戦前の大衆小説の金字塔的作品です。
朝日新聞に四年にわたって連載された大河小説(文庫本で八冊)です。
今では信じられないことですが、朝日新聞の発行部数を大幅に伸ばし、自宅で新聞を取っていない人たちは、毎朝、職場で朝刊を奪い合って読んだと言われるほど人気がありました。
名もない田舎の郷士のせがれが、いろいろな人たちと触れ合う(剣による果し合いだけでなく、禅や芸術とも出会います)中で、剣禅一如の境地を求める姿に、太平洋戦争前の暗い世相の中で、人々に自分生き方を考えさせたようです。
文芸評論家の尾崎秀樹は、「大衆小説とはロマンを求める小説」と定義しています(その記事を参照してください)が、この小説はまさにその王道を行く作品だと言えます。
ただ、そのロマンは、「男のロマン」(天下無双の剣豪で、登場する女性たち(お通、朱美、吉野太夫、お鶴など)にもやたらともてます)と言えるかもしれないので、女性読者が多数派の現代の読者には向かないでしょう。
また、ジェンダー観が古いだけでなく、教養主義(その記事を参照してください)真っ盛りの時代なので、歴史や古典文学や宗教などの作者の広範な知識が作品内で披露されるので、現代の読者に読みこなすのは難しいかもしれません。
なにしろ、大衆小説家として文壇からは差別(芸術院会員にはなれませんでした)されながら、大衆の圧倒的な支持を背景に文化勲章まで取った大家の作品なのですから。
個人的には、剣を追求して、吉岡一門などと戦っていた前半は夢中になれたのですが、剣や武蔵個人から離れて枝葉末節の部分が多く、まだ若いのに武蔵がどんどん老成していく後半は好きになれませんでした。
特に、クライマックスの船島(俗に小次郎の別名から巌流島と呼ばれています)での佐々木小次郎との決闘のシーンは、主な登場人物をすべて集めた大団円になっていて、決闘の部分があっさりしすぎて物足りませんでした。