現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

沼澤洽治「講談社版サリンジャー『バナナ魚日和』解説」

2019-08-28 10:02:14 | 参考文献
 変わったタイトルですが、サリンジャーの「九つの物語」の翻訳本です。
 もちろん、「バナナ魚日和」は、「A Perfect Day for Bananafish」のことなのですが、ちょっと意訳が過ぎる感もします。
 特に新しい情報はないのですが、ここに含まれた短編9篇のうち7篇が「ニューヨーカー」誌に発表されたことに着目して、名編集長ハロルド・ロス率いる「ニューヨーカー」誌の特長ともいうべき洒脱な短編書き手の系列(ジェイムズ・サーバー、E.B.ホワイト、トル―マン・カポーティ、アップダイクなど)の一員としてサリンジャーを位置付けています。
 また、ニューヨークないしその近郊を舞台にして、その雰囲気にピッタリしていることも指摘しています。
 全体に、サリンジャーの技巧面で評価していて、本質的には短編作家としています。
 そして、彼もまた、サリンジャーがグラス家サーガの続きやかつてのような洒脱な短編を発表することを待ち続けているのです(この解説は1972年ごろに書かれたものと思われます)。
 筆者は、英文学者で大学の教員でもあるのですが、どちらかというと研究者というよりは翻訳家よりのようで、作品の内容やそれを生み出した社会背景などにはあまり興味がないようです。

 


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武田勝彦「『シーモア―序論』について」角川文庫版「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」解説所収

2019-08-27 10:34:16 | 参考文献
 サリンジャーの「シーモァ―序論」について、以下の三つの観点から解説しています。

<カリスマ的シーモァ>
 シーモァをグラス家七人兄妹のカリスマだとすることに、異論を唱える人は誰もいないでしょう。長兄で、兄妹の中で知的に一番すぐれていて、彼らの教育係(主に宗教書、思想書、文学書によるものですが、当時の教養主義的教育よりはより本質的な物を目指しています)を自ら任じていたので、兄妹たち(特に、バディ、ズーイ、フラニー)に対しては圧倒的な影響力を持っています。ブー=ブーは比較的シーモァの影響からフリーでしたし、双子のウォールトとウェイカーについてはあまり書かれていないのでわかりません。著者は、カリスマ的支配についての一般的定義を用いて、若者世代との親和性を述べています。その一例として、当時始まっていた新左翼系各派(特に革マル派と中核派)によるいわゆる内ゲバによるテロリズムについても触れていますが、大学の教員(本来はこれらの解決を図るための当事者であるべき人間です)であった著者が他人事のように書いているのを読むと、著者は本質的にはサリンジャーがその作品で否定しているようないわゆる「大人」であり、若者世代がどのようにサリンジャー作品を受容をしているかを正しくは理解できないだろうなあと思いました。

<正気と狂気>
 シーモァが精神分裂症(現在の用語では統合失調症)であったかどうかについては留保しています。ただし、バディ(=サリンジャー)や他の兄妹も含めて社会的不適応患者であったとしています。そして、彼らの「間欠的狂気」が、現代社会によって生み出されていると考えている点は非常に重要です。現在の精神科や心療内科の診断基準に照らし合わせると、少なくともシーモァとバディ(=サリンジャー)とフラニーは、双極性障害だった疑いがあります(シーモァはⅠ型で、あとの二人はおそらくⅡ型でしょう。双極性障害に関しては、関連する記事を参照してください)。ズーイとブー=ブーとウォールトはもっとバランスの取れたタイプなので、おそらく社会的不適応患者ではないでしょう(ウェイカーについてはほとんど書かれていないのでわかりません)。

<文学的姿勢>
 文学の大衆化において現代文学の生きのびる道を模索しているとの指摘は、非常に重要です。従来の教養主義の立場では、サリンジャーは通俗作家(今でいえばエンターテインメント作品の作家)としてとらえられています。この作品も、当時のアメリカではやっていた東洋趣味(禅や文学など)をいち早く取り入れたり、表現方法にも新味を加えた、一種の大衆迎合的作品ともいえると指摘しています。しかしながら、文学全体のエンターテインメント化が進んだ現在の読者には、この作品などは純文学そのもののように読まれることでしょう。同じように文学の大衆化において現代文学の生きのびる道を模索していると思えるのは、サリンジャー作品の翻訳も手がけている村上春樹ですが、彼の作品(特に最近のもの)はずっとエンターテインメント寄りです(だから、ノーベル文学賞がとれないのかもしれませんが)。
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武田勝彦「『大工らよ、屋根の梁を高く上げよ』について」角川文庫版「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」解説所収

2019-08-26 09:30:54 | 参考文献
 「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」について、以下のようにシーモァの結婚の謎と、文章表現について解説しています。

<第一次集団VS第二次集団>
 シーモァとミュリエルの結婚がうまくいかなくなる理由(ご存じのように、六年後にシーモァの自殺で幕を下ろします(「バナナ魚にはもってこいの日」の記事を参照してください)について、それぞれが強い第一次集団(家族)に属していたためであるとしています。また、シーモァの結婚の動機を、当時シーモァがやはり強いと思われる第二次集団(軍隊)に帰属していたたために失った第一次集団(グラス家兄妹)の代償として、新しい第一次集団(結婚)に求めたとしています。前者に関してはその通りだと思いますが、少し違うのはたしかに二人の未熟さが破綻の原因の一つではありますが、もっと強い原因はそれぞれの第一次集団そのものにあった(シーモァの家族(特に両親)の無関心とミュリエルの母親の過干渉)と思えることです。また、後者に関しては、著者自身が認めているように、説明の根拠が不足しているように思います。

<メタフォリカルな表現>
 サリンジャーの文章表現は、初期短編の平明さから、しだいに洒脱なものに変わり、そして、隠喩を多く含んだ難解なものへ変化していっています。著者が指摘しているようにこの作品には、題名を初めとして様々なメタフォリカルな表現を含んでいます。それは、他の記事にも書きましたが、サリンジャー自身が、「作家志望者」から、「人気作家」へ、そして、「文章芸術家」へと、次々と変貌していったからでしょう。そ
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武田勝彦「『ズーイ』について」角川文庫版「フラニーとズーイ」解説所収

2019-08-25 10:47:21 | 参考文献
 「ズーイ」(その記事を参照してください)について、著者が関心を持った以下の三点について、かなり主観的な意見を述べているだけなので、いわゆる「作品解説」にはなっていません。

<神秘小説と愛の小説>
 サリンジャーが異例のまえがき(実際は、作中でフラニーとズーイにとっての次兄(長兄はシーモァ)で作家のバディがこの話を語る形になっているので、バディの書いたまえがき)で述べているこの作品が「家庭映画」であるという主張に対して、映画化やテレビ番組化などに容易に対応可能な対話中心で空間的飛躍も少ない(自宅の風呂場と居間だけの、二幕物で戯曲化できます)ことを指摘しています。また、この作品が「神秘な物語」ではなく「愛の物語」であると述べているのは、読者や評論家へのサリンジャーの弁明であるとしています。また、原文の「Story」にこだわりを見せて、訳者が選んだ「神秘な物語」ではなく「神秘小説」で、「愛の物語」ではなく「愛の小説」であると主張しています。作者は、「物語」というタームに、「今昔物語」や「源氏物語」のようなストーリー性の高いもののイメージを持っているようです。

<象徴主義と前衛的技法のぼかし>
 サリンジャーの創作技法が直線的ではなく、抽象性が高まっていることを幾つかの例をあげて示しています。しかし、作家がその円熟期にレトリックが高まるのは当然で、サリンジャーのように職業的作家を志向していない(途中までは彼も目指していました)場合は、芸術性を高めるために前衛的になるのはやむを得ないことです。たとえ、そのために、大半の読者や評論家が付いていけないとしても、それは仕方がありません。ましてや、サリンジャーの場合、「有名作家生活の煩わしさ」をいやというほど経験(おそらく世界でも他に類を見ないほどです)し、生活には困らない印税(主に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のものです)が一生入り続けるのですから、生来の内向的な性格も相まって、「自分を理解しない(あるいは理解しようとしない)人たちとの関係を断ち切って、「自分を理解してくれる人たち」とだけの穏やかな生活を望んだのもまったく無理もありません。

<芸術的主張>
 ズーイが、バディやシーモァの力を借りて、フラニーに悟らせた「神の女優になる」ということは、サリンジャー自身の芸術的主張であるとしています。それは、「芸術家が経済的に金を得るために創作したり、読者や観衆に媚びている状態で完全な作品を生み出すことができない」ということだとしています。これは、前述したように、すでに経済的に成功し、こころない周囲の人たち(特に読者や評論家など)と決別したサリンジャーでなければ、できないことなのかもしれません。








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武田勝彦「『フラニー』について」角川文庫版「フラニーとズーイ」解説所収

2019-08-24 10:17:47 | 参考文献
 「フラニー」(その記事を参照してください)について、以下の三つの観点で解説しています。

<女であること>
 著者は、フラニーの行動のすべてを、「女性」というひとくくりにして論じています。これは、いくらこの文章が五十年前にかれたものだとしても古すぎるジェンダー観だと思われます(私がこの本を初めて読んだのはこの本が出てから五年後ぐらいでしたが、そのころちょうどフラニーと同年代だったので「すごく古臭いなあ」と感じたことを覚えています)。フラニーを「女」としてではなく、一人の「人間」として論じなければ本質は見えてきません。また、フラニーが一般的な学生ではなく、特殊な環境で育った(長兄のシーモァや次兄のバディに、幼いころから哲学や宗教学や芸術の薫陶を受けています)一種のマイノリティ(シーモァほどの天才ではないにしろ、飛び級で大学へ進学しています)であることに注目しなければならないでしょう。さらに、グラス家の他の兄弟には、ウェイカー(この時点では、すでに戦争直後の日本で事故死していました)やズーイ(テレビの人気俳優)のようなユーモアに富んだ魅力的な兄たちもいたのです。こうした環境に育ったフラニーが周囲の世俗的な人たち(通っている名門女子大の学生や教員たち、それに恋人のレインのようなアイビーリーグのエリート大学生たち)になじめず、不適応障害を起こしたのは無理のないことです。

<男であること>
 著者はフラニーの恋人レインに対しても、「男性」というひとくくりにして論じています。五十年前の文章なのでしかたがない面もありますが、「男は働くために社会で競争するのでエゴが必要だが、女は家庭で子どもを生み育てるのでエゴを捨てられる」といった単純なくくりでは、この作品の本質には迫れません。サリンジャーが彼を通して描いたのは、戦後のアメリカ社会の空前の好景気の中では、それに伴う大学の大衆化も伴って、レインのような教養主義の遺物(もしかすると、著者自身もその一人なのかもしれません)のような人間がすでに時代遅れになりつつあることです。つまり、レインたちのような教養主義的なエリート学生は、もうあこがれの対象ではなくなっていて、その後に続く世代は目標を見失いつつある状況でした。その典型が、サリンジャーが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)で描いた、そうしたエリートコースをドロップアウトしたホールデン・コールフィールドだったのです。

<断絶と救済>
 ここで、著者が指摘している「断絶」が男女間だけでなく、その救済としてフラニー(彼女だけでなくシーモァを初めとしたグラス家七人兄妹(具体的に描かれているのは、他にバディとズーイだけ)、そしてサリンジャー自身も)が回帰したのが宗教であるとの指摘は重要です。


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長谷川潮「安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」講談社文庫解説」

2019-08-24 08:53:31 | 参考文献
 児童文学者の安藤美紀夫の代表作(1972年に刊行されて翌年の児童文学関連の賞を総なめにしました)である「でんでんむしの競馬」について解説しています。
 型通りに安藤の紹介や作品の時代背景について述べた後で、以下のような指摘をしています。
・作品の舞台になっている京都の路地裏の閉塞状況は、当時(戦時下)の日本全体の閉塞感を表している。
・三人称で書かれている視点はカメラ・アイのようで、対象を至近距離から克明に描くとともに、短編連作をひとつにまとめ上げている。
・象徴的な表現を多用することによって、「個」を描きながら普遍性を獲得している。
 以上の指摘は、おおむねこの作品の特長を捉えていますが、なぜこの作品がここまで当時高く評価されたかについては、以下のような要因があったように思えます。
 第一は、この本が出版された1972年は、70年安保の敗北、革新勢力の分裂、さらに階級闘争への疑いなどが生じていた時期であり、そうした時代の閉塞感が、この作品が描いた戦時下の閉塞感と二重写しになって、大人も含めた読者たちの共感を生んだものと思われます。
 また、上記のような背景もあって、1960年代のような社会主義リアリズムを前面に出したような作品の評価がやや影をひそめて、この作品のような象徴性の高いファンタジー作品が評価されたのではないでしょうか。

でんでんむしの競馬 (少年少女創作文学)
クリエーター情報なし
偕成社
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武田勝彦「『九つの物語』について」角川文庫版「倒錯の森」解説所収

2019-08-23 10:50:11 | 参考文献
 以下のように、それぞれの短編について解説しています。

<二重構造と主題への統一>
 「バナナ魚にはもってこいの日」(その記事を参照してください)については、サリンジャーが好む二重構造(この作品では、シーモァと妻のミュリエルの関係」と「シーモァと幼女シビルの会話」を指しています)。
 主題としては、戦争体験などによって精神を病んでいたシーモァの魂が、どちらの女性によっても救済されなかったことによって統一されています。

<女心の解剖>
 「コネチカットのグラグラカカ父さん」(その記事を参照してください)については、サリンジャーの女性の内面を描く巧みさについて、主に技法的な面で解説しています。

<娘心の追求と真の真の発見>
 「エスキモーとの戦争の直前に」(その記事を参照してください)については、二人の若い男との会話を通して主人公の女の子の心の動きを描きながら(つまり些細な日常を描きながら)、二重の意味(真にまことのある男性は誰か。戦争を引き起こしている黒幕は誰か。)で本質的に生きることの大切さを描いていると指摘しています。

<作中劇の手法>
 「笑い男」(その記事を参照してください)については、「劇中劇」による非現実と現実の混在による作品効果について解説しています。著者は児童文学には門外漢なので、それに対して画一的で差別的な表現が使われていますが、まあ、たいていの(子ども時代の事を忘れてしまった)大人なんてこんなものです。

<肉親の愛>
 「下のヨットのところで」(その記事を参照してください)については、ユダヤ人への差別の問題や家族愛について解説しています。

<二次元の美学>
 「エズメのために ― 愛と背徳をこめて」(その記事を参照してください)については、サリンジャーの卓越した女性美の絵画的な表現を、例によって川端康成の作品を引き合いに出して激賞しています。ただ、サリンジャーに出てくる子どもの持つ意味合いについてはここでも全く無理解で、また題名についている「背徳」の意味についてもとんちんかんな読みをしています。

<二十世紀の虚実>
 「美しき口に、緑なりわが目は」(その記事を参照してください)については、二十世紀のような厳しい現代社会には、こうした完全な虚構の物語も必要としているとしています。そして、通常の虚構の物語(SFやミステリー)ではかえって論理性が求められるのに、サリンジャーはその論理性をなくして完全な虚構(著者は「大人の童話」と呼んでいます。著者の「大人の童話」の定義は不明ですが、おそらく今の児童文学における定義で言えば、リアリズムやファンタジーでなくメルフェンを想定している物と思われます)を作り上げているとしています。

<教養小説>
 「ド・ドミエ=スミスの青の時代」(その記事を参照してください)については、典型的な教養小説(主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のことで、 ドイツ語のビルドゥングスロマンの訳語です)としています。日本での代表的な教養小説は、山本有三「路傍の石」、下村湖人「次郎物語」など児童文学作品が多いです(広義にとらえれば、夏目漱石「三四郎」、吉川英治「宮本武蔵」などもそれに入りますが)。そのため、教養主義が没落したと言われる1970年ごろ(その記事を参照してください)をすぎても、「現代児童文学」の世界では、かなりスケールダウンしていますが「成長物語」として生きつづけました。

<東洋への憧れ>
 「テディ」(その記事を参照してください)については、東洋思想や日本文学とのかかわりについて簡単に触れています。詳しくは、著者の「サリンジャーの文学」という本をを読んで欲しいようです。




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武田勝彦「初期短編物語群」若者たち解説

2019-08-23 10:45:00 | 参考文献
 「初期短編物語群」というのは、角川文庫版「若者たち」に収録した作品を、訳者の鈴木武樹が便宜的に分類した以下の十一篇の事で、著者もそれに沿った形で解説を書いています。
 「若者たち」、「エディに会いにけよ」、「こつはちゃんと」、「途切れた物語の心」、「ロウイス・タギトの長いお目見え」、「ある歩兵にかんする個人的な覚書き」、「当事者双方」、「ソフト・ボイルド派の曹長」、「週に一度ならどうってことないよ」、「イレイヌ」、「ウェストのぜんぜんない一九四一年の若い女」(それぞれの記事を参照してください)
 著者は、そのうちの以下の六篇に詳しい解説をして、その中で他の作品に触れる形で全体をまとめています。

<若者たち>
 著者は、主題、構成、登場人物、表現などにかなり詳細な分析をしています。
 そして、よく言われる「処女作には作家の原形質とでもいうべきものが秘められている」ということが、サリンジャーにもあてはまるとしています。
 このことは、私の乏しい創作経験だけでなく、親しい児童文学作家たちをデビューからずっと見続けてきた経験からも肯定できます。
 サリンジャーの原形質を、著者の指摘をもとに整理してみると、以下のようになります。
 主題:コミュニケーションの断絶。この作品ではパーティで主催者の女の子から紹介された、ともに異性にもてそうもない(そのために主催者は気を使って二人を引き合わせたのでしょう)若い男女の最後まで噛みあわない会話に表わされています。著者は、それをサリンジャーが周辺社会をシャットアウトしたり、作品を発表しなくなったことと結びつけています。「初期短編物語群」では、「エディに会いに行けよ」も同タイプの作品としています。
 構成:一般的にはこの作品には構成らしい構成はないと言われていますが、著者はいわゆる「行動の模倣」や「事件の配列」としての構成はないが、サリンジャーの「外面的筋の変化」より「内面的な心理の動き」に重点を置いているので、「行間に秘められて展開していく主題の相対的な並行発展にこそ、この作品の構成の技法がある」と主張していますが、全くその通りだと思います。サリンジャーの作品には、その後「外面的筋の変化」もある作品(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)がその代表作でしょう)も書かれるようになりますが、それらも実際には「内面的な心理の動き」に重点が置かれています。さらに、1955年発表の「フラニー」(その記事を参照してください)以降は、「外面的筋の変化」は次第に姿を消していきます。
 登場人物:「若者たち」の記事にも書きましたが、ここでは男女交際の現場(この作品では、主催者宅で開かれるダンスパーティですが、今の日本ではでは合コンや婚活パーティがそれにあたるでしょう)におけるもてない男女(いつの時代、どこの国でも、もてる男女は一握りで、彼らのようなもてない男女こそマジョリティなのです)の心の動きが心憎いほど巧みに描き出されています。その後も、サリンジャーは一貫して若い世代の男女の普遍的な「ある典型」を描き続けています。
 表現:サリンジャーの文学的な最大の功績は、作品の中で若者言葉や若者文化を生きた形でそのまま提示したことでしょう。それは、作者がこの作品を書いた時にリアルタイムで若者(21歳)だったことに起因していますが、それを文学作品に昇華させる老成した部分も持ち合わせていたことがそれを可能にしました。このことは、世界中に夥しい追随者や模倣者を生みだしました。他の記事にも書きましたが、日本での一番有名な例は庄司薫の「赤ずきんちゃん」シリーズでしょう。また、これも他の記事にも書きましたが、日本の児童文学作品にも大きな影響を与えました。

<こつはちゃんと>
 著者は、この作品に落語的面白さを感じているようです。不器用な新兵がやがて予言通りに大佐になったのかどうかは、読者の判断にゆだねていますが、私の読みはこの作品の記事に書きましたので、そちらを参照してください。

<途切れた物語の心>
 この作品(その記事を参照してください)は、実際には書かれなかった絶世の美女に対するラブストーリーの筋をいろいろと仮想し、しかし現実には平凡な女性と結婚するという話なのですが、こうした筋立ては創作経験者ならばほとんどが体験する(たいがいは馬鹿馬鹿しくなって完成しません)平凡なものなのですが、著者はかなり大仰にとらえていて(おそらく著者は実作体験があまりないのでしょう)東西の名作を引き合いに出して論じていますが、やや「贔屓の引き倒し」の感はぬぐえません。
 また、著者の女性観、恋愛観があまりに古臭くて、現在の日本はもちろん、当時(1940年代)のアメリカの中産階級のそれとも大きな隔たりがあるように感じられます。

<ロウイス・タギトの長いお目見え>
 著者はほとんどがあらすじを述べているだけなので、詳しくはこの作品の記事を参照してください。
 ただし、ロウイスがシーモァの妻ミュリエルの原型であるとの指摘は重要です。

<イレイヌ>
 著者は、この作品をこの短編集における一番の傑作と評して、その理由として、知的障害のある絶世の美女の結婚と瞬時の離婚、母、祖母に連なる家族の関係を見事に描いているとしています。
 しかし、その具体的な記述の中には、五十年も昔に書かれた文章なので仕方がないですが、知的障碍者や女性に対する偏見が強く感じられて納得できない部分が多いです。
 作品自体にも、そうした偏見はある(六十以上年も前にかれた作品なので仕方がないのですが)のですが、少なくとも彼女に適切な教育を受けさせなかった家族や学校関係者への批判的な視線は感じられます。
 私自身は、この作品の評価がこの短編集の中で一番難しいと考えています(その記事を参照してください)。

<ウェストのぜんぜんない一九四一年の若い女>
 著者は、ここにおいてサリンジャー作品の内容だけでなく技巧に優れた点を高く評価していますが、全く同感です(その記事を参照してください)。

 以上のように、この解説では、「ある歩兵にかんする個人的な覚書き」、「当事者双方」、「ソフト・ボイルド派の曹長」、「週に一度ならどうってことないよ」については触れていません。
 私自身の好みでは、そちらの方によりすぐれた作品が多いので、それぞれの記事を参照してください。








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ビッグ

2019-08-22 08:33:22 | 映画
 1988年のアメリカのコメディ映画です。
 魔法の力で、突然大人(二十代後半ぐらいかな?)になった12歳の少年が、偶然入社したおもちゃ会社で子どもらしい発想で大活躍(副社長(ただし、アメリカの会社にはたくさんいるので、日本の会社ならば取締役ぐらいかな)に抜擢されて、美人のキャリアウーマンの恋人もできます)します。
 子どもらしい気持ちを失わない好青年の主人公(もともと子どもなんだから当たり前だけど)を若き日のトム・ハンクスが好演(ゴールデングローブの主演男優賞を受賞)して、これをきっかけにしてスターダムに登りつめていきます。
 ファンタジックで子どもらしさに溢れた(特に、主人公の親友が、突然大人になってしまった彼に、変わらぬ友情を発揮してくれて、二人で普段は親に止められたりお金がなくてできない子どもらしい遊びを、かたっぱしからするところが大好きです)児童文学的な作品で、私は公開時にアメリカ行きの飛行機の中で見て、こんな児童文学作品を書きたいなと思ったのを今でも覚えています。

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武田勝彦「『倒錯の森』について」角川文庫版「倒錯の森」解説所収

2019-08-21 10:17:34 | 参考文献
 角川文庫版短編集「倒錯の森」の構成については、訳者(鈴木武樹)のあとがきに譲っているので、そちらの記事を参照してください。ただ一般的(ないしは実験作)には失敗作と見られている中編「倒錯の森」を高く評価していることが特徴的です。
 以下は、それぞれの作品評になっています。

<芸術的真の発見>
 「ヴァリオーニ兄弟」(その記事を参照してください)については、芸術至上主義の立場から肯定的に評価していますが、戦時中のアメリカ社会への迎合、軽すぎるユーモアなどの瑕瑾を指摘しています(24歳の才気あふれる若者であった作者に求めるのは、やや酷だと思いますが)。

<青春哀歌>
 「ある少女の思い出」(その記事を参照してください)については、川端康成の「伊豆の踊子」を引き合いに出しながら、サリンジャーの抒情性を高く評価しています。

<あるアメリカの悲劇>
 「ブルー・メロディ」(その記事を参照してください)については、単なる黒人差別を取り扱ったのではなく、戦時中の主人公たちも含めたより普遍的な悲劇を描いているとしていますが、それはその通りだと思います。ただし、前半に描かれた主人公である少年少女の魅力を少しも感じていなくて、非常に大人的な醒めた目線でとらえているのには驚愕しました。まあ、著者は児童文学者ではないのでしかたないのかもしれませんが、それを感じ取れなくてはこの作品の本当の魅力は分かりません。

<倒錯されているのは何か>
 著者は、この解説の冒頭で、中編「倒錯の森」を「未だに雑誌に書きおろしたままにしているのがむしろ不思議なほどすぐれたできばえの作品」とか、「ライムギ畠の摑え手」よりは彫りの深い作品」とか、「人物描写もさることながら、人間心理の内奥に潜む原形質をよく捕えた佳作」といった風に激賞していますが、この作品評を読んでもどこに感心したのかさっぱり分かりません。この作品を、サリンジャー自身の隠遁生活(1953年から2010年に91歳で亡くなるまででずっと続きますが、この解説は1970年ごろに書かれています)と結びつけて、都会生活を「倒錯の森」ととらえて文明批判をしているとしていますが、それはある意味後付けの観点でこの作品を書いた時点(1947年)では、まだ隠遁生活と有名作家になること(それは、四年後の1951年に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の大ヒットで想像していた以上に華々しく実現してしまいます)の両方にあこがれを抱いていた時期で、それが作品にも投影されていることを見落としています。また、詩人が、対等な男女関係を求めている主人公(著者は俗物と切り捨てています)を捨てて、自分を支配してくれる下品だが生活力がありそうな女性(著者は反俗的ととらえていますが、こちらは別な意味で世俗的そのものです)と駆け落ちしたのは、彼の母親(駆け落ち相手と同じタイプ)とそれに従わされていた少年時代の影響と短絡的に結びつけていますが、それは、主人公と詩人の子ども時代のエピソードすごく軽く考えている(あるいはその魅力を感じられない)からだと思われます。





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鈴木武樹「角川文庫版J.D.サリンジャー「倒錯の森」あとがき」

2019-08-21 09:13:57 | 参考文献
 サリンジャーには「倒錯の森」という短編集は存在しなくて、この本に収められている四編は訳者の好みによってまとめられたのことです。
 他の記事にも書きましたが、想像するに、中編の「倒錯の森」では当時の一冊(現在ならば、活字を大きめにしてこれ一作だけで本にしたことでしょう)としては分量が足りないので、同じテイストを持った「ブルー・メロディ」をくっつけ、「ブルー・メロディ」にもチョイ役で登場する「ヴァリオーニ兄弟」と、「ブルー・メロディ」と同じ1948年作の「ある少女の思い出」を、さらにくっつけたというところでしょう。
 言い訳のように、サリンジャーの創作時期は、1940年から1942年を第一期、1943年から1948年までを第二期(つまり「倒錯の森」の次期)、1948年から1953年を第三期、1955年以降を第四期(1954年は発表作品なし)と分類されていると紹介していますが、やや我田引水的な感じがします。
 これは、作品の完成度、出版の形態、対人関係などから見ると、1940年から1947年を習作期(いろいろな形で、後の作品の原型になる作品を雑誌に発表しています)、1948年から1954年を出版期(長編で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、短編集で「ナイン・ストーリーズ」というベストセラーを出版して、有名作家の地位を確固たるものにしました)、1955年以降をグラス家サーガ期(有名になりすぎたために、わずらわしい世俗との関係を断ち切ることを、亡くなるまで続けます)と考える方が自然だと思います。
 また、作品の完成度と他の作品との繋がりから言えば、この短編集の収録順は発表順の「ヴァリオーニ兄弟」、「倒錯の森」、「ある少女の思い出」、「ブルー・メロディ」にすべきで、タイトルも「ブルー・メロディ」にした方が適切だったでしょう。
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板垣巴留「BEASTARS14」

2019-08-20 17:56:26 | コミックス
 この巻では、肉食獣と草食獣が混在する世界の頂点に君臨する壮獣ビースターのヤフヤ(黒馬)と主人公のハイイロオオカミのレゴシの対決を中心に、レゴシと彼の彼女のドワーフウサギのハルとの再会などが描かれています。肉食獣と草食獣の異種恋愛問題を超えて、そのハーフ(ヒョウとガゼル)による犯罪にまで話が広がります。
 発表誌が週刊少年誌なので、早い展開とたくさんの戦闘シーンが要求されるのでしょうけれど、ひとつひとつのアイデアは秀逸なのだから、そのれぞれの話をもっと丁寧に描いてほしいなあと思っています。
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板垣巴留「BEASTARS13」

2019-08-20 17:41:07 | コミックス
 この巻では、ついに海洋生物(魚やアザラシ)にまで話が広がり、違う世界観や宗教観を持つ存在として描かれています。
 アザラシが海と陸の生物のバイリンガルという設定は秀逸なのですが、さらに出てきた骨肉麻薬(肉食獣を肉食に駆り立てる効果があるようです)と共に、これからどう収斂させていくのかだんだん疑問になってきました。
 というより、作者には収斂させる気などはなからなくて、自分の思いつくままに、そして読者を飽きさせないために、どんどん世界を拡げているのかもしれません。
 これは人気コミックスではよくあるパターンですが、やはりどこかでマンネリ化するのは避けられないでしょう。
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野崎 孝「新潮文庫版「ナイン・ストーリーズ」あとがき」

2019-08-19 11:21:53 | 参考文献
 「ナイン・ストーリーズ」の解説自体はほとんどしていませんし、内容も特に目新しい物はないのですが、サリンジャー作品の翻訳の第一人者らしい視点で、サリンジャーらしさを紹介していて興味深い内容です。
 まず、サリンジャー自身が、翻訳本に作品以外のいかなるもの(解説、著者略歴、著者近影など)を付けてはならないことを要求していることです。
 本の出版が決まると、編集者からはこうした物が作者に要求されます。
 こうした要求は、外向的な作者にとっては、なんでもありませんし、むしろ大好物で作品自体より張り切って用意する作家もたくさんいます。 
 特に、著者近影については、女性作家に限らず、若い時に撮った一番写真うつりのいい写真をいつまでも使い続ける作家が多いです。
 しかし、サリンジャーのような内向的な作家にとっては、この要求は苦痛以外の何物でもなく、「作家は作品自体で勝負すべき」というかたくなな信念を持っています。
 そうはいっても、こうした情報は、本を商品と考えた場合には、販促に必要なことは言うまでもありません。
 サリンジャーといっても、若手のころは大手出版社に対しては拒み切れなかったようで、彼が1949年に「下のヨットのところで」(その記事を参照してください)を大手出版社の雑誌に掲載する時に編集者に送った「著者略歴」とそれを載せることを最後まで渋って嫌味たらたら書いた手紙を紹介しています。
 著者は、それをこの文庫本に「あとがき」を付けた言い訳(サリンジャー自身だってやってるじゃない!)に、冗談交じりに使っています。
 この「著者略歴」で著者が注目し、別の意味で私も興味を持ったのが最後の一文です。

「いつもたいてい非常に若い人たちのことを書いている」

 著者は、この文章を作品に「非常に若い人たち」(「下のヨットのところで」のライオネル、「コネティカットのグラグラカカ父さん」のラモーナ、「バナナ魚にもってこいの日」のシビルたちのような幼児も含めて)が登場することを意味して、つまり素材としてだけ考えて、作品自体は「非常に若い人たち」に向けて書いているのではないとしています。
 私はそう考えていません。
 サリンジャーは、確かに「非常に若い人たち」を描いたのですが、それは大人たちのためではなく、そうした「非常に若い人たち」のために書いたのです。
 そう、サリンジャーの本質は「児童文学者」なのです。
 初めてそう言い切ってしまって、自分自身でも少し驚いていますが、いろいろな事が頭の中でつながって、すごくすっきりとした気分です。
 その傍証としてあげられるのが、このあとがきの中で著者が紹介してくれているサリンジャーの別の言葉です。
「私の最良の友の何人かは子供だし、実を言うと最良の友といえば子供たちしかいない私なのである。あの私の本が彼らの手の届かぬ棚にしまわれるかと思うと、どうにも堪え難い思いである。」
 これは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の子どもたちの閲覧を禁止する学校や地方(つまり大人たち)が、アメリカでは続出したためです。
 このサリンジャーの言葉は、児童文学者のエーリヒ・ケストナーの詩「卑劣の発生」の次の一節、

「子供はかわいく素直で善良だ だが大人はまったく我慢できない 時としてそれが僕らすべての意気を阻喪させる」

と、ピタリとと重なります。
 また、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の一種の禁書は、ケストナーの作品がナチス(大人たち)に焚書にされたことと二重写しになります。
 ここでの「非常に若い人たち」というのは、単なる年齢区分ではありません。
 ケストナーの言う「8歳から80歳までの子どもたち」や宮沢賢治の言う「アドレッセンス中葉」などと同じく、「精神的に非常に若い人たち」のことです。
 そもそも「子ども」自体が近代になってから誕生ないし発見された観念であることは、アリエスや柄谷行人が指摘しています(関連する記事を参照してください)が、その考えを借りると「子ども」という観念を持ち続けている人間が年齢には関係なく「子ども」とか「非常に若い人たち」ということになるのではないでしょうか。
 そう考えれば、31歳で自殺するシーモァよりも、7歳のサマーキャンプに参加しているシーモァの方が、人生の真実をつかまえた人間であることは不思議でもなんでもありません。
 まあ、時空を軽々と超越できるシーモァのような超人ではないとしても(あこがれではありますが)、サリンジャーだけでなく真の児童文学者(例えば、ケストナーや宮沢賢治や神沢利子など)は、少なくとも作品世界の中では軽々と時空を飛び越えて見せます。





 
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武田勝彦「サリンジャー作品の和歌・俳句」サリンジャー文学の世界所収

2019-08-18 10:46:56 | 参考文献
 後期のサリンジャーの作品が、東洋思想や中国、日本の詩歌に影響を受けていることは良く知られています。
 ここでは、サリンジャー作品に出てくる和歌・俳句について、その出典とサリンジャーの受容について、詳しく論考しています。
 取り扱われた和歌・俳句は、以下の通りです(カギカッコ内は、それが出てくるサリンジャー作品ですので、それぞれの記事を参照してください)。
 サリンジャー The little girl on the plane/who turned her doll's head around/To look at me.(著者訳 機上乙女 人形の首まげ われを見る)「ズーイ」
 西行 何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさの涙こぼるる 「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」
 芭蕉 頓て死ぬ けしきは見えず 蝉の声 「テディ」
 芭蕉 此道や 行人なしに 秋の暮 「テディ」
 一茶 てもさてもても福相のぼたん哉 「シーモァ ― 序論」
 一茶 蝸牛そろそろのぼれ富士の山 「ズーイ」

 著者は、これらの詩歌の原典や英訳書にあたり、サリンジャーの出典と受容について論考しています。
 結論から言うと、サリンジャーは日本語の原典を読んだのではなく、R・H・プライス「俳句 ― 東洋の文化」(西行の作品は和歌ですが、それもここに載っているようです)を読んで学んだのではないかとしています。
 また、受容においては、プライスの解釈に負うところが多いものの、おおむね正しく解釈して作品に反映しているとしています。
 それはその通りだと思います。
 他の記事にも書きましたが、サリンジャーはシーモァ(グラス家七人兄弟の長兄で、18歳で博士号を取った天才。東洋思想の本を原典で読みこなせ、俳句も日本語で書けます)ではないのですから。
 時空を超越できて予言もできルックスも悪い(シ-モァに限らず、サリンジャーが本当にあこがれている人物は、みな外見が悪いです)超人シーモァは、サリンジャーにとっては憧れではあったと思いますが、彼自身はバディ(グラス家兄妹の次兄で作家)なのでルックスが良くて年を取っていき、半隠遁生活をしているのです。
 こうした常人(かなり優秀ですが超人ではありません)が外国文学を読む時には、翻訳本で読むのが普通です。
 おそらく、サリンジャーは、中国語や日本語も勉強し、これらの作品を原典でも読んだことでしょう。
 しかし、正しく受容するためには、優れた翻訳本(おそらくプライスの翻訳はそれにあたるのだと思います)が必要なのです。
 私自身も、公用語が英語のアメリカ系のグローバルな会社に30年以上勤めていましたので、専門のエレクトロニクス、マーケティング、ビジネスに関する文章ならば読み書きは大丈夫でしたが、それ以外の分野の本を読むのは翻訳本です。
 好きな本(例えば、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、ケネス・グレアム「楽しい川辺」、ミルン「くまのプーさん」、ボンド「くまのバディントン」、カニグズバーグ「クローディアの秘密」、ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」、ペイトン「卒業の夏」、ピアス「トムは真夜中の庭で」、マージェリー・シャープ「小さな勇士の物語」など)は原書でも読みましたが、それは読む前に翻訳本を読んでいたから楽だったのであって、その証拠に好きな作家の未翻訳本(例えば、ペイトンの「卒業の夏」の続編やミルンの童謡集やマージェリー・シャープの「ミス・ビアンカ」シリーズの未翻訳本など)を原書で読んだ時にはかなり苦労しました。
 サリンジャーの作品(特に「テディ」)を読んだ時から、サリンジャーが正しく俳句の世界を理解していると思っていましたが、詳しく原典や解説に当たって論考されたこの論文を読んでそれが裏付けられ、非常に参考になりました。





 
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