようにして、リョウちゃんが走るのを見ていた。
 スタートで少し出遅れたリョウちゃんは、それでもけんめいに前を追っかけている。特訓のおかげか、前後に 腕を大きく振ってなかなかいいフォームだ。
 両隣のコースの子たちと、ほとんど一緒にゴールイン。
(やっぱり五等か?)
 いや、六年生のおねえさんに、連れていかれた場所は、四等の旗の所だった。
(目標達成!)
「やったあ。リョウタ、いいぞお」
 観客席のユミカさんが、飛び上がって大声で叫んだ。リョウちゃんも、嬉しそうにそちらへ向かって手を振っている。
(よしっ。いいぞ、いいぞ)
 控えの列の中で、ユウキも小さくガッツポーズをした。

「次は第三組です」
 ユウキたちはいっせいに立ち上がると、スタートラインに並んだ。
「シュンくん、ユウちゃん、がんばれ」
 ユミカさんの大きな声が聞こえた。ぼくたちは、そちらの方に向かって手を振った。
「1コース、……。2コース、林くん」
「はい」
 林くんは右手を上げると、いつものように必死な顔つきで、ゴールをにらんでいる。
「……。5コース、亀岡くん」
 シュンくんは張り切り過ぎたせいか、返事もしないですぐに「よーい」の体勢をしてしまった。
「亀岡くん、まだよ」
 スターターの 谷山先生が、あわてて注意した。
 観客席から、小さな笑い声が聞こえてくる。
「6コース、北野くん」
「はい」
 ユウキは、最後に右手を上げて返事をした。
 でも、まだ頭の中は、いろいろなことを考えてぐらぐらしている。
 一緒に特訓したシュンくんには、がんばって欲しい。
 でも、自分がビリッケツになるのは、やっぱり絶対に嫌だ。
もちろん、林くんもけんめいにがんばるだろう。
 そうなると、いったいビリッケツになるのは、……?

「よーい」
 体重をぐっと前にかける。
 バーン。
 ユウキは、そしてシュンくんも林くんも、力いっぱい走り出した。
 スタートでは、ほぼ横一線だった。ユミカさんの特訓の成果か、ユウキもシュンくんもスタートがうまくなっている。
 でも、自力に勝る他の三人は次第にリードを広げていく。
 問題は、残りの三人だ。
 林くんが、ややリードした。
(くそお!)
ユウキが、巻き返して並びかける。
「うううっ」
 隣のコースのシュンくんが、うなり声をあげた。
 チラッと横を見ると、必死な顔をして追い上げてくる。
 ユウキも、けんめいにスピードをあげた。林くんも、少し離れた2コースでがんばっている。
 三人がまたほとんど並んだ所が、ゴールだった。
 順位の旗を持った六年生たちが、いっせいに駆け寄ってくる。
 はたして、ユウキは何着だったのか?
 そして、ビリッケツだったのは、……。


ビリッケツになんか、なりたくない!
平野 厚
平野 厚
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夏の迷路

2020-02-16 10:42:50 | 作品
 隆志は宇宙船を旋回させると、敵の背後に回り込んだ。
 ババババッ。
 すかさずレーザー砲をたたきこむ。
 ズガガアーン。
 敵のロケットは、大爆発を起こした。
「これで、三機撃破したな」
 隆志は爆発に巻き込まれないように、愛機を急降下させながらつぶやいた。
(次のターゲットは?)
 隆志は愛機を加速させながら、あたりに敵がいないか、注意を払った。
(いた)

 真夏の昼下がり。あたりには誰もいない。今日も雲ひとつないかんかん照りで、気温は軽く三十度を超えている。隆志は、団地の中を一人で自転車を乗りまわしていた。いつの間にか、隆志の頭の中では、SFX映画やビデオゲームの中で、宇宙船を急旋回して敵と戦っている自分の姿が浮かんできていた。
 リリリリン。
 ベルを押すのは、レーザー砲の発射のつもりだ。
 ガチャガチャ
変則ギアを切り換えて、立ちこぎしてスピードアップしていく。
「グイーン」
これを、宇宙船がワープ航法をするのに見立てていた。
 団地内の道路は、ぐねぐねと入りくんでいる。自動車が通り抜けられないように、道路は行き止まりになっていたり、わざと遠回りしたりするように作られているからだ。
『住む人に優しい街』
 それが、この団地の設計コンセプトだった。おかげで、住んでいる人以外の車はめったに道路を通らないので、自転車を走らせるにはもってこいだった。いつか見た新規分譲用パンフレットの航空写真には、団地内の道路はうねうねとまるでパズルか迷路のようになっていた。
 隆志の愛車は、先月の誕生日に買ってもらったばかりの24インチのクロスバイク。五年生としては小柄な隆志には、サドルをいっぱいに下げても、少しつま先立ちにならなければ地面に足が届かない。隆志は、おかあさんが作っておいてくれた一人だけの昼食を食べ終えた後で、いつも自転車に乗りに来ていた。
 今度は、隆志は自転車での反転遊びに熱中しはじめた。幅の広い道路では、スピードをあげて大きな半円を豪快に描いてから、逆方向へそのままのスピードで進んでいく。もっと細い道路ではバランスを崩さないように注意を払って、道幅ぎりぎりに半円を描いていく。
足をつかずにうまく反転できた時には、
(やったあ!)
という達成感がこみ上げてきた。

 グオーン。
敵の巨大宇宙戦艦が迫ってくる。不意を突かれた隆志の宇宙船は、もう少しで宇宙戦艦と激突してしまうところだった。
「転回!」
 隆志は大声で叫ぶと、愛機をすばやく右へすべらせて敵から逃れた。
 ブッブーッ。
 大きくクラクションを鳴らして、隆志の自転車をかすめるようにして、宅配便のトラックが通っていった。
(あぶない、あぶない)
 隆志は、道路の脇に自転車を傾けて止めた。空想に夢中になりすぎて、自動車に気づくのが遅れてしまった。
 トラックは、排気ガスを吐き出しながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
(行くぞ)
 隆志は、全速力でトラックを追いかけ始めた。
「ワープ!」
 変速機を操作しながら、大声で叫んだ。頭の中では、あっという間にトラックに追いついているところだ。
 でも、実際には、ますます引き離されていた。

夏休みに入って、早くも十日が過ぎようとしていた。明後日からはもう八月になってしまう。その間、隆志はいつも自転車を乗り回していた。
 隆志のクラスの友だちも、海や山や両親の実家などへ行っている人たちが多くなっている。だから、ここのところ、一人で遊ばなければならないことが増えていた。
 隆志の家は、おかあさんと二人暮しだった。両親は、隆志が幼いころに離婚している。隆志には、父親の記憶はほとんどなかった。
 おかあさんは中学校の美術の教師をして、二人の暮らしを支えていた。
教師という仕事は、はたから見ているのとは違って、夏休みに入ってからも、やれ研修だ、やれ部活だと、なかなか忙しい。
おかあさんがまとまった休みが取れるのは、八月に入ってからだ。今年は、隆志と二人で、一週間ほど、八ヶ岳のリゾートホテルへ行くことになっている。
 親ゆずりで絵を描くのが好きな隆志は、写生の道具を持っていくつもりだった。
 でも、おかあさんの方は、のんびりと読書をするのを、楽しみにしているようだ。おかあさんが絵筆を握っているところは、もう何年も見たことがない。
 おかあさんがかつては画家を志していたと、祖父母から聞いたことがある。そんな夢は、日々の暮らしの中で、とうに忘れ去られてしまったのかもしれない。

 食卓にひろげた大きな画用紙いっぱいに、隆志はひまわりの絵を描いている。
 庭の花壇に一本だけ植えられたひまわりは、手入れが良かったせいか、とっくに隆志より背が高くなり、大きな花を咲かせていた。
 はじめは水彩絵の具で普通に写生をしてみたが、どうももうひとつ面白くない。外側の黄色い花びらはうまく描けるのだが、内側の蜜蜂の巣のような小さな花のかたまりの部分がうまく感じがでないのだ。
 次に、クレヨンを使って、スーラのような点描で描いてみた。
「ふーっ」
 この絵も気にいらなくて、大きなため息をついた。花のかたまりの部分の感じは少し出てきたが、全体に弱々しく、ひまわりの持つたくましい生命力が感じられない。
 隆志はクーラーを止めると、庭へのガラス戸を大きく開け放った。
 猛烈な暑さが、ドドッと部屋の中へ押し寄せてくる。
 でも、涼しい所でガラス越しに見ていたひまわりが、ぐっと自分に親しいものに感じられるようになってきた。
 隆志はさっき使った水彩絵の具のパレットをきれいに洗うと、その上に赤と黄色の絵の具をたっぷりと絞り出した。
 一番細い絵筆を取り出して、赤と黄色の絵の具を混ぜ合わせて、内側の花のかたまりを描き出した。
 混ぜ具合を変えながら、細く小さな円弧をたくさんたくさん描き込んでいく。
 レモンイエロー、だいだい、朱色、赤、…。
 線が重なって、予想もしなかったような様々な色彩が生まれるのが面白くて、いつの間にか隆志は夢中になっていた。

「似ているわ」
 おかあさんがポツリといった。その日の夕方、隆志が誇らしげに三枚目のひまわりの絵を見せた時だった。細かく描き込んだ様々な色の鋭い円弧が、ひまわりの生命力を表現していて、我ながらいいできだった。
「えっ、何に似てるって?」
 隆志がたずねると、
「…」
 おかあさんは、しばらくの間ためらっていた。
 でも、もう一度ひまわりの絵をじっと見つめた後で答えた。
「あなたのおとうさんの絵によ」
「ふーん」
 そう言われても、父親の絵など一度も見たことのない隆志には、まるでピンとこなかった。たしかに、父親もおかあさんと同じように、絵を描いていたことは知っていた。
 でも、家には、父親の絵は一枚も残っていなかった。
「どんな絵を描いていたの?」
 隆志がたずねても、
「そうねえ、遠い昔のことだから、…」
と、それ以上は話したがらなかった。

 隆志の両親は、彼がニ才の時に離婚している。父親は、その直後にアメリカに渡り、ほとんど連絡がないという。
 父方の祖父母がそれ以前に亡くなっていて、地方に住む親戚たちともほとんど付き合いがなかった。そのため、隆志にはほとんど父親の記憶が残っていなかった。
 それに、新生活への再出発のためか、おかあさんは父親の写真はおろか、身の回りの品物はすべて始末してしまったようだ。
 野沢吉雄。
 名前だけが、唯一のはっきりとした情報だった。
 それも、物心ついたころからずっと、おかあさんの旧姓であった「山本」を名乗っている隆志には、まったく親しみの感じられないものにすぎなかった。
 ただ、父親は画家になる夢を忘れられずにアメリカに行ったということだけは、いつか誰かから聞いたことがあった。
 はたして、その夢を果たしたのかどうかも、隆志は知らなかった。
 ただ、隆志の絵を描くことに対する情熱は、もしかすると、おかあさんではなく、父親から受け継いだものだったかもしれないと思うことがあった。美術教師でありながら、絵筆を握ろうとしないおかあさんからは、絵を描くことの情熱はまるで感じられなかった。

 その晩、自分のベッドに入ってから、隆志は父親の顔を思い浮かべようとしていた。
 なかなか思い浮かばない。それでも、心の奥底に沈んでいる父親の記憶を探ってみる。
 わずかに残る父親の記憶。
 それはあまり心地よいものではなかった。
 食卓でどなっている若い男。感情を爆発させて、声を震わせながらわめいている。
 しかし、どんな顔をしているのか、すこしも具体的なイメージが浮かんでこなかった。まるで目鼻のない、のっぺらぼうのようだ。
 テーブルを挟んで泣いている若い女。これははっきりしている。
 おかあさんだ。今よりもずっと若いけれど、顔もはっきり見えた。特徴的な大きな目に、いっぱい涙をためている。
 でも、時々、やはり大声で何かを言い返していた。すると、ますますのっぺらぼうの若い男は、いきり立ってどなり出す。
 奇妙なことに、そのそばで負けじと大声で泣くことによって、なんとか二人の言い争いを止めさせようとしている、幼い日の自分の姿までが見えてくるのだ。
 青いサロペットに、黄色い縁取りの小さなスタイをつけている。まるで現在の隆志が、窓からこっそりと三人の様子をのぞいているようだった。
 隆志は、もう一度父親の顔を想像しようとしてみたけれど、とうとう最後まで思い浮かばなかった。

 数日後、いよいよ明日から、母親が休みになる日の朝だった。
「あああっ」
 洗面所で顔を洗っていた隆志は、大きな泣き声がするのに驚いて、急いでダイニングキッチンへ戻った。
 おかあさんだった。すでに出勤のための着替えをすませていたおかあさんが、テーブルに両手をついて立ったまま泣いていたのだ。
「どうしたの?」
 隆志がのぞきこむと、おかあさんはだまってテーブルの上の新聞を指さした。そこには、小さな死亡記事がのっていた。
『新進画家、無念の早逝。
 三十一日、ニューヨーク在住の新進画家ダン野沢氏(本名・野沢吉雄さん、三十三才)が急死。死因などくわしいことは不明。
 野沢氏は、昨年のニューヨーク国際美術展でグランプリを受賞し、いちやく注目を集めた新進の画家。その後も、ニューヨークとパリで個展を開くなど、精力的に活動を続けていた。これからの活躍がおおいに期待されていただけに、その早すぎる死を惜しむ声があがっている。…』
 記事の右上には、三十過ぎの見知らぬ男の笑顔が写っていた。
(これが、自分の父親か)
 隆志は食い入るようにその写真を見つめた。
 でも、悲しみも何も、特別な感情はわいてこなかった。

 ようやく泣きやんだおかあさんは、いすに腰をおろすと、父親のことを話し出した。それは、隆志にむかってというよりは、自分自身で思い返すためのものだったかもしれない。
 二人が美術大学で同級生だったこと。学生結婚したこと。卒業後も、父親の方は就職せずに絵に専念していたこと。隆志が生まれて、生活のためにやむなくおかあさんと同じ美術の教師になったこと。仕事に追われて絵をかく時間がなく、いつもいらいらしていたこと。
 隆志にとっては、初めて聞く話ばかりだった。
「普段は優しい人だったのよ。でも、感受性が鋭すぎたのね。どうしても、創作と実生活を両立していけなかったのよ」
「…」
「それに、二人とも若過ぎたのかもしれない。二十二才で結婚して、二十五才で別れたんだから」
 そういいながら、おかあさんは隆志にけんめいに笑顔を見せようとした。
 でも、うまく笑えずに、少しゆがんだ泣き笑いになってしまった。
「あらあら、いけない。完全に遅刻だわ」
 おかあさんは、ようやくいすから立ち上がった。
 洗面所で手早く化粧を直して戻ってくると、
「じゃあ、行ってくるからね」
と、おかあさんはまるで何事もなかったかのようにいった。
 でも、泣いたあとをごまかすためか、口紅もアイメイクも、いつもより濃くくっきりとさせていた。
 おかあさんがガチャリと音をたてて開けたドアの外は、すでに今日も猛烈な暑さだった。

 その日の昼ごはんの時、何気なくテレビをつけたら、思いがけない画面にぶつかってしまった。
『ニューヨーク在住の新進画家、孤独な死。
 死因は麻薬によるものか!?     』
 隆志は、スパゲティを食べていたフォークの動きを止めて、画面に見入った。
 その番組は、主婦向けのワイドショーだった。もちろんこのニュースが、その日のメインの話題なのではない。現地の映像も、「ダン野沢」の作品の紹介もなく、画面の写真も、新聞に載っていたのと同じ物を拡大しただけだった。
 二、三分の短いレポートの後で、司会者は、
「いくら絵の才能があっても、麻薬に溺れるようでは性格に問題があったのだろう」
と、簡単に締めくくって、次の話題に移っていった。
 隆志は、テレビの前に呆然として立ち尽くしていた。
 レポーターの説明の中に、こんな部分があったからだ。
「ダン野沢は、八年前に『妻と幼い息子を捨てて』、単身渡米し、…」
(おかあさんとぼくのことだ)
 その瞬間、隆志は思わずいすから立ちあがった。そして、初めて涙がこぼれてきた。
 でも、これは悲しみの涙ではない、当事者にとっては残酷な言い方を平気でする、軽薄なレポーターに対する悔し涙だった。
 番組では明るい話題に移ったらしく、出演者のジョークに、スタジオ内に並んですわらせられたおばさんたちが、陽気な笑い声をあげている。
(おかあさんが見なくてよかった)
 隆志は心からそう思っていた。

 隆志は、さっきの朝刊を、マガジンラックからテーブルの上に持ってきた。そして、「ダン野沢」の死亡記事の部分を、はさみでていねいに切り抜いた。
 「ダン野沢」は、隆志のてのひらの中でぼんやりと笑っている。その気弱そうな笑顔は、どうしても隆志の頭の中にある声を震わせて怒っている若い男のイメージと、結びつかなかった。
(どんな人だったんだろう?)
 隆志には、ますますわからなくなってしまっていた。
 このおとなしそうな人が、あの怒鳴ってばかりいた若い男だとは、どうしても思えない。
 おかあさんが言っていたように、いつもは優しい人だったのだろうか。
 もう一度、死亡記事を読み返してみた。
『…。なお、ダン野沢氏の作品は、その多くは海外の美術館にあるが、国内ではM区立美術館などに所蔵されている』
(美術館へ行ってみよう)
と、隆志は思った。
 「ダン野沢」の絵を見れば、何かがわかるかもしれない。

 ネットで調べたM区立美術館は、山の手線M駅から歩いて十分ほどの区民センターの中にある。
 あれからすぐに家を出た隆志は、電車を乗り継いでやってきていた。
 M駅からの長い坂道をのぼっていくと、前の方に黒い服を着た人たちが集まっているのが見えてきた。
(お葬式でもあるのかな)
 そう思いながら近づいてみると、そこは「曼陀羅(まんだら)」という名のライブハウスだった。
 黒いのは喪服なんかではなく、ただの黒い衣装だった。女の子たちが、出演するバンドを待っているようなのだった。
(「追っかけ」っていうやつなのかな?)
と、隆志は思った。
 この炎天下に、どういうわけかみんな黒ずくめの服を着ている。
 地下のライブハウスからは、エレキギターとドラムの音が響いてひびいていた。
 二十人近くのカラスのような女の子たちのそばを通ったとき、洋服のそでがレースでできているのに気がついた。
 黒く透き通る袖をとおして見えた女の子たちの腕は、ドキッとするほど青白かった。
 川の向こうに、区民センターの巨大な建物が見えてきた。
 水の少ない泥色に濁った川にかかった橋を渡ったとき、生ごみの腐ったような嫌な臭いが、隆志の鼻を強くうった。

区民センターは、思っていたよりもずっと大きな施設で、美術館だけでなく図書館や公民館、体育館や温水プールも同じ建物に入っていた。そのまわりも、広い公園になっている。
 白い大きな帽子をかぶったおばさんたちがドタドタと走りまわっているテニスコートを抜けると、目の前に大きな屋外プールが広がった。
 水の中もプールサイドも、驚くほど混み合っていた。
 プールの中は、まるで満員のお風呂のようで、とても泳ぐことなどできそうもない。そのまわりも、足の踏み場もないほどシートやタオルが広げられ、カラフルな水着をつけた人たちが日光浴をしている。
 隆志は圧倒されたような気分で、足早にプールのそばを通り抜けた。
 美術館の入り口は、たくさんの人々で混み合うプールや図書館とは対照的に、ひっそりとしていた。特別展がない常設展示だけのときは、あまり入場者がいないのかもしれない。
「ダン野沢の絵はどこですか?」
 隆志は、受け付けにいた眼鏡をかけた若い女の人にたずねた。
「えっ。ああ、ダン野沢なら、つきあたりを左に行った部屋の奥よ。ミニコーナーになっていて、天井から名前を書いたプレートが下がっているから、すぐわかるわ」
 女の人は、まだ「ダン野沢」が死んだことを知らないらしく、特に驚いた様子もなく答えてくれた。どうやら、テレビなども取材に来ていないようだ。

 隆志は、他の展示には目もくれずに、まっすぐ「ダン野沢」のミニコーナーに向かった。
 夏休みにもかかわらす、館内も観客はまばらだった。ミニコーナーにも誰もいないので、隆志はゆっくりと絵を見ることができた。
 思いがけずに、「ダン野沢」の絵は、花や風景を描いた写実的なものではなく、純粋にイメージだけを伝える抽象画だった。
 「イマージュⅢ」と名づけられた一枚目の大きな絵は、たてよこななめの鋭い直線で構成されていた。
 製作年が、横に書いてある。
(ぼくが小学校へ入学した年だな)
と、隆志は思った。
 二枚目の絵は、丸でも四角でもない奇妙にゆがんださまざまな色のかたまりを、大きなカンバスいっぱいに散らした作品だった。
 でも、それぞれのかたまりは、ホアン・ミロのようなにじんだものではなく、くっきりとしたな線で縁取られている。
 この製作年は、
(ぼくが三年生のときだな)
そのころ隆志は、小さいころ罹っていた自家中毒が再発し、学校を二ヶ月も休んで入院していた。仕事と看病に追われて、おかあさんもげっそりやつれてしまっていた。

 三枚目の絵を見たとき、隆志のひまわりの絵を見て「おとうさんの絵に似ている」といったおかあさんの言葉が、頭の中に蘇った。
 そこには、ひまわりの絵で隆志が表現した世界が、より拡大され、より純粋に高められた形で存在していた。
 赤や黄色系統の色だけでなく、金や銀、青や紫といったさまざまな色彩が、鋭くとぎすまされた無数の円弧で描き込まれている。
 そしてひとつひとつの円弧が複雑に絡み合い、さらにさまざまな色彩を生み出していた。
 こうして見つめていると、色の渦の中に吸い込まれていきそうな気にさえなってくる。
 隆志は、作品とそれを生み出した「ダン野沢」の才能に圧倒されて、しばらくの間、絵の前から動けなくなってしまった。
「ダン野沢」の絵は、もう三枚あった。
 全部で六枚。ミニコーナーという名にふさわしい、本当にささやかなコレクションだった。
 その全部を見終えると、隆志は休憩コーナーにあった押しボタン式のウォータークーラーで、よく冷えた水を飲んだ。
 そして、かばんからあの新聞の切り抜きを取り出してみた。
 「ダン野沢」は、不鮮明な写真の中で、あいかわらず頼りなげに笑っている。
 隆志は切り抜きを手にしたまま、もう一度あの色の渦のような絵の前に立った。
 奔放に渦巻く色彩の迷路の前に、切り抜きの「ダン野沢」の写真を重ね合わせたとき、隆志は初めて「おとうさん」に出会えたような気がしていた。


夏の迷路
平野 厚
メーカー情報なし

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私たちの今日

2020-02-16 10:40:50 | 作品
 チャイムが鳴って、壁の7の数字に灯りがともった。美奈は、急いで7番のテーブルにむかった。
「ご注文でしょうか?」
「えーと、日替わりランチと焼き魚定食を一つずつ」
「ドリンクバーはお付けしますか?」
「いくら?」
「ランチにお付けする場合は110円になります」
「じゃあ、付けて」
「日替わりはライスになさいますか、パンになさいますか?」
「パンで」
「かしこまりました。それでは、ご注文を繰り返させていただきます。…」
 美奈は、オーダー用の端末をインプットしながら、客の注文を反復した。

美菜は、大学を卒業してからもう二年以上にもなる。彼女の今の仕事は、ファミリーレストランのウェートレスだ。正規の従業員ではなくアルバイトだった。
 美菜は、ここでバイトをしながら、学生時代からの就職活動もまだ続けている。大学を卒業してからの三年間は新卒採用にも応募できるので、中途採用だけでなく両方に応募し続けていた。
 学生のころと比べて企業の採用状況は大幅に改善されてきていたが、美菜のような文系の学部を卒業した女性にはまだまだ厳しかった。
 美菜は、毎週のようにエントリーシートを送っているのだが、なかなか正社員の仕事には就けなかった。企業によっては、建前は三年前までの既卒者にも新卒採用の門戸を開いているように見せかけて、実際はエントリーシートの段階で既卒者ははねているところもあるらしかった。
 かといって、アルバイト以外にこれといった職歴もないので、中途採用も難しかった。
 そのため、美菜は、新卒扱いの切れる来年三月までには、なんとか正規雇用の仕事を見つけたいと思っていた。それを過ぎると、新卒採用には応募さえできなくなってしまい、一方中途採用は職歴がなくてはねられるという就活の泥沼に落ち込むのだ。

 美菜が卒業した時は、まだリーマンショック後の新就職氷河期は終わっていたが、美菜のような文系の女子大生には企業は冷たかった。1999年に改正された男女雇用機会均等法が、かえって企業に女性を採用することをためらうように作用してしまったのだ。
 結婚や出産で辞めてしまうかもしれない女性に、男性社員と同じ給与を払って新人教育を行うなどの初期投資はできないというのが、企業側の論理だった。その傾向は、2008年のリーマンショック以降の新就職氷河期になるといっそう顕著になり、その後も企業の採用において定着してしまった。
 美菜は、卒業までにとうとう正社員の仕事に就けずに、派遣や契約社員などの非正規雇用の仕事を転々とすることになった。
 そのあげくに、学生時代にやっていたこのバイトにまた行き着いたのだ。まさに、元の木阿弥だった。
 大学に入る時に美菜が抱いていた夢は、卒業したら大企業の正社員になって、バリバリ働くことだった。いわゆるキャリアウーマンになることだ。そのために、無理して東京の共学の四年制の大学に進学したのだった。
 美菜の家は母子家庭で、経済的な余裕はまったくなかった。母親からは、大学進学の応援をしてあげられないことを、すまなそうに告げられていた。
 もっとも、美奈の方では、もともと母親からの支援は期待していなかった。
 生活費を考えると自宅から通える地元の大学に進むことも考えられたが、将来の就職のことを考えるとそこではかなり不利になってしまう。
 地元で就職できるのは、老人ホームなどの介護関係の仕事に限られ、それすら先細りになっていた。それで、東京での就職を希望していたのだ。
 美奈は、けっきょく目標にしていた東京の大学に進学できた。
 仕送りはほとんど期待できないため、借りられる奨学金はすべて借りて学資に充て、生活費はファミレスのバイトでがんばって稼いだ。
 そのころは、正社員になりさえすればボーナスももらえるし、奨学金の返済などは簡単だと思っていた。
 三年生になってからは、正社員になるための就職活動も懸命にやった。企業へのエントリーシートは、何十枚送ったかわからないくらいだ。
 でも、その大半が門前払いだった。一次試験も受けさせてもらえなかった。美菜の大学がいわゆる有名校でなかったことも災いしたかもしれない。やっと一次試験を受けられても、そこでほとんど全滅だった。面接までこぎ着けたことはまれだったし、最終面接まで残ったことは一度もなかった。けっきょく、卒業までに美菜が就けたのは、非正規雇用の仕事だけだった。
 こうして就活に失敗した今の美菜には、奨学金の返済が重くのしかかっていた。
 大学の同期でも、正社員になれた人たち、特に男子たちは、それぞれ新しい環境になれるのには苦労していたものの、充実した日々をおくっているようだった。
 そんな中で、美菜だけがすっかり取り残されたような気分だった。

「マチ、久しぶり」
 美菜は、長距離バスから降り立った真智子に手を振った。
「ミナーっ!」
 真智子が、こちらに走り寄ってくる。
 大学の同級生の真智子は、卒業後は地元に帰っているので、会うのは久しぶりだった。
 お店に入るとお金がかかるので、二人は美菜のアパートへ直行した。美菜のアパートは学生時代から変わっていなかったから、真智子も何度も行ったことがあった。
 これから二日間、真智子のおみやげと、美菜がスーパーやコンビニで買い込んでおいた食べ物や飲み物を食べたり飲んだりしながら、たまりにたまったおしゃべりをして過ごすつもりだった。
 真智子も、就職活動で数十社も不合格になった末に、やっと地元でレンタルビデオ店を展開している会社に就職していた。彼女も学生時代に抱いていた、東京で就職する夢は、あきらめざるを得なかった。
 今の会社では正社員だったが、小さな店舗の名ばかりの副店長というだけで、基本的な仕事はバイトの人たちとあまり変わらなかった。月給の手取りは十五万円しかなかったし、ボーナスも出なかった。
バイトが急に休んだりすると、そのしわ寄せが正社員である真智子にきて超過勤務をさせられる。
しかし、残業手当はいっさい出なかった。皮肉なことに、時給に換算すると、バイトの人たちよりもかえって低かった。

 美菜の部屋で、共通の友達の噂話がひと段落すると、二人の話題は、現在の生活へのグチになってしまった。お酒がはいったせいか、いつもは言えないで我慢しているようなことでも何でも話し合えた。それが今の二人にとっては、最高のストレス解消の手段だったのかもしれない。
 二人とも、その日その日を暮らしていくだけで精一杯だった。生活もぎりぎりまで切り詰めているので、今日みたいに思い切り食べたり飲んだりおしゃべりしたりして、憂さを晴らす機会もなかなかなかった。
 今の二人の共通の夢は、結婚して今の生活を抜け出すことだ。
「どんな人がいい?」
 美菜がたずねると、
「うーん。普通の人でいい。そんなにお金持ちじゃなくてもいいんだ」
「ふーん、学生ころは玉の輿にのるんだって、言ってたじゃない」
「もう、それどころじゃないのよ。年収三百万ぐらい稼いでいる人で十分。私なんか、正社員なのに二百万もいかないんだよ。それより美菜こそどうなのよ。相変わらずイケメン好きなの?」
「私もルックスなんか、もうどうでもいい。普通の人で十分」
 二人とも、もし結婚できたとしたら、結婚後も働くつもりだった。
 夫婦で助け合って普通の生活をする。それが今の二人の望みだった。
 でも、今のままでは、結婚相手を探すのもとても無理だ。毎日、働いて食べて仕事を探しているだけで、いっぱい、いっぱいだったのだ。
 彼女たちの周囲の男性たちも同様の境遇の人が多く、結婚相手にできるような男の人とは出会いがなかった。
 なんとか年収三百万円ぐらい稼げる安定した仕事に就いて、少し生活に余裕ができたら、男の人との出会いを見つけて、平凡でもいいから結婚したかった。
(一人口は食えぬが二人口は食える)
 そんな古い言い回しが、現代の貧しい若い人たちにも当てはまるようになっていた。ただ、その意味は、昔の「男性が働いて、女性は専業主婦」になるというカップルではなく、男も女も一人一人の賃金が安いので、「男性も女性も働いて、家事も平等に分担する」という新しいカップル像になっている。
 就職活動で痛い目にあった若い女性の中には、結婚相手を同世代の中で探すのでなく、経済的に安定した三十代後半、時には四十代の男性と結婚する、いわゆる年の差婚で、専業主婦の座を夢見ている人たちも多かった。
 しかし、美菜たちは違った。経済的に自立した女性になる夢だけは、まだ捨てていなかったのだ。

 今日も、美菜はレストランで忙しく働いていた。
 真智子は、昨日の夜行バスで地元へ帰っていった。次は、美菜が彼女のところを訪ねる約束だった。
 美菜は、お客を席に案内して、オーダーを取り、料理を運び、汚れた食器を片づけている。一日中ずっとその繰り返しだ。
 美菜の時給は、学生時代とまったく同じだった。そのころと違うのは、学校へ行かなくなったのでシフトの時間をずっと長くしていることだ。それでも、食べていくだけで精一杯だった。
 美菜が学生時代よりさらに苦しいのは、奨学金の返済があったからだ。毎月毎月、美菜のバイト代の半分近くを返済に使わなければならない。美菜は、もう数ヶ月分も、奨学金の返済を滞納していた。
 今の美菜には、過去を振り返ることも、将来を考えることもできなかった。
 学生時代の楽しかった日々を思い出すことは辛かったし、結婚などの将来もまったく想像できない。
 毎日、ファミリーレストランでバイトして、家に帰ってからは就活のためのエントリーシートを書く。
 今日一日を生き延びるだけで精一杯だった。



私たちの今日
平野 厚
メーカー情報なし
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ネットカフェにも朝は来る

2020-02-16 10:37:41 | 作品
 駅前のネットカフェは、朝早くからかなり騒々しい。終電を逃してネットカフェに泊まったお客たちが、始発が走り出す時間になると帰り支度を始めるからだ。
「うーん、…」
 明日美は、狭いブースの中で寝返りをうった。今日も、朝の騒音で彼女の浅い眠りは覚まされてしまった。言ってみれば、彼女にとってのこの騒音は、最低のモーニングコールといったところだ。
 といっても、彼女が寝ていたのは、もちろんベッドではない。備え付けのリクライニングチェアで、寝ていたのだ。毎晩、特に週末は、泊りの客がたくさんいるので、この店のリクライニングチェアは飛行機のファーストクラスの席みたいなフルフラットとまではいかないが、かなり後ろに倒すせた。だから、明日美は身体を丸めて横になることができるのだ。
でも、彼女は十四歳にしては体が大きい方なので、ここのチェアは少し狭かった。
 こうして、いつもの浅い眠りは次第に終わりを告げて、今日も明日美の長い一日が始まる。夢ばかり見ていたせいか、長時間寝たのに明日美の頭はぼんやりとしたままだった。
 ブースの広さは、たたみ一畳ぐらいしかない。
備品は、テレビチューナー付きパソコンを載せたテーブルとリクライニングチェアがあるだけだ。ただ、明日美は長期滞在者なので、身の回りの品もブースのしきりのまわりに置いている。といっても、ボストンバックとデイバックがひとつずつあるだけだったけれど。
それでも、彼女の持ち物は他の人たちと比べて少ない方だから、そんなにギチギチではなかった。

 ブースのドアが軽くノックされた。
 明日美がドアを開けると、両そでが擦り切れたダウンベストを着た姉の今日香が顔をのぞかせた。マスクをしてサングラスもかけているので表情はよくわからないが、今日香もよく眠れなかったに違いない。彼女も少し離れた奥の方のブースで夜を過ごしたのだ。
 今日香は、四つ年上の十八歳だ。でも、明日美と同様にまったく化粧っ気がないので、もっと幼く見える。安っぽいサングラスは、年相応に見せるための精一杯の扮装だった。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「眠いね」
 今日香はボソッと答えた。
「うん、いくら寝ても寝足りないみたい」
 明日香が答えると、
「まあ、ここじゃあ、しかたないけど」
「うん」
「じゃあ、行ってくるね」
 今日香は片手を軽く上げて、すぐに姿を消した。こんな早朝から、近くのコンビニでバイトなのだ。中卒の今日香が、やっと見つけた仕事だった。これから夕方まで、十時間以上も働かねばならない。

 明日美ももう起きることにしたが、今日香と違って外出するわけではないので、着替える必要はない。一日中、いや一年中、上下のスウェットのままだった。
 明日美は、色違いの同じようなスウェットの上下を二着持っていて、一週間交代で着替えている。一週間着たスウェットは、下着などと一緒に近所のコインランドリーで洗濯していた。どちらのスウェットも、もう長い間着ているのですっかり色落ちしている。
 でも、今日香以外の誰に見せるわけではないので、全然気にならなかった。さすがに穴があいたら新しいスウェットを買おうとは思っていたが、よっぽど丈夫な素材でできているのか、まだまだ大丈夫そうだった。
ネットカフェの中は、一年中エアコンで快適な温度にコントロールされていた。だから、明日美が持ち込んでいる衣服は、今日香と比べても驚くほど少なかった。
 明日実のブースの前を、人が歩いていく音が聞こえてきた。
でも、誰もブースの中には入ってこられないから安心だった。このネットカフェでは、明日美たちのような長期滞在者のブースは鍵がかけられる。フロントにキーを預ければ、いつでも外出できた。
といっても、明日実が外出するのは、ネットカフェの入っているビルから50メートル先にあるコインランドリーだけだった。明日美の方がはるかに時間の余裕があるので、いつも今日香の分も一緒に洗濯をしてあげている。
そんな、一週間に一度の外出の時も、コインランドリーの洗濯機をセットすると、明日実は急いでネットカフェの自分のブースを戻っていた。誰か知っている人に会うのも怖かったし、古ぼけたスウェット姿を人に見られるのも嫌だった。とても、コインランドリーの中で出来上がりを待っていられなかった。

「あーあ」
 明日美は、大きく伸びをしながらチェアから立ち上がった。同じ姿勢を長時間保っていたので、体の節々が痛い。明日美は、昼夜逆転しないように、日中はなるべく起きていて、夜は11時には寝るようにしている。
すぐにブースを出て、眠気覚ましのコーヒーを飲みに、店内のドリンクバーへ向かった。迷路のように何度も曲がりくねった細い通路を歩いていくと、両側には細かく仕切られたブースが続いている。こんなに狭いところにたくさんの人がいて、もし火事でも起こったら逃げられるのだろうかと、初めのころはビクビクしていた。
でも、長く暮らしていると、いまさらそんな心配をしても仕方がないので、それ以上は考えないことにしている。
 ドリンクバーには、明日美たちと同様にこのネットカフェで寝起きしている住人たちが、すでに集まってきていた。長く居るメンバーたちは、すっかり顔を覚えてしまっていた。
 でも、お互いにあいさつを交わしたりはしない。まったくの没交渉だった。へたに仲良くなってプライベートな事を聞かれるのは嫌だった。
 ここのドリンクバーには、エスプレッソマシンの他に、コーラやジュースなどのソフトドリンクの機械や、ソフトクリームマシンまでがあった。前にはコーンスープや味噌汁もあったのだが、残念ながら機械が変わってからはなくなってしまっていた。
 明日美は、いつものようにホットカプチーノのボタンを押した。
 プシューと勢いよく水蒸気を吐き出しながら、褐色のコーヒーと乳白色のミルクがカップに注がれていく。
 明日美は、さらに備え付けのミルクと砂糖をたっぷり入れて、甘い甘いカプチーノを作る。
 これだけが、毎日の明日美の朝食だった。

実は、明日美たちの母親も、この同じネットカフェにいた。
 二人が幼いころに離婚した母親は、病院の看護助手の仕事をして、一人で二人の娘たちを育てていた。三年前までは、狭いながらも普通のアパートで、母娘三人で暮らしていたのだ。
 そのころ、明日実はまだ小学生で、普通に学校へ通う日々だった。
 もともと引っ込み思案なところがある彼女は、クラスではまったく目立たない存在だった。
 それでも、学校の往き帰りにおしゃべりしたり、時には放課後や休日に一緒に遊んだりできる友達も何人かはいた。
 姉の今日香は中学生で、成績はそれほど良くなかったし、経済的な理由で塾へも通えなかったが、地元の公立高校を目指して勉強をしていた。
 明日実も、漠然とだったが、将来は姉と同じような道を進むのだと思っていた。
 そう、彼女たち三人の家庭は、どこにでもありそうな普通の家族だったのだ。
 母親の仕事は夜勤も含む不規則なものだったので、姉妹は幼いころから家事を交代でこなしていた。
 炊事、洗濯、掃除、……。
 母親は、家にいる時は、夜勤の睡眠不足を補うように寝ていることが多かったので、二人でできるだけ家事はこなして、なるべく母親に負担がかからないようにしていた。
 明日実が幼いころは今日香が、今日香の勉強が忙しくなってからは明日実が、中心になって家事を負担していた。

 そんな貧しいながらも平穏な生活を送っていた三人の生活に変化が起きたのは、四年ぐらい前からだった。
夜勤の多い重労働の仕事と二人の子育てに疲れはてた母親が、しだいに精神のバランスを失ってしまったのだ。時に激しく感情を爆発させたかと思うと、うつろな目をして何日も黙り込んでしまう。常習化していたアルコールの大量摂取も、そういった気分障害を発症した原因のひとつだったかもしれない。
「おかあさん、もうお酒を飲まないで」
 明日実と今日香は、何度も母親に頼んだ。
しかし、いったん依存症に陥ると、なかなか酒を飲むのを止められなかった。夜勤明けの休みの日などは、目を覚ますとすぐに酒に手を出すようになってしまった。
それでも、病院へ出勤する前は、何とか飲酒はしないようにしていた。
しかし、次第に誘惑に負けてつい深酒をしてしまい、しだいに仕事も休みがちになり、ついには勤めていた病院をくびになった。
その後もいろいろな病院を転々としていたのだが、どこでも無断欠勤などで問題を起こすようになり、だんだんまともに働かなくなり、一家の収入は激減してしまった。
 まだそのころは、今日香もバイトができる年齢には達していなかったので、家計を助けることはできなかった。
 とうとう家賃や公共料金まで滞納するようになり、そのために電気やガスといったライフラインも止められてしまった。
 その時、家にはまだお米などの食材が少しだけはあったのだが、明日美たち一家はもう食事ができなかった。なにしろ電気もガスもきていないので、ご飯すら炊けなかったからだ。
 そして、今日香は、高校進学も断念しなければならなくなった。
 社会の片隅でつつましく生きてきた明日美たちの家庭は、こうして完全に崩壊してしまった。

アパートを追い出された三人は、駅前のビジネスホテルへ緊急避難した。
母親はシングルルームへ、明日実と今日香はツインルームだった。
その地域では一番安いホテルだったが、それでも二部屋だと一万二千円もかかってしまう。
本当は、三人の手持ちのお金は、一日分もなかった
母親はその日も泥酔していて、部屋から出てこなかったので、二人で自宅の部屋の片づけをした。
テレビや冷蔵庫や洗濯機などの家電製品や家具は使うあてもないので、リサイクルショップに連絡して、全部引き取ってもらった。
それらを売ったお金で、何とかビジネスホテルに払うお金ができた。
衣類など必要な物は、レンタルルームの一番狭いスペースに預けた。
それでも、月に三千円もかかってしまう。
これらも処分して、本当に必要な物だけにしなければならなかった。
その後は、三人はもっと安いビジネスホテルを転々とした。
そして、とうとうそのビジネスホテルの料金も踏み倒すようになった。今日香がシングルルームにチェックインして、後で二人が忍び込むのだ。そして、チェックインだけして、お金を払わずに逃げ出すのだ。
しかし、業界のブラックリストに載ったのか、宿泊を拒否されたり、前払いを要求されるようになり、ビジネスホテルは使えなくなった。
しかたなく、三人はネットで調べたドヤ街へ移った。
そこでの一日当たりの料金はビジネスホテルよりは安かったが、当然前金なので踏み倒すことはできなかった。
 しかし、そういった場所も、長く暮らすにはお金がかりすぎた。

 最終的に三人が流れ着いた先が、この駅前のネットカフェだ。この店の一日の料金は二千四百円だったけれど、明日美たちのような長期滞在だと千九百円に割引される。一ヶ月分を計算すると割高なようにも感じられるが、ここだったら公共料金は払わなくていいし、テレビ付きパソコンもエアコンもトイレもシャワーもドリンクバーも完備している。家具を買う必要もないし、インターネットも、ゲームも、漫画も、雑誌も、やり放題見放題だった。
 といっても、
「こんな変なところには長居してはいけない」
と、今日香は明日美にいつも言っている。
 しかし、敷金などの最初に払うまとまったお金や保証人などがネックになって、二人だけではアパートが借りられなかった。頼んで日払いにしてもらっている今日香のバイト代だけでは、毎日カツカツにしか生活できなかった。明日美は、中学を卒業していなかったからまだ働けなかった。
 母親は、時々派遣で看護助手の仕事をしているようだったが、アルコール依存症がまだ治っていなくて、酔うと暴力をふるうことがあるため、もう一緒には暮らせなかった。
 住民票をネットカフェのあるビルの住所に移しているので、明日美たちは郵便も受け取ることができた。めったにかかってはこないが、電話も取り次いでもらえる。通信料金が高いので、二人ともスマホもガラケーも持っていなかった。
ここにいればとりあえず普段の生活には不便はないので、母娘三人が別々のブースでもう二年半も暮らしている。

 通常、ネットカフェは、ゆっくりビデオを見たりインターネットをしたりする人たちが利用している。パソコンを持っていなかったり、スマホでは容量が足りなくて自由に動画を見たりできない人が多い。中には、アダルトビデオやアダルトサイトを見るために来ている男性たちもいた。
 ドリンクバーは無料だったし、有料で食事をしたりシャワーやマッサージ機も利用したりできるので、長時間滞在しても快適に過ごせるように工夫されている。
 料金は短時間だと割高だが、長時間だと安くなる様々なパックが用意されているので、長い時間利用する客が多かった。特に、駅前に近い店では、夜間は終電を逃したお客が泊まることが多いので、無料のモーニングサービスが付いていることもあった。
 明日実たちがいるネットカフェには、長期滞在者が全六十四ブース中七割以上もいる。その大半が、明日美たちのような若い女性だった。体の大きい男性にとっては、このブースでは狭すぎて、ネットカフェは長期滞在に向かないのかもしれない。それに、彼らには、ドヤや脱法シェアハウスのような受け皿が他にあった。
 この店では、長期滞在者を原則として一つのエリアにかためている。女性たちの安全をはかるためと、ブースを利用する時間が一般の利用客と異なるので、区別した方が運営しやすいからだ。そのエリアのブースだけが鍵がかけられるようにしてあるのも、トラブル防止のためだった。
 店の業績は好調で、この会社では同様のネットカフェを都内だけで他に三軒も経営している。ネット難民の生活の便を良くすることにより、長期滞在者を増やしてブースの稼働率を高めるのが、この会社のビジネス戦略のようだ。いわゆる脱法シェアハウスの、ネットカフェ版、女性版なのかもしれない。もちろんこの業態も法律違反すれすれなのだが、結果として行き場のない貧しい若い女性たちを救済していることになっている。

今でこそ明日美は一日中ネットカフェの中にいるが、去年の夏まではとぎれとぎれだったけれど学校へ通っていた。初めは、そのビジネスホテルなどから元の学校へ通っていた。ここに来てからは、現住所をネットカフェの所在地に移したので、近くの小学校に転入できたのだ。
その後、出席日数が怪しかったが、中学校へも進学できた。ブースの中で、学校側の好意で用意してもらったお古のセーラー服に着替えて、通学していた。
 しかし、もう半年ぐらい、明日美は学校に通っていなかった。あのまま学校にいたら、明日美は来月からはもう中学三年生になる。
 学校に通っていたころ、明日美は、ネットカフェで暮らしていることを、小学校や中学校のクラスメートには秘密にしていた。もちろん、先生たちはどこから通っているか知っていたが、内密にしてもらえていた。
でも、中学生になったころから、そういった二重生活に疲れて、明日実はしだいに学校をさぼるようになってしまった。クラスメートにどこで暮らしているのが知られるのが怖くて、突っ込んだ話はできなかった。そのせいもあって、親しい友だちはできなかった。
それに、姉と同様に自分も高校へは進めないだろうと思っていたから、授業にも集中することができなかった。授業中も、休み時間もポツンと一人で過ごすことが多かった。
ネットカフェで暮らすようになってから、明日実がだんだん何事にもあきらめの気持ちを持つようになっていたのも、学校へ行かなくなったことに影響したかもしれない。

 明日美のきちんとした食事は、原則一日一回だった。それを姉が帰ってくる夕方に一緒に食べていた。基本的には、朝食と昼食は抜きだった。
 実は、近くの別のネットカフェが無料モーニングを始めた事を、今日香がコンビニのお客に聞いたことがあった。しかも、食べ放題だというのだ。
 さっそく、その翌朝、六時からやっているというその無料モーニングの様子を、二人で見に行った。
実際のモーニングは、パンとフライドポテトだけの質素な物だったが、トースターが置いてあるので、パンを焼くことができるし、マーガリンやジャムも使い放題なようだ。そばには、フライドポテト用のケチャップまでが置いてある。
 毎日、朝食抜きの二人には夢のようなモーニングサービスだった。
 しかし、店員に話を聞くと、そのネットカフェには、明日美たちのような長期滞在者は受け入れていなかった。
二人は涙を呑んで、夢のモーニングセットをあきらめることにした。
 そんな明日美だったが、たまに夕食の食べ物が残ると、朝にもう一食を食べることもできた。今日はラッキーにも食パンが少し残っていたので、明日美はカプチーノとともにそれを口にすることができた。普段は、どうしても空腹が耐えられない時には、明日美は無料のドリンクバーに通って飢えをしのいでいた。おなかをごまかすのには、お茶類よりも甘いジュースや炭酸飲料の方が有効だった。
紅茶やコーヒーにもたっぷり砂糖を入れていた。
ソフトクリームも甘くていいのだが、食べすぎるとおなかが冷えてしまうので、一日一回に決めていた。
 毎日一食にもかかわらず、明日美はほとんど痩せていなかった。いやむしろ太ったぐらいだ。運動不足と糖類の取りすぎが原因だろう。明日美自身もなんだかむくんだ感じがしていて、彼女の栄養状態は最悪だった。
 インターネット、テレビ、ゲーム、雑誌、漫画、…。ネットカフェには、暇つぶしに適したエンターテインメントがあふれている。
 しかし、明日美はそのどれにも飽きてしまっていた。そのため、一日が死ぬほど長く感じられた。

 現在の明日美の唯一の楽しみは、小学校一年生から五年生まで通っていた、かつての地元の小学校のホームページを見ることだった。個人情報の流出に配慮してか、子どもたちの写真などはなかったが、明日美にとっては懐かしい校舎の写真やみんなで唄った校歌の歌詞などが載っていた。
 それらをぼんやりとながめていると、まだ幸せだったころが思い出されて、ほんのちょっぴり心が和まされた。アパートを出てからの学校には、それぞれ短期間しか通えなかったので、あまり想い出はなかった。

気が遠くなるほど時間がたったように明日美には思えたころ、ようやく今日香がバイトから帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
長時間のバイトのせいか、今日香は疲れきった顔をしていた。
「じゃあ、着替えてくるね」
 すぐに姿を消した今日香は、しばらくして明日美と同じようなスウェット姿で戻ってきた。
 これから、明日美待望の夕食が始まるのだ。
 明日美のブースで、二人は肩を寄せ合うようにして夕食を食べ始めた。今日香のブースの方は、四方を雑多な彼女の持ち物で取り囲まれているので、二人で入る余裕はなかった。
 食事のメインは、今日香の勤め先のコンビニで消費期限を過ぎたサンドイッチやおにぎりや惣菜などだった。それらはコンビニ本社の規則では廃棄しなければいけないのだが、店長の好意によって捨てたことにして内緒でもらうことができた。時々は、明日美の栄養を心配して、魚の缶詰や魚肉ソーセージ、牛乳などのタンパク質源も、今日香が近くのディスカウントストアで買ってくることもあった。
 今日香の方は、一日中体を動かさなければならないので、やはりコンビニの廃棄品などを休憩時間に食べているのだが、明日美にとっては本当に唯一のまともな食事だった。
 二人はゆっくりゆっくりとつつましい晩餐を、小声でささやきあいながら食べている。
「今日はどうだった?」
「うん、いつもと変わらないけど、天気がいいから食べ物の売れ行きがよくて、あんまり廃棄が出なかった」
 今日香が持ってきてくれた夕食は、サンドウィッチが一つとおにぎりが二つ、それにほうれん草のゴマ和えだけだった。二人はそれを分けあって、少しずつ食べていた。
 二人の毎月の収入は、今日香のバイト代の十万円程度と、母親が時々気まぐれにくれる数万円だけだった。
 母親からお金をもらうのは明日美の役目だったが、本当はそれが嫌で嫌でたまらなかった。母親のブースからは、いつもプーンとアルコールのにおいがしていた。ネットカフェでは飲酒は禁止されているのだが、母親は密かに飲んでいるのかもしれない。このままでは、母親のアルコール依存症はいつまでも治らないだろう。
 どんなに嫌でも、母親からお金をもらわなくてはならなかった。その数万円がないと、このネットカフェからも出ていかなければならないのだ。そのお金を足しても、毎日精算が要求されている二人分のネットカフェ代を払うと、あとはいくらも残らなかった。
 二人の願いは、明日の住む所と食事を心配しなくてもいい暮らしをしたいことだけだった。

 ある朝、明日美が自分のブースから出ると、隣のブースの前に荷物が積まれていた。
 隣にいるのも若い女性で、妊娠しているのでおなかが大きかった。同棲していた男がおなかの子どもを認知してくれなくて別れたので、行き場がなくてここにたどり着いたのだ。いよいよ出産が間近になり、そういった女性たちをサポートしてくれるNPOの世話で、やっとネットカフェから施設に移ることができた。
 しかし、生まれてくる子どもを一人で育てる自信はなくて、出産してすぐに養子に出す予定だった。
 明日美がその場に立ち止まって見ていると、ブースからいよいよおなかが大きくなった女性が出てきた。
「さよなら」
 その女性は、小さな声で明日美に言った。
「さよなら」
 明日美も小声で答えた。彼女は半年近くも明日美のブースの隣に「住んでいた」のだが、二人が言葉を交わすのはそれが最初で最後だった。
 彼女の姿が見えなくなると、すぐにネットカフェのスタッフがやってきてブースの清掃を始めた。ビジネスの効率のために、長期滞在エリアのブースは、ひとつでも空けておくことはできない。
 明日美が自分のブースに戻っていると、昼前には早くも新しい人が隣のブースに入ったようだった。

 しばらくして、明日美のブースのドアが軽くノックされた。
 明日美が細くドアに隙間を開けると、知らない若い女の人が立っていた。
「初めまして、あたし、愛媛から来た山本優樹菜です」
 女の人は、満面に笑みをたたえている。すっかり無気力になっている明日美たちとは違って、すごく元気そうな人だった。
「坂東明日美です」
 明日美もボソッと答えた。他のブースの人に声をかけられたことがなかったので、少々面食らっていた。
「あら、明日美ちゃん、若いのねえ。中学生?」
「いえ、もう卒業しました」
 明日美はあわててそう答えた。フロントでは見て見ぬふりをしてくれているが、中学生だということがばれると、ここからも追い出されてしまうかもしれない。
「ふーん」
 優樹菜は、少し疑わしそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻って、大きなミカンを二つ差し出した。
「あたし、愛媛から今朝来たばかりなの。これ地元の名産だから、引越しのあいさつ代わりというところね」
 明日美は、コクンとうなずいてミカンを受け取った。夕食の時に、今日香と一つずつ食べようと思っていた。
「ちょっと、あたしんのところに来ない?」
 ドリンクバーでそれぞれの飲み物を取った後で、明日美は優樹菜のブースへ行った。
 明日美たちのところとは違って、隅にキャリングケースがひとつあるだけなので、二人で入っても十分余裕があった。
 優樹菜の話によると、彼女は地元にある福祉系の大学に通っているのだそうだ。
 優樹菜の家も離婚による母子家庭で、小さいころから貧しかった。大学にやる余裕はとてもないと母親に言われていたけれど、優樹菜はどうしても勉強して、祖父母の代から続くこの貧困の連鎖から抜け出したかった。母親からの仕送りはぜんぜん期待できなかったので、学費や生活費をすべて自分で稼がなければならない。
 でも、地元では賃金がすごく安いので、奨学金とふだんのバイトでは、生活費だけでいっぱいいっぱいだった。そのため、長い休みになると、賃金の高いバイトのある東京へ学資を稼ぎにやってきている。東京ではいつもこのネットカフェを使っていたので、ここではもう常連になっていた。
 でも、優樹菜はほとんど仕事へ行っているし、帰ってからは自分のブースで寝るだけだったから、今まで明日美とは出会ったことがなかった。
「夜行バスで13時間もかかったの。もうくたくたよ」
 そう言いながらも、優樹菜はエネルギーにあふれていた。明日からは、三つの仕事を掛け持ちしてガンガン働く予定だった。それも、賃金の高い工事現場や深夜の仕事ばかりを選んでいる。
 彼女の母親も、地元でバイトやパートを掛け持ちでやって懸命に働いているけれど、女性の給料では自分一人が食べていくのがやっとで、彼女の仕送りまではなかなか手が回らなかった。現在でも、日本では女性の平均賃金は男性の七割しかないのだ。
「おかあさんは、自分の年金の保険料も払えていないんだよ」
 優樹菜は、そう言ってため息をついた。

 明日美と話しているうちにだんだん自分で興奮してきたのか、優樹菜は見ず知らずの明日美に将来の夢を語り出した。
「卒業したら、年収三百万以上は稼げる仕事に就きたいの」
「大学を卒業したら、そんなすごい仕事があるの?」
 中学にも通えないでいる明日美には、大学など遠い夢だった。ましてや三百万円などという大金は、いつも百円足りるか足りないかで今日香と二人で苦労しているので、想像もできなかった。
「ううん。福祉系の仕事がいいんだけど、そんなに稼げる仕事に地元でつけるかどうかはわからないんだ。愛媛では高齢者が減ってきていて、今まで地元の主力産業だった介護施設の就職も厳しくなっているって、先輩が言ってたのよ。入居者が亡くなって空きができても、最近は新しい応募者がいないんだって」
「…?」
 まわりにお年寄りがいない明日美には、よくわからなかった。
「うちの近くでも、どの商店もお年寄りの年金だけが頼りだったんだけど、そういうお客さえめっきり減って、店を閉めるところも増えてきているの。町の中心の商店街でも、建物を壊して更地になるところが増えているし」
「そうなんだ」
 東京生まれの明日美には、優樹菜のする地方の町の話がピンとこなかった。
「地方はどこも大変なのよ。だから、地元の介護の企業も、愛媛に見切りをつけて東京進出を図っているんだって。先輩たちも働く場所がなくなったから、その会社のつてでどんどん東京へ出て行っているのよ。将来、その会社が東京で施設をオープンしたら移籍するって裏約束で」
「優樹菜さんはどうするの?」
「私も地元で就職がダメだったら、東京に出てくるしかないかもね。本当はおかあさんが心配だから地元に残りたいんだけど。もし残っても、地元では若い女の子たちがいなくなったせいで、生まれてくる子どもたちももうほとんどいないから、将来は町自体が消滅してしまうかもしれないし」
「ふーん、それでみんな東京に来るのかなあ」
「まあ、おかあさんには、自分に余裕があったら仕送りすればいいんだけど。でも、東京では家賃が高いでしょ。暮らしていけるかなあ? それに、地元と違って知っている人がいないから、男の人との出会いもあるのかわかんないし。将来、結婚できるんだろうかと思うと、不安だらけなんだけどね」
 優樹菜はそう言って、さびしそうな笑顔を浮かべた。
「……」
 明日美が黙っていると、優樹菜が自分を奮い立たせるようにして、
「でも、今は頑張るしかないのよ」
と言った。
「私も学校へ戻りたい」
 つられたように明日美もポツリとつぶやいた。
「やっぱり、中学生なのね」
 優樹菜に言われて、明日美はコクンとうなずいた。

 その日の夕食の時、明日美は、優樹菜の話や自分もここを出て学校に戻りたいことなどを、姉に話した。
 今日香は、何も言わずに箸を止めて、そんな明日美の顔をじっと見つめていた。
 あるいは、うまく行政に頼ることができれば、二人は今の暮らしを抜け出せたかもしれない。しかし、役所はあまりにも窓口が細分化されていて、彼女たちにはどこに相談すればいいのかわからなかった。今では、二人ともすっかりあきらめの気持ちになっている。
 二人はそれ以上明日美の希望については話し合わずに、食事を続けた。
「おやすみ」
 今日香がブースから出て行ってからも、明日美は昼間の優樹菜の話を考え続けていた。

 翌朝、今日香はいつものように明日美のブースに顔を見せた。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「今日、バイトを休むから」
と、今日香は言った。
「どうしたの? 身体の具合でも悪いの?」
「ちょっと出かけてくる」
「どこへ?」
「うん、…」
 今日香は答えずに、そのままブースのドアを閉めて、どこかへいってしまった。明日美は、思い詰めたような顔をしていた姉が心配だったが、何もすることができなかった。

 午後になって、思ったよりも早く今日香は戻ってきた。
 ブースに入ると、今日香は黙ったまま、明日美にパンフレットを渡した。通信制高校のパンフだった。
「ここに通って、卒業したら福祉関係の専門学校にいきたい。それから、あなたも学校に戻してあげたい」
「…」
 明日美は、今まで姉がそんなことを言ったことがなかったから、びっくりして何も言えなかった。
 実は、今日香は、バイトを休んでもっとお金を稼げる仕事を見つけに行ったのだ。
 それは、ネットで見つけたデリバリーヘルスという風俗の仕事だった。ブースのパソコンで調べたネット情報によると、日給は三万円以上で今のバイトの5倍近くももらえる。ワンルームマンションの寮も完備しているので、ここを出て明日美と一緒に住めるかもしれなかった。
 今日香たちには関係ないけれど、その店では託児所を経営している会社とも提携していた。言ってみれば、あまりにも無力な行政に代わって、若い貧困女性のセーフティネットのような機能を備えているのだった。
 しかし、今日香は、さんざん迷ったあげく、そのデリバリーヘルスの事務所へは行かなかった。やっぱり男の人の相手をする風俗の仕事は怖かった。しかも、どうやらその事務所はたんなる待機所で、女の人たちは一人でお客の待つホテルの部屋に行かなければいけないようなのだ。密室で男の人と二人きりになるなんて、恐ろしくて想像もしたくなかった。
 代わりに今日香が行ったのは、やはりネットで見つけた「JKリフレ」というお店だった。そこは、男の人とは店内のカウンター越しに話しをするだけでいいようだった。それならずっと安全そうに思えた。
 でも、そのお店の給料の情報は、ネットではよくわからなかった。

 今日香は、思い切って開店前のお店のドアを開けた。
 中には、背の高い若い男が一人いるだけだった。それほど怖そうな人じゃないので、今日香はホッとしていた。
「入店希望?」
 男は愛想よく言った。
「あのー、…」
 今日香は、恐る恐る仕事の内容について尋ねた。
 仕事自体は、ネット情報通りに男の人とおしゃべりするだけだった。
「給料は?」
「時給千円。後は指名がつけば三十分単位で一本千円」
 それじゃ、今のバイトとそんなに変わらない。今日香は、自分が客から指名されることなど想像もできなかった。
 今日香が黙っていると、
「ここは接触サービスがないからね。給料が不満なら、風俗へ行ったら。おねえさん、十八になってるんでしょ」
 男は急に今日香に興味を失ったようで、ぞんざいにそう言った。
「ここは風俗じゃないんですか?」
「なんだ、そんなことも知らないの。ところで、あんた高校生? ここは、女の子が全員現役女子高生なのが売りなんだから。ねえ、生徒証を見せてよ」
 男にそう言われて、今日香はあわてて店を飛び出した。

 1999年を境に、今日香たちのような若い女性たちの貧困化が急速に進んでいる。皮肉にも、その年に施行された男女雇用機会均等法が、女性の正社員としての就職の妨げになったのだ。結婚や出産で辞めてしまうかもしれない女性に、男性と同じ給料を払って新人教育はできないというのが、企業側の論理だった。
 同時に始まった労働者派遣法の規制緩和もそれに拍車をかけて、若い女性たちに非正規雇用の波が大きくのしかかっている。
 かつては、そういった女性たちの非正規雇用労働の収入は、正規雇用の男性配偶者の補助的な役割にすぎなかったのだが、非婚化が進んだ今では、それだけで女性たちは生活しなければならない。せっかく苦労して大学を出ても、多くの女性たちが正規雇用につけないので、奨学金の返済が重くのしかかっている。このままでは、彼女たちは普通の結婚もできない状態だった。

「でも、なんとかあなただけでも学校へ行かれるようにするから」
 今日香は、風俗のことなどを話した後で、明日美に言った。
「本当に、ここを出られるの?」 
 明日美がたずねた。学校へ戻るにしても、前のようにネットカフェから登校するのは嫌だった。それでは、なんにも変わらない。
「うーん、…」
 今日香も、困ったように黙り込んだ。学校へ通うのにも、ここを出るのにも、かなりまとまったお金が必要だ。今日バイトを休んだために、今日香の所持金は五千円をきっている。明日美の方ときたら、非常用に持っている千円札が一枚と小銭だけだった。これでは、今日の二人分のネットカフェ代、三千八百円を払うのがやっとだった。
「やっぱり風俗しかないよね。これから、デリバリーヘルスの事務所へ行ってみる」
「だめ、そんなところ」
 明日美は、つい大声を出してしまった。
「でも、それしか方法がないよ」
「だめだったら、…」
 二人は、我を忘れて大声で言い争っていた。

 いきなりブースのドアが強くノックされた。
 二人が騒いでいたのでお店の人が注意しにきたのかと、おそるおそるドアを開けると、外には優樹菜が立っていた。隣が騒々しかったので、優樹菜は仮眠から起こされてしまったのだ。彼女は、夕方からの仕事に備えて休んでいるところだった。
「風俗はだめ」
 優樹菜は、狭いブースの中に無理矢理入ってくると、ズバッと言った。
 三人が同時に入ると、ブースの中はギチギチだったので、三人は立ったままだった。
「でも、…」
 今日香が反論しようとすると、
「風俗は、本当に最後の最後の最終手段よ。まだ他にも方法があるから」
「…」
 優樹菜に強く言われて、今日香は黙ってしまった。
「明日の朝、区役所へ行こう」
「区役所?」
 今日香が繰り返すと、
「そう、区役所。何とか窓口で交渉して、あなたたちの住むところを見つけてあげる」
「えっ、ここを出られるの?」
 明日実はネットカフェを出られると聞いて、思わず口を挟んだ。毎日毎日ここで暮らすのは、もううんざりしていた。
「無駄よ。役所に相談したら、きっと二人バラバラの施設に入れられてしまうから」
 今日香は、前に役所の窓口へ行ったことがあったのだ。その時は、さんざんあちこちの部署をたらい回しにされたあげくに、二人がそれぞれ別の未成年者を収容する施設に入れられそうになった。これ以上家族がバラバラにされることには耐えられない。
「ねえ、あなたいくつ?」
 優樹菜が、今日香にたずねた。
「十八」
「なら、大丈夫よ。仕事もしてるんでしょ。あなたが所帯主になって、区営住宅に入れるんじゃないかな」
「でも、お金が、…」
「大丈夫よ。区営住宅は敷金も礼金もいらないし、収入が少なければ家賃も減免されるから。保証人が心配なら、そうしたことをしてくれるNPOもあるみたいだし」
 優樹菜は、母親と暮らしていた時に、地元の町営住宅に住んでいたので、そうした事情に詳しかった。
「えっ、本当?」
 今日香が聞き返すと、
「とにかくダメ元よ。やってみなければわからないって。ネットカフェなんかにいたら、けっきょく割高なんだから。長期割引っていっても、私みたいに数週間だけならいいけれど」
 優樹菜が、励ますように二人の顔を見ながら言った。
「でも、優樹菜さん、明日も仕事があるんじゃないの?」
 明日美がたずねると、
「大丈夫。朝の八時には戻ってくるから」
 優樹菜は、夕方の五時から十二時までが居酒屋のホールのバイトで、続けて夜中の一時から七時まではコンビニの深夜バイトをしている。それに、割のいい夜間の工事現場の仕事も、他のバイトが休みの日に不定期にやっていた。
「今日みたいに、帰ってから寝なくても平気なの?」
 明日美が言うと、
「一日ぐらい寝なくたって大丈夫、若いんだから」
 優樹菜は、そう言って笑って見せた。
 でも、もしかすると、組織が縦割りになっている役所との交渉は、一日じゃすまないかもしれない。そうしたら、何日も粘り強く交渉しなければならないだろう。かといって、後を二人だけにまかせるのは心許ない気が、優樹菜はしていた。
「そうねえ。長期戦に備えてもっと援軍がいるかもね。ちょっと待ってて」
 優樹菜はそう言いながら、ブースを出ていった。

 しばらくして、優樹菜が戻ってきた。若い男の人が一緒だったので、明日美と今日香は緊張した。
「深川くん。二人とも知ってるでしょ」
 たしかに顔に見覚えがあった。ネットカフェのバイトの一人だった。
「彼も私と同じ十九歳で大学生なの」
「よろしく」
 深川さんはペコッと頭を下げた。笑うと親しみやすそうな顔になったので、二人は少し安心した。
「あたしが行かれない日には、彼が一緒に役所へ行ってくれることになったから」
「えっ!」
 二人が驚いていると、
「優樹菜さんって、強引なんだから」
と、深川さんはぼやいていた。
「なんたって、二人はお店のお得意様なんだから、このくらい、サービス、サービス」
 優樹菜にそう言われて、深川さんは苦笑いしていた。
「長期戦といえば、あなた明日もバイト休んで大丈夫?」
 優樹菜は、今度は今日香にむかってたずねた。
「…」
 今日香が不安そうな顔をしていると、
「電話、電話。まずバイト先と交渉よ」
 二人がケータイを持ってないことを知ると、優樹菜は自分のスマホを出して、今日香に聞いた番号にかけた。
「もしもし、…」

 優樹菜の交渉結果は上々だった。コンビニの店長は、今日香のシフトを役所へ行く時間が取れるように調整してくれた。どうやら、これでクビになることは免れたようだ。もともと店長が、今日香の身の上に同情的だったせいもあったかもしれない。
「でも、バイトに行かないと、明日からのネットカフェ代が足りないんだけど、…」
 今日香が恐る恐る言うと、
「ねえ、深川くん、役所との交渉がまとまるまで、代金を待ってくれるように、店長にOKを取ってくれない」
「…」
 優樹菜に強い口調で言われて、深川さんは目を白黒とさせていたが、やがてしぶしぶうなずいた。
 コンビニの店長や深川さんに対する優樹菜のきびきびした交渉経過と、その幸先の良い結果に、明日美と今日香は、これからの区役所との交渉にも、少しは希望が持てるかもしれないなという気がしてきていた。

ネットカフェにも朝は来る
平野 厚
メーカー情報なし


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