現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学における童話的資質について

2024-06-06 08:37:57 | 考察

 このブログで繰り返し述べてきましたが、1950年代にスタートした「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)では散文性の獲得を目指していました。
 それは、小川未明たちの近代童話の詩的表現を批判するところからきています。
 そうした表現方法では、しっかりとした骨格を備えた長編の物語を描くことはできないことが主な理由でした。
 しかし、その後も、幼年文学を中心にして、童話は作られ続けています。
 幼年文学の中には、いぬいとみこ「長い長いペンギンの話」や神沢利子「くまの子ウーフ」(その記事を参照してください)のような、「現代児童文学」が目指した優れた散文性を備えた作品もありますが、多くは従来の童話の形式で書かれて、今でも幼年童話という言い方は幼年文学よりも一般的です。
 そうしたおびただしい数の幼年童話は玉石混交で、神宮輝夫や安藤美紀夫などが批判したようなステレオタイプな作品もたくさん含まれています(それらの記事を参照してください)。
 多くの駄作の中でキラリと光る宝石のような童話を書ける作者には、かつて古田足日が今西祐行の「はまひるがおの小さな海」を評して使った「童話的資質」というものが確かにあって、「子ども(人間)の深層に通ずる何かを持っている」のではないかと思わされます。
 古田先生は、童話的資質を持っている書き手として、他に山下明生、安房直子、舟崎靖子をあげていましたが、戦前の宮沢賢治、新見南吉、小川未明、浜田広介なども同様だと思われます。
 私自身には童話的資質が決定的に欠けているのですが、四十年以上も児童文学の同人誌に参加しているので、数はすごく少ないですが明らかに童話的資質に恵まれている人たちと出会っています。
 こうした書き手は、もちろん優れた散文も書けるのですが、その中に他人にはまねのできない詩的な表現をさりげなく紛れ込ませることができます。
 そして、童話的資質が力を発揮するのは、やはり長編よりも短編に多いようです。
 「現代児童文学」が生み出した優れた散文性を持った長編は主として子ども読者の「頭脳」に知的な刺激を与えたのに対して、童話的資質の持ち主が書いた短編は子ども読者の「心」に感性的な刺激を与えてくれたと思われます。

夕暮れのマグノリア
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過酷な現代においてユートピア童話が持つ意味

2024-01-31 08:37:13 | 考察

 児童文学には、ユートピア童話という分野があります。
 人間関係が濃密で、地域全体で子どもたちを育んでいるような環境を、作品の舞台にするのです。
 多くは高度成長時代やそれ以前といった時代設定、あるいは農村や漁村といった舞台設定、時にはその両方を備えている場合もあります。
 そこにおいて、現代では失われがちな人間関係や豊かな人間性を持った登場人物を使って、物語を展開するのです。
 それ自体は、人間関係や人間性が失われがちな、現代の、特に都会の生活に対するアンチテーゼの働きをしているので、ユートピア童話のすべてを否定しようとは思いません。
 しかし、そういった作品が同じ作者によって繰り返し描かれることは、過酷なユートピアではない現実社会からの逃避になってしまう恐れがあります。
 また、設定自体が作品のリアリティを保証してしまうので、文学としての大きな飛躍がありません。
 現実社会の問題点も描きながらユートピア童話を書くことは、より困難なことかもしれませんが、そういった状況における人間関係や人間性の復活を描き出すことができれば、より価値のあることなのではないでしょうか。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)
クリエーター情報なし
岩波書店

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学における「旅人」と「定住者」について

2023-12-26 09:09:41 | 考察

 児童文学における物語のパターンとして有名なものに、「旅人」と「定住者」があります。
 一番わかりやすく有名なものは、イギリスファンタジーの古典であるケネス・グレアムの「楽しい川辺(THE WIND IN THE WILLOWS)」の第9章「旅びとたち」でしょう。
 トールキンの「ホビットの冒険」や「指輪物語」、それらに影響を受けたと言われている斉藤惇夫の「冒険者たち」の冒頭部分も、このパターンを踏襲しています。
 普段の平凡だけど安定した生活に満足していた「定住者」は、いつの世も、不安定だけど常に何かを求めて移動し続けている「旅人」に憧れを持っています。
 ホビットのビルボやフロドも、ネズミのガンバも、「旅人」たちに刺激を受けて、住み慣れた居心地のいい我が家を離れて、冒険の旅へと出発します。
 ある者ははるかかなたの遠い世界へ、そしてまたある者は異世界へと、いづれも旅立つ先は芳醇な物語の世界です。
 いえ、物語の世界だけでなく、現実世界でも同様でしょう。
 沢木耕太郎の「深夜特急」が、いつの時代でも「旅」を夢見る若者のバイブルであるように、我々も機会さえあれば日常から旅立ちたいのです。
 一般文学でもこの「旅人」と「定住者」のパターンは使われているのですが、特に児童文学で有効なのは、「旅人」が成長して変化し続けている「子ども」の、「定住者」が成長を終えて同じところに留まっている「大人」の比喩になっているからでしょう。

たのしい川べ (岩波少年文庫 (099))
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学の死

2023-12-05 09:20:39 | 考察

 児童文学関連のいろいろな組織では、長期的な衰退期が続いています。
 それは、それらの組織の持つ後進性や閉鎖性に、大きな原因があるように思えます
 児童文学について組織の外部へ積極的に発信していくよりも、自分たちの小さな世界に閉じこもってわずかな既得権益を守ることに汲々としているようにさえ思えることもあります。
 いずれの組織も、会員の減少や財政的な破綻などの大きな問題を抱えていてますが、会費の値上げや活動の縮小などの後ろ向きの対策しか打ち出せていません。
 会の運営は多くの場合旧態依然で、あたかも同業者たちの互助会のようになっていて、社会に押し寄せているディジタル化(インターネット、通信技術、電子化など)の波に対応する組織もなければ、対応できる人材も払底しています。
 このままでは、どんどん負のスパイラルに陥って、やがては完全な破綻を迎える心配があります。
 電子書籍やネットでのサービスにいまだ対応できていない出版界も含めて、「児童文学」はすでに死に瀕しているのかもしれません。
 このままでは、「児童文学」はその芸術性、文学性、社会性を完全に失い、広範なエンターテインメントの世界の一隅をしめるにすぎない「児童(あるいは女性)読み物」としてしか生き残れないでしょう。
 しかも、その世界でも、例えば「物語消費」の点において、ゲームやアニメやマンガなどにマーケットシェアの点で大きく引き離されていて、ごくニッチな存在です。
 それは、現代社会から背を向けた場合にたどる必然の行く末なのかもしれません。
 こういった状況において、わずかに残された「児童文学」の生き延びる方法は、児童文学活動(創作、評論、研究、翻訳など)をどんどんディジタル化して、積極的に(場合によっては無料で)外部へ発信していくことだと思われます。

Kindle Paperwhite(ニューモデル)
クリエーター情報なし
Amazon
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Dedicated Writer

2023-12-04 11:31:34 | 考察

今は亡きジャーナリストの千葉敦子は、「ニューヨークの24時間」という本(彼女はこの本でパソコンもインターネットもない時代の先進的な仕事の進め方を紹介してくれて、当時大いに刺激を受けました)の中で、SFの大家であるアイザック・アシモフのことをDedicated Writer(打ち込んでいる作家)と評していましたが、今現在、私がなりたい者は、まさにこのDedicated Writerです。
 残念ながら、今までの人生では非常に片手間(それも1984年から1989年までの五年間にすぎません)にしか創作はできませんでした。
 創作を始めたのは30歳と遅かったですし、そのころにはすでに会社で管理職になっていて多忙でしたし、すぐに子どもたちも生まれてきて、ますます自分の時間がなくなりました。
 今は亡き作家の柏原兵三が書いていたように「幸福な家庭は創作の敵」で、家族の幸福(私の家庭生活の黄金期は、第一子が誕生した1988年から下の子が中学を卒業した2005年までの17年間でした)や、それを支えるための経済活動の方が、たんなる自己実現である創作活動よりも優先されるべきなのは自明の理でしょう。
 しかし、会社から離れ子どもたちも巣立った今は、ぜひDedicated Writerになりたいのです。
 私のDedicated Writerの具体的なイメージは、宮沢賢治が上京していたころ(わずか7か月です)のことです。
 賢治はその時に、現存するほとんどすべての彼の童話の原型を書いたと言われています。
「一か月に3000枚の原稿を書いた」という有名な伝説もこの時期です。
 400字詰め原稿用紙で3000枚というと、120万字にもなります。
 これを達成するためには、毎日100枚(4万字)の原稿を書かなければなりません。
 とても人間業とは思えないのですが、それだけ寝食忘れて創作に打ち込んでいたのでしょう。
 月に3000枚とは言いませんが、自分も何もかも忘れて創作に打ち込むDedicated Writerになってみたいものだと思っています。

ニューヨークの24時間 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代日本児童文学の終焉

2023-09-28 13:13:40 | 考察

 2010年に現代日本児童文学が終焉したという発言が、何人かの研究者からされました。
 例えば、佐藤宗子は、2012年1月の日本児童文学者協会評論研究会の特別例会のレポートの中で、現代児童文学の終焉を象徴する現象として、後藤竜二の死、伊藤英治の死、理論社の「倒産」、大阪府立国際児童文学館の廃館をあげています。
 また、現在の児童文学の傾向として、「作家」主体意識の薄れ、「変革の意志」の変質・変容、「書籍」に対する期待の変化を指摘しています。
 宮川健郎も、「日本児童文学」2011年1・2月号の「追悼・後藤竜二」に、「後藤竜二、あるいは現代児童文学のうしろ姿」という作品論を寄せて、その中で、「後藤竜二の文学は現代児童文学の理想形だったのではないか」と述べています。
「後藤竜二の作品は、子どもの視点で、子どもの言葉で描かれる(注:「子ども」への関心(児童文学が描き、読者とする「子ども」を生き生きとしたものとして、つかまえ直す))。そして、独自の魅力あふれる散文によって(注:「散文性」の獲得(童話の詩的性格を克服する))、歴史や現在の状況のなかで、「変革」の可能性をさぐろうとしつづけた(注:「変革」への意思(社会変革につながる児童文学をめざす))。それなら、私たちが見送ろうとしているのは、現代児童文学のうしろ姿なのではないか。」
 引用が長くなりましたが、宮川もまた2010年を現代日本児童文学の完全な終焉ととらえているようです。
 両者に共通しているのは、「現代児童文学」というタームを、「現代日本児童文学」という意味で使っていることです。
 海外ではどうなのでしょうか。それについては何も述べられていません。
 両者に限らず、現在の日本児童文学には、グローバルな視点が欠けているように思えてなりません(「ハリー・ポッター」のような売れ筋の作品は、商品として盛んに出版されていますが)。
 かつての石井桃子や安藤美紀夫のような、研究者で翻訳家で実作者(石井の場合はさらに編集者で児童文庫運動の活動家でもありましたし、安藤は後進の児童文学者たちの教育者でもありました)といった複眼的に児童文学をながめることのできる人材は、仕事の専門性が細分化されだ現代に求めるのは無理なのでしょうか。
 「現代日本児童文学の終焉」というテーマは、私の大きな関心事のひとつです。
 ただ、皮膚感覚としては、1973年4月から1976年9月ごろまで、集中的に内外の現代児童文学や児童文学論を読んでいた時期には、まったく終焉の予感はありませんでした。
 それが、就職、結婚を経て、1984年2月の日本児童文学者協会の合宿研究会に参加して児童文学活動を再開するために、課題図書として提示された80年代前半の数十冊の日本児童文学の作品群を、1984年の1月から集中的に読んだ時にはかなり違和感を感じたことを覚えています。
 合宿研究会で再会した児童文学評論家の大岡秀明に「7年のブランクがありますが何か変わりましたか?」とたずねたら、彼は「何も変わらないよ」と言っていましたが、実際にはその間に大きな変曲点があったのでしょう。
 合宿でたまたま同室だった安藤美紀夫と古田足日に相談して、当面は児童文学の研究ではなく創作と作品評をすることに決めて、安藤に紹介してもらった同人誌に参加するようになってからも、その違和感は続いていました。
 それは、自分の作品を、同人誌だけでなく、「日本児童文学」に発表したり、単行本で出版するようになって、編集者などと話すようになってからますます大きくなっていきました。
 この違和感(現代児童文学の変質あるいはすでに終焉していた)は、たぶん日本社会のバブル化や「現代日本児童文学」の商品化と関係があるように今は考えています。
 小熊英二編の「平成史」によると、戦後の日本における大きな変曲点は1955年(55年度体制の始まりと高度成長の始まり)と1991年(バブルの崩壊と55年体制の終焉)とのことです。
 間の1973年からオイルショックやドルショックなどの小さな変曲点がいくつかありましたが、日本経済はそれらを克服し80年代のバブル期を迎えます。
 狭義の現代児童文学(広義の意味はもちろん「今現在の児童文学」ですが、以下では狭義の意味で使っています)は、別の記事に書いたように1953年ごろからそれまでの近代童話を批判する形で議論が進められ、1959年に佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」やいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」といった長編ファンタジーに結実しました。
 そして、1970年代の終わりごろに変曲点があって、今までの定義(散文性の獲得、子ども(読者でもあり登場人物でもある)の獲得、変革の意志(いわゆる成長物語も含めて)、おもしろくはっきりわかりやすいなど)に当てはまらない現代児童文学が登場します。
 それらを経済的に支えたのが1980年代には児童文学でも迎えた出版バブルで、実に多様な作品群を生みだしました。
 しかし、これも一般社会と同様に1991年のバブル崩壊とともに、終焉を迎えます。
 私は、バブル期の終わりごろの1989年と1990年に単行本を出版していますが、それらのような普通の男の子を主人公にしたマイナーな作品は、バブル崩壊後であったならばとても出版されなかったでしょう。
 現に、私の属していた同人誌の同人の一人が、バブル崩壊後の1992年に発表した少年小説は非常に優れていましたが、中学生の剣道部の少年群像を描いたもの(今出版されているようなお手軽スポーツものではありません)だったので、いくつかの出版社から引き合いがあったものの、結局出版されませんでした。
 これがバブル崩壊以前だった二年前だったら確実に出版されていたであろうことは、自分の本との出来の比較からいって、確実だったと思います。
 今後も1959年から1991年ごろの日本の社会状況をもっと検討することによって、児童文学を取り巻く経済状況などを視野に入れて、現代児童文学の、誕生、繁栄、衰退について、考察を重ねていきたいと思っています。
 

日本児童文学 2011年 02月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「物語中物語」と「メタ物語」について

2022-10-14 13:57:05 | 考察

 物語の中で別の物語が語られるというのは、昔話の世界のころからよく使われる手法ですが、そのこと自体を作品の中核に据えた作品というのはなかなか魅力的で、例えばブローディガンの「愛のゆくえ」(その記事を参照してください)という作品などが思い出されます。
 「愛のゆくえ」では、誰かが書いた世界に一冊しかない本を預かる図書館の館員が主人公で、さまざまな物語が、「愛のゆくえ」という物語の内部に持ち込まれます。
 ただし、この作品は、厳密な意味では児童文学ではありませんでした。
 評論や研究論文では、こういった作品を児童文学と一般文学の間の越境といいます。
 さて、最近の児童文学、特にライトノベルなどでは、「メタ物語」ということが話題に上ります。
 本来、物語の語り手と物語世界との位置関係は一対一であることが一般的です。
 語り手は物語世界の外から物語を語る場合が多いのですが、作品によっては物語世界の内部にいるものもあります。
 また、物語世界の中に、別の物語世界が入っている場合もあります。
 演劇でいうところの「劇中劇」に相当します。
 つまり、語り手の位置には次のような三つの種類があります。
1.物語世界外
 語り手は物語世界の外にいて、物語の中で登場人物として現れることはありません。
2.物語世界内
 語り手が物語世界の中で登場人物としての役割も持っている場合です。
 言い換えれば、登場人物が語り手の役も果たしています。
 このもっとも有名な例は、「千夜一夜物語」のシェヘラザードでしょう。
3.メタ物語世界
 2で述べた語り手によって語られる、いわば劇中劇の世界のことです。
 しかし、最近の作品では、これらの境界が侵犯されることがあります。
 例えば物語世界外の語り手が物語世界での出来事を語っている最中に、物語世界外の内容が描かれる場合があります。
 このように、最近の児童文学では、物語構造が複雑化しています。
 ただし、物語の起源をたどれば、物語の語り手(例えば古老など)が、昔話を語っている途中で自分の体験や現在の事を織り交ぜるなどの自由度はあったわけで、そういう意味では現在のライトノベルなどのポストモダンの物語は、近代小説から出発しつつもそれを飛び越えて先祖返りしているのかもしれません。

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)
クリエーター情報なし
早川書房



物語構造分析の理論と技法―CM・アニメ・コミック分析を例として
クリエーター情報なし
大学教育出版
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学において新しさとは何か

2022-09-11 16:07:38 | 考察

 児童文学における新しさを考える場合には、大きく分けて三つの階層があるように思えます。
 一番表層にあるのは、本(商品)としての新しさです。
 児童文学で生活しているプロの作家や、本を出版したいと願っているアマチュア作家には一番関心がある階層かもしれません。
 ここにおける新しさとは、題材の新しさ、キャラクターの新しさ、体裁(挿絵も含めて)の新しさなどが含まれます。
 それに加えて、作者自身の新しさも含まれるかもしれません(古くは黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」があげられますし、ひところ話題になった水嶋ヒロの作品や又吉直樹の「火花」などもこれに入るでしょう)。
 次の階層は、文芸論的な新しさです。
 児童文学も文章芸術であるからには、どのように書かれるかの技術的な観点も重要でしょう。
 最近はずいぶん変わってしまいましたが、本来の芥川賞は文芸論的な新しさを評価する賞でした(最近の分かりやすい例は、黒田夏子の「abさんご」でしょう)。
 そういった意味では、又吉さんには芥川賞はあげるべきではなかったと今でも思っています(商品としての優劣を決める本屋大賞ならば、まったく文句はありません)。
 日本の児童文学でも、出版バブルで出版社に余裕があったころは、前衛的な作品(例えば、岩瀬成子の「あたしをさがして」など)も出版されていましたが、最近は低調なようです。
 最後の層は、文学としての新しさです。
 児童文学も「文学」であるならば、「文学」とは何かの根源的な問いかけが必要だと思っています。
 そのためには、「歴史認識」と「社会性」が必須なものだと考えています。
 「歴史認識」とは、児童文学史を眺めた場合に、どのような文学がどのような時代を背景に登場したかを正しく理解することです。
 わかりやすい例でいうと、「赤い鳥」と「プロレタリア児童文学」がどのような時代背景で生み出されたかを考えるといいでしょう。
 現在の児童文学に対する私の認識は、1950年代に始まった狭義の「現代児童文学」が、1990年代に終焉した(児童文学研究者の佐藤宗子や宮川健郎は2010年に終焉したとしていますが、実質的にはもっと前に終わったと思っています)後は、「児童文学」は広い年代の女性読者向けを中心としたエンターテインメントに変わっていて、新しい「文学」はまだ生み出されていません。
 そういった意味では、ポスト「現代児童文学」の「文学」を志向することが新しさなのかもしれません。
 「社会性」に関しては、現在の子どもたちが直面しているいろいろな問題とどのように切り結んでいくかと、その時代の典型的な子ども像(かつて砂田弘があげていた例でいうと、マーク・トウエンのトム・ソーヤー、エーリヒ・ケストナーのエーミール・ティッシュバイン、カニグズバーグのクローディア・キンケードなどですが、もっとわかりやすい例でいうとサリンジャーのホールデン・コールフィールドでしょう)を生み出すことです。
 私自身は、「児童読み物作家」でも「児童文芸家」でもなく、「児童文学者」でありたいと願っているので、「文学」としての新しさを追求していきたいと思っています。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
クリエーター情報なし
白水社



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学における短編と長編

2022-06-21 15:18:08 | 考察

 現在の児童文学の出版状況では、短編集を出版するのはなかなか難しいです。
 かつては、いろいろな作家の優れた短編集(最上一平「銀のうさぎ」、丘修三「ぼくのお姉さん」(その記事を参照してください)、神沢利子「いないいないばあや」(その記事を参照してください)、安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」(その記事を参照してください)など)が出版されましたが、しだいに少なくなり、今では大人の読者も対象に含めた短編集(例えば、安東みきえ「呼んでみただけ」など)や同じ主人公を描いた連作短編集(ばんひろこ「まいにち いちねんせい」(その記事を参照してください)など)を除いては、あまり出版されなくなっています。
 私自身の経験でも、長編はいくつか本になったのですが、短編集は何度か出版社から話が合っても「テーマやグレードがそろわない」などの理由で出版には至りませんでした。
 そのため、書き手の中には、短編をいくつかむりくり連結したり、まえがきやあとがきをつけるなどしたりして、長編に仕立てようとすることがあります。
 しかし、そういった試みは不自然な仕上がりになることが多いようです。
 やはり、いくつかの短編をもとに長編を作る場合は、それぞれの短編を解体して、いちから長編として再構成する必要があります。

呼んでみただけ
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学を書く上で注意すること

2022-02-26 16:34:31 | 考察

 児童文学を書こうとした場合に、注意すべきことをいくつかまとめておこうと思います。
 まず注意しなければいけない点は、いかに読者である子どもたちの関心を引くかということです。
 児童文学は、作者である大人(子どもが書いた作品もありますが、それは非常にまれなことでしょう)と子どもである読者(最近は大人(特に女性)にも、児童文学の読者は広がっていますが、ここでは便宜上一次的な読者である子どもを想定しています)。
 作者側から見れば一般文学と同様に、自分の関心に基づいて書きたいように書けばいいのですが、児童文学では読者である子ども(それが自分自身の中にある内なる子どもだとしても)を意識する必要があります。
 例えば、「戦争体験をどう伝えるか」を例にあげると、自分自身の経験(実体験に限らず上の世代や外国の人から聞いた場合も含みます)をそのままに書くのではなく、現代および未来を生きる子どもたちに、他人ごとではなく自分自身にも関係のある問題だと思ってもらえるように書く工夫が必要です(例えば、那須正幹の「ねんどの神様」(その記事を参照してください)など)。
 児童文学の場合、自分自身の子どもの頃の体験を書く事も多いと思います。
 その場合は、それを現代に置き換えて書くのか、その時代のこととして書くのかを明確にした方が成功することが多いです。
 子どもたちの風俗は時として変化します(特に高学年や中学生やヤングアダルト物は)。
 それをあいまいにして書くと、どこか作品がピンボケになってしまい、読者の印象に残りにくくなります。
 児童文学の書き方にも流行があります。
 新しい作品を読んで、自分の手法や題材が古くなっていないかをチェックする必要があります。
 よく初心者の作品で、舞台になっている国や時代が不明ないわゆる無国籍童話が書かれることがあります。
 制約がないので、一見書きやすそうですが実はこれば一番難しいのです。
 こういった作品の場合、作品で書かれている部分の外に確固たる世界が広がっているように感じられなくては、読んでいて薄っぺらく感じられます。
 一番いいのは自分自身でひとつの世界観を作り出すことですが、これはよほど才能に恵まれていなければ難しいと思います。
 そこで、もっと楽に書くならば、他人の作った世界観(例えば、トールキンの「剣と魔法」の世界など)を借りてきて、その上で二次創作することでしょう。
 他人の物でも、はっきり世界観を意識して書けば、作品のリアリティは格段に違ってくるでしょう。
 なお、いわゆるリアリズムの作品は、「現実」という世界観のもとで創作されています。
 従来、子どもにわかりやすく伝えるために、児童文学は「アクションとダイアローグ」で書かれてきました(関連する記事を参照してください)。
 それが、80年代に入って、「描写」を前面に出した「小説」的な手法で書かれる作品が増えてきました。
 結果として、児童文学の読者年齢をあげることになり、一般文学へ越境する作品や作家(江國香織や梨木香歩など)が現れました。
 児童文学は女性の読者が圧倒的に多いので、特にL文学(女性作家による女性を主人公にした女性読者のための文学)に越境は多いでしょう。
 こうした手法を幼年文学(幼稚園から小学校三年生ぐらい)に適用して、子どもたちの繊細な感情を描こうという試みもありますが、読者の受容力を考えると限界があるように思えます。
 「子どもたちの風俗をどう描くか」も大きな問題です。
 同時代性を意識しすぎて最新の風俗を描くとすぐに陳腐化してしまいますし、かといって、古い風俗(例えば作者の子ども時代)を現代の子どもに適用するのも現代の子どもたちが読んでピンとこない場合も多いと思います。
 すぐに陳腐化しないような風俗の書き方(例えば、特定のゲームやアニメの寿命は数年ですが、ゲームやアニメという仕組み自体は数十年の寿命を持っています)を工夫する必要があります。
 幼年や絵本を書くのはやさしいという誤解があります。
 本当は、それらを書くのが一番難しいのです。
 読者の受容力が限定されている中で、魅力的なキャラクターを生みだし、ひとつひとつの文章を磨き、より起承転結をはっきりさせて物語のメリハリをつけなければ、気まぐれな年少の読者たちはすぐに本を投げ出してしまいます。
 自分が書きたいのが純文学的な(変な言い方ですが)児童文学なのか、エンターテインメントなのかも、はっきり意識して書かなければなりません。
 エンターテインメントでは、リアリティの追求、細かな心理描写、社会性などよりも、魅力的でデフォルメされたキャラクター(パターン化していてもOKです)、大胆な筋運び(例え偶然を多用したとしてもかまいません)、読者へのサービス(恋愛シーンやスポーツの試合や戦闘シーンなど)などが大事です。
 実際に書き出す前に、自分が何を誰に対してどのように書くかを問うことが必要です。
 ただし、どちらの場合でも、作者が自分自身と読者と主人公のために用意された独自の世界を生みださなければならないことは言うまでもありません。
 また、自分の書き手としての強みが、ストーリーテリングにあるのか、描写力にあるのか、自分自身の体験にあるのかを、はっきり意識することも重要です。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラスになじめない子どもたちに児童文学ができること

2021-12-29 10:38:25 | 考察

 最近の学校では、普通学級では問題を起こしてなかなかクラスに受け入れられないが、支援学級で学ぶような障害はない子どもたちが増えているそうです。
 障害がはっきりしている子どもたちには、いろいろな支援制度がありますが、障害があるかどうかはっきりしない境界線上の子どもたちには行き場がありません。
 そういった子どもたちに遊び場と友だち(大人も含めて)を提供するボランティア活動も各地でなされているようですが、まだまだ十分ではないでしょう。
 そうした子どもたちに、本の中の遊び場や友だちを提供することも、児童文学の重要な役目だと思います。
 私自身、低学年のころは病気のために学校を休みがちだったので、友だちもあまりいませんでした。
 そんな時に、エーリヒ・ケストナーの「エーミールと探偵たち」のエーミール・ティッシュバインや教授くんたち、「飛ぶ教室」のマルチン・ターラーやヨナタン・トロッツたちと知り合ったことで、どんなに励まされたか計り知れません。
 また、そういったクラスになじめない子どもたちを児童文学で描くことによって、そうした子どもたちの周辺にいるクラスメートなどに、彼らを見直すきっかけになることも期待できます。
 そうした作品がもっともっと書かれることを願っています。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学に社会性をどのよう持たせるか

2021-12-24 17:25:34 | 考察

 1990年代以降、児童文学には大きな変化が起きています。
 作品から、文学性や社会性が失われ、女性を中心とした読者に対するエンターテインメントになっています。
 しかし、そうした変化も、ゲーム(現在ではスマホゲームが中心です)やアニメやマンガ(かつてほどではありませんが)に比べれば、児童文学はごく小さなマーケットでじり貧傾向にあります。
 そんな時に文学としての存在意義を考えると、再び作品に社会性を持たせることも一つの可能性だと思われます。
 社会性といっても、かつてのような政治的なものではなく、もっと身近なテーマを描いてはどうでしょうか。
 格差社会、少子化、高齢化、差別、ネグレクト、貧困、特殊詐欺、催眠商法、災害、感染症など、いろいろなテーマが考えられます。
 それをリアリズムの手法で深刻に描かずに、ファンタジー、ミステリー、コメディといったエンターテインメントで培った手法で描けば、それらを子どもたちにも理解でき、先ほどあげたゲームなどの他のメディアとの差別化が図られるのではないでしょうか。

悪質商法のすごい手口―ここまで巧妙ならみんなだまされる!知っておきたい被害の実態と対処法
クリエーター情報なし
徳間書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同人誌の合評会の役割り

2021-11-29 14:30:25 | 考察

 児童文学の同人誌活動において、一般的には定期的(月例会が多いと思われます)に会員が作品を持ち寄り(昔は印刷したものを全員に郵送していましたが、今はメールの添付ファイルで送るのが一般的でしょう)、合評会を行います。
 合評された作品は、他の会員から得られたフィードバックをもとに各人が手直しします。
 それらの中で各自がいいと思った作品を、定期的(年一回が多いと思われます)に発行される同人誌に掲載します(一般的には、掲載ページ数によって一定の負担金が必要です)。
 以上が、一般的な同人誌の活動内容ですが、なんといっても活動の中心は合評会です。
 合評会の締め切りに合わせて作品を用意するのは、創作活動を継続させることに非常に有効です。
 また、様々な会員から批評を受けられることも、作品の質を上げるためにメリットがあります。
 有益な批評を得るためには、プロの作家や商業出版の経験者、児童文学の評論家や研究者などが会員に多い同人誌を選ぶべきでしょう。
 もちろん、会員一人ひとりが、自分の作品を批評してもらうだけでなく、他の会員の作品をしっかり批評しなければならないことは言うまでもありません。

最新 文学批評用語辞典
クリエーター情報なし
研究社出版
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運動体としての現代児童文学

2021-11-25 11:37:11 | 考察

 一般的には1959年に始まり2010年に終焉したと言われている(私自身は1953年に始まり1990年代半ばにはすでに終焉したという立場をとっています(詳しくは「現代児童文学の始まり」と「現代児童文学の終焉」という記事を参照してください))現代児童文学は、一種の文学運動でもありました。
 そこには大きく分けて、「少年文学宣言」派と「子どもと文学」派があったと思われます。
 「少年文学宣言」派はその申し子ともいえる後藤竜二の死とともに2010年に完全に終焉したと言えますが、「子どもの文学」派が主張した「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張は一見今でも有効なように思えます。
 しかし、現在の夥しく出版されている児童書の「おもしろさ」は、明らかに「子どもの文学」派が主張していた物からは変質しています。
 「子どもと文学」が発表されてすぐに「少年文学宣言」派から批判されたように、彼らの主張は多くの安易なステレオタイプの作品を生みだしました。
 現代の児童文学の多くは、この「安易なステレオタイプ」の再生産にすぎないのではないでしょうか。
 そして、長く子どもたちの財産となるような恒久財としての「文学」ではなく、短期間に読み飛ばされる消費財にすぎません。
 すでに文学運動体をなくした児童文学において、それらを正しく評価するには、いわゆる文学論ではなく、マーケティング理論に基づいた消費財としての評価方法が必要になっていると思われます。
 残念ながら、現状ではマーケティングをきちんと勉強した児童文学研究者や出版関係者は見あたりませんので、それらが正しく評価されることは困難でしょう。
 そのため、同じ子ども向け消費財マーケットを競っている、マンガやアニメやゲームに対抗していくことは困難で、児童書のマーケットサイズは今後も縮小を続けていくことでしょう。



子どもと文学
クリエーター情報なし
福音館書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクションとダイアローグ

2021-11-22 14:55:11 | 考察

 「児童文学とは、アクション(行動)とダイアローグ(会話)で描く文学だ」と明確に定義してくれたのは、今は亡き安藤美紀夫先生ですが、その後、80年代になってからは、描写に重きをおいた小説的手法の優れた作品が増えてきました。
 それでも、「アクション」と「ダイアローグ」は、子ども読者のための文学としての児童文学の基本であることは変わっていません。
 しかし、最近では、その「アクション」の代わりに「モノローグ」や説明文を多用した作品が増えています。
 その原因としては、読者の読解力の不足と、児童文学の本の軽薄短小化があると思われます。
 子どもたちの本離れ、実用文に片寄った学校教育、スマホなどのツールによる短文への慣れなどにより、子どもたちの読解力は急速に低下しています。
 そうした読者に理解してもらうためには、ダイアローグ、モノローグ、説明文を多用した方がてっとりばやいなのです。
 こうした傾向は、児童文学だけでなく、大人を対照とした文学、特にエンターテインメント系の作品でも増えています。
 しかし、それでは、文学の本来の魅力は産み出し得ません。
 現在あふれている読み捨てられている消費財としての児童文学でなく、歴史に残る恒久財としての児童文学を目指すなら、もっとアクションや描写で書いていかなければなりません。
 アクションは読者に物語を追体験させるためには必須ですし、優れた美しい描写は読書体験の魅力そのものです。
 その点では、現在でも、優れたコミックスやアニメはアクションにあふれていますし、一様に絵や映像も美しく磨かれています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする