現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

恋する惑星

2024-09-30 08:32:13 | 映画

 1994年に公開されて、一躍、監督のウォン・カーウァイを有名(特に日本で)にした非常にスタイリッシュな映画です。
 失恋した二人の警官の、それぞれの新しい出会いを、疾走するカメラワークとしゃれた会話(モノローグも含む)で、香港の猥雑だが魅力的な雰囲気の中で描いています。
 トニー・レオン、フェイ・ウォン、金城武たちの若々しい魅力が全編に溢れています。
 バックに流れるママス・アンド・パパスの「夢のカリフォルニア」やクランベリーズの「ドリームス」(作品中ではフェイ・ウォンがカバーしていますが、これもまた魅力的です)などが、作品の雰囲気によくマッチしていて気分を高揚させてくれます。

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KADOKAWA / 角川書店
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ジョン・マクレガー「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」

2024-09-29 08:30:53 | 参考文献

 アウトサイダー・アートの中でも特に巨大な存在である、ヘンリー・ダーガーの「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ‐アンジェリニアン戦争の嵐の物語」に関するジョン・マクレガーの解説や論文を、訳者の小出由紀子が再構成したものです。
 なにしろ著者によると、世界最長の物語(タイプライターで清書された1万5145ページの及ぶ原稿と、最長4メートル近くの巨大な数百枚の挿絵)で一生かかっても解読できないであろう大作なので、ごく一部を紹介するにとどまっています。
 その内容は、子供奴隷たち(すべて女の子)を悪の大人グランデリニアンから解放する戦争における、七人姉妹の少女(幼女)戦士ヴィヴィアン・ガールズの冒険が描かれています。
 挿絵に描かれているヴィヴィアン・ガールズは、当時の雑誌などに載っていた少女(幼女)絵そのものです(実際にダーガーは、雑誌に載っていたそれらの絵を、写真屋で引き伸ばしてもらい、それをトレースして彩色加筆しています。経済的に貧窮していてめったに引き伸ばしができなかったので、同じ少女絵をいろいろな挿絵の中で使いまわしています)。
 初めは、無邪気な少女趣味な絵が多かったのですが、時がたつにつれて、次第に残虐でグロテスクな絵が増えていきます。
 ダーガーは敬虔なカトリック教徒だったのですが、次第に信仰に疑念が生じてきたことからこのような変化が生じたようです。
 こうした異常ともいえる長大な絵物語の製作は、19歳ごろから81歳で亡くなる直前までの60年以上にわたって続けられました。
 この絵物語は、彼の死後に遺品を整理しようとした大家によって発見され、幸いにもその人が芸術に深い理解があったため、奇跡的に救出されて世間の注目を浴びることになります(彼の住んでいた部屋もそのまま保存されています)。
 こうした創作活動は、彼の文字通りの孤独(3歳の時に出産時の感染症のために母親と死別し、その原因となった妹はそのままどこかにもらわれていき、彼が生まれた時にすでに年老いていた父が健康を害したために8歳でカトリックの児童施設へいき、さらにそこから精神薄弱児施設に移り、17歳の時にそこを脱走して生まれ故郷のシカゴに戻り、71歳まで社会の最下層の労働をし、その後は社会保障で暮らしていましたが、その間一人の友人も親類もいませんでした)の中で、彼のいうところの「非現実の王国」を作り上げるためにささげられていました。
 彼の芸術的才能はその間に全くの独学で開花していくのですが、一人芝居(声色を使って、空想の男女の訪問者と会話をする)、物語の創作(南北戦争に影響を受けていると思われる壮大な架空の戦争を、物語あるいはルポルタージュ風に書き上げているようですが、この本ではほんの断片が紹介されているだけです)、膨大で長大な挿絵群(彼の絵画的才能は、主にトレーシング、ドローイング、カラーリング、構成、コラージュなどに発揮されているようです)として、結実していきます。
 その世界には、出産のために亡くなった母親、生き別れた妹のイメージが、繰り返し投影されているようです。
 先ほども書きましたが、ダーガーの挿絵群は、初めは無邪気なものが多かったのですが、次第に残虐なシーンが増えていきます。
 残虐なシーンは、ここで書くのがはばかれるぐらいグロテスクなのですが、もっと衝撃を受けたのはそこに出てくるおびただしい子供奴隷たち(女の子ばかりです)の裸の股間に男性の性器が非常に簡単な筆致で描かれていることでした。
 それらを見たときは、性的倒錯ないしはユニセックスを意味するのかと思ったのですが、著者の説明はもっとショッキングで、ダーガーは男女の違いを知らないので女の子も自分の子どものころと同じだと思ってそのように描いたというのです。
 確かに非常に簡単化して描かれているので、ダーガーにとっては性的な意味はほとんどなかったのでしょう。
 父親と暮らした時代及び児童施設時代は、彼は普通の教育を受けていて成績も悪くありませんでした。
 しかし、感情面で問題があって(クレイジーというあだ名でした)、精神遅滞児の施設に移ってからは、ほとんど教育を受けていなかったようです。
 そこから脱出してからは、他人とはほとんど交流せずに、五十年以上単純労働(病院の皿洗いなど)をし、働けなくなってからは社会保障により、一人アパートでひっそりと暮らしていました。
 情報源といえば、ラジオとゴミ捨て場から拾ってくる新聞や雑誌だけでした。
 そうした外部からほとんど遮断された生活が、彼の作品世界をどんどん歪ませていったのでしょう。
 誰一人読者も観客もいない、いや想定すらしない、自分とおそらく神だけのための創作活動に、六十年以上も彼を駆り立てていたのは、おそらく創作者の誰もが経験する自己陶酔感だったのではないでしょうか。
 しかし、その陶酔は、ダーガーに天国だけでなく地獄までもたらしてしまったようです。

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で
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作品社
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水間千恵「秘密のキスの行方――映画「ピーター・パン」(2003)について」

2024-09-27 08:50:21 | 参考情報

 日本児童文学学会の第51回研究大会で、発表された研究発表です。
 映像化が、原作のある面に光を当てることを、分析していきます。
 「ピーター・パン」(その記事を読んでください)は、ジェームズ・マシュー・バリーによって書かれて1904年に初演された戯曲で、その後、小説化もされ、何度も映画化されている児童文学の古典です。
 2003年に作られたアメリカの実写版の映画は、私は未見ですが、原作に忠実に作ったと監督が公言しているそうです。
 発表者は、「秘密のキスは何か?」と「フックはなぜ空を飛ぶか?」の二つのなぞに着目して、原作と映画の関係について考察しています。
 まず、「秘密のキスは何か?」についてですが、「秘密のキス」はウェンディのほほに時々現れるキスマークのことです。
 発表者は、「「秘密のキス」は大人の女性の証」だといいます。
 そして、ネバーランドでウェンディだけが個室を持つのも、大人になる象徴であるとします。
 この映画では、「全体が冒険的な少女の話として作られている」とされます。
 その中で、「秘密のキスが妖精を信じるという意味を持つ」と分析します。
 映画では、「冒険物から恋愛物への変化がみられる。戯曲よりも小説のほうが、女性の感情が強調されている。映画は成人女性の語り手を用いることによって、バリーの女性に対する冷ややかな視線から解放している。」と解説します。
 そして、最後にウェンディがピーターに秘密のキスを与えてピンチを救うシーンは、「男性のしまいこまれた夢をピーターが象徴していて、それを大人になった女性であるウェンディが認めていることを象徴している。」と位置づけます。
 「フックはなぜ空を飛ぶか?」については、「ネバーランドの夢の対象にフックも含まれている。フックもピーターと同様に大人にならないので空を飛ぶ。」と説明しています。
 全体としては、「この映画では常に女性視線で見ているところが特徴だ」としています。
 簡潔で要を得ていて、プロジェクターなども活用した上手なプレゼンテーションでした。
 質疑の時間に、「原作から百年以上たっているが、ジェンダー観の変化はどうか?」と尋ねてみました。
「この映画では、原作に忠実ということもありますが、ジェンダーに関する考え方は、原作とあまり変わっておらず、男性を助けて家庭を守る女性が肯定されている。これは、アメリカにおける家族の見直しなどのジェンダーに対する揺り戻しがあるからだろう。1950年代のアニメ版では、女性の自立が描かれていた。しかし、この映画では、男性のジェンダー観が巧みに隠蔽されている。」と、発表者は答えていました。
 このジェンダー観の揺り戻しは、新就職氷河期の日本でも起きて、過酷な就職活動を経験した若い女性の間で専業主婦志向が増加していました(現在は、就職状況が好転しているので、専業主婦志向は減っています)。
 そのため、そういった女性は、結婚相手の条件として年収600万円以上をあげていますが、そんな収入のある20代、30代の男性は当時4%しかいなくて、その結果、未婚率の上昇、晩婚化、少子化などが深刻化しました。
 このようなジェンダー観の揺り戻しを助長するかのような小説(例えば中脇初枝の「きみはいい子」など」も若い女性の中で人気がありましたが、そのような反動的なオールド・スキーム(古い仕組み)からパラダイム・シフトして、男女が対等に仕事も、家事や育児もこなすニュー・スキーム(新しい仕組み)になるように、政治を社会も人びとも努力しなければ、今日の経済格差、世代間格差、貧困、少子化などの問題は解決しないと思います。
 私の子どもたちの周辺を見ていると、現在の若いカップルはその方向に進みつつあるようです。

女になった海賊と大人にならない子どもたち―ロビンソン変形譚のゆくえ
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玉川大学出版部
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翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~

2024-09-26 09:23:35 | 映画

 2023年公開のパロディー映画の第二作です。

 今度は、舞台を関西に移して、権力者を東京の代わりに大阪に、ディスられるのが埼玉の代わりに滋賀に設定されています。

 相変わらず強引な展開なのですが、そこそこ楽しめます。

 オリジナルメンバーのGACKTや二階堂ふみ(あまり登場しませんが)などに加えて、杏、片岡愛之助、藤原紀香などの面々が、大真面目にパロディを演じていて、楽しいです。

 

 

 

 

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鈴木晋一「新美南吉」子どもと文学所収

2024-09-25 08:57:47 | 参考文献

 著者は、現在(現代児童文学がスタートする前の1950年代)までの日本の児童文学者において、南吉を宮沢賢治につぐ存在だと高く評価しています。
 この評価のおかげもあってか、南吉は再評価されることになり広く読まれることになります。
 それから約六十年たった今でも、賢治ほどではありませんが、南吉の作品も多くの読者に読まれています。
 また、南吉の作品は、多くの追随作、模倣作を、今に至るまで生み出し続けています。
 賢治の作品をまねるのはとても無理でも、南吉のような作品だったら書けるかもしれないと、多くの初心者が思うのかもしれません。
 それは、南吉の作品が、身近な題材を比較的平易な言葉で描き出しているからでしょう。
 著者は、南吉のそれほど多くない作品を、心理型(少年の心理をほりさげるのに重点を置いた作品)とストーリー型(ストーリーの起伏や展開に重点を置いた作品)に分類しています。
 著者は、それまで南吉を世に出した巽聖歌たちに高く評価されていた心理型ではなく、ストーリー型の作品を高く評価しています。
 それは、「おもしろく、はっきりわかりやすく」を標榜する「子どもと文学」の立場では当然のことですが、最後まで彼のストーリーのどんな点が優れているかがはっきりしません。
 いくつかの作品のあらすじを紹介していますが、評価しているのは登場人物(動物)のキャラクターだったり、「描き方がしっかりしている」、「文章のたくみさ」、「意表を突く」、「奇抜」といった抽象的なものばかりだったりして、肝心の物語構造に言及していません。
 しいて言えば、「人生の中にふくまれているモラルとか、ユーモアとかいうものを事件として組み立て、外がわから描き出せる人でした。」という最後に書かれた南吉への評価ですが、これは南吉が(事件を外側から描き出せる)ストーリーテラーであるだけでなく、心理型で少年の心理をほりさげたように、人間や社会というものの内側をほりさげる能力を持っていたからではないでしょうか。
 そして、それこそが、南吉の作品が「文学性の高さ」を持っていた理由だと思われます。
 この論文が、いたずらに表面的なストーリーテリングの能力を強調し、南吉のもう一つの優れた一面である心理型の作品を生み出す能力を無視したために、登場人物や社会の内側を掘り下げない、南吉作品の安易な追随作、模倣作が量産されるようになったのでしょう。

子どもと文学
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福音館書店
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翔んで埼玉

2024-09-24 09:05:00 | 映画

 2019年に公開されたパロディ映画です。
 1982年から1983年にかけて、「花とゆめ」の別冊に連載された、パタリロで有名な魔夜峰央のパロディ漫画を実写化しました。
 埼玉を徹底的にディスることで、逆に埼玉愛を喚起するとともに、極端な東京集中の現代日本を強烈に風刺しています。
 原作がベルばら調をデフォルメしたタッチなので、映画は宝塚調をデフォルメしています。
 二階堂ふみ、GACKT、伊勢谷友介などの人気タレントが、真面目に馬鹿馬鹿しいシーンを熱演しているだけでも結構おかしいのですが、現代の埼玉県民がこの話を都市伝説としてNAC5で聴いているという設定や、GACKTならではの格付けのシーンなどの映画オリジナルシーンも良くできています。
 しかし、日本アカデミー賞の優秀作品賞を受賞するほどの作品なのかというと、少々疑問も感じます。
 それだけ、現在の日本映画には、賞に値するような作品が少ないということなのでしょうか。

翔んで埼玉
徳永友一,若松央樹,古郡真也
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PERFECT DAYS

2024-09-23 08:39:06 | 映画

2023年公開の日本・ドイツ合作の映画です。

役所広司演じる、東京の公衆トイレの掃除人の日常を描いた作品です。

小津安二郎を尊敬するヴィム・ヴェンダース監督らしく、淡々と日常を描く中に、人生の哀歓を浮かび上がらせます。

主人公はスカイツリーの近くの古い木造アパートで暮らし、テレビ、冷蔵庫、洗濯機といった電気製品はありません。

起床、朝のルーチン、車の中でのカセットテープによる古い洋楽、渋谷区の公衆トイレでの丁寧な仕事、神社の境内でのサンドウィッチの昼食、白黒のフィルムカメラでの撮影、仕事終わりの銭湯、浅草の地下街の大衆酒場での一杯、古本屋で買った文庫本による読書、就寝などが毎日繰り返されます。

休日は、部屋の掃除やコインランドリーでの洗濯や居酒屋(どうもここの女将が好きなようです)ですごします。

こうした主人公に、調子のいい後輩の男、後輩が通い詰めているガールズ・バーの女、踊るホームレスの老人、家出してきた姪、その母親(主人公の妹)、居酒屋の女将、女将の元夫(癌に侵されている)などの個性的な人物たちが関わってきます。

これらを、柄本時生、田中泯(当然ですが、踊りがうますぎるのが難です)、石川さゆり(当然ですが、歌がうますぎるのが難です)、三浦友和などの芸達者たちが演じています。

とはいっても、この映画は、役所広司による一人芝居といった趣で、セリフは極端に少ないのですが、表情や身振りで雄弁に主人公の人生を語っていて、カンヌ映画祭主演男優賞を受賞したのも当然といった感じです。

 

 

 

 

 

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最上一平「ようかいばあちゃんちのおおまがどき」

2024-09-21 09:33:00 | 作品論

山の中で一人で暮らすようかいばあちゃん(不思議なことを起こすので主人公はそう呼んでいます)とひ孫のすみれちゃんとの触れ合いを描いたシリーズの五作目です。

すみれちゃんは、時々おとうさんの車でようかいばあちゃんの家に来て一晩だけお泊りします(おとうさんはすみれちゃんをおろすとすぐに帰ってしまい、翌日迎えに来ます)。

今回も、すみれちゃんはようかいばあちゃんとの山の暮らしを満喫し、不思議なことも起こります。

特に、おおまがどき(夕暮れ時で不思議なものに出会うとき)には、不思議で素敵な音楽会を体験します。

現代では関係が薄れてきている、老人と子どもの触れ合いを、今回も鮮やかに描いています。

作者は、2024年度の小学館児童出版文化賞を、「じゅげむの夏」で受賞しました。四十年以上も同人誌を一緒にやっている仲間としてはこんなにうれしいことはありません。

 

 

 

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渡辺茂男「子どもの文学とは?(前半)」子どもと文学所収

2024-09-20 08:33:58 | 参考文献

 石井桃子と分担する形で、この大きな命題を担当しています。
 著者は、以下の小見出しの部分を執筆しています。
「ちびくろ・さんぼ」
「いちばん幼いときに」
「お話の年齢」
「昔話の形式」
「子どもの文学で重要な点は何か?」
 「子どもと文学」の中で、最も突っ込みどころが満載で、出版当時もいろいろな批判を浴びましたし、後年になってその視野の狭さやここで述べた内容が技術論に偏っていたことによる現代児童文学(特に幼年文学)に与えた悪い影響も指摘されました。
 著者を個人攻撃するつもりはありませんので、フェアになるように著者について簡単に紹介いたします。
 著者は、後年、私の大好きな「ミス・ビアンカ」シリーズや「エルマーの冒険」シリーズを初めとした魅力的な英米文学をたくさん翻訳し、「寺町三丁目十一番地」という優れた作品も創作し、慶応大学教授として図書館学を中心に後進の教育にもあたった児童文学者です。
 しかし、この文章を書いたときは、アメリカでの留学と図書館での実習から帰国したばかりで、「子どもと文学」を作った「ISUMI会」にも途中から参加しています。
 メンバーの中では一番若く、途中参加で日本の児童文学にも疎かった(逆に当時のアメリカの図書館の強い影響下にあった)と思われる青年に、この一番肝ともいえる部分(あるいはそう考えていなくて、「子どもの文学で重要な点は何か?」という命題自体を軽視していたのかもしれません)執筆させたのですから、文責はメンバー全体にあると考えていいでしょう。
 そして、そのことが、「英米児童文学」(かれらは欧米と書いていますがほとんどイギリスとアメリカだけです)の強い影響と、それを日本の児童文学にダイレクトに適用する限界を示しているのかもしれません。
 また、以下に、内容に含まれている差別やコンプレックスや偏見を指摘していますが、それは著者や他のメンバーたちが特に差別主義者であったかとか、視野が狭かったかということではなく、当時の日本人の一般的な(というよりはやや進歩的な人たちだったからかもしれません)考えがそうだったということだと思われます。

「ちびくろ・さんぼ」
 この作品自体が、黒人差別だということで、現在はほとんど絶版になっています。
 この問題については、それだけで本になっています(詳しい内容やこの問題に対する私の意見については、それに関する記事を参照してください)。
 まず、この本がイギリスやアメリカで「三びきのクマ」や「シンデレラ」などと並ぶほどの名士になっていると書いていますが、著者は黒人の子ども読者がこの作品をどのように読んでいるかは無視しているのではないかとの疑念がわいてきます。
 次に「ちびくろ・さんぼ」の内容を説明していますが、それらについては関連の記事を参照してください。
 最後に、病院での実験(五冊の本の反応を比較する)を紹介し、この本が一番「子どもが気にいった」として、その理由として「登場人物の心理、倫理性、教訓性など、抽象的な要素は弱く、具体性、行動性、リズム、スリル、素材の親近性、明るさ、ユーモアなどの要素が強い」としています。
 まず、このような「子どもが気にいった」という評価基準を、あたかも優れた児童文学の基準であるかのようにする書き方は問題が多いと思われます。
 例えば、子どもに、「コーラと、フルーツジュースと、野菜ジュースと、牛乳と、水」を与えて、「どれが気にいった」かで優れた飲料を決めるようなものです。
 この例が極端だとすれば、「ゲームと、アニメのDVDと、コミックスと、図鑑と、児童書」でも構いません。
 子どもたちにとっての、その時の状況や目的によって、「どれが気にいった」かなどは変わるものであり、絶対的なものではありませんし、多数決で決めるものでもありません。
 また、「登場人物の心理、倫理性、教訓性など、抽象的な要素」は、子どもの本にはまったくいらないのではないかとのミスリードを起こして、子どもの本の範囲を不必要に限定してしまう恐れがあります(現に多くの後進の作家(特に幼年文学)に悪い影響を与えました)。

「いちばん幼いときに」
 ここに書かれていることはおおむね正論なのですが、当時の日本の児童文学の問題点が具体的に書かれていないので、たんなるイギリスのマザーグースや日本のわらべ歌や昔話と比較しての批判だけになってしまっています。

「お話の年齢」
 題名とは関係なく、ふたたび、昔話のわかりやすさについて述べられているだけで、「お話の年齢」という題名に込められた著者の意図が不明です。

「昔話の形式」
 昔話の構造がモノレール構造で、「はじまりの部分」、「展開部」、「しめくくりの部分」で構成されていることが、ノルウェイの民話「三匹のやぎ(現在は「三びきのやきのがらがらどん」というタイトルで親しまれています)」を用いて詳しく説明しています。
 その分析は正論なのですが、それを「子どもの文学」全体にあてはめようとするのが無理なので、「幼年文学」と限定すればおおむねあてはまります。
 おそらく、この前の「お話の年齢」で、そのことをきちんと書けばよかったのでしょう。

「子どもの文学で重要な点は何か?」
 こんな書くのも恐ろしいような大テーマを、「素材とテーマ」、「プロット」「登場人物の描写」、「会話」、「文体(表現形式)」などに分けて、主に書き方について検討しています。
 このために、「子どもと文学」は、「技術主義偏重」「内容のないステレオタイプな作品(特に幼年文学)を量産した」と批判を受けました。
 「子どもと文学」全体では「子ども」の年齢を特に明示していないのですが、石井桃子の担当部分では「二歳から十二、三歳まで」と書かれているので、ケストナー(8歳から80歳)や宮沢賢治(アドレッセンス中庸、詳しくはその記事を参照してください)や現在の児童文学の定義(赤ちゃんからヤングアダルトまでの未成年者全体)と比べるとそれでもかなり狭い(特に上限が低い)ようです。
 著者の文章の対象年齢はさらに低く、現在で言えば「幼年文学」ならばあてはまることが多いようです。
 内容について、特に問題があると思われるのは、「素材とテーマ」の部分に集中しています。
「死であるとか、孤独であるとか、もののあわれを語ることがどんなに不適当なものであるかは、欧米の児童文学の歴史がはっきりと証明してくれます。」
 このことが、「現代児童文学」が人生や人間(子どもたちも含む)の負の面を取り扱うことをしなくなることにつながり、こうしたタブーが「現代児童文学」で破られるのは1970年代になってからでした(皮肉にも、海外ではこうしたタブーはこの文章が書かれた時にはすでになく、ハンガリーのモルナールが「主人公の死や彼が死を賭して守った空き地の喪失」を描いた「パール街の少年たち」を書いたのは1907年ですし、ドイツのケストナーが「両親の離婚」を描いた「ふたりのロッテ」(その記事を参照してください)を書いたのは1949年です(ただし、この作品はユーモラスなハッピーエンドなので、シリアスに描いた作品の嚆矢は、1966年(この文章よりは後ですが)に書かれたロシア(当時はソ連)のフロロフの「愛について」(その記事を参照してください)でしょう。こうしてみると、「子どもと文学」の視野が、欧米と称しつつ、いかに英米児童文学に限定されていたかがよくわかります)。
「悲惨な貧乏状態を克明に描写したものや、社会の不平等をなじったものも、(中略)ストーリ性のない観念的な読み物となっていることが多く、どうしても子どもたちをひきつけることはできません。」
 皮肉にも、「子どもと文学」が出版されたちょうど同じ年(1960年)に出版された山中恒「赤毛のポチ」は、「悲惨な貧乏状態を克明に描写したもの」で、なおかつ「社会の不平等をなじったもの」でしたが、「ストーリ性のない観念的な読み物」ではなかったので、大人読者だけでなく子ども読者にも広く読まれました(その後の社会主義的リアリズムの児童文学作品で「赤毛のポチ」を超える物は生まれませんでしたが、その可能性は否定されるべきものではありません)。
「時代によってかわるイデオロギーは ―たとえば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代には生まれましたが― それを
テーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い、幼い子どもたちにとって意味のないことです」
 この文章に対しては、児童文学研究者の石井直人が「現代児童文学の条件」(その記事を参照してください)という論文の中で、「プロレタリア児童文学は、子どもたちの「人生経験」の場に他ならない生活の過程をこそ思想化しようとしたのではなかったのか、また、イデオロギーではないはずの「古典的価値」が批判された(「ちびくろ・さんぼ」が人種差別と批判されたことを指します)ことは時代の変遷に関わらない思想などありえないことの証ではないのか」と、批判しました。
 この批判は至極もっともですし、さらに言えば、それまでの日本の児童文学の読者対象が中産階級以上の子どもたちに限られていたのを、労働者階級の子どもたちにも開放した「プロレタリア児童文学」の歴史的な意義を無視して批判していることで、「子どもと文学」のイメージしている「子ども」が、実は英米の中流家庭の子どものようなものであったことが、図らずも暴露されているように思われます。


子どもと文学
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石井桃子「子どもの文学とは?(後半)」子どもと文学所収

2024-09-19 09:00:27 | 参考文献

 著者の分担は、「ファンタジー」と「子どもたちは何を読んでいる?」です。
「ファンタジー」
 日本の児童文学にとって新しい概念であり、誤解をまねくことの多かったファンタジーについて紙数を使って説明しています。
 当時としては、もっともまとまったファンタジー論であり、今読んでも多くの示唆を含んでいます。
 まず、ファンタジーのおいたちとして、近代になって「子ども」という概念が発見されたことを、その起因の一つに挙げています。
 アリエスの「子どもの誕生」が翻訳され、柄谷行人の「児童の発見」が発表されたのは1980年で、その影響を受けて日本の児童文学の子ども像が変化したと主張する児童文学研究者は多いのですが(実際は、ほとんどすべての児童文学の書き手はそれらの著作を読んだことがないことは確信を持って言えるので、それとは無関係だと私は思っています。詳しくは関連する記事を参照してください)、その二十年も前に著者は同じ「子どもの発見」について述べています(アリエスの本は同じ1960年に出版されていますので、著者はそれをフランス語で読んだか、英訳がすぐに出ていてそれで読んだか、あるいはまったく別のところからの情報なのかは、残念ながらわかりません)。
 そして、子どもが尊重されるようになってから、一流の資質を持った作家や社会人が子どもの本を書くようになり、彼らの哲学をもるのに非現実の世界が向いているので、ファンタジーが生み出される原動力になったとしています。
 また、ファンタジーの定義として、リリアン・スミスの「児童文学論」に書かれている「「目に見えるようにすること」という意味のギリシャ語」を紹介し、日本では、辞書までが「とりとめのない想像」「幻想」「幻覚」「空想」「幻想」などとなっていて、誤解されているとしています(今でも、こういった基本的な定義も知らずに、「メルフェン」などとごっちゃにしている児童文学関係者はたくさんいます)。
 ファンタジーがなぜ「子どもの文学」に適しているかの理由として、まず、子どもは小さいときは「想像の世界と現実の境めを、毎日、なんのむりもなく、出たりはいったりしながら、大きくなっていきます」と、小さな子どもほど意識と無意識の世界が不分明であることをあげています(詳しくは本田和子の論文についての記事を参照してください)。
 そして、「その世界に身をおくことが、だんだんに少なくなり、すでに得た知識や、経験からくる判断力を武器にして現実にとりくむようになると、人間はおとなになります。」としています。
 そのため、「ファンタジーが、ファンタジーとしての最高の美しさ、高さに達することができるのは、子どもが子どもとして一番大きくなった一時期(彼女の定義では小学校高学年あたりを指していると思われますが、繰り返し書いていますが子ども読者の本に対する受容力が著しく低下している現在では、その年齢は中学生あたりだと思われます)を対象としたもの」とし、「それより一歩成長して、おとなになってしまえば、たいていの場合、その読者にとって、ファンタジーの魅力は失われます。」としています。
 ご存知のように、現在ではファンタジーの主な読者は、かつてのメインであった子どもや若い女性たちだけでなく、女性全体に広がっています。
 良く言えば「いつまでも子どもの心を失わない」女性が増えているということですし、悪く言えば「いつまでも精神的に成熟しない」女性が増えているせいかもしれません。
 これは、かつて女性の通過儀礼であった結婚、出産のタイミングが高年齢化し、さらに結婚も出産も生涯経験しない女性が増えていることも一因でしょう。
 著者は、ファンタジーの分類やいわゆる「通路」の問題にも触れていますが、今から見ると中途半端なものなので、論評は避けます。
 著者は「たとえ話」や「アレゴリー」に陥る危険性に触れながらも、表面的な面白さだけでなく、「表現も思想も、ファンタジーのなかで、子どもの文学で達しうるかぎりの高さに到達することができます」と、その可能性に期待しています。
 最後に、「今後の日本児童文学が、この方面(ファンタジーのこと)にもよい作品をどしどし生んでゆくことが熱望されます。」と締めくくっています。
 2008年にお亡くなりになった著者は、ファンタジー花盛りの現在の日本の児童文学の状況を喜んでおられることと思いますが、はたして著者の眼鏡にかなう「表現も思想も子どもの文学で達しうるかぎりの高さに到達した」作品がいくつあるかというと、いささか心もとない気もします。
 著者に限らず、「子どもと文学」のメンバーの日本の児童文学に対する最大の貢献は、優れたファンタジーの普及にあると思われます。
 石井桃子(ケネス・グレアム「たのしい川辺」、ミルン「クマのプーさん」などの翻訳)、瀬田貞二(トールキン「指輪物語」、「ホビットの冒険」などの翻訳)、渡辺茂男(マージェリー・シャープ「ミス・ビアンカ」シリーズ、ガネット「エルマーの冒険」シリーズなどの翻訳)、いぬいとみこ(「ながいながいペンギンの話」、「木かげの家の小人たち」などの創作)たちの本は、今でも子ども読者(大人読者も)に広く読まれていますし、松井直や鈴木晋一も出版や普及の面で大きな貢献をしました。

「子どもたちは何を読んでいる?」
 著者は、子どもたちがよく読んでいる本を、伝承文学と創作児童文学の両方について、年齢別、外来か日本か、に分けてリストアップしていますが、データの出所が不明(おそらく著者が1958年から主宰している私設の児童文庫の「かつら文庫」と思われます)ですし、定量的でないので、論評は避けます。
 ただし、少し古いデータですが、2011年の学校読者調査によると、小学校四年から六年までの男女のリストには、「伝記(これは昔も今も圧倒的に強いです)、ゾロリ・シリーズ(何冊も入っています)、ハリー・ポッター・シリーズ(これも何冊も入っています)、怪談物、児童文庫の書き下ろしのエンターテインメントシリーズ、大人の女性向けエンターテインメント(小学校六年の女子)が上位を占めていて、著者がリストアップしたような伝承文学やエンターテインメント以外の創作児童文学はほとんど姿を消しています(かろうじて「クマのプーさん」(ディズニーの影響でしょう)、モンゴメリー「赤毛のアン」シリーズ(母子で愛読しているのでしょうか)、森絵都「カラフル」(小学六年の男女)、あさのあつこ「バッテリー」(小学六年の男子)などが下位の方に入っています)。


子どもと文学
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福音館書店







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「物語中物語」と「メタ物語」について

2024-09-18 08:20:08 | 考察

 物語の中で別の物語が語られるというのは、昔話の世界のころからよく使われる手法ですが、そのこと自体を作品の中核に据えた作品というのはなかなか魅力的で、例えばブローディガンの「愛のゆくえ」(その記事を参照してください)という作品などが思い出されます。
 「愛のゆくえ」では、誰かが書いた世界に一冊しかない本を預かる図書館の館員が主人公で、さまざまな物語が、「愛のゆくえ」という物語の内部に持ち込まれます。
 ただし、この作品は、厳密な意味では児童文学ではありませんでした。
 評論や研究論文では、こういった作品を児童文学と一般文学の間の越境といいます。
 さて、最近の児童文学、特にライトノベルなどでは、「メタ物語」ということが話題に上ります。
 本来、物語の語り手と物語世界との位置関係は一対一であることが一般的です。
 語り手は物語世界の外から物語を語る場合が多いのですが、作品によっては物語世界の内部にいるものもあります。
 また、物語世界の中に、別の物語世界が入っている場合もあります。
 演劇でいうところの「劇中劇」に相当します。
 つまり、語り手の位置には次のような三つの種類があります。
1.物語世界外
 語り手は物語世界の外にいて、物語の中で登場人物として現れることはありません。
2.物語世界内
 語り手が物語世界の中で登場人物としての役割も持っている場合です。
 言い換えれば、登場人物が語り手の役も果たしています。
 このもっとも有名な例は、「千夜一夜物語」のシェヘラザードでしょう。
3.メタ物語世界
 2で述べた語り手によって語られる、いわば劇中劇の世界のことです。
 しかし、最近の作品では、これらの境界が侵犯されることがあります。
 例えば物語世界外の語り手が物語世界での出来事を語っている最中に、物語世界外の内容が描かれる場合があります。
 このように、最近の児童文学では、物語構造が複雑化しています。
 ただし、物語の起源をたどれば、物語の語り手(例えば古老など)が、昔話を語っている途中で自分の体験や現在の事を織り交ぜるなどの自由度はあったわけで、そういう意味では現在のライトノベルなどのポストモダンの物語は、近代小説から出発しつつもそれを飛び越えて先祖返りしているのかもしれません。

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)
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早川書房



物語構造分析の理論と技法―CM・アニメ・コミック分析を例として
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大学教育出版
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ロード・オブ・ザ・リング

2024-09-17 09:14:22 | 映画

 2001年に公開されたトールキンの指輪物語の実写版映画の第一部です。

 あの長大なファンタジーを、できるだけ原作に忠実に作ろうとした労作です。

 公開版も178分とすごく長いのですが、未公開部分を追加したエクステンデッド版で見直したのですが、なんと208分もあって、トールキンの世界観にどっぷりと浸ることができます。

 冥王サウロンが、自分の作ったすべての指輪を統べる魔力を持つ指輪を、再び手に入れようとしていることを知り、ホビット族のビルボ・バギンスが持つその指輪を処分する使命を持って、ビルボの甥のフロドが旅立ちます。

 エルフの森で開かれた会議によって、各種族の代表がモルドールの滅びの山まで廃棄しに行くことになります。

 この危険な「旅の仲間」は、ホビットのビルボ、サム、ピピン、メリー、人間のアラゴルン、ボロミア、ドワーフのギムリ、エルフのレゴラス(イケメンのオーランド・ブルームが演じて一躍人気スターになりました)、そして、魔法使いのガンダルフの合計9人です。

 様々な冒険をしますが、途中のモリアの坑道で、ガンダルフは悪鬼バルログと戦って行方不明になってしまいます。

 さらに、ウルク・ハイに率いられたオーク鬼の大群に襲われ、ピピンとメリーは拐われ、ボロミアは戦死してしまいます。

 その戦いのさなかに、フロドは仲間と離れて一人で滅びの山へ向かいますが、サムだけは後を追ってきて一緒に旅することになります。

 つまり、ロード・オブ・ザ・リングは三部作に渡る大長編なので、これからは、フロドの旅、メリーとピピンの救出、ガンダルフの復活などの物語を経て、大団円に至るのですが、第一部「旅の仲間」はここまでです。

 オリジナルの英語のタイトルでは、きちんと第一部のタイトルである「旅の仲間」が付いているのですが、日本語のタイトルではなぜか(おそらくわざと)削ってあります。

 それは、欧米とは違って、原作を読んでいない人が大半の日本の観客を欺こうという姑息な手段だったのかもしれません。

 そのため、公開時に見たときには、一番盛り上がったときのいきなりのエンディングに、戸惑いのどよめきが起こったのを覚えています。

 しかも、彼らが続きの「二つの塔」を見られたのは、一年以上経ってからなのです。

 それはともかく、映画の出来自体は素晴らしく、トールキンが作り出し、多くの追随者(一番わかりやすいのはドラクエでしょう)を生み出した「剣と魔法の世界」のオリジナル世界(トールキン自身も、欧米の神話や伝承を元にしていますが)は、ほぼ理想的な形で映画化されました。

 私が20歳のころ(1974年頃)に、実現してほしいけれど、生きている間は無理だろうなと思っていたことが2つありました。

 一つは日本のサッカー・ワールドカップ出場で、これは1998年のフランス・ワールドカップで実現(出場チームが24から32に水増しされていましたが)して、さらに2002年には日本で開催されました(これも韓国と共催という水増しですが)。

 もう一つが、トールキンの「指輪物語の映画化」でした。

 その時は、映画化されてもアニメだろうと思っていた(当時人気のあったファンタジー作品の「ウォーターシップダウンのうさぎたち」の一部分がアニメ化されたのですが、あまりいい出来ではありませんでした)のですが、CGの出現により実写版でこのように実現したのは、原作のファンとしては夢のようなことです。

 

 

 

 

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大江健三郎「静かな生活」静かな生活所収

2024-09-16 08:42:11 | 作品論

 20才の女子大生マーちゃんには、四才年上の知的障害者の兄イーヨーがいます。
 マーちゃんは、お嫁に行く時にはイーヨーも一緒に連れていかねばならないと、思いつめています。
 作家である父が外国の大学に招聘され、母も一緒に行くことになったので、マーちゃんが留守宅を守ることになります。
 イーヨーは成人に達しているので、身体的な性的反応を示すことがあります。
 そんな時、自宅の近くで連続して痴漢騒ぎがおこります。
 マーちゃんは、時々外出先から寄り道することがあるイーヨーがその犯人じゃないかと、心配しています。
 ところが、ひょんなことからマーちゃんは真犯人が少女を襲っているところに遭遇し、近所の人たちの助けを借りて犯人を捕まえます。
 ラストシーンで、イーヨーが寄り道するのは好きな音楽が聞こえてくる家のそばに寄っていたためだったことが判明して、マーちゃんは晴れ晴れした気分を味わいます。
 作者には、「二百年の子供」のような年少の読者を意識した作品もありますが、私は「静かな生活」の方がより児童文学に近いと考えています。
 マーちゃんは江国香織や吉本ばななの初期作品の主人公と同年輩ですし、イーヨーは知的障害者なので子どものようなところが多く、結果としてこの作品は若者や子どもたちを描いています。
 作者の他の作品と違って、マーちゃんの視点で書かれていて文章も平明なので、若い読者にも読みやすいと思います。
 両親の不在、父親が著名な作家であるために偏執的な人たちから受ける脅迫、精神障害者である兄への周囲の偏見などから、イーヨーと弟のオーちゃんとの三人の「静かな生活」を守るためにマーちゃんは頑張ります。
 確かに、この家は一般の障害者がいる家庭よりも、経済的には恵まれているでしょう。
 ご存知のように、イーヨーこと大江光は、その後、音楽家として世の中に認められます。
 それは、この家族の物心にわたる援助がなければ実現しなかったでしょう。
 いくら障害者本人に音楽的才能があっても、それを育む環境が与えられなかったら、十分に開花できなかったと思います。
 そういう点で、イーヨーは恵まれた「障害者」なのかもしれません。
 乙武洋匡の「五体不満足」を読んだ時にも、同じことを感じました。
 そういう点があったとしても、精神障害者の兄を持つ事を引き受けていくマーちゃんの決意は並大抵ではありません。
 特に、両親が年老いて、やがて亡くなることも見据えているのでしょう。
 イーヨーとの二人だけ(本当は弟のオーちゃんもいるのですが)になる日が来ることを意識しています。
 その時に、イーヨーとの「静かな生活」を守っていくことは大変に違いありません。
 もっとも、実際の大江健三郎の家族の場合には死後も遺族にある程度の印税が入り続けるでしょうから、経済的には心配はないかもしれませんが。
 障害者の家族の負担、障害者と健常者の共棲、思想信条の自由など、児童文学でももっと取り上げていかねばならないいろいろな問題を、この作品は内包していると思います。

 

静かな生活 (講談社文芸文庫)
クリエーター情報なし
講談社


 

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大石真「光る家 「眠れない子」第一章」児童文学 新しい潮流所収

2024-09-15 09:46:48 | 作品論

 1980年に雑誌「びわの実学校」100号に掲載され、断続的な連載の後に、書き改められて「眠れない子」(1990年)にまとめられた作品で、編者の宮川健郎によって転載されました。
 なぜか毎晩眠れなくなった(今で言えば、不眠症の一種の中途覚醒でしょう)主人公の四年生の男の子が、ふとしたことから家(スナック勤めのママと二人暮らしなので夜は誰もいません)を抜け出して、都会の街をさ迷い歩きます。
 深夜の街は人気がなくて、知らない街(世界に大戦争がおこって人類がほとんど死に絶えた後の街とか、宇宙のどこかにある宇宙人の街)のようでした。
 引き返そうとした時、主人公は明るく光った家を見つけます。
 そこは、眠れない人たちが集って明け方まで話をする家でした。
 玄関のところにいた女の人に招き入れられた家の中では、大勢の人たちが話をしていました。
 ほとんどが大人の人たちばかりでしたが、中に一人だけ同じ四年生の女の子がいて、主人公は彼女と話し始めます。
 普段は学校でもおしゃべりをしない主人公は、不思議なことにその女の子とならいくらでもおしゃべりができるのでした。
 そして、明け方になってその会がお開きになった時には、その女の子が好きになっていました。
 二人は、再会を約束して手を握り合いました。
 しかし、その後、毎晩のように深夜の街を探しても、その「光る家」を発見することはできませんでした。
 編者は、この章を「夜の都市にただよう孤独感を作品に定着させた例としては、(中略)ずいぶん早かったのだ。」として、児童文学研究者の石井直人が「いつも時代のすこしさきを歩いている」と大石真を評していたことを紹介しています。
 しかし、その後の解説は、「眠れない子」(野間児童文芸賞と日本児童文学者協会賞特別賞を受賞)全体の論評になってしまい、「光る家」の部分しか読んでいないこの本(「児童文学 新しい潮流」)の読者には不親切です。
 このような解説は、「眠れない子」全体に関する文章を発表する場で書くべきでしょう(実際に、どこかで使われた文章の使いまわしなのかもしれませんが)。
 ここでは、石井および編者が触れた大石が常に時代を先取りしていた「新しさ」について解説した方が、この本の趣旨に会っていたのではないでしょうか。
 以下に私見を述べます。
 他の記事にも書きましたが、1953年9月の童苑9号(早大童話会20周年記念号)に発表した「風信器」で、その年の日本児童文学者協会新人賞を受賞して、大石は児童文学界にデビューしました。
 この作品は、いい意味でも悪い意味でも非常に文学的な作品です(詳しくはその記事を参照してください)。
 おそらく1953年当時の児童文学界の主流で、「三種の神器」とまで言われていた小川未明、浜田広介、坪田譲治などの大家たちに、「有望な新人」として当時28歳だった大石は認められたのでしょう。
 しかし、ちょうど同じ1953年に、早大童話会の後輩たち(古田足日、鳥越信、神宮輝夫、山中恒など)が少年文学宣言(正確には「少年文学の旗の下に!」(その記事を参照してください))を発表し、それまでの「近代童話」を批判して、「現代児童文学」(定義などは他の記事を参照してください)を確立する原動力になった論争がスタートしています。
 「風信器」は、その中で彼らに否定されたジャンルのひとつである「生活童話」に属した作品だと思われます。
 「現代児童文学」の立場から言えば、「散文性に乏しい短編」であり、「子どもの読者が不在」で、「変革の意志に欠けている」といった、否定されるべき種類の作品だったのかもしれません。
 しかし、大石はそうした批判をも吸収して、その後は「現代児童文学」の大勢よりも、常に時代を先取りしたような重要な作品を次々に発表しています。
 まず、1965年に「チョコレート戦争」(その記事を参照してください)を発表して、エンターテインメント作品の先駆けになりました。
 この作品のビジネス的な成功(ベストセラーになりました)は、大石個人が編集者の仕事をやめて専業作家になれただけなく、児童文学がビジネスとして成り立つことを実証して、児童文学の商業化のきっかけになりました(日本の児童文学で最も成功したエンターテインメント・シリーズのひとつである、那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズがスタートしたのは1978年のことです)。
 次に、シリアスな作品においても、1969年に「教室203号」(その記事を参照してください)を発表して、「現代児童文学」のタブー(子どもの死、離婚、家出、性など)とされていたものを描いた先駆者になりました(その種の作品がたくさん発表されて、「現代児童文学の「タブーの崩壊」が議論されたのは、1978年ごろです)。
 ここで注目してほしいのが、1978年というタイミングです。
 児童文学研究者の石井直人は、「現代児童文学1978年変質説」を唱えています(それを代表する作品として、那須正幹「それいけズッコケ三人組」(エンターテインメント作品の台頭)と国松俊英「おかしな金曜日」(それまで現代児童文学でタブーとされていた離婚を取り扱った作品、その記事を参照してください)をあげています。)。
 他の記事にも書きましたが、これらの変質が起きた背景には、その時期までに児童文学がビジネスとして成り立つようになり、多様な作品が出版されるようになったことがあります。
 では、大石真は、なぜ時代に先行して、いつも新しい児童文学を発表することができたのでしょうか。
 もちろん、彼の先見性もあるでしょう。
 しかし、それだけではないように思われます。
 その理由は、すごくオーソドックスですし、作家の資質に関わる(これを言っては身もふたもないかもしれません)ことなのですが、大石真の作品を支える高い文学性(文章、描写、構成など)にあると思われます。
 そのために、つねに他の作家よりも作品の水準が高く(奇妙に聞こえるかもしれませんが、大石作品はどれも品がいいのです)、新しいタイプの作品でも出版することが可能だったのではないでしょうか(大石自身のように作家志望が多かった、当時の編集者や出版社を味方につけられたのでしょう)。
 そして、そのルーツは、彼の「現代児童文学」作品ではなく、デビュー作の「風信器」のような抒情性のある「生活童話」にあると考えています。

眠れない子 (わくわくライブラリー)
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椎名誠「銀座のカラス」

2024-09-14 08:58:09 | 参考文献

 「哀愁の町に霧が降るのだ」、「新橋烏森口青春篇」に続く自伝的青春小説で、前二作が主人公も含めて実名で書かれているのに対して、架空の登場人物(本人も含めて明らかにモデルがわかる人物もいますが)を使って書かれていて、文庫版の解説で目黒孝二が指摘しているようにフィクション度は一番高いです。
 百貨店関連の業界紙を発行している従業員15人ぐらいの小さな会社を舞台に、ひょんなことで月刊の薄い雑誌の編集長(初めは彼一人だけで途中から同い年の部下ができる)を務めることになった主人公の若者(23歳ぐらい)の奮闘を、友情や恋や酒や喧嘩などをからめて描いています。
 著者は1944年生まれなので、この作品の舞台は1960年代の終わりごろだと思われ、まだ自分や国の未来に希望が持てた幸福な高度成長時代のお話です。
 「何者」でもない自分が「何者」かになろう(この本の場合は、新しいもっと本格的な専門雑誌の立ち上げ)ともがくする姿が、もうそうした夢が過去のものになりかかっていたバブル崩壊後の若い読者(この本の発行は1991年)には、うらやましく感じられたことでしょう。
 この本では、作者の強みである若い頃の詳細な記憶をベースに、小説家としての成熟度が上がった段階の筆さばきで見事なフィクションに仕上がっています。

銀座のカラス
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朝日新聞社
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