現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

寺山修司「一騎打ち」優駿1978年2月号所収

2024-01-21 08:13:39 | 参考文献

 「有馬記念とその抒情」という副題を持った、1977年12月18日に行われた第22回有馬記念の観戦記です(そのころの有馬記念はその年の最後の開催週に行われるのではなく、最後の日は中山大障害でした)。
 史上最高の名勝負と言われるテンポイントとトウショウボーイの一騎打ちを、作者らしい叙情的な文章で綴っています。
 植字工のアルバイト、シングルマザーで子どもとも別れてしまったバーのホステス、競馬記者、スシ屋の政、バーテンの万田、二人の唖(差別用語ですみません)、養老院の沢松じいさん、関西から流れてきたバーテンの吉武、売れないレコード歌手の美保さん、そして作者本人といった様々な市井の人たちの立場から、叙情的にテンポイントとトウショウボーイの「どちらが勝つべきか!]を論じています。
 そして、その中に、巧みに、このレースにおける様々な因縁を織り込んでいます。
 テンポイントは、一度もトウショウボーイに勝っていなくて、唯一の先着は、穴馬グリーングラス(実は稀代のステイヤーで、菊花賞だけでなく天皇賞(そのころは春秋ともに3200メートルで、一回勝つと出走できないルール(できるだけ多くの馬主に天皇賜杯を得る名誉を与えるため)でした)や有馬記念に勝ちました)が勝った菊花賞だけで、春の天皇賞を勝って当時最強と言われていたその年の宝塚記念でも、トウショウボーイには勝てませんでした。
 テンポイントのこれまでの勝利数は10で、一番人気になったのは12回。
 トウショウボーイの勝利数も10で、一番人気も12回。
 単勝人気はほぼ互角(テンポイントが一番人気)で、両者合計で80%近くを占めていました。
 作者はトウショウボーイとテンポイントのイメージを、以下のように対照的に捉えています。
 叙事詩と抒情詩
 海と川
 夜明けとたそがれ
 祖国的な理性と望郷的な感情
 漢字とひらがな
 レスラー的肉体美とボクサー的肉体美
 橋または鉄橋と筏またはボート
 影なき男と男なき影
 防雪林と青麦畑
 テンポイントに騎乗する鹿戸明は、前年わずか4勝(テンポイント以外はほとんど勝っていない!)しかしていない裏街道のジョッキーですが、テンポイントに乗ったときだけは別人のようでした。
 一方、トウショウボーイの武邦彦(武豊のおとうさんです)は「名人」という異名を持つ関西の花形ジョッキー(ちなみに、当時「天才」という異名を持っていたのは福永洋一(福永祐一のおとうさんです)でした)ですが、ダービーで鹿戸明から乗り代わった時は7着と惨敗して、再びテンポイントの手づなを返すという屈辱を味わっています。
 そして、レースが始まると、逃げ馬のスピリットスワップスを抑えて、いきなりトウショウボーイとテンポイントが先頭に立ちました。
 こうして、スタートからゴールまで二頭の一騎打ちという、空前絶後の有馬記念が始まったのです。
 初めは、トウショウボーイがややリードします。
 このままでは、直線でいくら追っても届かなかった宝塚記念の再現になってしまいます。
 そこで、鹿戸はテンポイントを内側に入れて(当日、馬場の内側は荒れていたので、トウショウボーイはやや外目を走っていました)、トウショウボーイを抜かしにかかります。
 しかし、武はトウショウボーイのピッチを上げて抜かさせません。
 このままだと、荒れている内側をずっと走らせられて、テンポイントはバテてしまいます。
 ここで、何かが乗り移ったように、鹿戸の一世一代の好騎乗が発揮されます。
 向正面で、テンポイントをいったん下げて、トウショウボーイの外側に出して、再び追い上げたのです。
 四コーナーで、テンポイントはようやく先頭に立ちます。
 しかし、トウショウボーイも強い。
 そこから、ゴールまで二頭と二人のジョッキーによる意地と意地の叩き合いが続き、テンポイントが宿願を遂げて先頭でゴールした時の着差はわずか4分の3馬身でした。
 つまり、中山競馬場の四百メートルの直線を、ずっと同じ態勢で二頭は競り合ったのです。
 漁夫の利を得たグリーングラスが、トウショウボーイに2分の1馬身差の3着になったのは、さすがでした。
 4着のプレストウコウ(その年の菊花賞場)は、そこから6馬身も引き離されていました。
 G1が安売りされている現代と違って、当時は8大レース(桜花賞、オークス、皐月賞、ダービー、菊花賞、宝塚記念、春秋の天皇賞、有馬記念)だけが重要視されていたので、有馬記念はその年の日本一決定戦として、今とは比べ物にならないほど注目を集めていました。
 1976年トウショウボーイ、1977年テンポイント、1979年グリーングラスと、同世代で有馬記念を三勝したわけですから、いかにこの3頭が傑出していたかがおわかりいただけると思います。
 ちなみに、当時の名馬たちには、秀逸なニックネームがつけられていました。
 トウショウボーイの「天馬」は、あまりにも有名ですし、圧倒的なスピードを誇ったこの馬にピッタリでした。
 テンポイントの「貴公子」も、美しいこの馬(他の記事にも書きましたが、優駿のこの号の表紙のテンポイントの美しさは神がかっています)にピッタリですが、このニックネームはタイテエムなどの他の馬にも使われいたので、独自性としてはイマイチかもしれません。
 グリーングラスの「緑の怪物」もイメージにはピッタリなのですが、ちょっと語呂が悪い感じで、あまり定着しませんでした。
 他の記事にも書きましたが、1978年1月の日経新春杯で小雪降る京都競馬場でテンポイントが散って、中学三年生から八年間続いた私の競馬熱中時代は幕を下ろしました。
 まさにこのレースは、私にとっては、最後の名勝負でもあったのです。
 先日、テンポイントが生まれてお墓もある吉田牧場が閉場するというニュースを新聞で読みました。
 その中で、吉田場長は、このレースを、コマ送りするように最初から最後まで覚えているとおっしゃっていましたが、私も全く同じ思いです。




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