現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

谷川浩司「藤井聡太論 将棋の未来」

2022-06-29 16:27:20 | 参考文献

 今をときめく将棋の天才少年について、かつての将棋の天才少年が書いた本です。

 長い将棋の歴史の中で、中学生のプロ棋士(プロの四段になること)、つまり天才少年は、五人しかいません。

 第一号は、今ではヒフミンというあだ名の方が有名になっている加藤一二三で、18才で順位戦のA級(名人挑戦を競う一番上のリーグ)に昇級して八段になり、「神武以来(このかた)の天才」、つまり日本の歴史が始まって以来の天才と称されました。

 第二号は筆者で、21才でなった名人の最年少記録はいまだに破られていません。

 三人目は、ご存知、羽生善治で、当時のすべての将棋タイトル七冠(現在は八つあります)を独占し、最近ではそれら七つのタイトルの永世称号(獲得回数や連続回数などでそれぞれ規定されています)を持っていて、永世七冠と称されています。

 四人目は、渡辺明名人(2021年現在)で、現在では名人と並び称される竜王を長年保持しました。

 そして、五人目が、ご存知のように藤井聡太王位・棋聖で、この尊称もすぐに変わってしまう程次々とタイトルを取っているので、近い将来、名人や竜王になるであろうことは、誰も疑っていません。

 そんな藤井聡太を、同じような境遇だった著者でしかわからない視点で描かれていて興味深いです。

 特に注目すべき点は、藤井聡太とAIの関係です。

 藤井聡太はパソコンを自作するなど、AIにも精通していることで知られていますが、著者の分析では彼の強さはAIで培われたのでなく、幼い頃からの実戦と詰め将棋(彼は詰め将棋選手権を小学校六年生から五連覇しています。最近二年はコロナで中止されているので現チャンピオンです)と、彼の資質(記憶力、判断力、メンタルの強さ、無類の負けず嫌い、そして何より将棋が好きなこと)によるものであるとしています。

 それゆえ、藤井聡太の未来のライバルは、将棋を覚えたときからAIを使っているようなこれからの世代、AIネイティブであろうという筆者の予想は非常に興味深いものです。

 それと同時に、筆者も含む全プロ棋士に、藤井独走を許さないように叱咤している点も重要でしょう。

 

 

 

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津村記久子「大きな森の小屋での簡単な仕事」この世にたやすい仕事はない所収

2022-06-25 14:48:38 | 参考文献

連作短編集の最後は、信じられないほど広大な森林公園の片隅にある小屋で一人で簡単な仕事(展示会のチケットに手作業で切り取り用のミシン目を開けます)をする話です。
 誰も監視していないので、少し仕事をするだけで、後は周辺を歩き回って目に付いたものを地図に書き込む作業(あたりには実のなる植物が多いの、それらを勝手にもいで食べられます)もしています。
 その過程で、もともと仕事に悩んでいたうえに、サポーターをしているサッカーチームのリーグ降格と応援していた外国人選手が帰国したことをきっかけに失踪していた男性が、実は公園の中で原始人のように自給自足して暮らしていたことを、主人公が突き止めます。
 この仕事も結局辞める(花粉症が原因です)のですが、今までの五つの仕事を通して仕事への意欲を回復した主人公は、元のやりがいのある仕事(病院などの医療ソーシャルワーカーのようです)に復帰することになります。
 実に鮮やかなエンディングなのですが、ちょっときれいごとにすぎるような感じです。
 どこかに自分に向いた仕事があるのではないかと転々としたあげく、それがもとの仕事だったという構造は、幸せの青い鳥を求めていろいろなところへ行き、最後にそれが我が家にあったことに気付くメーテルリンクの童話「青い鳥」型で、児童文学の世界では同様な作品がたくさんあります。
 最後に、主人公(そして、おそらく作者)の、以下のような仕事観が語られます。
「どの人にも、信じた仕事から逃げ出してたくなって、道からずり落ちてしまうことがあるかもしれない」
「どんな穴が待ちかまえているかはあずかり知れないけれども、だいたい何をしていたって、何が起こるかなんてわからないってことについては、短い期間に五つも仕事を転々としてよくわかった。ただ祈り、全力を尽くすだけだ。どうかうまくいきますように。」
 確かに、これらの言葉は、同じような境遇にある人には励ましになるかもしれません。
 しかし、ブラック企業やブラック職場(告発されているような会社だけではなく、ほとんどの企業にも大小さまざまなブラックな部分はあります)で働いている多くの人々には、かえって酷な言葉ではないでしょうか。
 会社側に少しも改善を求めず、働く人たちだけに順応を求めているのは、作品の発表場所が日本経済新聞だったこともあり、ちょっと恐ろしい気がします。
 また、主人公のようにはやりがいのある仕事には出会えず、あるいは出会えたとしてもそういった仕事につけない人たちが、世の中の働いている人の大半なのです。
 彼らには、次々と風変わりな仕事を紹介してくれて最後には元の仕事まで紹介してくれる神のような就職相談員も、第二話と第五話のラストに登場する人や職場の運命を変えてくれる超能力を持った同僚もいないのですから。


この世にたやすい仕事はない
クリエーター情報なし
日本経済新聞出版社



 

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佐藤和哉「<読む>という冒険 イギリス児童文学の森へ」

2022-06-25 11:16:24 | 参考文献

 若い人向けに書かれたイギリス児童文学の啓蒙書です。

 一般的な読書指導である「作者が言いたかったことはなんでしょう?」の一歩先にある、歴史的社会的背景などについて言及していて、興味深いです。

 取り上げた作品とそこにおいて述べられた事項は以下の通りです。

 マザーグース:子供の本の誕生に言及して、特に子供の本におけるナンセンスの持つ意味合い、特にそれがセンスを確立するために有効であることを指摘しています。

 ロビンソン・クルーソー:イギリス、アフリカ、中南米における三角貿易(イギリスから火器、ガラスのアクセサリー、綿織物などをアフリカに輸出し、そこで黒人奴隷を買い入れて中南米の荘園に労働力として売り、そこで生産された綿花や砂糖を買い入れて、イギリスへ輸入する)に言及し、物語が歴史におよぼした影響について述べています。

 クリスマス・キャロル:人々のクリスマスの楽しみ方に影響を与え、さらにクリスマスを楽しむことのできない底辺の人々(産業革命に取り残された人たち)にも目を向けているとしています。

 不思議の国のアリス:時間に追われている近代の人々と、それ以前の時間感覚について述べています。

 くまのプーさん:プーが良く落ち込む「穴」に、第一次世界大戦の影響を見ます。

 ライオンと魔女:善と悪について考えます。

 第九軍団のワシ:自分探しと異文化の衝突について考察しています。

 巻末には、原書の一覧や翻訳本についての解説もついていて親切です。

 さらに、もっと勉強したい人への啓蒙書の紹介もされています。

 この本を読んで、久しぶりにイギリス児童文学に耽溺しようと思わされるだけでも読んだかいはあります。

 

 

 

 

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最強の二人

2022-06-23 13:48:54 | 映画

 2011年公開のフランス映画です。

 スラム出身の黒人青年が、ひょんなことから、脊髄損傷で車いす生活を送っている大富豪の住み込みの介護人になります。

 慣れない環境や初めての仕事にも物おじしない青年のふるまいによって、絵にかいたような紳士と破天荒な青年という「最強のカップル」が誕生します。

 二人にとっては、それぞれ期待以上のもの(富豪は退屈な日常を脱却できましたし、青年はかなりの高収入の仕事とリッチな生活環境を手に入れます)を得られて、お互いにハッピーです。

 かなりご都合主義な展開(富豪は青年のおかげで文通相手と面会できますし、青年には絵の才能があることがわかります)もありましたが、障碍者の問題も深刻にはならずに、全体的に軽いコメディタッチで、エンターテインメントとして楽しめます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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児童文学における短編と長編

2022-06-21 15:18:08 | 考察

 現在の児童文学の出版状況では、短編集を出版するのはなかなか難しいです。
 かつては、いろいろな作家の優れた短編集(最上一平「銀のうさぎ」、丘修三「ぼくのお姉さん」(その記事を参照してください)、神沢利子「いないいないばあや」(その記事を参照してください)、安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」(その記事を参照してください)など)が出版されましたが、しだいに少なくなり、今では大人の読者も対象に含めた短編集(例えば、安東みきえ「呼んでみただけ」など)や同じ主人公を描いた連作短編集(ばんひろこ「まいにち いちねんせい」(その記事を参照してください)など)を除いては、あまり出版されなくなっています。
 私自身の経験でも、長編はいくつか本になったのですが、短編集は何度か出版社から話が合っても「テーマやグレードがそろわない」などの理由で出版には至りませんでした。
 そのため、書き手の中には、短編をいくつかむりくり連結したり、まえがきやあとがきをつけるなどしたりして、長編に仕立てようとすることがあります。
 しかし、そういった試みは不自然な仕上がりになることが多いようです。
 やはり、いくつかの短編をもとに長編を作る場合は、それぞれの短編を解体して、いちから長編として再構成する必要があります。

呼んでみただけ
クリエーター情報なし
新潮社
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阿部公彦「詩的思考のめざめ」

2022-06-17 09:56:22 | 参考文献

 詩の入門書ではなく、日常に潜む「詩的」なものに気づくことに目覚めさせるのを目的にした本です。
 前半の「日常にも詩は〝起きている"―生活編」では、かなりそれに忠実に書かれていて、「名前をつける」「声が聞こえてくる」「言葉をならべる」「黙る」「恥じる」の各章で、それぞれ「詩的」なものに出会わせてくれます。
 しかし、後半の「書かれた詩はどのようにふるまうか―読解編」では、「品詞が動く」「身だしなみが変わる」「私がいない」「型から始まる」「世界に尋ねる」といった構成になっていますが、章によっては「詩の鑑賞」風になっていて、国語の授業のようにつまらなく思える個所もあります(まあ、そこは読み飛ばせばいいだけなのですが)。
 私が現代詩を熱心に読んでいたのは、10代から20代のごく短い時期で、その後は現代児童文学を中心として散文の方へ読書傾向は移っていってしまいました。
 しかし、18歳の時に大学の児童文学研究会に入る時には、「どの作家が好きか?」と問われた時に、即座に「宮沢賢治とエーリヒ・ケストナー」と答えていました。
 ご存知のように、二人とも児童文学作家であるとともに詩人でもあります。
 このように、私にとって児童文学と詩は表裏一体のものだったのでしょう。
 現在、児童文学において詩があまり表面に出てこないのは、「現代児童文学」がその出発時に、近代童話の小川未明たちの「詩的」な文章を否定し、「散文性の獲得」を目指したからだと思います。
 もちろん、その後も「少年詩」(ここでいう少年とは単に年代を示しているだけなので男女を問いません)を書かれている方はたくさんいらっしゃいますが、その行為が一部の例外(谷川俊太郎など)を除いては、散文の児童文学以上にお金にならないので、なかなか注目を浴びることはありませんでした。
 しかし、近年、未明たちの近代童話が復権するにつれて、これからは児童文学の中の「詩的」な部分がより重要になってくると思われます。
 私が属している児童文学の同人誌にも、詩的才能を持った書き手がいますし、それが散文の作品に生かされていて、他の書き手との差別化要因になっています。
 個人的には、久しぶりに詩集をまとめて読んでみようと思わせてくれただけでも、この本を読んだ価値はありました。

詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること
クリエーター情報なし
東京大学出版会
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古田足日「安藤美紀夫の仕事をふり返る」日本児童文学1990年9月号所収

2022-06-15 14:38:28 | 参考文献

 「安藤美紀夫 追悼」の特集の中の論文です。
 副題の「子どもの人権と子どもの論理」が示すように、「現代児童文学」論者(つまり著者)側にかなり引き寄せた論になっています。
 弔辞や他の媒体に発表した文章をそのまま引用したり、著者が当時大学で担当して苦労していた「児童文化」に関する自分の意見の表明があったりして、論文としてのまとまりはあまり良くありません。
 著者のあげた安藤の仕事を整理すると、以下のようになります。
1.児童文学の創作
2.イタリアを中心とするラテン系児童文学の翻訳
3.2の研究を含む児童文学論
4.後進の育成
5.日本女子大学の教師としての活動
6.日本児童文学者協会での仕事
7.地域における児童文学、児童文化の活動
8.児童文化論、子ども論
1における代表作は、1972年に発表されて翌年の児童文学の賞を総なめにした「でんでんむしの競馬」でしょう(これについては、別の記事で詳しく述べています。なお、安藤の「風の十字路」に関する記事もあります)。
2における重要な作品は、イターロ・カルヴィーノの「マルコヴァルドさんの四季」でしょう(著者も述べていますが、「でんでんむしの競馬」にはこの作品の影響が見られます。これについても、別の記事で詳しく述べています)
3におけるもっとも重要な仕事は、「世界児童文学ノート」でしょう(古今の世界児童文学について英米児童文学に偏らずに論じられる児童文学者は安藤以外にはいませんでしたし、その後も今に至るまで現れていません)。
4においては、村中李衣をはじめとした日本女子大学出身の作家や研究者を輩出しました。
5は4とも関係しますが、多くの教え子たち(私の日本女子大生だった友人たちも含まれています)に敬愛される教師だったようです。
6.現在の児童文学作家の互助会のようになった姿からは想像できませんが、かつての日本児童文学者協会は革新勢力の一翼を担っていました。
7.著者が紹介しているように、地元の東大和市の児童文学活動や図書館、児童館の建設などに、先頭に立って活躍していたようです。
8.大学での講座の関係もあって、この分野での研究に関しても何冊もの著作があります。
 以上のように、安藤の活動は非常に広範な分野にわたっていましたので、とかく社会主義リアリズム(著者をはじめとした「少年文学宣言」のグループを中心にして)や英米児童文学至上主義(石井桃子たちの「子どもと文学」グループを中心にして)に偏りがちだった日本の児童文学に新たな視点を与えるものでした。
 もし安藤がもっと長生きしていれば、日本の児童文学の流れは、かなり違ったものになっていたかもしれません。

日本児童文学 2013年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
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最上一平・文 黒井健・絵「すずばあちゃんのおくりもの」

2022-06-11 10:57:57 | 作品論

 すずばあちゃんは、村のあちこちに花の種をまきます。

 そのおかげで、村のあちこちに花が咲きます。

 そんな花々を、村の人たちは「すずばあちゃんのおくりもの」と呼んでいます。

 すずばあちゃんが、種をまくのには訳があります。

 戦争が終わって満州から引き揚げてくるときに、幼い赤ん坊を亡くして野端に埋めてきたからです。

 そして、そこに野菊を供えてきたのです。

 すずばあちゃんにとって、村に咲く花たちはその時の花の子孫のように感じられたのです。

 すずばあちゃんのまく花の種には、戦争のない世界への祈りが込められていたのでした。

 最上一平の抑制された美しい文章に、黒井健の描く花たちが幻想的に描かれていて、この絵本自体が読者へのおくりもののように感じられます。

 

 

 

 

 

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フリー・ガイ

2022-06-09 17:15:42 | 映画

 2021年公開のアメリカ映画です。

 ゲームソフト(サングラスをかけたキャラクター(ゲーム参加者)が銀行強盗や殺人などの犯罪をしまくります)の背景のキャラクター(毎日、毎回、同じ役割をこなすだけです)のガイ(強盗に入られる銀行の受付係)が、恋することで自我に目覚め、成長を始めます。

 最終的には、ゲーム会社のオーナー(典型的な悪者キャラです)と彼にソフトをだまし取られた男女のソフトウェアエンジニアの戦いと恋愛が描かれているのですが、最大の見どころはモブキャラ(雑魚キャラ)が団結して自由な世界を勝ち取るところでしょう。

 映像とゲーム世界を融合させる新しい試みの映画かもしれません。

 

 

 

 

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神沢利子「いないいないばあや」いないいないばあや所収

2022-06-08 18:38:39 | 作品論

 1978年11月に刊行された、作者が自分の幼少期(あとがきによると、二、三歳から五歳まで、1928年前後)をふり返って書いた自伝的な作品です。
 そういう意味では、その二年前に書かれた「流れのほとり」(その記事を参照してください)と同じ系列の作品です。
 幼い主人公が、ばあやと「いないいないばあ」の遊びを繰り返すうちに、いるとか、いないとかというのはどういうことかに思い至り、怖くなる様子を通して、幼児の世界の恐れや不安を日常の生活や遊びの中に描き出しています。
 幼児が主人公で、児童文学の体裁で出版されていますが、描き方も文体も当時五十代であった作者のレベルに合わせて書かれていて、完全な純文学だと思われます。
 刊行当時はいざ知らず、現在の子どもたちの読書力では手に余ると思いますが、幼児体験や児童文学に関心のある大人の読者にとっては、今も古びることなく読める作品です。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
クリエーター情報なし
岩波書店
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北原尚彦「初歩からのシャーロック・ホームズ」

2022-06-06 13:52:35 | 参考文献

 高名なシャーロッキアン(シャーロック・ホームズ研究家)が書いた入門書です。

 彼らが正典と呼ぶ全60篇(長編4篇、短編56篇)の解説をもちろん、主なキャラクター(ホームズとその相棒のワトソン博士をはじめとして、仇敵のモリアーティ教授までの重要人物が詳しく述べられています)、時代や地理の背景、著者のアーサー・コナン・ドイル、さらにはパスティーシュ(他人が書いた続編)やパロディ、関連図書、他のメディア作品など、詳しく紹介されています。

 特に、どの単行本や文庫本(著作権が切れているせいもあり、各社から出ています)を読めばいいかを読者のタイプ別に紹介しているのは、初心者には親切です。

 全編、シャーロック・ホームズへの愛にあふれていて、いかに同好の士を一人でも増やそうとしているかの熱意が感じられて、好感が持てました。

 

 

 

 

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容疑者Xの献身

2022-06-05 11:48:21 | 映画

 2008年公開の日本映画です。

 東野圭吾のベストセラー(直木賞をはじめとしてミステリー関係の賞など五冠を受賞しています)の映画化であるとともに、東野の短編をテレビドラマ化したガリレオ・シリーズの映画版でもあります。

 そのため、テレビで人気だった福山雅治や柴咲コウなどのキャストはそのまま使われています。

 しかし、彼ら事件の捜査側はそれほど前面には出ず、容疑者を演じた堤真一や彼がかばうことになる女性を演じた松雪泰子の物語(原作もそうなのですが)の方がクローズアップされます。

 特に、松雪は薄幸の美人役をやらせてたら天下一品なので、この映画でも一番印象に残ります。

 堤真一も、普段と違う暗い役柄を熱演しています。

 ストーリー自体は、こうした原作物にありがちなのですが、かなり端折った感じは否めず、原作の淡々とトリックを積み上げていく感じは、かなり薄まっています。

 

 

 

 

 

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東野圭吾「カッコウの卵は誰のもの」

2022-06-05 11:22:51 | 参考文献

 一読して思い浮かんだ言葉は、「剛腕」でした。
 「剛腕」といえば、野球でとてつもない剛速球を投げるピッチャー(すごく古い例で恐縮ですが、東映の尾崎行夫(ニックネームは怪童)や西鉄の稲尾和久(ニックネームは鉄腕)といった選手のイメージです。投球のスピードが表示されるようになってからは日本ではそのような神話はなくなってしまいましたので、メジャーリーグの例でいうとノーラン・ライアン(これも古いですが)やランディ・ジョンソンになります)とか、競馬でゴール前の追い比べにおいて力づくで馬を勝たせてしまうジョッキー(そう呼ばれていたのは郷原洋行ですが(これも古すぎますね)今なら岩田康誠でしょうか)につけられるニックネームですが、この作品の東野圭吾もそう呼びたいと思います。
 あらすじは述べませんが、とにかく荒唐無稽な設定を、偶然、登場人物たちのモノローグ、手紙、遺書、説明で強引にまとめてしまっています。
 そして、都合の悪い登場人物は、すべて自殺させてしまいます。
 事件の発端である女子スキー選手の母親の自殺は明らかに謎のままなのですが、きっとそのことを作者はうっかり忘れてしまったのでしょう。
 いくらなんでも、作者も編集者ももう少しきちんと読み直してから本にしてください。
 「容疑者Xの献身」などの傑作を書いた当代随一の人気作家は、きっと人が良くて、出版社の求めに応じてどんどん書いてしまっているのでしょう。
 そして、彼のブランド力でどの作品もすごく売れるので、しだいに感覚がマヒしてしまっているのかもしれません。
 昔から、エンターテインメントの作家は、とてつもない原稿枚数を書き飛ばしてしまうのですが、その時その時の旬の書き手に依存して無理な仕事をさせる出版社の体質は、いつまでたっても変わらないようです。
 児童文学の世界でも、それは全く同じ状況です。

カッコウの卵は誰のもの
クリエーター情報なし
光文社
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吉田修一「さよなら渓谷」

2022-06-04 18:16:26 | 参考文献

 映画化もされた2008年出版(雑誌連載は2007年)の作品です。

 学生時代に犯した集団レイプ事件の犯人と、その被害者である女子高校生のその後の人生を執拗なタッチで描いています。

 描写に迫力があって一気に読ませますが、二人の関係が途中でよめてしまって、興ざめさせられる点もあります。

 ひとつの事件が二人の一生をこのように狂わせるのは、ありそうでいて実はそうではないのではないかとの疑念を抱かせます。

 ただし、この作品は、極端な誇張や設定を使って、偶然性も多用したいわゆるエンターテインメントの書式で書かれているので、そこまでリアリズムを求めるのは野暮かもしれませんが。

 

 

 

 

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