現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

成長物語と遍歴物語

2024-02-03 10:59:22 | 評論

「現代児童文学」(註1)、特に、「少年文学宣言」(註2)の影響化にある作品におけるひとつの特徴に、「変革の意志」があります。
これは、当初(1950年代および1960年代)は社会変革を目指すことを意味していました。つまり「現代児童文学」という文学運動は、社会運動ないしは政治運動という側面も持っていたのです。
そのころの代表的な作品には、山中恒「赤毛のポチ」や古田足日「宿題ひきうけ株式会社」などがあります。
当時の彼らの(そして読者である子どもたちの)目指すべき社会は、ソ連型社会主義で実現されるはずのものでした。
しかし、その方向性は、60年安保及び70年安保における革新勢力の敗北とその後の活動の退潮を受けて、しだいに行き詰りました。
そうした影響を受けて、60年代ごろから、変革の意味を自己変革に拡大解釈した成長物語が、数多く書かれるようになりました。
その一方で、従来型の社会変革を目指すような作品は、80年代から90年代にかけてのソ連およびその周辺の共産主義国家の崩壊と共に姿を消しました。
しかし、成長物語の方は、その後も書き続けられることになります。
それは、成長物語が、より普遍的な性格を持っていたからだと思われます。
成長物語では、物語における経験を通して、主人公がその経験を内部に蓄積していって、それによって自己形成つまり成長が行われます。こうした主人公の成長をモデルとした作品は、一般文学の世界では近代小説ないしは教養小説と呼ばれています。
それに加えて、児童文学の世界における成長物語では、物語において主人公が成長して自らのアイデンティティを確立するとともに、読んでいる子ども読者たちもそれを追体験することによって成長することが期待されています。
そういった意味では、児童文学と成長物語の親和性はもともと高かったと言えます。
成長物語では、主人公は一つの人格という立体的な奥行きを持った特定の個人であり、「現代児童文学」においては、「真の子ども」ないしは「現実の子ども」と主張されていました。
このことは、それ以前の近代童話(例えば小川未明の作品など)に描かれている作家の内面の反映である抽象的な子ども像を批判するところから生まれました。
しかし、この主張は、1980年ごろに、柄谷行人「児童の発見」(この論文には、アリエス「子どもの誕生」の影響があったと思われます)において、「「子ども」ないし「児童」は近代(フランス革命以降、日本では明治維新以降です)になって発見された一つの概念にすぎないのだから、児童文学者が主張する「真の子ども」ないしは「現実の子ども」というのもさらにその後に見出された概念である」と批判されて、児童文学の研究者や評論家においてはかなりゆらぎました。
そのため、このことは1980年代に児童文学の多様化(「エンターテインメントの復権」(註3)、「タブーの崩壊」(註4)、「越境」(註5)など)が起こったことの理由の一つにあげられています。
しかし、この議論は実作者にはほとんど影響を与えず、成長物語は、今でも日本の児童文学において一定の基調をなしていると言えます。
一方、遍歴物語においては、キリスト教における遍歴物語に見られるように、主人公はその物語の狂言回しにすぎなくて、重要なのは物語を通じて繰り返し示される観念なのです。
そのため、遍歴物語では、主人公はある抽象的な存在であって、それを人物として形象化したもの(例えば、いたずらですばしっこい、太っていておっとりしている、おとなしくてさびしげ、といった平面的で典型的なキャラクター)としての人物であるにすぎません。
こうした主人公には、物語における経験はほとんど蓄積されません。つまり、成長しないのです。
「現代児童文学」以前の近代童話においては、こうした遍歴物語が一般的でした(千葉省三「とらちゃんの日記」などの例外はあります)。
 こうした遍歴物語である近代童話を否定して、結果的に成長物語を描こうとしたのが「現代児童文学」だったのです。
それが、80年代に入って、ある行き詰まり(読者である子どもたちからの遊離など)を見せた時に、那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズを初めとしたエンターテインメント作品において、平面的な人物を主人公とした遍歴物語が復権したのでしょう。
 しかし、エンターテインメント系の作品がすべて成長物語ではないとは言えません。例えば、戦前、戦中に「少年倶楽部」などで書かれていたエンターテインメント作品群は成長物語でした(ただし、そこで描かれていた子どもたちの成長する姿は、軍国少年などの国家にとって都合のいいものでした)。また、ハリー・ポッター・シリーズも、魔法学校における主人公たちの成長物語です。
 ただ、現在の日本の児童文学で多く書かれているシリーズ物のエンターテインメントは、主人公を成長させずに長く続けるのに適した、遍歴物語の形態をとっていると考えられるのです。

註1.
この言葉は、広義にはもちろん現在の児童文学という意味ですが、狭義にはそれまでの児童文学(というよりは童話)を批判して新しい日本の児童文学を創造しようとした文学運動を指します(ここでは区別するために、カギかっこ付きにしています))
註2.
当時早大童話会に属していた学生たち(古田足日、鳥越信、神宮輝夫、山中恒など)が1953年に発表した「少年文学の旗の下に」という檄文で、それまでの児童文学の主流であった「メルヘン」、「生活童話」、「無国籍童話」、「少年少女読物」のそれぞれの利点を認めつつもその限界を述べて、「少年文学」(ほぼ「現代児童文学」と言っていいでしょう)の誕生の必然性を高らかに宣言しています。
註3.
「誕生」ではなく「復権」なのは、戦前、戦中において、「少年倶楽部」とその姉妹雑誌や模倣雑誌による、巨大な(「少年倶楽部」だけで月刊で百万部と言われています。当時の日本の人口は約7000万人でしたし、その大半は貧しい農民で本などを買う余裕はありませんでした)エンターテインメント・ビジネスが成立していたからです。
註4.
それまで日本の児童文学でタブーとされてきた「死」、「離婚」、「性」、「家出」などの人生の負の部分を扱う作品が登場したことを指します。代表的な作品には、国松俊英「おかしな金曜日」や那須正幹「ぼくらは海へ」などがあります。
註5.
心理描写などの小説的な技法が取り入れられた作品が登場して、児童文学と大人の文学の境目がはっきりしなくなったことを言います。代表的な作品には、江國香織「つめたいよるに」、森絵都「カラフル」などがあります。この現象は、児童文学の読者対象(特に女性)の年齢の上限を大幅に引き上げました。

     

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廣嶋玲子「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」シリーズ

2022-09-16 09:04:28 | 評論

2013年5月から刊行されて、現在までに15巻(9月15日に16巻目が出ます)とガイドブックが発行されて、2021年7月時点の累計発行部数は350万部を突破しています。それまでもかなり売れていたようですが、2020年6月にアニメが始まってから爆発的に売れるようになりました。

本の構成
・一巻あたり6作のお話と、プロローグやエピローグやサブストーリーやおまけ情報など(巻によって異なります)が掲載されています。
・一つのお話は原稿用紙30枚以内の長さです。

お話におけるルール
・何か悩みや望みを持った主人公が、それまでなかった場所に「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」を発見します(あるいは、店主の紅子が現れます)。
・主人公は、紅子が望んでいたお宝(例えば、昭和四十年の十円玉)と、望みをかなえる不思議な駄菓子とを交換できます。
・それぞれのお話には、ハッピーエンドの物と、アンハッピーエンドの物があり、ハッピーエンドの場合はお宝の硬貨は金色の小さな招き猫に代わり(銭天堂の勝ち)、アンハッピーエンドの場合は真っ黒な不幸虫に代わります(銭天堂の負け)。

作品の魅力
・店主の紅子のキャラクター(白髪で真っ赤な口紅を塗った和服姿の巨大なおばさん。しゃべり方が独特で、特に語尾に「ござんす」を多用する)
・さまざまな魅力的で不思議な駄菓子。
・各お話の主人公の、どんな願いでもかなえてしまう。
・必ずトラブルが起こって、ハラハラドキドキできる。
・ハッピーエンドになるか、アンハッピーエンドになるかが、最後までわからない。
・アンハッピーエンドのお話の主人公は嫌な奴なので、読者はどちらにしても満足が得られる。
・起承転結がはっきりしていて、物語がダイナミックに展開される(分析図を参照)。
・文章が読みやすい(文章がうまいということではありません)。
・文章が短くて(40字以内)、読みやすい。
・漢字にはすべてルビがふってあるので読みやすい。
・短いお話のひとつひとつが完結している。
・一冊で6つのお話を楽しめる(一話あたり150円ぐらいなので、コスパのいい物語消費ツールなのです。そういった意味では、ライトノベル的なのかもしれません)。
・お話がパターン化しているので、分かりやすい。
・挿絵がマンガみたいで、状況が分かりやすい。
・お宝が、古い硬貨なのが面白い。

 

 

 

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これからの<エンターテインメントの書き方(目指せ、ミリオン・セラー!)

2021-09-30 09:13:42 | 評論

 

以下に、これからのエンターテインメントの書き方を箇条書きしますが、そのすべてを守れということではないです。
言ってみれば、これは顧客(子ども)のニーズに合わせた書き方なのです。
一方で、書き手の方にはシーズ(本来は種という意味ですが、この場合は作者の資質)の限界があるわけですから、自分にそのシーズがなければそれには対応できません。残りの部分で勝負すべきです。
それでは、始めます。

・芸術家ではなく、職人として作品(商品)を書いてください。その作業は、自己表現ではなく、顧客(子ども)のニーズを満足させるための仕事です。

・文章を書き出す前に、作品(商品)の設計図を書きましょう。その設計図に、読者のニーズを十分に盛り込むとともに、起承転結のはっきりした構成を組み立てましょう。設計図の書き方はどんな形でもいいですが、一つの例としては前述した分析図を参照してください。

・描写はなるべく省いて、児童文学の書き方の王道である、アクション(行動)とダイアローグ(会話)で書きましょう。

・どうしてもアクションとダイアローグだけでは書ききれない場合も、できるだけ描写(主観)ではなく、必要最小限の説明文(客観)で書きましょう(文学的ではないですね。でも、今の読者は説明文を読むのに慣れていますので、状況が良く理解できるのです)。

・作品の世界観は、オリジナルでなくてもいいです(いや、むしろオリジナルじゃない方がいいのです。文学的ではないですね。でも、すでに確立された世界観の方が読者は読みやすいのです)。

・自然主義リアリズムではなく、マンガ的リアリズムあるいは児童文学的リアリズムで書きましょう(文学的ではないですね。でも、読者の内部にはそれらのデータベースがすでに構築されているので、そうした書き方の方がイメージしやすいのです)。
(お話内リアリズムと言った方が、分かりやすいかもしれません。ある世界観で書かれたお話の中でのルールに従って書くということです。これは、メルフェンやファンタジーに限ったことではなく、いわゆるリアリズム作品の中でも成立します)。

・個性的なキャラクターを、最低でも一つ(おしりたんていや紅子です)は用意しましょう(言うまでもありませんね。でも、キャラクターの重要性は、時代を追うごとにどんどん増しているのです)。

・どんなにご都合主義でもかまわないので、ダイナミックにストーリーを展開させましょう。

・女性読者を意識しましょう。多くの読者は女性です。そして、それは子どもだけとは限りません。

・初めから、シリーズ物として企画しましょう。かつてのあさのあつこ「バッテリー」のように、単独の本でミリオン・セラーを出すことは、現在のマーケット・サイズ(少子化、男の子は本を読まない(多くは、マンガやゲームなどの他の手段で、物語消費をしています))では不可能です。シリーズ化で、ミリオン・セラーをねらいましょう(「おしりたんてい」シリーズは900万部以上、「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」シリーズは350万部以上です)。

・シリーズ化のためには、一冊目ですべてを出し切るのではなく、次作以降のアイデアも作っておきましょう。読者が、第一作を読み終わった時に、この作品世界をもっと読みたいと思ったら第一段階の成功です。その時に、タイミングを逃さずに二作目、さらに三作目と出していけたら、シリーズ物として成功できます。それを、四か月ごとに五年も繰り返せれば、ミリオン・セラーも夢ではありません。

・また、一作目を読んでなくても、二作目が楽しめるように書くこと(書き方としては少しくどくなりますが、キャラクターや設定の情報が、一つの巻にすべて開示されていること)が大事です。そうすれば、二作目を読んでから一作目が売れるチャンスもあるのです。三作目以降も同様です(図書館などで読む場合、一作目から順に読めるのはまれです)。

・成長物語ではなく、遍歴物語で書きましょう。絶対に、物語の中で、主人公を成長させないでください(これは身体的だけでなく、精神的にもです)。お話が終わってしまいます。一作で終わらないまでも、長くシリーズを続けることは不可能です。
(成長物語と遍歴物語

石井直人のまとめによると、
「成長物語では、主人公は一つの人格という立体的な奥行きを持った個人である。主人公が経験したことは、その内面に蓄積していって、自己形成(ビルドウング)が行われる。いわばアイデンティティ論の成立する場である。こうした主人公の成長をモデルとした作品が、一般に近代小説といわれている。
遍歴物語は、対比的に、主人公はむしろある抽象的な観念(イデエ)であって、それが肉化したものとしての人物であるにすぎない。いわば、主人公そのものはどうだっていいというところがあり、重要なのは作品を通じて繰り返し試される観念の方である。」
 遍歴物語である近代童話を否定して成長物語を描こうとしたのが「現代児童文学」であって、それがある行き詰まり(読者である子どもたちからの遊離など)を見せた時に、那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズを初めとしたエンターテインメントに登場する平面的な人物を主人公とした遍歴物語が復権したのでしょう。)

・子どもが好きな物を出しましょう。「おしりたんてい」シリーズではもちろんおしりですし、「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」シリーズに出てくる駄菓子も大好きです。

・絵(特に表紙)は非常に重要です。ライトノベルの世界ではジャケ買いもあるぐらいです。「おしりたんてい」シリーズのようなプロジェクト・チームや「かいけつゾロリ」シリーズのように自分で描ければベストですが、そうでない場合も、作品の視覚的イメージを明確にして、それに合った絵描さんを探してください(「ズッコケ三人組」シリーズの成功においても、前川かずおのマンガ的な絵の貢献は大きいです)。ターゲットの絵描さんが決まったら、編集者と粘り強く交渉しましょう(希望が通るほど作品世界に魅力があることは、言うまでもありません)。

・それと関連して、メディア・ミックスへの対応性も考慮すべきでしょう。本単体だけで売れる時代は終わっているので、ミリオン・セラーにするためにはアニメ、アプリ、ゲーム、コミックなどに展開する必要があります(「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」シリーズは、アニメ化されてから爆発的に売れたのですが、その表紙や挿絵はもともとアニメ絵でした)。

・そのためには、長編ではなく、連作短編で描く必要があります。一編を、5000字から8000字(原稿用紙で20枚から30枚)ぐらいにまとめて、子どもが15分から20分ぐらいで読めるようにするといいでしょう(現在の平均的な子どもたちの読解力や集中力では、それぐらいの時間が限界です。また、アニメに展開した場合に、10分程度で一話が終わる必要があります。本の世界でも、現在は、10分で読めるXXといったシリーズがすごく売れている時代なのです)。

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「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」の第一話「型ぬき人魚グミ」(43字x242行)の分析図

2021-09-28 18:00:49 | 評論

 

1.不思議な駄菓子屋(起、60行)
1-1.主人公の女の子は泳げないので、水泳の授業が憂鬱(14行)
1-2.学校帰りに、見たことのない駄菓子屋に出会う(19行)
1-3.ふしぎ駄菓子屋の様子(15行)
1-4.店主の紅子が登場(12行) 

2.「型ぬき人魚グミ」(承、52行)
2-1.泳げるようになりたいという望みをかなえるという「型抜き人魚グミ」(12行) 
2-2.持っていた昭和四十二年の十円で、「型抜き人魚グミ」を手に入れる(13行)
2-3.家に帰って、説明書通りに人魚グミを作る(15行)
2-4.人魚グミを食べると、すごくおいしかった(12行)

3.人魚に変身する(転、67行)
3-1.望み以上に泳げるようになる(16行)
3-2.うろこが生えてきたので、驚いて学校から逃げ出す(23行)
3-3.人魚グミのせい?(14行)
3-4.注意事項を守らなかったので人魚化している(14行)

4.「型ぬき人間グミ」で人間に戻る(結、63行)
4-1.元の人間に戻る(?)ための「型ぬき人間グミ」(11行)
4-2.「型ぬき人間グミ」を作る(13行)
4-3.おかあさんが帰ってきたので、完成を待ちきれずに食べてしまう(20行)
4-4.時間が足りなかったせいか、人間には戻ったが、水泳は得意になった(19行)

以上のように、起承転結のそれぞれが、さらに細かい単位で起承転結になっていて、読者の興味をつなぐような構造になっています。最小単位のそれぞれは、ほとんどが原稿用紙二枚以内で短くまとまっています。

 

 

 

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現在のエンターテインメント

2021-09-24 16:45:19 | 評論

現在、読まれているエンターテインメントをピックアップするために、八王子市と相模原市の図書館における子どもの本の貸し出し実績と予約実績を調査しました。
その結果、絵本を除くと、以下の三つのシリーズが圧倒的に読まれていることがわかりました。しかも、それらはそろってミリオン・セラーなので、売れている本と考えてもよいでしょう。実際、大きな書店では、児童書のコーナーには、大きなスペースを取ってこれらの本が置かれています。

原ゆたか「かいけつゾロリ」シリーズ 3500万部以上

トロル「おしりたんてい」シリーズ 900万部以上(もともとは、スマホのアプリで、その後、絵本、児童書、アニメ、アニメコミックなどにメディア・ミックスされました)

廣嶋玲子「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」(挿絵はjyajya) 350万部以上

ただし、「かいけつゾロリ」と「おしりたんてい」は、文章中心のよみものというよりは絵物語といった雰囲気で、作品の中に迷路やパズルなどの遊びも取り入れたりしているので、拓のメンバーにとってはあまり参考にならないと思われます。

そこで、今回は、廣嶋玲子「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」シリーズを掘り下げていきたいと思います。こういった作品ならば、努力すれば(一番エネルギーがいるのは、作品から文学性をそぎ落とすことでしょう)、ほとんどのメンバーが同等の物を書けます。

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ポスト「現代児童文学」

2021-09-23 18:12:03 | 評論

 「現代児童文学」が終焉したと認識されたころ(2010年前後)には、その後の児童文学の方向性は、「子どもだけでなく大人にも共有される広義のエンターテインメントの1ジャンル」と目されていました。
 それは、「女性向け」という但し書きを付ければ、正しかったでしょう。
 なぜなら、「児童文学」の「L文学」(女性作者による女性を主人公にした女性読者のための文学)化が、1980年代ごろから同時に進行していたからです。
( これは、大人の文学でも同様の傾向にあるのですが、児童文学の場合は、さらに女性編集者、女性教師、女性司書、女性書店員、女性研究者なども加わったより強固なL文学化が進みました。)
 しかし、それから10年以上がたって、事態はより深刻化しています。
 児童文学の読者の、低年齢化が進んでいるのです。
 その背景には、スマホの普及とその低年齢化があげられます。
 いったんスマホを手に入れれば、ユーチューブ、インスタグラム、LINE、ゲーム、音楽などの魅力的なディジタル・コンテンツがいつでも自由に使えるようになるのです。
( また、そうした商品の消費の形態も、単体の購入からサブスクリプションに変化しています。)
 その動きに素早く対応したのが、マンガ業界です。今では売り上げの半分以上は、ディジタル・コンテンツから得ています。
 残念ながら、児童文学業界は、そうした流れから取り残されて、読者の低年齢化によってますます小さくなったマーケットの中で苦戦しています。
こうした状況において、低年齢層は、たんにスマホを持っていないだけでなく、(前述した)媒介者たちからの影響が強いので、児童文学の最後の砦と言えるでしょう。
しかし、ここでは絵本や絵物語という強力なライバルがいるために、文章中心の児童文学(よみもの)の出版は限定的にならざるを得ません。

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「現代児童文学」の終焉

2021-09-14 18:15:44 | 評論

「現代児童文学」は、2010年に終焉したと言われています。
その年の、「現代児童文学」終焉を象徴する事柄としては、大阪国際児童文学館の閉館、理論社の倒産、作家後藤竜二の死などが上げられています。
しかし、文学運動としての「現代児童文学」は、もっと早い時期に終焉したのではないかと思っています。
オーソドックスな成長物語を描いた「現代児童文学」は1990年代には出版点数が大きく減り、2000年代にはそこから派生したエンターテインメント類までもが売れなくなったのです(「ズッコケ三人組」シリーズは2005年に終了しています)。
その背景としては、出版バブルがはじけたことと、少子化などによる児童文学のマーケット・サイズの縮小があります。
また、子どもたちの読書に求める物の変化(知的欲求の満足から娯楽へ)や、読解力の低下(これは子どもたちだけでなく、大人も同様です)による軽薄短小な本への傾斜なども理由にあげられるでしょう。
( 「現代児童文学」のみならず、児童文学の終焉の可能性については、2000年には、本田和子「消滅か?復権か?その伴走の歴史」という論文の中で、次の項目の内容も含めて予見されていましたが、残念ながらその声は反映されませんでした。)

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エンターテインメントの復権

2021-09-13 13:26:37 | 評論

 

「誕生」ではなく、「復権」なのはなぜでしょうか?
実は、戦前、戦中には、「少年倶楽部」とその姉妹雑誌や模倣雑誌による、巨大な(「少年倶楽部」だけで月刊で百万部と言われています。当時の日本の人口は約7000万人でしたし、その大半は貧しい農民で本などを買う余裕はありませんでした)エンターテインメント・ビジネスが成立していたのです。
しかし、戦後は、マンガ雑誌(初期には絵物語が中心でした)に取って代わられてしまいました。
つまり、児童文学のエンターテインメントには、そもそもかなりのビジネス・ポテンシャルがあったということになります。

そうした状況において、1978年に出版され始めた那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズをきっかけにして、児童文学界においてエンターテインメント・ビジネスが復権しました。
それまでの「ためになる」「何かを知ることができる」「感動できる」「刺激を受ける」といった主として知的好奇心を満足させる読書体験に、「楽しい」「気楽に読める」、「心地よい」そして時にはたんなる「ひまつぶし」といった娯楽的な読書体験が付け加わりました(それまでは、当時のマンガがその役割を果たしていました)。

その背景としては、80年代の出版バブルによる出版点数の増大と多様化があります。
このころの多様化の例としては、他に「タブーの崩壊」、「越境」などがあります。
(「タブーの崩壊」とは、それまで日本の児童文学でタブーとされてきた「死」、「離婚」、「性」、「家出」などの人生の負の部分を扱う作品が登場したことを指します。代表的な作品には、国松俊英「おかしな金曜日」や那須正幹「ぼくらは海へ」などがあります。
「越境」とは、心理描写などの小説的な技法が取り入れられた作品が登場して、児童文学と大人の文学の境目がはっきりしなくなったことを言います。代表的な作品には、江國香織「つめたいよるに」、森絵都「カラフル」などがあります。この現象は、児童文学の読者対象(特に女性)の年齢の上限を引き上げました。これはポスト「現代児童文学」の話と繋がります。)
また、マーケティング的な観点で言うと、団塊ジュニアという大きなマーケットが存在したこともその背景にあります。

(もうひとつのエンターテインメント・ビジネス誕生の消極的な理由に、児童文学ビジネスの固有な事情があります。
 それは、子どもたちと本との間に存在する介在者(両親、教師、司書などの大人たち)です。子どもたちが自分自身で本を購入することはまれで、こうした介在者を通して本に触れることが多いのです(子どもたちの目の前の本棚に、どんな本が並んでいるかも含めて)。
そうした人たちが、子どもたちに本を手渡す時に、「マンガよりはまし。こんな(?!)本でも読めば字を覚えるなど勉強の足しになるかもしれないし、もっとましな(?!)本を読むきっかけになるかもしれない」と、当時(今でも?)は考えたので、子どもたちはマンガの代わりに手を出しやすかったのでしょう。また、授業などで読書のノルマがあった時に、字の少ない薄いエンターテインメント作品(後で述べますが、「ズッコケ三人組」シリーズはぜんぜん違います)でも、一冊は一冊と主張できます。)


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「現代児童文学」のはじまり

2021-09-12 11:52:49 | 評論


現代児童文学という言葉は、広義にはもちろん現在の児童文学という意味ですが、狭義にはそれまでの児童文学(というよりは童話)を批判して新しい日本の児童文学を創造しようとした文学運動を指します(ここでは区別するために、カギかっこ付きにしています)。

一般的には、「現代児童文学」は1959年に始まったとされています。なぜなら、この年に記念碑的な二つの作品、佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」という、どちらも小人が登場する長編ファンタジーが出版されたからです(実際には、それ以前に「現代児童文学」をめぐる検討や論争が行われているので、1950年代にスタートしたというのが正しいでしょう)。

「現代児童文学」には、大きく分けて二つの流れがあります。
「少年文学宣言」派と「子どもと文学」派です。
「少年文学宣言」派は、当時早大童話会に属していた学生たちが書いた「少年文学の旗の下に」という檄文をもとにスタートしています。
 「少年文学宣言」では、それまでの児童文学の主流であった「メルヘン」、「生活童話」、「無国籍童話」、「少年少女読物」のそれぞれの利点を認めつつもその限界を述べて、「少年文学」の誕生の必然性を高らかに宣言しています。
 ここでの「少年文学」は、ほぼ「現代児童文学」と言っていいでしょう。
 彼らの主張する「現代児童文学」の特徴は、「子どもへの関心」、「散文性の獲得」、「変革の意志」です。
( このグループの主なメンバーは、古田足日、鳥越信、神宮輝夫、山中恒などです。)
 「子どもと文学」は、それまでの日本の児童文学を、世界の児童文学(実際には英米児童文学)の基準に照らし合わせて評価しました。
 その結果、当時の児童文学の主流であった小川未明、坪田譲治、浜田広介を否定的に評価して、傍流だった宮沢賢治、新見南吉、千葉省三を肯定的に評価しました。
 「子どもと文学」派の主張する児童文学の価値基準は、「おもしろく、はっきりわかりやすく」です。
( こちらのグループの主なメンバーは、石井桃子、瀬田貞二、いぬいとみこなどです。)
 一見して分かるように、「子どもと文学」の方が、エンターテインメントとの関係性が深いです。
しかし、当初は、高学年以上向けの作品では「少年文学宣言」派の方が優勢で、「子どもと文学」派の主張は主として幼年童話の世界に影響を及ぼしました
 つまり、「現代児童文学」において、エンターテインメントは当初は限定された存在だったのです。 

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児童文学とは何か

2021-09-11 11:24:46 | 評論

「児童文学とは、「児童」と「文学」という二つの中心を持った楕円形をしている」(石井直人)
 この意見に、異存のある人はおそらくいないでしょう。
 ただし、作家や作品によって、どのくらい「児童」よりなのか、あるいは「文学」よりなのかは違いがあります。
 合評会などにおいても、その発言が「児童」よりなのか、「文学」よりなのかを考慮して聞くと分かりやすいでしょう。
 (ちなみに、私は、書くときは相対的に「児童」よりで、読む時は「文学」よりです。)

ただし、ここでいう「児童」についてはいろいろな解釈があります。
「8歳から80歳までの子どものための本」(エーリヒ・ケストナー)
( つまり、「子ども」の心を持っていれば、年齢は問わないわけですね。)
「少年少女時期の終わりごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式」(宮沢賢治)
( こちらは、小学校高学年から20歳ぐらいまでに絞っていますね。)
その一方で、
「「児童」ないし「子ども」は、近代(フランス革命以降、日本では明治維新以降)になって発見された一つの概念にすぎない」(柄谷行人やアリエス)
との主張もあります。
( ここまでくると、何が何だかわからないですね。)

それに対して、エンターテインメントでは、一般に対象となる「子ども」をもっと絞り込んで書かれていることが多いです。
そういった意味では、エンターテインメントは、「児童」よりの児童文学なのです。

一方で、児童文学が「「児童」と「文学」という二つの中心を持った楕円形をしている」とすれば、「文学」だけを中心にした円形の純粋な文章芸術ないしは自己表現ではないので、すべての児童文学は(程度の違いはあるとしても)一種のエンターテインメントであるという見方もできます。   
(もっとも、「児童」を「読者」に置き換えれば、ほとんどの「文学」が楕円形をしているとも言えます。) 

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