現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

JUNO/ジュノ

2024-03-13 09:07:21 | ツイッター

 2007年公開のアメリカ映画です。

 予期せぬ妊娠をした16歳の少女ジュノの、九か月にわたる成長を描いた作品です。

 初めは単館上映に近い扱いでしたが、いろいろな賞レースでの受賞や口コミで評判が広がり、最終的にはアカデミー賞の作品賞の候補(惜しくも受賞は逃しましたが、脚本賞を受賞しました)にまで上り詰め、興行的にも一億ドル以上と大成功を収めました。

 ボーイフレンドとのたった一回のセックスであっさり妊娠してしまった主人公は、もちろん男の子も逃げ腰なので、初めは中絶するつもりでした。

 しかし、中絶することがおなかの子に対してかわいそうになり、出産して養子に出すことにします。

 ともすれば暗くなりそうな題材ですが、それが主人公のキャラクターとも相まって、楽しいコメディに仕上がっています。

 主人公(かなり風変りですが、基本的は良識的ないい子です)はもちろん、その親友(あっけらかんとしていて、いつも主人公を支えます)、ボーイフレンド(基本的にはいい子で、主人公が出産後本当の恋人になります)、両親(父親は主人公の一番の理解者ですし、母親は継母ですが彼女なりに主人公を支えます)、養親になるカップル(妻のほうは母になる気満々ですが、夫のほうは精神的に幼く父親になる覚悟ができていません。けっきょく別れることになるのですが、夫は離婚後も養子縁組を経済的に支えることになります)などのキャラクターがみんなたっていて、どの組み合わせのシーンも退屈させません。

 さすがにアカデミー賞を受賞するだけあって、脚本がよく練られています。

 また、全編に流れる音楽もすごくおしゃれで、そのサウンドトラックはビルボードのアルバムチャートの一位に輝きました。

 

 

 

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グランパ・ウォーズ おじいちゃんと僕の宣戦布告

2022-01-29 18:21:17 | ツイッター

 2020年公開のアメリカ映画です。

 児童文学を原作にした子供向けのコメディです。

 同居することになった祖父に自分の部屋を取られて、屋根裏部屋で暮らすことになった少年が、自分の部屋奪還のための戦争を、祖父に宣戦布告します。

 かなりハチャメチャないたずらや嫌がらせ(けっこうひどくて笑えないものも含まれています)の応酬が、これでもかと続きますが、その中に二人の交流も巧に紛れ込ませて、この戦争のおかげで妻を亡くした痛みから祖父が立ち直るというハッピーエンドが用意されています。

 両親やその他の登場人物も含めて、相当デフォルメされていますので、日本人の目から見るとちょっとついていけない感じもします。

 ただ、名優ロバート・デ・ニーロが、祖父役を楽しそうに演じているのには好感が持てました。

 

 

 

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上 笙一郎「序 児童文学研究を志す人へ」児童文学研究必携初秋

2022-01-20 12:18:17 | ツイッター

 日本児童文学学会が、そのころ(1971年)急激に増えていた児童文学研究を志す人(つまりは、各大学で児童文学の講座が開設されて、そこで学ぶ学生や学会の会員も急激に増えていました)に向けて出版した手引き書(他に「日本児童文学概論」と「世界児童文学概論」も出版されました)の序文です。

 タイトルからもわかるように、序文というよりは、檄文に近い内容です(本自体にも「必携」なる文字が付されていて、当時の執筆者たちの気負った雰囲気が伝わってきます)。

1、児童文学研究の意味するもの

 一般文学と比較して児童文学研究がいかに遅れているかを慨嘆しつつ、ようやくこうした手引き書を出せるようになったことを感慨深く述べています。

 また、当時の児童文学者の背景にあった政治的立場を反映して、「児童文学を志す者は、国家というオーソリティーにたいする批判の精神を、常に持ちつづけてほしいしまた持ちつづけなくてはならない」としています。

2、児童文学研究とは何か

「「子どものための文学に関する科学」であると同時にそれ自体ひとつの「知的文学」でもあらねばならぬ」と主張しています。残念ながら、この言葉に見合った論文は、そのころもその後も非常に少ないです。

3、児童文学研究の領域と方法

 領域としては、児童文学理論、児童文学批評、児童文学史、児童文学書誌をその四領域としています。

 方法としては、文芸学的方法、歴史社会学的方法、書誌学的方法の三種類をあげています。

 さらに、補助的な方法として、哲学的方法、心理学的方法、教育学的方法、比較文学的方法、民族学的・文化人類学的方法、社会経済学的方法もあげています。

4、児童文学研究の心的基軸

 木を見て山を見ずや、その逆の山を見て木を見ずでもない、複眼的なアプローチの必要性を指摘し、モチーフとしては、投機的・功利的、知的興味的、教育的・児童文化的な責任感、人生論的のすべてを持ち合わせることを要求しています。残念ながら、それらを持ち合わせた児童文学研究者には、寡聞にして出会ったことがありません。

 

 総じて、学問分野の勃興期における、希望や気負いに満ちあふれた文章になっています。

 すでに斜陽になった(児童文学の講座は少なくなり、学会の会員数も減少しています)現在の児童文学業界(学会だけでなく、出版状況も含めて)から考えると隔世の感があります。

 私自身は、これら三冊を1976年の大学四年の時に買ったのですが、それは「ただちに児童文学の研究をする」ためでなく、全く違う業界(エレクトロニクス)で働くことを決めていたので、「いつの日か、児童文学の研究をする」ための自分自身への決意表明のようなものでした。

 その時は、こんなに早く日本の児童文学が衰退するとは夢にも思っていませんでした。

 

 

 

 

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タクシー運転手 約束は海を越えて

2021-05-13 14:50:12 | ツイッター

 2017年の韓国映画です。

 実話に基づく作品だそうですが、かなり娯楽色を強めて作られているので、どこまで真実に近いのかわかりません。

 1980年に起きた光州で起きた軍事政権と革新精力との衝突、いわゆる光州事件を舞台にしています。

 ソウルからドイツ人記者を乗せて光州へ行ったタクシー運転手が、自らも事件に巻き込まれていく姿を描いています。

 この映画が成功したのは、お金目当てで光州へ行った運転手の目を通して、ユーモラスな部分とシリアスな部分を混在させて、一種のエンターテインメント作品に仕上げたことでしょう。

 作品の立場は、完全に革新勢力側に立っていて、軍事政権側の一方的な弾圧や虐殺だとしています。

 封切当時、韓国では大ヒットしたそうですが、それはその時の政権が革新側であったことと無縁ではないでしょう。

 途中まではかなり主人公に寄り添った形で見られたのですが、主人公たちを助ける光州のタクシー運転手たちがあまりにもヒロイックに描かれていることと、主人公たちを追ってきた軍人たちがあまりにも無能なので、最後の方ではしらけてしまいました。

 なお、邦題についている副題は、オリジナルにはなく、また内容にもあっていなくて、意味不明です。

 

 

 

 

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きょうのできごと

2021-05-08 09:51:26 | ツイッター

 2003年公開の日本映画です。

 2000年に出版された柴崎友香の短編連作の映画化です。

 原作は、京都の大学院に通う男性の合格祝いと引っ越し祝いを兼ねた飲み会に集まった男女の様子と、その前後の日々を繊細なタッチで描いています。

 監督の行定勲は、原作の部分はかなり忠実に描くとともに、原作にはない「きょうのできごと」というニュース番組に取り上げられた二つのニュース(「浜辺に打ち上げられたクジラ」「建物の壁に挟まれて宙づりになった男」)を創作して、主人公たちの日常生活とは別に(無関係なようでわずかな関係を持っています)進んでいく世間の日々を描いています。

 妻夫木聡、田中麗奈、伊藤歩、池脇千鶴といった当時売りだし中だった若手の俳優たちが、等身大の若者を生き生きと演じています。

 今は政治家に転じた山本太郎も、ちょい役で登場しています。

 

 

 

 

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夏目漱石「吾輩は猫である」

2020-06-20 10:43:47 | ツイッター
 言わずと知れた明治の文豪による古典です。
 読み直してみると、改めて漱石の教養、知識の深さと広さに驚嘆させられます。
 文学はもとより、芸術や科学や外国の事物に対しても、当時としては先進の知見を有していたようです。
 それを、漱石の分身であろう苦沙弥先生を始めとして、迷亭、寒月、東風、独仙などの個性的な登場人物の口を借りて自在に操り、当時の社会、特に拝金主義や個人主義に対して、鋭い批判を浴びせています。
 その一方で、主人公の猫の目を通して、彼ら文化人たちに対しても、痛烈な批判を展開しています。
 時代的な制約があって、軍国主義やジェンダー観にはさすがに古さも感じられますが、拝金主義の増大、個人主義の増大、教育の陳腐化、芸術の衰退、離婚の増大、非婚化、などに関する先見性には、今でも十分に納得させられます。
 処女作とあって、現代人にとっては文体がややかたく感じられますが、やがては「こころ」や「坊っちゃん」のような、より平明な文体を獲得していくわけです。
 こうした古典的な作品を読むと、「文学」というジャンルが、少なくとも日本では、明治から大正時代にかけてピークを迎えていたことがよく分かります。


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桐野夏生「天使に見捨てられた夜」

2020-05-17 09:25:33 | ツイッター
 1994年に刊行された、女性探偵村野ミロが活躍するハードボイルド小説の第二弾です。
 前作の江戸川乱歩賞を受賞した「顔に降りかかる雨」(その記事を参照してください)の続編ですが、残念ながら前作を上回る出来ではないです。
 理由は、出版を急がされたために、取材や執筆にかける時間が不足したからではないでしょうか。
 今作でも、同性愛、アダルト・ビデオ、裏ビデオ、それに対抗するフェミニズム系運動家、チーマー、セレブ系カリスマ主婦、かつての人気歌手など、読者の興味を引く多くの素材をふんだんに持ち込んでいますが、それらへのツッコミが浅く、これらの分野に門外漢の私でも知っているあるいは容易に想像がつく内容ばかりで驚かされません。
 また、今作では、精神的には主人公を満足させる同性愛者のバー経営者と、肉体的には満足させるアダルト・ビデオ制作会社の社長という二人の男性が登場しますが、どちらも作者が思っているほどは魅力的でも個性的でもなく、なぜ主人公がここまで惹かれるのか、説得力を持ちません。
 解説の松浦理英子が指摘しているように、主人公は性愛的な失敗を前作に続いて今作でも犯すのですが、前述したように性愛の対象者が前作に比べて魅力がないので、ストーリーと有機的に結びついていません。
 また、今作に登場する女性たち(養護施設で育った自己破壊的性向(自殺未遂事件を犯したり、自傷したり、レイプまがいのAVに出演したりしています)のある若い女性、官僚の娘でセレブ婚をした若い女性たちの憧れの対象、フェミニズム系の運動家だが実際は自分の運動の存続に躍起になっている独身女性など)も、前作の登場人物にに比べて人物造形がパターン化しています。
 さらに、前作から引き続いて登場している人物たち(主人公、元探偵の父親、父親の友人の弁護士など)も、前作からの人物像の深化はされておらず、読んでいて物足りません。
 それにしても、前作に引き続いて、今作の題名もすごくかっこいいですね(商業的には非常に大大事です)。



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庄野潤三「イタリア風」プールサイド小景・静物所収

2020-04-30 16:56:09 | ツイッター
 1958年12月号の文學界に掲載され、1960年に中短編集「静物」に収録された短編です。
 作者の作品群の中では、「ガンビア滞在記」に代表されるアメリカ滞在中の見聞に基づいた作品の一つですが、一人称で書かれている他の作品と違って、三人称で書かれています。
 そういった意味では、この時期作者の初期の代表作である「静物」の準備段階だったので、実験的にアメリカ滞在記にもこの人称が採用されたものと思われます。
 しかし、三人称と言っても、いわゆる「神の視点」ではなく、限りなく一人称に近い三人称です。
 書き手がこのような三人称を用いるときには、大きく分けて二つの理由があります。
 ひとつは、主人公のいないシーンを書くためであり、実際に小説を書いた経験がある方ならすぐにおわかりになると思いますが、一人称よりこちらの方が書きやすいのです。
 もうひとつは、対象を客体化して書きたい場合です。
 その場合は、主人公の主観と並行して、それ以外の対象を客観的に描きたい時に便利です。
 この作品の場合は、主人公のいないシーンはないので、明らかに後者の理由で採用されたと思われます。
 招待されたニューヨーク郊外のイタリア系アメリカ人家庭(老夫婦、数年前に主人公と日本で知り合った長男(その時は新婚だったが、すでに妻とは別居していて離婚する予定)、末の娘で浮き世離れした美人の大学生)をできるだけ客観的に描きたかったために採用された三人称でしたが、実際には主人公の主観との分離がうまくいっていなかったように思えます。
 その理由のひとつに、この作品テーマであるアメリカ人(特に妻から見た場合)の結婚観について、「イタリア風」と題名に付けた、旧来の父親を中心にした大家族主義が、実は主人公(=作者)の結婚観と大差がないため、十分な客体化ができなかったためと思われます。
 この作品のわずかな情報の中でも、長男の妻がこの家族とうまくやれなかった理由は十分にわかる(それは作者のエピソードの選び方のうまさでもあります)のですが、作者自身の結婚や妻に対する考えが彼らに非常に近いために、それを十分に批判的に表現できなかったからです。
 そうであるならば、むしろ一人称で書いたほうがすっきりしたことでしょう。
 これ以降、作者のアメリカ滞在記は、すべて一人称で書かれることになります。
 その方が、あくまでも異邦人である日本人のアメリカに対する見方や考えが素直に表現できたようで、ガンビア滞在記のような秀作を生み出すことができました。
 その一方で、三人称で対象を客体化して写生する書き方も、この後静物のような作者にとってより身近な題材を描いた「静物」で文学的に結実し、その後の「夕べの雲」のような家庭小説へもつながっていきます。




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10月7日(金)のつぶやき

2016-10-08 08:16:05 | ツイッター
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10月6日(木)のつぶやき

2016-10-07 07:04:07 | ツイッター
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10月5日(水)のつぶやき

2016-10-06 08:05:54 | ツイッター
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10月4日(火)のつぶやき

2016-10-05 07:33:02 | ツイッター
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10月3日(月)のつぶやき

2016-10-04 08:15:02 | ツイッター
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10月1日(土)のつぶやき

2016-10-02 08:36:11 | ツイッター
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9月30日(金)のつぶやき

2016-10-01 08:33:55 | ツイッター
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