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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

白土三平「誕生の巻」カムイ伝所収

2021-10-31 11:28:00 | コミックス

 「カムイ伝」(ここでは1964年から1971年まで、ガロに連載された第一部を対象にしています)は、江戸時代の寛永の末から寛文年間(1640年ごろから1670年ごろまで)にわたる約三十年間を舞台にした大河歴史漫画ですが、実際には時代背景は史実とはかなり自由に変えてあり、登場人物のメンタリティや言葉遣いは連載当時の日本人にかなり近いものです。
 当時の日本では、高度経済成長をバックに保守陣営と革新陣営が鋭く対立していたのですが、この漫画では現代を舞台にしては自由に書きにくい作者の主張(基本的には、マルクス・レーニン主義や社会主義に影響を受けていると思われます)を、身分社会であった江戸時代を舞台にすることでかなり自由に描いた作品です。
 こうした手法を作者の創作の動機から考えると、児童文学の世界で、リアリズムの世界ではいろいろと制約があるので、ファンタジーの世界でより自由に描くのに近いかもしれません。
 作者の主張が近いために、当時の革新陣営(特に若い世代)に強く支持されました(当時は今と違って、若い世代ほど革新陣営側の考えを持つ人が多く、保守的な考えを持つ人はどちらかというと少数派でした)。
 その後、日本社会が「一億総中流」と呼ばれるほど豊かになっていった1970年代以降に革新陣営が衰退するにつれて、「カムイ伝」の評価もかなり変わってきたのですが、バブル崩壊後に格差社会が進行している日本(未だに国民の意識は「一億総中流」なのですが)ではもう一度見直されてもいい作品かもしれません。
 また、や百姓に対する差別とそれに対する戦いもこの作品の大きなテーマなので、差別について考える意味でも重要な作品だと思われます(ただし、50年以上も前に書かれた作品なので、差別に対する認識が古くなっていたり、用語その他が現代では不適当な部分も含まれています)。
 「カムイ」というと、やがて抜け忍になる出身の忍者が有名ですが、アルピノであるがゆえに家族や群れから疎外されていた白オオカミも同じ「カムイ」という名前で、

 

 

作者の当初の構想は、封建制度の中での人間社会と、自然の中での動物社会を、並行して描こうとする壮大なのものでした。
 その背景には、作者が「忍者武芸帳」などの忍者漫画と並行して、「シートン動物記」などの動物漫画も描いていたことがあると思われます。
 しかし、実際には、白オオカミのカムイは次第に姿を消して、抜け忍のカムイもだんだん脇役に回り(彼の主な活躍場は、「カムイ外伝」へ移行していきます)、巻を追うに従って、百姓(その中でも最下層の下人出身)の正助が主役になっていきます。
 この巻では、主要な登場人物(オオカミもいますが)である、カムイ()、カムイ(白オオカミ)、正助(百姓)、草加竜之進(武士)などの誕生、登場、出会いなどが描かれています。

 

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山本周五郎 作品集

2021-10-31 11:22:25 | 参考文献

 作者の短編を集めた作品集です。

 大半は、江戸時代を舞台にしていて、一部は戦国時代や現代(といっても、戦前ですが)の物もあります。

 そこでは、武士の侍魂や市井の人々の職人魂や女性像が語られています。

 その多くは現代では失われてしまっていますが、どこか懐かしい感じがします。

 そのため、今でも高齢者の読者には読まれているのでしょう。

 

 

 

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2番目のキス

2021-10-30 12:38:27 | 映画

 2005年公開のアメリカ映画です。

 ドリュー・バリモア主演のロマンチック・コメディで、1997年のイギリス映画のリメイクです。

 熱狂的なボストン・レッドソックスのファンの恋人に振り回される女性を、彼女がかわいく演じています。

 イギリスで版ではサッカーだったものを、野球に置き換えています。

 どちらも、アーセナルのリーグ優勝やレッドソックスのワールド・シリーズ優勝といった劇的なシーズンを描いています。

 ただし、「バンビーノの呪い」などのマニアックな話題も出てくるので、日本人の場合はメジャー・リーグのファンでないと楽しめないかもしれません。

 

 

 

 

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サタデー・ナイト・フィーバー

2021-10-29 16:49:59 | 映画

 1977年のアメリカ映画で、映画そのものの評価よりも、そこから生み出されたディスコ・ブームやビージーズの数々のヒット曲や「フィーバーする」といった流行語を生み出したことで有名です。
 ストーリー自体は、先が見えない労働者階級の若者たちの絶望感と刹那的な快楽といった使い古されたもの(例えば、映画だったら「ウェストサイドストーリー」、小説だったらアラン・シリトーの「土曜の夜と日曜の朝」など)ですが、ジョン・トラボルタの若々しい魅力(馬面でイケメンではないけれど、スタイル抜群で決めポーズがカッコいい)あふれるダンス・シーン(今見ると結構ダサいのですが)が全編に散りばめられていて、バックに流れるビージーズの音楽とともに世界中で大ヒットしました。

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佐藤さとる「だれも知らない小さな国」

2021-10-27 17:29:29 | 作品論

 児童文学の世界では、言わずと知れた「現代日本児童文学」のスタートを飾ったされる二作品のうちのひとつです。
 同じ1959年に出版されたもうひとつの作品はいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」で、くしくもふたつとも小人が登場するファンタジーの長編です。
 もちの木を探しに山に出かけた「ぼく」は、泉のあるきれいな小山を見つけます。
 「ぼく」は、その場所を自分だけの秘密にします。
 昔、その小山に「こぼしさま」という小人が住んでいたと聞いてから、ぼくの心の中には「小人」が住むようになります。
 そして、実際に小人の姿も一度だけ見かけます。
 しかし、その後は小人に出会わないまま「ぼく」は大きくなっていき、だんだん小山のことは考えないようになります。
 やがて、戦争が始まり「ぼく」も大人になって、小人のことは忘れていきます。
 しかし、戦後、「ぼく」は久しぶりに小山に行き、その場所が子どものころと全く変わっていないことを喜び、何とか自分のものにしようと思います。
 その後、小人たちと再会し、彼らをスクナヒコノミコトやコロボックルの末裔だと思います。
 「ぼく」は、小人たちや幼いころにこの小山で出会っていて戦後再開した女性と協力して、小山を手に入れてコロボックルの国を築いていこうと誓います。
 1973年4月に大学の児童文学研究会に入会して最初の一年目には、内外の現代児童文学を集中して百冊以上読みましたが、この作品は山中恒の「赤毛のポチ」、「ぼくがぼくであること」、斉藤惇夫の「冒険者たち」などと並んで、もっとも印象に残った日本の作品でした。
 19歳の時に書いた「佐藤さとるの作品においての考察」(ビ-ドロ創刊号所収、その記事を参照してください)という文章の中でも、「「だれも知らない小さな国」は、おそろしく緻密な文章でかかれている。実際、それだけでも僕は打ちのめされてしまう。技巧だのなんだのと、いってはいられない。ストーリーの無理のなさ、その構成、心理や行動の描写の確実さには、圧倒されてしまう。ついに、日本にも、英米のファンタジー作品にも比肩しうる作品が生まれたといえる。」と、興奮気味に述べています。
 四十年ぶりにこの作品を読んでみても、この評価はほとんど変わりません。
 この作品は、時代の淘汰に耐えた現代児童文学の古典だといえるでしょう。
 佐藤さとる氏は、2017年2月にお亡くなりになりました、謹んでご冥福をお祈りいたします。

コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ―コロボックル物語)
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ブレードランナー2049

2021-10-26 17:36:01 | 映画

 世界中に熱狂的なファン(私もその一人ですが)を持つ近未来SF映画の、35年ぶりの続編(映画の中の世界では、前作の2019年(この映画は2017年封切りでもうすぐなんですけど、「2001年宇宙の旅」でも21世紀になった時に同様の感慨を持ったのですが、科学技術の発展は当時考えていたものとは違った方に進んでいるようです。一番違うのは、空飛ぶ車の実現かもしれません)から30年後が舞台)です。
 新たな傑作への期待と、前作のイメージが壊されるのではとの不安とが、半々でしたが、結果としてはそのどちらでもなく「まあまあかな」といった感じです。
 「ブレードランナー」と言えば、前作の監督のリドリー・スコットが作り上げた2019年のロサンゼルスの圧倒的なイメージ(デッドテック・フューチャー(退廃的未来)と言うんだそうです)が有名ですし、私も真っ先に大スクリーンに映された芸者さんによる「わかもと」のコマーシャル映像が浮かんでくるんですが、この作品でもセットにCGを加味して立体映像にして、より壮大なスケールで描いていてます。
 前作を踏襲したロサンゼルスのダウンタウンや廃棄物処理区域などはそれほど感心しませんでしたが、ラスベガスを思わせるかつての歓楽都市の廃墟のシーンはヒネリがあって面白かったです(ただ、いろいろなシーンで、映画会社の親会社であるSONYのロゴが出てくるのには食傷されました)。
 ドラマやアクションはまあまあといったレベルで、主人公がレプリカント(人造人間)であることもあって、「人間とは何か」という根源的なテーマに対する問いかけは前作より薄まった感じがします(レプリカントが生殖能力を持つことがこの作品のポイントなのですが、そのことの持つ意味合い(レプリカントの増産に役立つ?、人間とレプリカントとの生殖による新人類(イエス・キリストのような奇跡をもたらす存在)の創生?といったことが匂わされています)が、最後は単純なアクションシーンで締めくくってしまって中途半端なままに終わりました。
 主役のライアン・ゴズリングは、「ラ・ラ・ランド」よりもずっとはまり役で、寡黙で控えめな演技が、従順な新型レプリカント(途中までは自分が人間とレプリカントとの生殖による新人類なのではないかと思っていました)にピッタリでした。
 前作の主役だったハリソン・フォードは、今回もアクション・シーンなどを熱演していましたが、かつての若々しい彼の姿を知るものとしては、年取った彼(この映画ではそれを強調しているかもしれません)を見ると、やはりなんだか悲しくなってしまいました。
 細かいところですが、一番印象に残ったのは、主人公の恋人がAIを持ったヴァーチャル・リアリティだったことです(前作では、人間とレプリカントの恋愛がテーマの一つでした)。
 レプリカントと肉体を持たないヴァーチャル・リアリティの悲恋なのですが、その感情の動きは非常に人間的で私の心の琴線に触れてきました(そのヴァーチャル・リアリティの女性がすごく魅力的なこともあったでしょう)。
 このあたりは、2049年まで待たなくてもすぐに実現して、今は二次元の恋人を持っている現代の若者たち(特に男性)にとっては、新しいより強力な恋愛対象になるでしょう(非婚化と少子化がさらに進んでしまうかもしれませんが)。

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古田足日「軍国主義・児童文化・子ども」

2021-10-25 18:12:24 | 参考文献

 1968年8月に「作文と教育」に掲載された評論です。
 教科書や児童漫画雑誌が権力に支配されて、軍国主語的な内容が復活していることを批判しています。
 この時期には、中学生だった私はすでに少年漫画雑誌はほとんど卒業(もう買ってはいませんでしたが、書店で立ち読みはしていました)していたのですが、私が毎週少年サンデーを買っていた(近所の友達と交換して回し読みにしていたので、少年マガジンも少年キングも毎週読んでいました(少年ジャンプや少年チャンピオンはまだ出ていませんでした))ころ(1960年代半ば)は、もっと戦記物マンガや戦艦などの資料が多く載っていました。
 「ゼロ戦はやと」や「紫電改のタカ」(これは単純な戦記物ではなく主人公の悲しみのようなものが描かれていました)などが、記憶に残っています。
 著者は、それに対応すべき児童文学の無力さも、同時に指摘しています。
 ここに引用されている子どもの読書人口が5%だということは、私の経験からしてもうなづけます。
 その一方で、著者は自分の住む町の小学校三年生99人のうち、一学期の間に一冊も物語類(物語、童話、伝記)の単行本を買わなかった(買ってくれなかった)子どもが46人もいることを嘆いていますが、これは私にはむしろ驚きでした(どんなお金持ちの子どもたちが通う学校なのでしょうか?)。
 私の子ども時代に、参考書やドリル以外に親に買ってもらった本は、少年サンデー以外には「ゼロ戦の栄光と悲劇」(著者はこの文章にも出てくる撃墜王の坂井三郎です)ただ一冊でした。
 私の家は特に貧しくも教育に不熱心なわけでもなく、高校教師の父は、自分のために「世界文学全集」と「日本文学全集」と「古典文学全集」を、姉たちのために「講談社版少年少女世界文学全集」を全巻そろえていました。
 飛び抜けて優秀で美人だった姉たち(特に上の姉)を溺愛していた両親は、自家中毒で体が弱かった末息子はただ過保護にして何もさせない方針だったようです。
 おかげさまで、いろいろな事情で友だちもいず家で寝ていることが多かった私は、姉たちがほとんど見向きもしなかった「講談社版少年少女世界文学全集」を幼稚園のころから読みふけり(私の児童文学観はほとんどこの時期に形成されています)、小学校になってからはこれもほとんど手付かずだった「世界文学全集」と「日本文学全集」にまで手を伸ばすようになります(「古典文学全集」はさすがに手に余りました)。
 といっても、健康を完全に取り戻した小学校高学年からは、完璧なスポーツ少年になったので、児童文学の世界のことは高校二年に「子どもと文学」(その記事を参照してください)を読むまでは完全に忘れていました(大人の小説は、区立図書館で借りて読み続けていました)。
 私の周辺の子どもたち(男の子たちしか分かりませんが)も同様で、少年マンガ雑誌やアニメの話は熱心にしましたが、本の話など一度もしたことがありませんでした(むしろ本など読んでいるのは、女の子のようで恥ずかしい(ジェンダー観が古いですね)ことのように思っていました)。
 その後、多様な本が出版されるようになり、いろいろな読書運動も活発だった1970年代から1980年代には、子どもの読書人口も増大したと思われます。
 特に、那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズのようなエンターテインメント作品が、量的な拡大には貢献したと思われます。
 しかし、1980年代から1990年代に児童文学の「小説化」が進むにつれて、児童文学のコアな読者である小学校高学年(特に男の子)の児童書離れが進んだので、現在の子どもの読書人口は、学校などで無理やり読まされるのを除けば、当時の5%よりさらに低くなっているかもしれません。
 

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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長谷川潮「終わりのない模索 安藤美紀夫小論」日本児童文学1990年9月号所収

2021-10-24 17:36:45 | 参考文献

 安藤美紀夫追悼特集に掲載された論文です。
 安藤に関する個人的な想い出を取り混ぜながら、主に安藤の創作活動について論じています。
 他の記事にも書きましたが、安藤は創作(「でんでんむしの競馬」(著者が文庫版のあとがきを書いています。その記事を参照してください)など)のみならず、研究(イタリア児童文学を中心にした世界児童文学と日本児童文学の両方)、評論(現代児童文学を中心に世界と日本の児童文学について)、翻訳(「マルコヴァルドさんの四季」(その記事を参照してください)など)、後進の教育(門下生は、この特集でも書いている村中李衣(その記事を参照してください)など)と、多面的に活躍した児童文学者です。
 著者は、創作者としての安藤美紀夫があまり論じられてこなかったとしています。
 その理由としては、「安藤が研究、評論、翻訳の分野で登場した」ためだとしている児童文学者の神宮輝夫の意見を紹介しています。
 著者は、それに付け加えて、安藤の作品が、素材(原風景である戦前の京都、18年暮らしていた北海道の諸問題、戦争体験など)だけでなく、方法の面においても多様性(リアリズム、ファンタジー、メルフェン、ファンタジーア・レアルタ(イタリア語で空想・現実を意味して両者が混在した世界)に富んでいて、作品の累積効果(例えば、佐藤さとるは、「だれも知らない小さな国」の基盤の上に「コロボックル」シリーズを築き上げているので、それによって「佐藤さとる」の世界をイメージできます)を安藤自らが拒否しているとしています。
 著者は、専門分野(関連する著者の論文の記事を参照してください)である戦争児童文学(「青いつばさ」、「七人目のいとこ」など)を中心にして、安藤の主な創作活動(他に「でんでんむしの競馬」など)を論じています。
 追悼特集中の論文にも関わらず、褒めるだけでなく、批判すべきところは批判している著者の書き方には好感が持てます。
 ただ、作品の評価が、著者自身のあとがきや児童文学研究者による文庫版の解説などに依存しすぎていて、作品そのものにどのように描かれていたかの言及があまりなかったのが物足りませんでした。
 また、作品を論ずるのに、「何」が書かれているか終始していて、どのように描かれていたか(登場人物のキャラクターや様々な描写)がほとんど論じていないのは、他の児童文学研究者(安藤美紀夫、古田足日、石井桃子、村中李衣などは除く)とも共通する実作体験の乏しさのせいなのかなという気もしました。
 それにしても、このような作家論が当たり前のように雑誌「日本児童文学」に掲載されていたころ(1970年代をピークにして1960年代から1990年代ごろまででしょう。これは、狭義の「現代児童文学」の時期と重なります(関連する記事を参照してください))と、作家論などほとんど書かれない現在とでは隔世の感があります。
 その理由としては、以下のような点が考えられます。
 まず、児童文学(一般文学も同様ですが)における評論の衰退があげられます。
 作品に評論が与える影響が、ますます小さくなっています(もともと評論家が思っているより小さかったのですが)。
 他の記事にも書きましたが、大学や専門学校などで児童文学(それ以外の文学も同様です)の講座が廃止縮小されて、児童文学の研究や評論では飯が食えなくなっているので、この分野の志望者は激減しています(いたとしても、現代の児童文学ではなく、より無難な英米児童文学や近代や古典を専門分野にしています)。
 出版される本の大半がエンターテインメントで、ほとんどの作品のみならずその作家までが消費財的に扱われていて、まとまって論じる対象とされていません(もともとエンターテインメント系の作品は評論や研究の対象にはならなかったのですが、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズのような、まとまった論考がなされている例外もあります)。
 児童文学業界全体が長期的な斜陽産業であり、マーケットサイズが出版バブルのころからは大幅に縮小していて、文化的な側面をサポートする余力がなくなっています。
 このような時だからこそ、国や地方自治体のサポートが必要なのですが、ご存知のように橋本元府知事による大阪国際児童文学館の閉館・縮小(大阪府立図書館内に併設)など、ここでも切り捨てられる方向です。

でんでんむしの競馬 (少年少女創作文学)
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本田和子「児童文学における「伝え」の問題」児童文学研究No.1所収

2021-10-23 17:53:03 | 参考文献

 1971年に、日本児童文学学会の紀要に掲載された論文で、児童文学の「伝達性」について、当時の作品(松谷みよ子「ふたりのイーダ」などの戦争児童文学を中心にしています)を分析しています。
 当時の児童文学は、現在よりも「大人の作者が書いて、子どもの読者が読む文学」という性格が強かったために、「表現性よりも伝達性の強い文学である」という主張(著者が挙げている例としては、鳥越信など)があり、それに対して、作者が特定の読者に語りかける形で成立した古典的な作品(ここでは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」とリンドグレーンの幾つかの作品があげられていますが、有名なところではケネス・グレアムの「たのしい川辺」などもそうです)があるという理由で、「伝達の文学」ととらえるのは表面的だと批判しています。
 言葉の解釈に厳密な著者は、「伝達」(コミュニケーション)を、作者側から「伝える」(自動詞)と、読者側へ「伝わる」(他動詞)の二面からとらえる必要性を指摘しています。
 そう考えると、「伝達性」と「表現性」は対立する概念でなく、作品は作者の「自己表現」であると共に、読者によく「伝わる」表現でなければならないとしています。
 そうした観点で、七つの作品(松谷みよ子「ふたりのイーダ」、おおえひで「八月がくるたびに」、田中博「遠い朝」、早乙女勝元「火の瞳」、長崎源之助「ゲンのいた谷」、赤木由子「はだかの天使」、須藤克三「出かせぎ村のゾロ」で、最初の五作品は「原爆ないしは戦争体験」を、六作目は「発達障害児への関心と善意」を、七作目は「出かせぎ農村の現状」を「伝え」ようとしています)を例に挙げて、分析しています
 これらのすべての作品において、作者の「伝え」ようとする姿勢については、「求道的とすらいえるほどに真面目で」「作者をとりまく現実への真剣な関心が、これらの作品に溢れんばかりに反映されるのである」としています。
 一方で、「ふたりのイーダ」を除く六作品は、子ども読者に「伝わる」ための表現が不十分だとしています。
 第二から第五までの四作の戦争児童文学については、体験者(大人)は感動的で共感しやすい世界であるが、現代の子どもたちにとっては「歴史上の出来事」或いは「過ぎ去った時代を懐かしむ世代の追憶」としてしかとらえられないのではないかとしています。
 「ふたりのイーダ」に関しては、主人公の現代の少年の目を通して、読者も原爆や戦争の悲惨さを追体験できる表現がされていると高く評価していますが、一部の章では作者の生の体験が語られていて読者が追体験できないと指摘しています。
 そして、「作者の「伝え」の内容が、過去の事実に源をおくものである場合、その時間と空間をいかにして現代と重ね合わせていくか、という課題」があるとしています。
 残りの二作については、「「伝え」の内容を現在の時間枠に存在する事実にとっている」が、「事実を知らせる」という範囲を出ていなくて、それぞれの「事実」の当事者以外には、十分に伝わっていないとしています(これらについては、この論文では、詳しく分析・検討していないので、「改めて、より精細に論じる機会が必要である」としています)。
 再三、リリアン・スミスの「児童文学論」が引用されているように、著者の立場は、「子どもと文学」グループと同様に、英米児童文学に立脚しており、子ども読者にいかに「伝わる」かに重きを置いています(児童文学を、作者の自己表現としての文学よりも、子ども読者にとっての文学を重視しています)。
 しかし、「子どもと文学」の「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張が独り歩きして、「おもしろさ」や「わかりやすさ」ばかりが重視されている現在からながめると、「伝え」るべき事実の重要性も無視しているわけでなく、作者と読者の間の「伝え」のギャップを解決しようとする意志が強く感じられました。

 

ふたりのイーダ (講談社青い鳥文庫 6-6)
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鈴木晋一「新美南吉」子どもと文学所収

2021-10-22 09:08:11 | 参考文献

 著者は、現在(現代児童文学がスタートする前の1950年代)までの日本の児童文学者において、南吉を宮沢賢治につぐ存在だと高く評価しています。
 この評価のおかげもあってか、南吉は再評価されることになり広く読まれることになります。
 それから約六十年たった今でも、賢治ほどではありませんが、南吉の作品も多くの読者に読まれています。
 また、南吉の作品は、多くの追随作、模倣作を、今に至るまで生み出し続けています。
 賢治の作品をまねるのはとても無理でも、南吉のような作品だったら書けるかもしれないと、多くの初心者が思うのかもしれません。
 それは、南吉の作品が、身近な題材を比較的平易な言葉で描き出しているからでしょう。
 著者は、南吉のそれほど多くない作品を、心理型(少年の心理をほりさげるのに重点を置いた作品)とストーリー型(ストーリーの起伏や展開に重点を置いた作品)に分類しています。
 著者は、それまで南吉を世に出した巽聖歌たちに高く評価されていた心理型ではなく、ストーリー型の作品を高く評価しています。
 それは、「おもしろく、はっきりわかりやすく」を標榜する「子どもと文学」の立場では当然のことですが、最後まで彼のストーリーのどんな点が優れているかがはっきりしません。
 いくつかの作品のあらすじを紹介していますが、評価しているのは登場人物(動物)のキャラクターだったり、「描き方がしっかりしている」、「文章のたくみさ」、「意表を突く」、「奇抜」といった抽象的なものばかりだったりして、肝心の物語構造に言及していません。
 しいて言えば、「人生の中にふくまれているモラルとか、ユーモアとかいうものを事件として組み立て、外がわから描き出せる人でした。」という最後に書かれた南吉への評価ですが、これは南吉が(事件を外側から描き出せる)ストーリーテラーであるだけでなく、心理型で少年の心理をほりさげたように、人間や社会というものの内側をほりさげる能力を持っていたからではないでしょうか。
 そして、それこそが、南吉の作品が「文学性の高さ」を持っていた理由だと思われます。
 この論文が、いたずらに表面的なストーリーテリングの能力を強調し、南吉のもう一つの優れた一面である心理型の作品を生み出す能力を無視したために、登場人物や社会の内側を掘り下げない、南吉作品の安易な追随作、模倣作が量産されるようになったのでしょう。

子どもと文学
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福音館書店
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アダムス・ファミリー

2021-10-20 17:59:50 | 映画

 1991年に公開された、60年代に日本でも放映された人気テレビドラマの映画版です。
 人気コミックスを原作とした怪奇コメディです。
 ストーリーはなんてことはないのですが、ギャグシーンが満載です。
 かつてはこんなタッチのアメリカのテレビドラマが日本でもよく放送されていたのですが、現在では絶えて久しいです。
 また、ドラキュラ風の夫婦やフランケンシュタイン風の執事など配役がはまっています。

 当時としては最新のCGも、よく活かされています。

 

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ニューヨーク 親切なロシア料理店

2021-10-19 18:26:49 | 映画

 2019年公開のカナダなどの合作映画です。

 ニューヨーク、マンハッタンの落ちぶれかけている老舗のロシア料理店に、様々な事情を抱えた男女が集まってきます。

 刑務所を出所したての男、彼の弁護士の孤独な男、働きづめ(仕事だけでなくいろいろなボランティアをやっています)で擦り減ってしまった看護婦、仕事がぜんぜんできずにすぐにクビになってしまう若い男、夫の暴力から逃れてきた若い母親と二人の息子たち。

 彼らが互いに支え合いながら立ち直っていく姿が描かれています。

 

 

 

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石井桃子「子どもの文学とは?(後半)」子どもと文学所収

2021-10-18 17:43:47 | 参考文献

 著者の分担は、「ファンタジー」と「子どもたちは何を読んでいる?」です。
「ファンタジー」
 日本の児童文学にとって新しい概念であり、誤解をまねくことの多かったファンタジーについて紙数を使って説明しています。
 当時としては、もっともまとまったファンタジー論であり、今読んでも多くの示唆を含んでいます。
 まず、ファンタジーのおいたちとして、近代になって「子ども」という概念が発見されたことを、その起因の一つに挙げています。
 アリエスの「子どもの誕生」が翻訳され、柄谷行人の「児童の発見」が発表されたのは1980年で、その影響を受けて日本の児童文学の子ども像が変化したと主張する児童文学研究者は多いのですが(実際は、ほとんどすべての児童文学の書き手はそれらの著作を読んだことがないことは確信を持って言えるので、それとは無関係だと私は思っています。詳しくは関連する記事を参照してください)、その二十年も前に著者は同じ「子どもの発見」について述べています(アリエスの本は同じ1960年に出版されていますので、著者はそれをフランス語で読んだか、英訳がすぐに出ていてそれで読んだか、あるいはまったく別のところからの情報なのかは、残念ながらわかりません)。
 そして、子どもが尊重されるようになってから、一流の資質を持った作家や社会人が子どもの本を書くようになり、彼らの哲学をもるのに非現実の世界が向いているので、ファンタジーが生み出される原動力になったとしています。
 また、ファンタジーの定義として、リリアン・スミスの「児童文学論」に書かれている「「目に見えるようにすること」という意味のギリシャ語」を紹介し、日本では、辞書までが「とりとめのない想像」「幻想」「幻覚」「空想」「幻想」などとなっていて、誤解されているとしています(今でも、こういった基本的な定義も知らずに、「メルフェン」などとごっちゃにしている児童文学関係者はたくさんいます)。
 ファンタジーがなぜ「子どもの文学」に適しているかの理由として、まず、子どもは小さいときは「想像の世界と現実の境めを、毎日、なんのむりもなく、出たりはいったりしながら、大きくなっていきます」と、小さな子どもほど意識と無意識の世界が不分明であることをあげています(詳しくは本田和子の論文についての記事を参照してください)。
 そして、「その世界に身をおくことが、だんだんに少なくなり、すでに得た知識や、経験からくる判断力を武器にして現実にとりくむようになると、人間はおとなになります。」としています。
 そのため、「ファンタジーが、ファンタジーとしての最高の美しさ、高さに達することができるのは、子どもが子どもとして一番大きくなった一時期(彼女の定義では小学校高学年あたりを指していると思われますが、繰り返し書いていますが子ども読者の本に対する受容力が著しく低下している現在では、その年齢は中学生あたりだと思われます)を対象としたもの」とし、「それより一歩成長して、おとなになってしまえば、たいていの場合、その読者にとって、ファンタジーの魅力は失われます。」としています。
 ご存知のように、現在ではファンタジーの主な読者は、かつてのメインであった子どもや若い女性たちだけでなく、女性全体に広がっています。
 良く言えば「いつまでも子どもの心を失わない」女性が増えているということですし、悪く言えば「いつまでも精神的に成熟しない」女性が増えているせいかもしれません。
 これは、かつて女性の通過儀礼であった結婚、出産のタイミングが高年齢化し、さらに結婚も出産も生涯経験しない女性が増えていることも一因でしょう。
 著者は、ファンタジーの分類やいわゆる「通路」の問題にも触れていますが、今から見ると中途半端なものなので、論評は避けます。
 著者は「たとえ話」や「アレゴリー」に陥る危険性に触れながらも、表面的な面白さだけでなく、「表現も思想も、ファンタジーのなかで、子どもの文学で達しうるかぎりの高さに到達することができます」と、その可能性に期待しています。
 最後に、「今後の日本児童文学が、この方面(ファンタジーのこと)にもよい作品をどしどし生んでゆくことが熱望されます。」と締めくくっています。
 2008年にお亡くなりになった著者は、ファンタジー花盛りの現在の日本の児童文学の状況を喜んでおられることと思いますが、はたして著者の眼鏡にかなう「表現も思想も子どもの文学で達しうるかぎりの高さに到達した」作品がいくつあるかというと、いささか心もとない気もします。
 著者に限らず、「子どもと文学」のメンバーの日本の児童文学に対する最大の貢献は、優れたファンタジーの普及にあると思われます。
 石井桃子(ケネス・グレアム「たのしい川辺」、ミルン「クマのプーさん」などの翻訳)、瀬田貞二(トールキン「指輪物語」、「ホビットの冒険」などの翻訳)、渡辺茂男(マージェリー・シャープ「ミス・ビアンカ」シリーズ、ガネット「エルマーの冒険」シリーズなどの翻訳)、いぬいとみこ(「ながいながいペンギンの話」、「木かげの家の小人たち」などの創作)たちの本は、今でも子ども読者(大人読者も)に広く読まれていますし、松井直や鈴木晋一も出版や普及の面で大きな貢献をしました。

「子どもたちは何を読んでいる?」
 著者は、子どもたちがよく読んでいる本を、伝承文学と創作児童文学の両方について、年齢別、外来か日本か、に分けてリストアップしていますが、データの出所が不明(おそらく著者が1958年から主宰している私設の児童文庫の「かつら文庫」と思われます)ですし、定量的でないので、論評は避けます。
 ただし、少し古いデータですが、2011年の学校読者調査によると、小学校四年から六年までの男女のリストには、「伝記(これは昔も今も圧倒的に強いです)、ゾロリ・シリーズ(何冊も入っています)、ハリー・ポッター・シリーズ(これも何冊も入っています)、怪談物、児童文庫の書き下ろしのエンターテインメントシリーズ、大人の女性向けエンターテインメント(小学校六年の女子)が上位を占めていて、著者がリストアップしたような伝承文学やエンターテインメント以外の創作児童文学はほとんど姿を消しています(かろうじて「クマのプーさん」(ディズニーの影響でしょう)、モンゴメリー「赤毛のアン」シリーズ(母子で愛読しているのでしょうか)、森絵都「カラフル」(小学六年の男女)、あさのあつこ「バッテリー」(小学六年の男子)などが下位の方に入っています)。


子どもと文学
クリエーター情報なし
福音館書店







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児童文学的リアリズムについて

2021-10-17 18:03:42 | 考察

 ライトノベルなどを論ずる時に、マンガ的リアリズムという用語が使われることがあります。
 それは、一般社会を描写する自然主義的リアリズムではなく、すでに膨大に蓄積されているマンガやアニメに依拠した世界を描写したリアリズムのことです。
 それと同じように児童文学にも、児童文学的リアリズムがあります。
 数百年に渡って蓄積された膨大な児童文学に依拠した世界を描写したリアリズムです。
 一番分かりやすい例は、民話や伝説を再話して創作された作品(松谷みよ子の「龍の子太郎」(その記事を参照してください)など)でしょう。
 民話や神話以外にも、グリム童話やアンデルセン、イソップなどの古典の作品世界は、多くの児童文学作品で半ば無意識に用いられています(雪の女王のイメージ、狐はずるいといった動物キャラクターなど)。
 最近の魔法ブームの大本は、トールキンの「指輪物語」でしょうが、すでにその原点は知らずに、孫やひ孫のように依拠している作品(児童文学に限らず、ゲームやアニメなども)が夥しい数、存在します。
 もっとも、トールキン自体、神話の世界に依拠しているのですが。
 こういった古典の世界をもとに創作するのは問題ないのですが、最近の作品(特にディズニーなどの世界的にヒットしたもの)に依拠して創作すると、著作権などの問題を引き起こす恐れがあるので注意が必要です。

文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)
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評論社
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渡辺茂男「子どもの文学とは?(前半)」子どもと文学所収

2021-10-17 14:12:10 | 参考文献

 石井桃子と分担する形で、この大きな命題を担当しています。
 著者は、以下の小見出しの部分を執筆しています。
「ちびくろ・さんぼ」
「いちばん幼いときに」
「お話の年齢」
「昔話の形式」
「子どもの文学で重要な点は何か?」
 「子どもと文学」の中で、最も突っ込みどころが満載で、出版当時もいろいろな批判を浴びましたし、後年になってその視野の狭さやここで述べた内容が技術論に偏っていたことによる現代児童文学(特に幼年文学)に与えた悪い影響も指摘されました。
 著者を個人攻撃するつもりはありませんので、フェアになるように著者について簡単に紹介いたします。
 著者は、後年、私の大好きな「ミス・ビアンカ」シリーズや「エルマーの冒険」シリーズを初めとした魅力的な英米文学をたくさん翻訳し、「寺町三丁目十一番地」という優れた作品も創作し、慶応大学教授として図書館学を中心に後進の教育にもあたった児童文学者です。
 しかし、この文章を書いたときは、アメリカでの留学と図書館での実習から帰国したばかりで、「子どもと文学」を作った「ISUMI会」にも途中から参加しています。
 メンバーの中では一番若く、途中参加で日本の児童文学にも疎かった(逆に当時のアメリカの図書館の強い影響下にあった)と思われる青年に、この一番肝ともいえる部分(あるいはそう考えていなくて、「子どもの文学で重要な点は何か?」という命題自体を軽視していたのかもしれません)執筆させたのですから、文責はメンバー全体にあると考えていいでしょう。
 そして、そのことが、「英米児童文学」(かれらは欧米と書いていますがほとんどイギリスとアメリカだけです)の強い影響と、それを日本の児童文学にダイレクトに適用する限界を示しているのかもしれません。
 また、以下に、内容に含まれている差別やコンプレックスや偏見を指摘していますが、それは著者や他のメンバーたちが特に差別主義者であったかとか、視野が狭かったかということではなく、当時の日本人の一般的な(というよりはやや進歩的な人たちだったからかもしれません)考えがそうだったということだと思われます。

「ちびくろ・さんぼ」
 この作品自体が、黒人差別だということで、現在はほとんど絶版になっています。
 この問題については、それだけで本になっています(詳しい内容やこの問題に対する私の意見については、それに関する記事を参照してください)。
 まず、この本がイギリスやアメリカで「三びきのクマ」や「シンデレラ」などと並ぶほどの名士になっていると書いていますが、著者は黒人の子ども読者がこの作品をどのように読んでいるかは無視しているのではないかとの疑念がわいてきます。
 次に「ちびくろ・さんぼ」の内容を説明していますが、それらについては関連の記事を参照してください。
 最後に、病院での実験(五冊の本の反応を比較する)を紹介し、この本が一番「子どもが気にいった」として、その理由として「登場人物の心理、倫理性、教訓性など、抽象的な要素は弱く、具体性、行動性、リズム、スリル、素材の親近性、明るさ、ユーモアなどの要素が強い」としています。
 まず、このような「子どもが気にいった」という評価基準を、あたかも優れた児童文学の基準であるかのようにする書き方は問題が多いと思われます。
 例えば、子どもに、「コーラと、フルーツジュースと、野菜ジュースと、牛乳と、水」を与えて、「どれが気にいった」かで優れた飲料を決めるようなものです。
 この例が極端だとすれば、「ゲームと、アニメのDVDと、コミックスと、図鑑と、児童書」でも構いません。
 子どもたちにとっての、その時の状況や目的によって、「どれが気にいった」かなどは変わるものであり、絶対的なものではありませんし、多数決で決めるものでもありません。
 また、「登場人物の心理、倫理性、教訓性など、抽象的な要素」は、子どもの本にはまったくいらないのではないかとのミスリードを起こして、子どもの本の範囲を不必要に限定してしまう恐れがあります(現に多くの後進の作家(特に幼年文学)に悪い影響を与えました)。

「いちばん幼いときに」
 ここに書かれていることはおおむね正論なのですが、当時の日本の児童文学の問題点が具体的に書かれていないので、たんなるイギリスのマザーグースや日本のわらべ歌や昔話と比較しての批判だけになってしまっています。

「お話の年齢」
 題名とは関係なく、ふたたび、昔話のわかりやすさについて述べられているだけで、「お話の年齢」という題名に込められた著者の意図が不明です。

「昔話の形式」
 昔話の構造がモノレール構造で、「はじまりの部分」、「展開部」、「しめくくりの部分」で構成されていることが、ノルウェイの民話「三匹のやぎ(現在は「三びきのやきのがらがらどん」というタイトルで親しまれています)」を用いて詳しく説明しています。
 その分析は正論なのですが、それを「子どもの文学」全体にあてはめようとするのが無理なので、「幼年文学」と限定すればおおむねあてはまります。
 おそらく、この前の「お話の年齢」で、そのことをきちんと書けばよかったのでしょう。

「子どもの文学で重要な点は何か?」
 こんな書くのも恐ろしいような大テーマを、「素材とテーマ」、「プロット」「登場人物の描写」、「会話」、「文体(表現形式)」などに分けて、主に書き方について検討しています。
 このために、「子どもと文学」は、「技術主義偏重」「内容のないステレオタイプな作品(特に幼年文学)を量産した」と批判を受けました。
 「子どもと文学」全体では「子ども」の年齢を特に明示していないのですが、石井桃子の担当部分では「二歳から十二、三歳まで」と書かれているので、ケストナー(8歳から80歳)や宮沢賢治(アドレッセンス中庸、詳しくはその記事を参照してください)や現在の児童文学の定義(赤ちゃんからヤングアダルトまでの未成年者全体)と比べるとそれでもかなり狭い(特に上限が低い)ようです。
 著者の文章の対象年齢はさらに低く、現在で言えば「幼年文学」ならばあてはまることが多いようです。
 内容について、特に問題があると思われるのは、「素材とテーマ」の部分に集中しています。
「死であるとか、孤独であるとか、もののあわれを語ることがどんなに不適当なものであるかは、欧米の児童文学の歴史がはっきりと証明してくれます。」
 このことが、「現代児童文学」が人生や人間(子どもたちも含む)の負の面を取り扱うことをしなくなることにつながり、こうしたタブーが「現代児童文学」で破られるのは1970年代になってからでした(皮肉にも、海外ではこうしたタブーはこの文章が書かれた時にはすでになく、ハンガリーのモルナールが「主人公の死や彼が死を賭して守った空き地の喪失」を描いた「パール街の少年たち」を書いたのは1907年ですし、ドイツのケストナーが「両親の離婚」を描いた「ふたりのロッテ」(その記事を参照してください)を書いたのは1949年です(ただし、この作品はユーモラスなハッピーエンドなので、シリアスに描いた作品の嚆矢は、1966年(この文章よりは後ですが)に書かれたロシア(当時はソ連)のフロロフの「愛について」(その記事を参照してください)でしょう。こうしてみると、「子どもと文学」の視野が、欧米と称しつつ、いかに英米児童文学に限定されていたかがよくわかります)。
「悲惨な貧乏状態を克明に描写したものや、社会の不平等をなじったものも、(中略)ストーリ性のない観念的な読み物となっていることが多く、どうしても子どもたちをひきつけることはできません。」
 皮肉にも、「子どもと文学」が出版されたちょうど同じ年(1960年)に出版された山中恒「赤毛のポチ」は、「悲惨な貧乏状態を克明に描写したもの」で、なおかつ「社会の不平等をなじったもの」でしたが、「ストーリ性のない観念的な読み物」ではなかったので、大人読者だけでなく子ども読者にも広く読まれました(その後の社会主義的リアリズムの児童文学作品で「赤毛のポチ」を超える物は生まれませんでしたが、その可能性は否定されるべきものではありません)。
「時代によってかわるイデオロギーは ―たとえば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代には生まれましたが― それを
テーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い、幼い子どもたちにとって意味のないことです」
 この文章に対しては、児童文学研究者の石井直人が「現代児童文学の条件」(その記事を参照してください)という論文の中で、「プロレタリア児童文学は、子どもたちの「人生経験」の場に他ならない生活の過程をこそ思想化しようとしたのではなかったのか、また、イデオロギーではないはずの「古典的価値」が批判された(「ちびくろ・さんぼ」が人種差別と批判されたことを指します)ことは時代の変遷に関わらない思想などありえないことの証ではないのか」と、批判しました。
 この批判は至極もっともですし、さらに言えば、それまでの日本の児童文学の読者対象が中産階級以上の子どもたちに限られていたのを、労働者階級の子どもたちにも開放した「プロレタリア児童文学」の歴史的な意義を無視して批判していることで、「子どもと文学」のイメージしている「子ども」が、実は英米の中流家庭の子どものようなものであったことが、図らずも暴露されているように思われます。


子どもと文学
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