現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

庄野潤三「なめこ採り」庄野潤三全集第四巻所収

2018-05-30 08:57:42 | 参考文献
 磐梯吾妻有料道路開通の翌年に、カメラマンと同行して感想文を書くという依頼原稿に基づく作品です。
 作者の作品のスタイルのひとつである、特徴のある人物への聞き書きと言う形で書かれています。
 この作品では、高湯の玉子湯旅館の番頭さんが対象ですが、力持ちで体を動かすことが健康の秘訣といった程度で、特に珍しい話もなく(しいていえば、なめこ採りで熊と出くわしたときの対処方法でしょうか)、作者の作品としては完成度も低い物でした。

庄野潤三全集〈第4巻〉 (1973年)
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講談社
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小川洋子「チーター準備中」いつも彼らはどこかに所収

2018-05-30 08:15:52 | 参考文献
 動物園の売店で働く女性が、十七年前に別れた子どもの頭文字をチーターの綴りの語尾に見つけ、毎日昼休みにその檻を訪ねます。
 象、カバ、チーター、売店、授乳室、動物園の帰り道にあるアイスクリーム屋、それらだけを繰り返してめぐる女性の日常が描かれます。
 そんな小さな世界にも、ある日変化が訪れます。
 住人を失い「準備中」の札が下げられた檻は、日常生活における別れと不在を象徴しています。
 どんなに取るに足らない存在でも、姿を消した時にその空隙の大きさに気づかされます。
 まるで、ジグソーパズルが、何の変哲もない背景のピースがひとつ無くなることによって、永遠に完成することができないように。
 こうした詩的な作品が、現代の児童文学の世界でも必要です。

いつも彼らはどこかに
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新潮社
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庄野潤三「静かな町」庄野潤三全集第四巻所収

2018-05-29 08:57:59 | 参考文献
 南部旅行の途中で立ち寄った、ミシシッピ川沿いの小さな町ナチェッツでの一日を描いています。
 町の名前は、先住民のネイティブ・アメリカンにちなんでいますが、その後、フランス、イギリス、スペイン、最後にアメリカと支配者が変わったので、様々な文化の名残りが残っているようですが、作者の関心はここでもそういったところにはなく、酒場で知り合った副保安官を中心に市井の人々との触れ合いが描かれています。
 かつては綿花の集荷地及び船積み港として栄えたこの町の今ではすっかりさびれた雰囲気と、親切だがややアルコール中毒気味で身を持ち崩しかけている副保安官の印象が奇妙にマッチしていて、懐かしいようなさびしいような不思議な読後感を残します。

庄野潤三全集〈第4巻〉 (1973年)
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小川洋子「愛犬ベネディクト」いつも彼らはどこかに所収

2018-05-29 08:23:23 | 参考文献
 僕と妹とおじいちゃんだけの静かな生活が描かれています。
 学校へ行かなくなった妹は、溺愛するブロンズでできた小犬のベネディクトと手作りのドールハウスだけの小さな世界でひっそりと暮らしています。
 しかし、そんな妹が盲腸の手術で入院すると、そこに大きな空隙ができたことに僕は気づかされます。
 現実と空想が交錯する不思議な世界を、小川の静謐な文章がくっきりと捉えます。
 こういったファンタジーとリアリズムの狭間の世界は、本来児童文学の得意とするところです。
 このような作品が、現代の児童文学でも生みだされることを希望します。

いつも彼らはどこかに
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新潮社
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庄野潤三「南部の旅」庄野潤三全集第四巻所収

2018-05-28 09:00:32 | 参考文献
 作者が妻とともに(今では考えられないことですが、費用の関係か、あるいは教育上の関係か、10歳をかしらにした三人の子どもたちは日本に残してきます)、1957年からロックフェラー財団の基金(日本で創作活動をしている人たちを一年間海外に派遣しました)で、アメリカの片田舎にあるガンビアという大学町で暮らしていた時の話です。
 翌1958年の3月に、春を求めて(ガンビアは北部にあるのでまだ冬です)南部へバス旅行します。
 ここで登場するグレイハウンド・バスというアメリカ全土を縦横に走っていた長距離バスは、飛行機旅行が今のように安価ではなかった時代に庶民がアメリカを旅行する一般的な方法で、いろいろなアメリカ文学にも登場しました。
 私自身も、若いころにこれを利用してアメリカを旅行することを夢見ていましたが、実際にアメリカへ行くようになった(ほとんどが出張でしたが)ころには、飛行機とレンタカーの組み合わせで旅行するのが一般的になっていました。
 この作品においても、作者の観察は、風景などよりも、車内やバスターミナルで知り合ったアメリカの人々との触れ合いに発揮されています。
 60年も前のことなので、作者の女性観(特に妻に対して)や人種観(特に黒人に対して)などには、現在の基準で言えば古い(善悪ではなく時代の変化によるものです)のですが、それを差し引いても人間観察の鋭さは随所に発揮されています。
 特に、メンフィスのバスターミナルでの人種差別の体験(公民権運動が勝利する前なので、待合室は白人用と有色人種用に分かれていました)において、有色人種用の待合室(そこで待っているのは全員が黒人です)へも行かれず、白人用の待合室で咎められないかとビクビクしている姿は非常に生々しく、当時のアメリカの状況や日本人のこの問題への理解を端的に表していて興味深かったです。
 そもそもこの基金による派遣の目的は、優れた作家によって海外の様子を日本人に知らせて相互理解を深めるためにあるので、そういった意味では庄野潤三(特に、海外では一般的である妻と一緒になったカップルとして)を派遣したのは、大成功だったと思います(詳しくは「ガンビア滞在記」という長編に書かれています)。

庄野潤三全集〈第4巻〉 (1973年)
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藤野可織「しょう子さんが忘れていること」爪と目所収

2018-05-28 08:13:17 | 参考文献
 老女とセックスについて、現実と妄想の境目において描いています。
 実験的な作品ですが、作者の頭の中だけで作り上げていることが、読者に見え透いてしまうところが欠点だと思われます。

爪と目
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サイダーハウス・ルール

2018-05-27 09:06:12 | 映画
 孤児、里親、妊娠中絶、無資格医、薬物中毒、戦争、後遺症、不倫、近親相姦、殺人などの重いテーマが次々と描かれます。
 ジョン・アーヴィングの大部の原作と違って、商業映画という限られた時間(約二時間)に収めなければならないので、それぞれのテーマに対して未消化な感は否めませんが、ニュー・イングランドの素晴らしい風景、シャーリーズ・セロンの完璧に美しいヌード、名優マイケル・ケインの重厚な演技(この映画でアカデミー助演男優賞を受賞)だけでも、一見の価値はあります。

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津村記久子「ポースケ?」ポースケ所収

2018-05-26 08:35:12 | 参考文献
 心身ともに頼られやすそうな女店主ヨシカが経営する「食事・喫茶 ハタナカ」につどうその店のパート従業員やお客たちである女性たちの群像を描いた長編のような連作短編集(章ごとに視点が変わっているので独立した短編として読めます)のような作品です。
 芥川賞を受賞した「ポトスライムの舟」の、五年後の後日談だそうです。
 冒頭のこの作品(章?)は、ヨシカの視点で書いてあって、お店の来歴や、睡眠相前進症候群の疑いがあってだんだんと朦朧としてくるパートの女性、友人の娘で遠くからわざわざ店へやってきた小学五年生の女子などの魅力的な登場人物について紹介されています。
 全体においしそうなお菓子や料理やお茶などがふんだんに出てくるので、読者までがこの居心地の良い店のお客になったような雰囲気にさせられます。
 こうした大人も子どもも対等の立場で共棲して、働くことや生きていくことの意味を考えさせられるような作品は、児童文学の新しい可能性のひとつだと考えているので、興味深く読めました。

ポースケ
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庄野潤三「道」庄野潤三全集第四巻所収

2018-05-24 10:26:56 | 参考文献
 かつて裕福な育ちだった女性が、現在の貧困状態の生活の中でも、日々の幸せを求めていく姿を描いています。
 ただ働くだけで何の楽しみも持たないパン職人の夫、かつて主人公の女性と不倫関係にあったパン工場の主人、彼らの不倫に少しも気づかずに主人公に親切にしてくれるその妻、かわいい二人の子どもといった魅力的な登場人物がたくさん出てきますが、なんといっても一番魅力的なのは主人公の女性でしょう。
 過去の不倫が夫にばれてもあっけらかんとしていて、一見人生に流されているようで、常に自分がその時に求めているものに執着していく姿は、一種のたくましさを感じさせられます。
 この短編は1962年に発表されたものですが、このころまでの作者は、「プールサイド小景」(芥川賞受賞作)や「静物」などの彼の代表作で、日常の中に潜む不安を描いた傑作を次々に発表していました。
 この路線はやがて行き詰まり(彼自身の生活とだんだんかい離していったものと思われます)、しだいに家庭の中の小さな幸福を描いた作品(「ザボンの花」、「夕べの雲」など)へ転換していきます。

庄野潤三全集〈第4巻〉 (1973年)
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児童文学同人誌の合評会に作品を出す場合の注意点

2018-05-23 08:35:00 | 考察
 児童文学同人誌の合評会に作品を出す場合の注意点を、以下にランダムにあげてみます。
 これは児童文学を書く上で共通することですが、読み手のグレードに合わせた言葉づかいが必要です。
 また、現代の子どもたちにあった表現をしないと、古めかしく感じられてしまいます。
 さらに、児童文学の特徴として、その作品が描写で勝負するのか(小説指向)、それともアクションとダイアローグでストーリーを展開していくのか(物語指向)を意識した方がいいでしょう。
 どちらの場合も、モノローグや説明的な文章はできるだけ避けた方が無難でしょう。
 新しい物や事柄の名前は正確に調べて書く必要があります。
 また、子どもの名前も時代とともに変わってきているので、適切なものを使わないと古く感じられてしまいます。
 特に、女の子で「子」の付いた名前や、男の子で「男」などの付いた名前は、現代では少数派になっていますので、一つの作品の中で多用しない方が無難でしょう。
 もっとも、登場人物の名前がキラキラネームばかりなのも困りますが。
 作品に登場する小道具も、時代に即したものを使わなければならないでしょう(スマホ、インターネットなど)。
 また、七十年代までの作品によく描かれた「金持ちは悪い」、「貧乏人はいいと」いうパターン化は、現代では使えません。
 作品を一人称で書くときには、大人の視線で説明してしまわないように注意が必要です。
 もしそれをしたかったら、三人称で書きましょう。
 また、途中から現れた登場人物のキャラクターをどのように表現するかには、特に注意しなければなりません。
 難しい言葉を唐突に使わないようにした注意した方がいいです。
 また、モノローグだけで状況説明してはいけません。
 作品のおもしろさを支えるものの一つに、書き手の想像力があります。
 妄想のような作者の空想がどんどん広がって取り返しがつかなくなるようでないと、作品はおもしくありません。
 これは、ファンタジー作品だけでなくリアリズムの作品でも同様のことがいえます。
 同人誌に作品を提出する基本的なマナーとして、作品の一部だけを提出してはいけません。
 読み手である同人は、全体の構想がわからないので、的確な批評ができません。
 たとえ完成度が低くても、全体像を示した方がよいアドバイスを受けられます。
 特に、児童文学では、作品において相手を傷つけると、読み味が良くありません。
 一般に、作品の時代設定が、現代なのか、作者が子どもの頃なのか、はっきりさせた方がいいと思います。
 もしはっきりさせないのなら、子どもたちの普遍的な部分だけを描いて安易に特定の時代の風俗を出さないように注意する必要があります。
 一般的は分かりやすい文章を心がけるべきですが、凝った表現を使いたい場合にはねらいをはっきりさせてその効果を最大限に発揮できるよう配慮するべきです。
 そして、説明的な文章はできるだけ排除する必要があります。
 同人誌の合評会に、長編の冒頭部分だけを出す場合は、全体の構想が説明できるようになってからにしましょう。
 児童文学作品にはスピードが必要です。
 状況設定などはできるだけ手短に済ませて、なるべく書きたい中心に移った方がいいでしょう。
 読者に作品を読んでもらうには、文章の質が安定していることが重要です。
 エブリデイマジックのファンタジー作品を書く場合には、不思議なことが起こっているのにそれを不思議がらないのを徹底させるべきでしょう。
 また、その世界の時代設定をいつにするのか明確にした方がいいでしょう。
 合評会に依頼原稿の草稿を出すときには、原稿の条件(枚数、グレード、テーマ、題材など)を事前に明確にした方が、的確なアドバイスが得られます。
 作品に登場人物や動物などへの愛情が感じられると、読み味が良くなります。
 大人の視点で書いた作品でも、子どもの頃の回想シーンを子どもの視点で描けば、児童文学になるでしょう。
 また、二重視点の効果で、対象がより立体的にとらえられます。
 自分の体験だけを書いたのでは、よくあるエピソードでは、作品として弱くなります。三十年前には評価されていた児童文学のタブー(死、離婚、性など)を破った作品も、現代ではそれらが日常化しているので、新しい視点(たんに離婚だけでなくシングルマザーの問題を取り上げるなど)を取り入れないと古く感じられてしまいます。
 通信系の風俗はどんどん変わっているので、作品に取り入れるのは要注意です。
 たとえば現代の都会の小学生(特に高学年の女子)は、大半が携帯を持っていますが、それはすべてスマホに変わってしまうでしょう。
 また、公衆電話はひところはすっかり姿を消しましたが、震災時の携帯電話の脆弱性により、緊急時の通信手段として復活しつつあります。
 児童文学もやはり文学作品なので、基本的には文章や描写の美しさは、大きな魅力です。
 イメージが鮮明であれば、短い作品でも強く印象に残ります。
 また、短編ではラストがわかりやすいと、読んだ後の余韻が残ります。

児童文学の書き方
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ポプラ社


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藤田のぼる「現代児童文学史ノート その五 児童文学の八十年代」日本児童文学2013年9-10月号

2018-05-22 09:15:17 | 参考文献
 著者は、現代児童文学を三期に分け、60年代、70年代を第一期、80年代から2000年代後半までを第二期、そして、それ以降を第三期としています。
 1980年ごろに現代児童文学に変曲点があったことは通説で、私も自分の体感としてそれに同意していることは他の記事にも書きました。
 著者は、この時期の児童文学研究の代表的な研究者である宮川健郎、石井直人、佐藤宗子の意見を引用して、彼らが指摘した事象に加えて以下のように述べています。
「僕が一九八〇年あたりを「第二期」の始まりとするのは、宮川や佐藤の捉え方と重なりつつも、それらは「一つの側面」というふうにみる。『ぼくらは海へ」も含めて、作品そのもので第二期の始まりとするのには無理がある。僕は、第二期というのは、作品そのものが変化した(もちろん、それもあるが)というより、児童文学の枠組み、あるいは位置づけ、読まれ方が変わったところに、その変化の本質があると考える。枠組みというところから比喩的にいうならば、第一期(六〜七〇年代)の児童文学が「単線」だったのに対して、第二期の児童文学は「複線」になったのだ。急行もあれば各駅もあり、一方で特急もある。そのどれかだけで児童文学を語ることは無理になったのだといえよう。また、位置づけ、読まれ方という点からみれば、(かなりに乱暴な括り方ではあるが)第一期において児童文学は言わば「人生の教科書」的な存在として意識されていたが、第二期以降はもはやそうしたあり方ではなくなった、というふうに捉えることができると思う。」
 著者は、ここでいう複線化の要因として、エンターテインメント路線(那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズ、矢玉四朗「はれときどきぶた」など)とそのシリーズ化(注:このことは別の記事でも書きましたが、単線型の成長物語から複線型の遍歴物語への変化を意味しています)をまずあげています。
 次に、児童文学の小説化を指摘して、従来の物語重視からより小説的に描写を重視するような作品(舟崎靖子「とべないカラスととばないカラス」、加藤多一「草原―ぼくと子っこ牛の大地」など)の登場を指摘しています。
 最後に、「「他者としての子ども」」をモチーフの中心におこうとする創作態度」をあげて、その代表的な作家として岡田淳をあげています。
 これは、従来の作家が自分の子ども時代の体験をベースに創作していたのに対して、作者が大人として接した子どもたちを「他者」として捉えていこうとしているとしています。
 そして、子どもたちの児童文学の読まれ方が、かつてのように絶対的な(教科書的な)ものとしてではなく、一種のシミュレーションとして作者と読者の約束事になっていると指摘しています。
 全体として、八十年代の児童文学の多様化について概観していますが、例によって引用が多く、著者の意見がよく見えません。
 また、現象としてそのようなことが起こったことは分かるのですが、それがなぜ起こったのかについては言及していなくて、ここでも現象の後追いにとどまっています。
 やはり、社会全体の動きや、子どもを取り巻く環境の変化、児童文学ビジネスの変容などについて考察しないと物足りません。
 私見を少し述べると、階級闘争の敗北による社会主義リアリズムの退潮、学歴社会への子どもたちの疑念(「いい学校」に入れば「いい会社」に入れて「いい人生」をおくれるというかつての日本のメリトクラシー(業績主義)が機能不全をおこし始めている)、児童文学出版ビジネスの確立による作品生成の効率化(シリーズ化、軽装版など)などが、八十年代の児童文学の多様化(出版バブルとも言えます)の背景にあったと思われます。

日本児童文学 2013年 10月号 [雑誌]
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小峰書店
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創作と推敲

2018-05-21 17:21:42 | 考察
 創作において、作品を書き終わった時が完成ではありません。
 その時点では、作品はまだ第一校にすぎず、決定稿ではないからです。
 そこからの作業が推敲になるわけですが、私の所属している同人誌の同人の一人は、「第一校を書きあげてから百回は読み直す」と語っていました。
 すべての人にそこまでは求めませんが、自分が「これ以上直すところはない」と確信するまでは推敲をすべきでしょう。
 間違っても、合評会への作品提出締め切りぎりぎりに第一校を書きあげて、そのまま提出するようなことは戒めなければなりません。
 
文章添削の教科書
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芸術新聞社



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女と男の名誉

2018-05-20 08:47:16 | 映画
 殺し屋同士ののカップルのお話です。
 荒唐無稽な設定、偶然の多用、デフォルメされた人物像など、典型的なエンターテインメントなのですが、ジャック・ニコルソンをはじめとした名優たちの重厚な演技が、作品に格調をもたらしています。
 中でも、カップルに嫉妬して二人の破局を画策する主人公の幼馴染を演じたアンジェリカ・ヒューストンの怪演は、アカデミー賞助演女優賞に輝いたのもうなずけるものでした。
 児童文学の世界でも、これぐらいキャラのたった登場人物が描ければ、面白いエンターテインメントになるでしょう。

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角川映画
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最上一平「あしたもチャーシューメン」

2018-05-19 16:54:23 | 作品論
 一年生の女の子を主人公にして、クラスのみんなの様子を描く連作の最新作です。
 今回は、両足を骨折して車いすで登校している男の子を世話する係のお話です。
 大事な役目に対する緊張感、誇らしさ、やり遂げた時の達成感などが、いろいろなエピソードを通して鮮やかに描かれています。
 主人公だけの話にしないで、全員(車いすの男の子も縄を回す係で参加しています)で跳ぶ大縄跳びのエピソードをクライマックスに持ってきて、クラス全体の物語にした点が特に優れています。 

あしたもチャーシューメン
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新日本出版社
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藤田のぼる「現代児童文学史ノート その四 七十年代児童文学の諸相」日本児童文学2013年7-8月号

2018-05-19 09:02:40 | 参考文献
 今回も七十年代の代表的な作品のあらすじに多くの紙数を割いたために、著者の考察は非常に限られたものになってしまいました。
 紹介された作品は、砂田弘「さらばハイウェイ」、安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」、神沢利子「いないいないばあや」(その記事を参照してください)、皿海達哉「なかまはずれ町はずれ」、さとうまきこ「絵にかくとへんな家」です。
 著者の考えをまとめると、六十年代の児童文学が「子どもという存在に未来に向けた「希望」というシンボルとして捉える」事が多かったのに対して、七十年代の児童文学は「子どもという存在が(私の)「原点」」と捉えているとしています。
 六十年代の出発世代がこの時期に自分の子ども時代を書きだした理由として、「軍国少年少女」であった彼らがその時代を書くことが、当時を肯定的に捉えているのではないかと思われることを恐れていたのではないかと推測しています。
 それに対して、戦後生まれの団塊世代(著者と同世代)や少し上の戦争の記憶がない世代は初めから「自分の子ども時代」を書くことに抵抗がなかったのです。
 また、著者は、七十年代の児童文学の特徴として「同時代性」をあげていますが、これは六十年代の児童文学にもあったことで、ただ描かれ方が違ってきた(六十年代は社会主義リアリズムによって同時代を捉えることが多かった)だけでしょう。
 以上のようにこの論文では、七十年代の代表作とその特徴についての共通理解をまとめていますが、これだけでは現象(創作)の後追いにすぎないのではないでしょうか。
 なぜ、このような作品群が生まれたかの著者なりの考察がもっと欲しかったです。
 この問題について私見を述べると、七十年安保の挫折を経て、六十年代に多く生みだされた社会主義リアリズム作品(山中恒「赤毛のポチ」や古田足日「宿題ひきうけ株式会社」など)が低調になり(後藤竜二や古田足日などは書き続けていましたが)、七十年代には新しい私小説的児童文学作品が生まれてきました。
 その背景としては、高度成長時代を経て近代的不幸(戦争、飢餓、貧困など)を克服した日本人(当然、児童文学作家たちも含まれます)が、現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さなど)に初めて直面し、いわゆる「自分さがし」へ回帰していったものと思われます。
 「社会の変革」よりも「自分の変革」を志向したいわゆる「成長物語」が、この時期多く書かれ、子どもたちにも受け入れられました。
 また、高度成長の影響で児童文学ビジネスが成立するようになったことで、多様な児童文学が出版される状況が整ってきたこともあげられるでしょう。
 当時の小中学生の読書調査を見てみると、偉人の伝記やいわゆる「世界名作」が上位を占めていて、子どもの読書においては「教養主義」が生き残っていたようです。
 当時は、少年(少女)漫画週刊誌やテレビの子ども向けアニメ番組が全盛期で、子どもたちは、娯楽は漫画雑誌やテレビアニメに求め、「児童文学」にはより教育的なものを求めていたのでしょう。
 このように、書き手側の事情と読み手側の事情が一致して、七十年代は「現代(創作)児童文学」が初めて同時代の子どもたちに広く読まれるようになりました。
 書き手の子ども時代の話を、読者は伝記を読むように受容していたのかもしれません。
 ただ、同時代性という点では、作者(大人)たちと子どもたちではまだずれがあったように思われます。
 大人である書き手は、大学の大衆化、社会改革の行き詰まりなどにより、すでに前述した「現代的不幸」に直面していましたが、読者である子どもたちがこれらに直面するのは、大人たちがバブル景気に浮かれる八十年代に入ってからです(もちろん早熟な子どもはいつの時代にもいるので、児童文学作家の森忠明などは、彼の自伝的作品をみるとすでに五十年代に「現代的不幸」に直面していたようです)。
 また、七十年代後半の児童文学の動きで忘れていけないのが、漫画的キャラクターの活躍するエンターテインメントの誕生(例えば、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズは1978年にスタートしています)でしょう。
 このことは、八十年代以降の「現代児童文学」の多様化と衰退に大きな影響を与えました。

日本児童文学 2013年 08月号 [雑誌]
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