現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

或る夜の出来事

2024-06-19 14:24:29 | 映画

 1934年公開のアメリカ映画です。

 じゃじゃ馬娘の大富豪の令嬢が家出して、ふとしたことから新聞記者の青年と出会って恋に落ちるという典型的なア・ボーイ・ミーツ・ア・ガールの映画です。

 こうしたありふれた設定でも、名匠フランク・キャプラの手にかかると映画史上に残る傑作になります。

 しゃれた会話、魅力的な登場人物、わくわくするような音楽が合体して、アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞の主要五部門を独占しました。

 クラーク・ゲーブルの溌溂とした男前ぶり(古い言葉ですがこれがピッタリときます)とクローデット・コルベールのコケティッシュな魅力が存分に発揮されて、古き良き時代の映画の典型を見る思いです。

 

 

 

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J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

2024-06-14 11:03:35 | 参考文献

 言わずと知れた青春文学の世界的ベストセラーです。
 特に、日本ではサリンジャーの母国のアメリカより有名なようです。
 四十年近く前に、アメリカにある会社の研究所に半導体の勉強をしに行っていた時、研究所で知り合ったアメリカ人の友だちにこの本のことを話したらまったく知りませんでした。
 もっとも、彼は博士号も持つガチガチの理系人間でしたが、この本は一部の州では悪書に指定されるなど迫害も受けていたようです(このあたりは、キンセラの「シューレス・ジョー」に詳しく書かれています。この本は日本でもヒットした映画「フィールド・オブ・ドリームス」の原作ですが、たぶんサリンジャーのOKが取れなかったのか、映画の中では六十年代の黒人作家テレンス・マンに代えてあります)。
 ネット上でも、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」についてはいろいろ書かれているでしょうから、改めてあらすじは述べません。
 ここでは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えた影響だけを考察したいと思います。
 その前に、なぜ「ライ麦畑でつかまえて」でなく、原題の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」としているかを説明したいと思います。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、1951年にアメリカで出版されたすぐ翌年に「危険な年齢」なんてすごい題名で日本語訳が出ましたが、一般的には1964年に出た野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」で日本でもベストセラーになりました。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は学生時代に原書でも読みましたが、野崎訳に大きな不満はありませんでした。
 ただ、題名だけはずっと違和感を持っていました。
 これでは、なんだか女の子が「ライ麦畑でつかまえて!」と男の子を誘っているような感じがしてしまいます。
 原題に忠実に訳せば「ライ麦畑の捕まえ手」とでもなるのでしょうが、日本語としての収まりはいまいちです。
 2003年に、村上春樹がこの作品の新訳を出して話題になりました。
 それを読んでも特に新しい感銘は受けなかったのですが、題名を「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にしたのには、なるほどこれだけ有名になった後ならばこの手があったかと思いました。
 なぜ私がこれだけ題名に固執しているかといいますと、この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という題名にはこの作品の本質があらわされているからです。
 これについては、後で詳しく述べます。
 さて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えた影響として、大きなものはふたつあると思います。
 ひとつは、饒舌な若者言葉で書かれた文体です。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の直接的な影響を受けている日本の文学作品として有名なのは、1969年に発表されて芥川賞を取り、これもベストセラーになった庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」があげられます。
 「赤ずきんちゃん気をつけて」は、文体だけでなく、作品に出てくる少女の扱いなど、たくさんの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に似ている点が指摘されています。
 この本は、現在ならばヤングアダルトの範疇の本として出版されたかもしれないので、児童文学作品と言ってもいいかもしれませんません。
 まあこれは別として、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の文体を、初めて現代日本児童文学に適用したと思えるのは、1966年の講談社児童文学新人賞を取って、翌年に出版されて課題図書にもなった後藤竜二のデビュー作である「天使で大地はいっぱいだ」です。
 この作品で使われた子どもの話し言葉で書かれた文体は、発表時には児童文学界ではかなり高く評価されたようですが、先に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでいた私にはそれほど新鮮には感じられませんでした。
 その後も、饒舌な子どもの話し言葉で書かれた作品は、現代日本児童文学でよく見られるようになりました。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えたもうひとつの大きな影響は、アイデンティティの喪失、生きていくリアリティの希薄化、社会への不適合などの若者の「現代的不幸」を鮮明に作品化したことです。
 この作品が出版されたころのアメリカは、「黄金の50年代」と呼ばれた繁栄の時代を迎えていました。
 貧困、飢餓、戦争(朝鮮戦争はありましたが遠い極東の事件でした)などの「近代的不幸」を克服したアメリカの中産階級の家庭の高校生、ホールデン・コールフィールドには、親の敷いた路線に従ってアイビーリーグの大学を卒業すれば、豊かな生活が保証されていました。
 しかし、ホールデンはそういった見かけだけの豊かさや大人の欺瞞に対して反発し、自分のアイデンティティを見失ってしまいます。
 この「現代的不幸」は、1960年代後半に入ってようやく豊かになった日本で、多くの若者が直面した問題でした。
 そのため、この作品が、そのころの日本でベストセラー(私の持っている本は1974年の第28刷です)になったのでしょう。
 それに対して、現代日本児童文学はこれら現代的不幸の問題に、すぐには対応できませんでした。
 その頃の日本の児童文学界は、階級闘争的な問題に力を入れていて、組合運動や学園闘争や市民運動などを無理やりに中学生や小学生を主人公にした作品に取り入れて、支配階級に対して労働者階級の団結や連帯で問題解決を図ろうとする作品が、後藤竜二や古田足日などを中心にして書かれていました。
「現代的不幸」を現代日本児童文学で描くようになったのは、70年安保の挫折とその後の混乱を経た1970年代後半になってからでした。
 その初期の代表的な作家は森忠明でしょう。
 森の初期作品、「きみはサヨナラ族か」や「花をくわえてどこへゆく」などには、「現代的不幸」に直面した日本の子どもたちの姿が描かれています。
 私自身も、この「現代的不幸」に直面した子どもたちを描くのをテーマにして作品を書き始めたのですが、それはさらに遅れて1980年代後半のことでした。
 今振り返ってみると、1970年代半ばの学生時代に自分自身がこの問題に直面し、実際に児童文学の創作を始める1980年代半ばまでの空白期間は、自分自身のアイデンティティの回復に必要な時間だったのかもしれません。
 さて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が日本で広く受け入れられた理由の一つに、彼の東洋的な思想への傾倒があります。
 この作品を初めて読んだ時に、私はすぐに宮沢賢治のデクノボーを主人公にした作品群、特に「虔十公園林」を思い浮かべました。
 サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の最後の方で、ホールデンに自分がなりたいものについて、妹のフィービーに向かってこう語らせています。
 以下は野崎孝の訳によります。
「とにかくね。僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない - 誰もって大人はだよ - 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖の縁に立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。 - つまり子供たちは走ってるときにどこを通ってるなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
 もちろん、作品の題名は、このセリフからきています。
 そして、サリンジャーがこの作品で最も重要だと思ったメッセージはこの部分だと、私は考えています。
 それは、宮沢賢治が「虔十公園林」で描いた「顔を真っ赤にして、もずのように叫んで杉の列の間を歩いている」子どもらを、「杉のこっちにかくれながら、口を大きくあいて、はあはあ笑いながら」見ている虔十の姿にピタリと重なってきます。
 そして、学生時代の、また児童文学の創作を始めたころの私自身にとっても、「ライ麦畑のつかまえ役」や「杉林でかくれて子どもらを見ている虔十」は、「僕がほんとうになりたいもの」なのでした。
 今はもう成人した二人の息子たちがまだ幼かったころ、時々彼らを連れていく大きな公園がありました。
 そこには杉林(虔十公園林とは違って、十メートル以上にも大きく育っていました)の中に、たくさんのフィールドアスレチックの障害物があり、いつも多くの子どもたちが遊びまわっていました。
 そのはずれに立って、自分の息子たちだけでなく、たくさんの子どもたちが歓声をあげて走りまわっている姿をぼんやりながめていると、いつのまにか頭の奥の方がジーンとしびれていくような幸福感を感じていました。
 あるいは、その時には、「現代的不幸」をテーマに創作を続けていくことの自分自身のモチベーションは、すでに失われていたのかもしれません。

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
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白水社


 

 

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Mr.Boo!ミスター・ブー

2024-06-12 08:00:36 | 映画

 1976年公開(日本公開は1979年)の香港映画です。

 ホイ三兄弟が出演するドタバタ・コメディ(監督はマイケル・ホイ、音楽はサミュエル・ホイが担当)です。

 日本では全く期待されていなかった穴埋め映画に過ぎなかったのですが、意外にヒットしたので、彼らの他の映画もミスター・ブーのシリーズもの(実際は違うのですが)として公開されました。

 くだらないギャグやコントの連発なのですが、当時の香港の人々のヴァイタリティが良く出ていて日本でもおおいに受けました。

 彼らやジャッキー・チェンの映画に描かれていた当時の香港には、猥雑だけど何とも言えない魅力があって、一度は行ってみたい外国のひとつでした。

 1999年に中国に返還されてからの変貌はご存じの通りで、まさに隔世の感があります。

 

 

 

 

 

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森忠明「ぼくが弟だったとき」

2024-06-11 11:22:15 | 作品論

 小学三年生のぼくには、一つ年上のおねえちゃんいます。
 おねえちゃんはしっかり者で美人ですが、ぼくはにぶくてはなたらしです。
 ぼくのパパとママは、パパの浮気とママの宗教活動のために、いつも喧嘩しています。
 ぼくはおねえちゃんに「両親がわかれたらどっちへゆく」と聞かれて、「おねえちゃんがゆくほう」と答えます。
 二人は、まだ両親が仲良かったころに行った上野動物園のことを懐かしみます。
 その後も、おねえちゃんの思い出が次々に語られていくので、なんだか読者はだんだん不安になります。
 ぼくがおねえちゃんのボーイフレンドの家の飼い犬にかまれたことで、彼とうまくいかなくなったおねえちゃん。
 両親の喧嘩に愛想を尽かして、おばあちゃんの家へプチ家出した時に、ぼくに三千円をくれたおねえちゃん。
 家出から家へもどるときに、三千円に恩着せてぼくを迎えに来させたおねえちゃん。
 ぼくと背比べをして負けてひがんでいたおねえちゃん。
 中央線の多摩川を渡る鉄橋の足を作るのに貢献したひいおじいちゃんの名前を、その石の台に彫ってくるようにぼくに命令するおねえちゃん。
 お風呂にバスクリンと間違えてお風呂掃除の液体を入れてしまったおねえちゃん。
 次々と、あまり脈絡なくおねえちゃんの思い出が語られています。
 読者の不安が的中するように、ラストでおねえちゃんは脳腫瘍にかかってあっけなく死んでしまいます。
 この作品も、作者の実体験に基づいているようで、あとがきにこのよう書いています。
「死児の齢をかぞえるのは親の役割ときまったわけではないだろう。
 おろかな弟だったぼくもまた生前の姉をなにかにつけて思い出す。
 (中略)
 町の写真館の奥には、セピアに変色した姉の一葉が今も掲示されていて、時たまガラス戸ごしにのぞき見るぼくに、いつもきまった視線を向ける。
 その目には、本道からはぐれがちな弟をあやぶむようなかげりがあるが、この物語を姉にささげることで、かげりが少しでも薄くなればいい。」
 しっかり者の姉と頼りない弟、愛する者の喪失、人のはかなさ、生の多愁といった森作品の重要なテーマが、ここでも繰り返し語られます。
 作者の実体験はおそらく1950年代のおわりごろと思われますが、出版された1985年ごろにアレンジされているために、風俗やセリフがやや時代的にちぐはぐな感じを受けます。
 これは、作品を売る時の商品性に配慮したために起こることなのですが、児童文学の世界では編集者などからこのような要求がよくなされます。
 そのため、どこの国の話か分からない無国籍童話(これも初心者のメルヘン作品には今でも多いです)ならぬ、時代がいつなのかはっきりしない無時代児童文学作品(?)がよく書かれます。
 この後、森忠明は完全に開き直って、時代設定を実体験に合わせて書くようになりますが、この作品は過渡期に書かれたようです。
 森作品に限らず、あやふやな時代設定で書くよりは、現代なら現代、作者の子供時代ならその時代と、はっきりさせて書いたほうが、特にリアリズムの作品では成功することが多いようです。

ぼくが弟だったとき (秋書房の創作童話)
クリエーター情報なし
秋書房

 

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本田和子「境界にたって その3 「自己」の文学 ―― 無意識と意識のはざまに生まれるもの」

2024-06-10 08:27:35 | 参考文献

 「子どもの館」18号(1974年11月)に発表された論文です。
 ユング理論に基づいて、意識と無意識を含む心の全体として、「自己(self)」という概念を以下のように使っています。
「意識野の中心として意識の世界を統括するのが「自我(ego)」であるのに対し、「自己」は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように自我を縫合するのである。」
 著者は、1963年に刊行されたモーリス・センダックの「Where the Wild Things Are」(文中の邦題は「いるいるおばけがすんでいる」になっていますが、現在は「かいじゅうたちのいるところ」として日本でも有名になっています)を詳細に分析することによって、意識と無意識の両方にまたがる「自己」の文学について説明しています。
「この物語は、一人の少年の無意識への退行と、新たな統合を成就した上での意識への回帰を、あまりにも典型的に描き出していて説明の要もなく思えるほどである。」
と、著者は「かいじゅうたちのいるところ」を評しています。
 ご存知のように、その後「かいじゅうたちのいるところ」は、世界中で2000万部以上も売れたベストセラーになりました。
 著者が指摘しているように、意識と無意識が大人より不分明である子どもたちにとっては、両方の世界を象徴的に描いた「かいじゅうたちのいるところ」はすんなり受け入れられる作品なのでしょう。

 

かいじゅうたちのいるところ
クリエーター情報なし
冨山房
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児童文学における童話的資質について

2024-06-06 08:37:57 | 考察

 このブログで繰り返し述べてきましたが、1950年代にスタートした「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)では散文性の獲得を目指していました。
 それは、小川未明たちの近代童話の詩的表現を批判するところからきています。
 そうした表現方法では、しっかりとした骨格を備えた長編の物語を描くことはできないことが主な理由でした。
 しかし、その後も、幼年文学を中心にして、童話は作られ続けています。
 幼年文学の中には、いぬいとみこ「長い長いペンギンの話」や神沢利子「くまの子ウーフ」(その記事を参照してください)のような、「現代児童文学」が目指した優れた散文性を備えた作品もありますが、多くは従来の童話の形式で書かれて、今でも幼年童話という言い方は幼年文学よりも一般的です。
 そうしたおびただしい数の幼年童話は玉石混交で、神宮輝夫や安藤美紀夫などが批判したようなステレオタイプな作品もたくさん含まれています(それらの記事を参照してください)。
 多くの駄作の中でキラリと光る宝石のような童話を書ける作者には、かつて古田足日が今西祐行の「はまひるがおの小さな海」を評して使った「童話的資質」というものが確かにあって、「子ども(人間)の深層に通ずる何かを持っている」のではないかと思わされます。
 古田先生は、童話的資質を持っている書き手として、他に山下明生、安房直子、舟崎靖子をあげていましたが、戦前の宮沢賢治、新見南吉、小川未明、浜田広介なども同様だと思われます。
 私自身には童話的資質が決定的に欠けているのですが、四十年以上も児童文学の同人誌に参加しているので、数はすごく少ないですが明らかに童話的資質に恵まれている人たちと出会っています。
 こうした書き手は、もちろん優れた散文も書けるのですが、その中に他人にはまねのできない詩的な表現をさりげなく紛れ込ませることができます。
 そして、童話的資質が力を発揮するのは、やはり長編よりも短編に多いようです。
 「現代児童文学」が生み出した優れた散文性を持った長編は主として子ども読者の「頭脳」に知的な刺激を与えたのに対して、童話的資質の持ち主が書いた短編は子ども読者の「心」に感性的な刺激を与えてくれたと思われます。

夕暮れのマグノリア
クリエーター情報なし
講談社
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今西祐行「はまひるがおの小さな海」そらのひつじかい所収

2024-06-05 08:59:37 | 作品論

 作者の児童文学の出発点として1956年に出版された、「そらのひつじかい」(日本児童文学者協会新人賞受賞)に収録されている作者の幼年童話の代表作の一つです。

 岬のとっぱなに、ひとりぼっちで咲くひるがおと、「ぼく」の会話でお話は始まります。
 ひるがおは、「ぼく」に「自分をつみとってくれ」と、頼みます。
 「ひるがおをつむと空がくもる」という、言い伝えがあるからです。
 嵐の夜に近くに打ち上げられ、小さな水たまり(小さな海)に取り残されて、ひるがおとすっかり仲良しになったおさかなが、太陽がつよくてにえそうになっているのを見かねて、自分を犠牲にして空を曇らせようとしたのです。
 「ぼく」は、ひるがおをつみとったりせずに、さかなをすくって海へ帰そうとします。
 でも、そうすると、ひるがおはまたひとりぼっちになってしまいます。
 「ぼく」は、浜で遊んでいた子どもたちに頼んで、ひるがおの「小さな海」に毎日海の水を入れてくれるよう頼むのでした。
 子どもたちは快諾したばかりか、えびやかにも入れて「小さな海」をにぎやかにしてくれることを約束してくれます。

 この作品も選ばれている「幼年文学名作選15」の解説で、児童文学作家で研究者でもある関英雄は、「はまひるがおと「小さな海」に息もたえだえになっている小魚の間にかよう心は、まさに今西童話の核となる「心の結びあい」の、もっとも簡明で美しい結晶です。浜であそぶ子どもたちがその「小さな海」を守るという結末、何回読み返しても心をうたれずにはいられません」と激賞しています。
 現代的にいえば、「魚を小さなところへ閉じ込めたまでは残酷だ。エビやカニも入れるなんてもってのほかだ」と、動物愛護の立場から非難されるかもしれません。
 「子どもたちはすぐに飽きてしまって、「小さな海」は干上がったに違いない」という人もいるかもしれません。
 しかし、この作品の優れた点はそういった表面的なところにあるのではありません。
 「ぼく」(少年かもしれませんし大人かもしれません)の中にある「童心」が、ひるがおや浜の子どもたちの「童心」と読者の中にある「童心」とを確かに結びあわせる、作者の童話的資質(モティーフ、視点、文体などすべてをひっくるめた作品全体。私の拙い要約では伝えることができまないのが残念です)そのものにあるのです。
 この作品が世の中に出たちょうど同じころ、「さよなら未明 -日本近代童話の本質ー」(その記事を参照してください)で、「「現代児童文学」はこうした「童話」と決別しよう」と呼びかけた児童文学者の古田足日は、数十年後のインタビュー「幼年文学の現在をめぐって」(その記事を参照してください)の中で、この作品について「魂の救済」「「童話的資質」は、子ども、人間の深層に通ずる何かを持っている」と述べて、童話伝統の持っている内容・発想の価値を、特に幼年文学の分野において認めています。
 補足しますと、作者は、早大童話会で古田足日の先輩にあたるのですが、1953年の「少年文学宣言」では彼らに批判される側の立場(坪田譲治の門下生)でした。
 当時から、古田足日は、童話的資質を持っている書き手の「童話」は評価していましたが、作者のこの作品などもその念頭にあったかもしれません。
 「童話的資質」と言ってしまうと、それから先は思考停止で分析が進まないのですが、たくさんの童話作家や童話作品に出会っていると、確かにそうとしか言えないものを感じます。

 長年、児童文学の同人誌に参加していると、初心者の人がいかにも「童話」らしい作品を提出してくることがよくあります。
 「こういうのが一番厳しいんだけどなあ」と、つい思ってしまいます。
 なぜなら、こうした作品は、修練しても身につかない本人の「童話的資質」が問われるからです。



はまひるがおの小さな海 (日本の幼年童話 15)
クリエーター情報なし
岩崎書店














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国松俊英「おかしな金曜日」

2024-06-04 10:33:35 | 作品論

 1978年に書かれた家庭崩壊を描いた作品です。
 それまで児童文学でタブーとされていた問題(性・自殺・家出・離婚など)に取り組んだ先駆的な作品のひとつです。
 主人公の小学五年生の洋一の家では、父親が一年前に家出したきり帰ってこないので母子家庭になっていました。
 その頼りの母親もある金曜日に男と姿を消してしまい、洋一は小学一年生の弟の健二と二人だけで団地の家に取り残されてしまいます。
 洋一は、周囲には母親がいなくなったことは隠して、健二と二人で何とか助け合って暮らそうとします。
 その後、同じクラスの山田メガネ(ガリ勉なので敬遠していましたが、勉強のことで家で締め付けられて洋一の家にプチ家出してから、洋一たちと仲良くなりました)、隣の席のみさ子(両親や兄弟に誕生日を祝ってもらえる恵まれた家の子ですが、うすうす洋一たちの事に気がつき同情しています)の二人には、本当の事を打ち明けます。
 とうとうお金がなくなった時に、洋一は周囲の無関心で頼りにならない大人たち(担任の教師も含まれます)には最後まで頼らずに、健二と二人で家を出て、山田メガネが調べてくれた隣町の児童相談所に向かいます。
 駅まで見送りに来てくれた山田メガネとみさ子との別れのシーンは、過度に感傷的にならず淡々と描かれていますが、これから洋一たちを待ち受けているであろう厳しい現実を考えると、「どうか二人に幸あれ」と祈らざるを得ません。
 国松も同じ気持ちなのでしょう。
 最後の一行はこう書かれています。
「電車が走っていく西の空に、雲が切れた青い空がすこしだけ見えた。」
 また、その後の二人の事が心配であろう読者たちに配慮して、事前に児童相談所に勤める野鳥好きの親切そうな大沢という人物(野鳥の会の会員でもある国松自身の分身でしょう。このあたりにはエーリヒ・ケストナーの影響が感じられます)を事前に二人に出会わせています。
 この本の文庫版の解説を書いている児童文学者の砂田弘によると、1980年現在、片親だけの家庭が約八十万戸あり、そのうちの三分の二以上が離婚家庭だったそうです。
 また、養護施設で生活している約三万人の子どもの場合も、親に死なれた子はわずかに十人に一人だけだったとのことです。
 当時でも珍しくなかったこういった家庭を失った子どもたちを描いた日本の児童文学としては、この作品が初めてだったのです。
 砂田はこの作品の第一の魅力を、「深刻な問題を描いているにもかかわらず、明るさとユーモアとスリルに富んでいること」と述べていますが、まったく同感です。
 暗くなりがちな問題を、洋一と健二のバイタリティと、山田メガネとみさ子のやさしさを軸に、終始子どもの立場にたって明るく描かれています。
 そこには、国松の子どもたちに対する確固たる信頼が感じられ、こういった子どもたち(国松自身や大沢さんのような大人たちも含めて)の人間関係が、70年代はまだあったのだなと気づかされます。
 それから三十年以上がたった2013年の日本児童文学者協会賞の村中李衣の「チャーシューの月」(その記事を参照してください)は、養護施設に暮らす子どもたちを描いています。
 そこには、洋一と同じような境遇(さらに過酷になっているかもしれません)の子どもたちが、今もたくさん(いやさらに増えているでしょう)暮らしています。
 このような問題に真正面から取り組んだ作品を、児童文学者としてこれからも生みだしていかねばならないことを痛感しています。

 

おかしな金曜日 (偕成社文庫 (2080))
クリエーター情報なし
偕成社
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くらもちふさこ「天然コケッコー」

2024-06-03 08:50:43 | コミックス

 1994年から2000年にかけて、コーラスに連載された作者の代表作のひとつです。
 それまで別マ(別冊マーガレット)の看板漫画家の一人だった作者が、少し年齢の高い読者層を対象とした雑誌に連載するために、それまでの絵のタッチ(それ以前にも徐々に変化していましたが)や作風(都会から田舎(山陰地方です)へ舞台を変え、登場人物もそれまでの中学生中心から、高校生中心にしています)を変えてチャレンジして、見事に成功しました。
 美人だが方言バリバリの主人公、右田そよの中学二年から高校二年までの三年間を、東京から転校してきた大沢広海との恋愛を中心に、村の豊かな自然(海も近いです)、分校の下級生たちや先生たち、ユニークな村の人々、高校での新しい人間関係などを散りばめながら描いています。
 この作品の成功の一番の理由は、なんといってもヒロインの右田そよの造形でしょう。
 地元だけでなく高校のある町でも有名になるほどの美人なのに本人にはまるでその自覚はなく、成績も良く分校の下級生たちの面倒もよく見る「いい子」なのですが、どこか抜けている題名通りの天然ぶりが魅力です。
 題名の天然コケッコーは、彼女の天然さと分校で彼女たちが世話しているニワトリ(コッコ、彼女がいつも心のよりどころにしている分校(将来はそこで先生をするのが彼女の夢です)の象徴でしょう)からきています。
 また、作者の作品の特長であり限界でもあったお約束の主人公があこがれる美少年も、この作品ではおっちょこちょいで三枚目の性格を持たせることによって、リアリティを高めることに成功しています。
 二人の恋愛関係も、すぐにファーストキスはするのですが、その後は彼女の古風さもあって三年かけてゆっくりと進み、なんどかきわどい局面はあったのですが、ラストまで実現しなかったことも、こういった作品の大半の読者の女の子たちと同様で、安心して読める要因になったかもしれません。
 この作品は、登場人物がストーリーとともに年齢を重ねていく一種の成長物語(定義については、関連する石井直人の論文の記事を参照してください)なので、読者と登場人物は一緒に成長していくことにより、自分の体験と重ね合わせて読むことができます(連載は6年間なので、実際は読者の成長の方が2倍ぐらい速いです)。
 修学旅行(主人公には初めての(彼が住んでいた)東京です)、高校受験(主人公と彼とでは成績が違うので、二人が離れ離れになる危機です)、高校入学(二人を除くと、他はみんな町の子ばかりなので、主人公はなかなかなじめません)など、読者にも身近なイベントを追体験しながら、読者は主人公たちと一体化できるのです。
 なお、2007年に、この作品の中学時代の部分が実写映画化されました。
 実際の作品の舞台である山陰の農村(作者の母の故郷だそうです)にロケーションした美しい映像と、新人時代の夏帆と岡田将生のういういしい演技が記憶に残っています。

 

 

 

 

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K.M.ペイトン「卒業の夏」

2024-06-02 16:02:48 | 作品論

 1970年にイギリスで出版されて、1972年に日本で翻訳が出た児童文学作品です。
 1973年に大学に入学してすぐに、児童文学研究会の先輩に進められて読んで、衝撃を受けた作品でした。
 今で言えばヤングアダルト物の範疇に入るのですが、児童文学研究会で賢治やケストナーの作品の研究をしようと思っていた私には、「こういう作品も児童文学なのだ]と目を開かされた思いでした。
 主人公のペン(ペニントン)は一応中学生なのですが、一年落第しているので彼の16歳(夏には17歳になります)の春休みと彼にとっては最終学期になる夏学期(イギリスでは6月までのようです)が描かれています。
 そのころの不良の象徴である長髪(日本でもそうでした)を肩まで伸ばして、酒やタバコは日常的にやり、古い漁船を操縦したり、父親の600CCのバイクでふっとばしたりするかなり豪快な不良ですが、根は友達思いで(親友のベイツは、ペンとは対象的に内気な引っ込み思案なタイプです)心優しいところもあります。
 曲がったことが嫌いなために生き方が下手なので、いつも高圧的で禁止されている体罰(むち打ちです)も平気でする担任教師や警察に睨まれています。
 私の持っている日本の本の表紙に描かれているペンは、長身やせギスで、いかにも日本の不良って感じですが、実際には体重が90キロ以上ある筋肉の塊のような体をしていて、スポーツ万能(中学のサッカーチームのキャプテンで、地区の水泳大会では400メートル自由形で優勝します)です(その点では、アメリカで出版された本の表紙(福武文庫版ではこちらが使われています)や挿絵では、忠実にマッチョなタイプに描かれています)。
 そして、ここが作品のミソなのですが、こんな野獣タイプのくせに、ピアノは天才的な腕前なのです(本人は自分の才能に無自覚ですが)。
 教師たちや警察や他の不良たちとのいざこざとともに、ベイツ(ふだんはダメですが、酒に酔うと天才的な歌手に変身します)との音楽活動やそれを通して出会った素敵な女の子(実際に付き合ってみるとそうでもないのですが)への憧れなども、しっかりと書き込まれています。
 ラストでは、ピアノコンクールで優勝して、音楽学校の教師に認められて進路が決まったおかげで、ほぼ確定的だった少年院行きを免れます(このあたりは、訳者があとがきで書いているようにデウス・エクス・マキナ的ですが)。
 なお、この本のオリジナルのタイトルは、PENNINGTON’S SEVENTEENTH SUMMERですが、私が持っているアメリカ版のタイトルは、PENNINGTON’S LAST TERMで、同じ本なのにややこしいです (アメリカや日本のタイトルの方が内容的にはあっていますが)。
 作者のペイトンは、フランバーズ屋敷シリーズでカーネギー賞やガーディアン賞を取ったばかりで、そのころのイギリスの児童文学界では最も注目を集めていた作家でした。
 この本にも、残念ながら翻訳されていませんが、続編が二冊あります。


 

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