現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

高山英香「トモばあさんの味」横丁のさんたじいさん所収

2018-01-31 08:30:37 | 作品論
 1960年代後半から、高度成長時代、1970年代のオイルショックまでの時代を背景にして、小さな工場の掃除のおばあさん(次第に料理を作るようになります)と周囲の人たちとの交流を描いています。
 時代背景を明確することによって、当時の人々の暮らしや人間関係などの情景をうつしだしています。

横丁のさんたじいさん (鈴の音童話)
クリエーター情報なし
銀の鈴社

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丘修三「ワシントンポスト・マーチ」ぼくのお姉さん所収

2018-01-30 08:41:49 | 作品論
 脳性マヒで養護学校に通う、主人公の少年とクラスメートの少女の交流を描きます。
 少女は兄の、少年は姉の結婚式に出席するのを、それぞれ楽しみにしています。
 ところが、少女は結婚式に出席できませんでした。
 少年の方も、「親戚の恥」だと言われて、結婚式を欠席するように圧力をかけられます。
 けっきょく、姉とその結婚相手の強いサポートで、少年は出席できるようになります。
 しかし、少年は、少女のことを思いやって、自分も出席できなかったと、彼女には告げます。
 障害者を恥とする差別、それは現在でもこの作品が書かれた30年前と変わらずにあることでしょう。
 そういった偏見を乗り越えて、障害者と健常者のみんなで助け合って生きていこうという、作者の力強いメッセージが時を超えて伝わってきます。
 ただ、表題のワシントンポスト・マーチは、主人公が元気を出すための音楽なのですが、三十年前と比較するとややポピュラーでなくなっているので、このタイトルを聞いてメロディが浮かんでくる読者は減っているかもしれません。

ぼくのお姉さん (偕成社文庫)
クリエーター情報なし
偕成社
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大江健三郎「自動人形の悪夢」静かな生活所収

2018-01-30 08:40:13 | 参考文献
 この作品でも、主人公の女子大生のマーちゃんと知的障碍者の兄のイーヨーの、イーヨーが作曲を教わっている父(大江健三郎を想起させる作家)の友人夫妻との交流を描いています。
 短編の中に、障碍者に対する差別(バスで女子高校生たちにイーヨーがぶつかって「落ちこぼれ」と罵られます)、「なんでもない人」(父のような「いくらか名の知れた小説家」でもなく、兄のような障碍者(ただし作曲の才能がある)でもない)としての生き方、両親の留守宅(父親が精神的なピンチのために、外国の大学の居住作家の申し入れに飛びついて、母親を連れて赴任している)助け合う三人兄弟(受験生ながら兄や姉を思いやる弟も含めて)、ポーランドの詩人や作家への弾圧への抗議活動、作者が傾倒しているブレイクの作品などを詰め込んだために、他の記事で書いたような二重視点のうちの作者の部分が強く出すぎていて、素直に主人公を応援できませんでした。
 この作品は1990年前後に書かれたのですが、作品の背後に、共産主義国家の行き詰まりと、それに伴って方向性を見失った革新系の人々の状況が、色濃く漂っています。
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舞城王太郎「あうだうだう」短編集五芒星所収 群像2012年3月号 

2018-01-29 08:11:04 | 参考文献
 非・連続短編集の最終短編です。
 主人公の女子高校生の男性遍歴と、「あうだうだう」という悪い箱で神様のようなものと戦う女の子との奇妙な友情が語られます。
 主人公の男性遍歴は、何となくずるずるいってしまう人間の感情を表しています。
 「あうだうだう」と戦う女の子は、そのために牧場の動物を殺して体に装着せねばならず、悪と善の葛藤が不条理に描かれています。
 この作品も筋ははっきりしないのですが、シュールな魅力は感じられて、児童文学の世界、特にファンタジー作品の書き手には刺激になるでしょう。

群像 2012年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
講談社
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小川洋子「ハモニカ兎」いつも彼らはどこかに所収

2018-01-28 08:52:47 | 参考文献
 どこか(おそらくヨーロッパ)の国の小さな町で、オリンピックの競技(住民は誰もその競技を知らないのですが、おそらく野球だと思われます)が行われることになりました。
 その町の広場に設置された開会式までのカウントダウンを示すカレンダー(オリンピックに限らずいろいろなイベントで使われています)が取り付けられたハモニカ兎(かつてその地方にいましたが、乱獲で絶滅しています)と、カウントダウンのためにそのカレンダーをめくる役目を代々引き受けている朝食専門の食堂を経営している男の話です。
 児童文学でいえば、寓話かメルフェンといった味わいの作品ですが、ラストの「うるう年」を使った落ちも含めて、もうひとつうまくいっていない印象を受けました。

いつも彼らはどこかに
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新潮社
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古市憲寿「希望難民ご一行様」

2018-01-27 17:39:56 | 参考文献
 古市の修士論文を、読みやすいように加筆して本にまとめたものです。
 東大の大学院生(古市のこと)が実際にピースボートに乗り込んで、そこの乗客たちにフィールドワークをしたというキャッチフレーズを、巧みに利用して出版しています。
 多くの人たちが広告などでその存在を知りつつも、内実はよく知らないピースボートの実態と、現代の若者気質をユーモアたっぷりの達者な文章でつづっています。
 著書は、現代の若者を、希望を持ちながらそれがたやすくはかなわない現実の中で、終わりなき自分探しを続ける希望難民だと定義しています。
 その原因として、「いい学校」に入れば「いい会社」に入れて「いい人生」をおくれるという、かつての日本のメリトクラシー(業績主義)が機能不全になっていることを指摘しています。
 著者は、ピースボートを若者が求める承認の共同体と定義し、それが幻想にすぎないと主張しています。
 この本を読んで一番良かった点は、ピースボートの成り立ちや運営しているスタッフはいまだに政治的なものの、現在の乗客はほとんど政治的ではなく、自分が今まで思っていたことと実態がだいぶ違うことがよくわかった点です。
 著者は、ピ-スボートの乗客を、以下の四タイプに分類しています。
「自分探し型」は、自分探しのためにピースボートに乗船しましたが、それは発見できずに降りてからも自分探しを続けていきます。
「セカイ型」は、ピースボートのもともとの理念である世界平和に賛同していましたが、ピースボートでそれをあきらめて、船を降りればもう政治には関わらなくなります。
「文化祭型」は、みんなで楽しくすごすためにピースボートに乗船し、降りてからもお金がなくても友だちがいれば幸せを感じています。
「観光型」は、安い世界一周旅行ができるので乗船して、ピースボートを降りればモラトリアムの期間を終えて日常生活に戻っていきます。
 そして、ごく少数の政治的にアクティブな者だけが、スタッフとしてピースボートの活動に残ります。
 結論として、ピースボートが若者たちに自分の夢をあきらめさせるための装置としての働きをしていると、著者は主張しています。
 一読して、学生の修士論文としては良くまとまっていますが、データの集め方や処理の仕方などに稚拙なところが目立ち、結論もかなり恣意的な感じを受けました。
 なにより、あとがきで自分でも弁明していますが、作者自身も一人の若者としてピースボートに乗船したのに、その自分自身がこの本にはどこにも現れず、単なる傍観者として高みの見物をしている感じがぬぐいきれません。
 おそらく、古市は非常に頭のいい優秀な学生だったのでしょう。
 先行する文献や社会学者についても良く勉強しています。
 そして、左翼にも右翼にも激しい攻撃を受けない安全な立場に、自分をうまく置いています。
 そう言った意味では、かなり「こずるい」奴という印象を受けてしまいます。
 ただ、軽妙な文章と機知に富んだユーモア(特に解説の本田由紀が指摘しているように、引用されている学者たちの名前にいちいち的を得た枕詞をつけたのは、楽屋落ちながらなかなかおもしろかったと思います)は相当なもので、それからも一定の読者を獲得しつづけています。
 著者の分類に従って、ピースボートの若者たちを児童文学の読者として考えてみます。
 「自分探し型」は、いつまでも「大人」にならないという意味で、広範な児童文学(特にファンタジー)の読者になるでしょう。
 「セカイ型」は、かためのテーマ(戦争、平和、原発、災害など)を描いた児童文学のターゲットとするべき読者でしょう。
 「文化祭型」は、ずばりエンターテインメントのメインターゲットです。
 「観光型」はもともと大人なので児童文学の読者にはなりませんが、生活力は一番あるので親世代になった時に子どもに買い与えるという意味で、児童文学の有力な媒介者(子どもたちに本を手渡す役割を果たす大人のことで、両親、学校の教師、図書館の司書、読み聞かせのボランティア、子ども文庫活動家、書店員など)になるかもしれません。
 これらの分類は、ピースボートに乗らない一般の若者にも当てはまるでしょう。


希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
クリエーター情報なし
光文社
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マージョリー・ワインマン・シャーマット「ぼうし」ソフィーとガッシー所収

2018-01-25 08:06:24 | 作品論
 ガッシーは、さくらんぼとお花とリボンのたくさんついた帽子を買いました。
 ガッシーがその帽子をかぶって歩いていくと、道で出会った友だちがみんな口々に新しい帽子を褒めてくれます。
 でも、ガッシーは、ソフィーの家へ行って「帽子が目立ちすぎて気に入らない」といいます。
 ソフィーは、「少し飾りをとって目立たなくすればいい」とアドバイスしてくれます。
 ガッシーは、リボンをひとつはずしてソフィーにあげます。
 ソフィーは、そのリボンを飾りのついていない自分の帽子につけます。
 その後も、ガッシーは帽子の飾りをどんどん外して、ソフィーはその飾りを自分の帽子につけていきます。
 とうとうなんの飾りもなくなった自分の帽子を見て、ガッシーはがっかりします。
 そして、今はすべての飾りをつけたソフィーの帽子が欲しくなります。
 すると、ソフィーは、その帽子をガッシーの今は何も飾りがついていない帽子と、あっさり交換してくれます。
 こうして、ガッシーのご機嫌はすっかりよくなりました。
 それはそうです。
 ガッシーは、新しい飾りのたくさんついた帽子と、ソフィーの変わらぬ友情を手に入れたのですから。
 この二人の友情は、今の女の子たちにとっては古風すぎるかもしれません。
 なにしろ、この本は日本では2012年に出版されましたが、原作は四十年も前に書かれたものですから。
 でも、ソフィーの友だちへの心遣いを、現代の女の子たちにも理解してもらえたらなかなか素敵だなと思いました。

ソフィーとガッシー
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BL出版
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神沢利子「馬鈴薯と目」いないいないばあや所収

2018-01-24 15:34:44 | 作品論
 この短編でも、神沢は驚異的な記憶力で、幼稚園や眼科やさまざまな目の記憶(目ヤニ、ものもらい、いろいろな魚の目、馬鈴薯(これは芽ですが主人公は目だと思っています))について、克明に描いています。
 幼いころのことを描いた作品では、ケストナーの「わたしが子どもだったころ」が有名ですが、ケストナーに限らず子どものころの鮮明な記憶を持っていることは児童文学者にとって欠くことのできない資質(2013年にお亡くなりになった鳥越信先生もいろいろな本でそのことを書いています)のひとつです。
 その子どものころの記憶を様々な形で物語化するのが、児童文学作家の創作の出発点であることが多いでしょう。
 しかし、ケストナーの「わたしが子どもだったころ」やこの神沢の「いないいないばあや」は、ほとんどストーリーは作らずに、幼児体験(ケストナーの場合はもう少し大きいですが)そのものの中に、人の本質を探る試みをしています。
 そのために、二重視点(作中の幼い主人公と大人になった作者)を設定していることも、この二作品に共通している点だと思います。
「長い問わたしは幼年童話とよばれるものをかいてきました。わたしの場合、はじめは糧を得ることとも結びつき、その場合、求められるのは必ず幼年童話でしたから、自ら選ぶよりも選ばされて入った幼年奄詁の世界の魅カに今度は自分がとりつかれてかいてきたような気がします。
 そうして、年をとるにつれ、幼年のなかに在る人問の核のようなものにひかれていき、幼年の持つ意味はわたしの内に深く重いものになってきました。この四、五年、身近にうまれるこどもたちの誕生につきあってきて、感じさせられることがたくさんありました。なかでも、うまれたてのあかんぼうはほんのわずかな物音にも、とびあがるほど驚いてこぶしを震わせてつきだします。そのさまを見るたび、無防備なはだかでこの世に送りだされたものが、どんな不安と恐怖のただなかに生きているのか、胸が痛くなります。幼児もまた、自分の感情を言葉に表現して、うまく伝えるすべを知りません。自分の感情を論理づけて考えることもできないので、ただ、やみくもに恐ろしかったり不安だったりするのです。たったひとり、孤独のなかでそれらに立ち向かわなくてはならない時が、どんなに多いことでしょう。
 わたしの幼い日もたしかにそうだったのです。わたしは物語を自分のニ、三歳から五歳まで―時代にすると一九二八年前後になります―に区切って、光と影、明と暗双方を抱えた幼年そのものをもう一度見つめたいとねがって、これをかきました。わたしにとっては先にかいた「流れのほとり」の更に上流を溯ったものです。(あとがきより)」
 このような文学的な試みが、70年代後半の児童文学の出版状況では許されていましたが、商業主義化した現在では困難なことでしょう。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
クリエーター情報なし
岩波書店
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ジョン・シェスカ文、レイン・スミス絵「くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話」

2018-01-23 08:57:49 | 作品論
 「三びきのコブタのほんとうの話」(その記事を参照してください)と同じコンビによるグリム童話やアンデルセン童話などの有名なお話のパロディです。
 文章も絵も構成も活字などの使い方も非常に凝っていて、子どもだけでなく大人も楽しめる絵本になっています。
 訳者の青山南が、あとがきで日本にはなじみのない作品も含めて出典になったオリジナル作品の紹介をしているのが親切です。

くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話
クリエーター情報なし
ほるぷ出版
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川島誠「幸福とは撃ち終わったばかりのまだ熱い銃」電話がなっている所収

2018-01-21 10:19:10 | 作品論
 主人公のぼくは、相思相愛のヒロコちゃんの誕生会で、やっぱりヒロコちゃんのことを好きなタケシくんと取っ組み合いのけんかをします。
 けんかに勝ったぼくは、タケシくんにおしっこをひっかけ、ちんぽこを握りしめてとても悲しくて幸せな気持ちで泣き出します。
 このあらすじでは、なんだかわからないでしょう。
 そう、この作品は川島のデビュー作で、「筋がないこと」、「暴力や性をむき出しにしたこと」、「子どもの読者の理解を無視したこと」などで、従来の現代児童文学(特に、子どもの読者を意識して「おもしろく、はっきりわかりやすく」という創作理論を主張した石井桃子たちの「子どもと文学」の定義)の枠を壊した問題作として、今江祥智の目に留まって世に出ました(いわゆる大人の読者を意識した児童文学雑誌「飛ぶ教室」のグループに属します)。
 川島と同世代の児童文学の研究者である佐藤宗子や石井直人たちも、従来の「子ども読者」の概念を崩した作品として岩瀬成子の「あたしをさがして」などと並んで、彼らの90年代の論文に取り上げました。
 しかし、他の記事にも書きましたが、いわゆる大人の童話は、70年代の初めのころにも劇作家の別役実などが出して一定の大人の読者を獲得していますし、「筋がない」児童文学路線はすぐに行き詰り発展しませんでした。
 何度も述べましたが、80年代は児童文学出版のバブルの時代だったので多様な作品が出版されましたが、バブルが崩壊するとその多様性は一気に失われ、売れる本(いろいろな意味で)しか残りませんでした。

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小川洋子「ことり」

2018-01-20 08:35:13 | 参考文献
 「小鳥の小父さん」と呼ばれる一人の男の一生を描いた作品です。
 人間の言葉は話さずポーポー語と呼んでいる小鳥のさえずりに近い言葉を話す年の離れたお兄さんの、唯一の理解者(お兄さんの話すポーポー語が理解できます)であった「小鳥の小父さん」。
 優しいお母さん、家族に背を向けたお父さんが、あいついで亡くなってからの二人だけの二十三年間の静かな生活(企業のゲストハウスの管理人の仕事をしながらお兄さんを養っていました)。
 お兄さんが亡くなってから(大好きだった幼稚園の鳥小屋のそばで脳溢血で倒れました)の長い孤独な生活。
 「小鳥の小父さん」のまわりには、お兄さんのことを気にかけその後は「小鳥の小父さん」に鳥小屋の掃除をやらせてくれるようになった親切な園長先生や、図書館で鳥が出てくる本だけを読む「小鳥の小父さん」に理解を示してくれる若い女性司書など、心優しい登場人物も出てきます。
 しかし、「小鳥の小父さん」の静かな生活には、しだいにいろいろな苦難が押し寄せてきます。
 若い司書への淡い恋は破局に終わり、体は変調をきたし、子どもに対する変質者だという濡れ衣を着せられ、新しい園長に鳥小屋から追われ、仕事を失い、違法なメジロの飼育者たちに巻き込まれ、最後は一人(怪我していたのを助けたメジロはそばにいましたが)で死んでいきます。
 無名な心優しい人物の静かな一生を、過度に感傷的にならずに淡々と描いていて感動的です。
 「小鳥の小父さん」のような人々は、世の中にたくさんいることでしょう。
 そして、このような控えめで心の優しい人たちにとっては、現代は生きづらい世界なのかもしれません。
 こういった人々に光をあてることは、児童文学にとっても大事な仕事です。
 この作品は一般向けの本ですが、文章が平易ですし子どももたくさん登場するので、児童文学といってもいいくらいです。
 ただ、現在の売上第一の出版状況では、児童書として出版することは困難かもしれません。

電話がなっている (ニューファンタジー 3)
クリエーター情報なし
国土社
ことり
クリエーター情報なし
朝日新聞出版
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伊東潤「弥惣平の鐘」巨鯨の海所収

2018-01-19 10:20:26 | 参考文献
 太地鯨漁を終焉させた「大脊美流れ」と呼ばれる大遭難事故を描いています。
 それに被せた人間ドラマはパターン的なのですが、遭難の状況は非常にリアリティがあって読ませます。
 半ノンフィクションスタイルの作品なのですが、思い切ってノンフィクションに徹する手もあったかなと思いました。
 この短編集を通して、太地鯨漁についてはよく調べて書かれていて、ろくに調べないで安直に描いた作品が多い最近の児童文学にとってはアンチテーゼになっていました。

巨鯨の海
クリエーター情報なし
光文社
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イターロ・カルヴィーノ「ハチ療法」マルコヴァルドさんの四季所収

2018-01-10 09:20:37 | 作品論
 ハチに刺されることによって治療する民間療法をベースにして、いつものようなドタバタ事件が起こります。
 ハチ毒の恐ろしさについての研究が進んだ現在では、作者のユーモアも心からは楽しめません。

マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
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中脇初枝「サンタさんの来ない家」きみはいい子所収

2018-01-09 09:04:01 | 作品論
 新米の教師の目を通し、学級崩壊、モンスターペアレント、給食費不払い、児童虐待、ネグレクト、過度な個人情報の保護など、様々な今日的問題を描いた作品です。
 現代の子どもたちを取り巻く困難を、真正面から取り上げた点はおおいに評価できます。
 ただ、様々な問題を限られた紙数の中で取り上げたため、個々の問題が薄まった感がします。
 母親や義理の父親に虐待やネグレクトを受けていて、給食だけでかろうじて生き延びている神田さん(男の子)の問題に絞り込んでもっと突っ込んで書くべきだったと思います。
 また、問題の背景にある社会問題や学校や行政の怠慢に対する作者の批判が及び腰で、原因を神田さんの両親の個人的な資質に収斂させているので、この今日的問題を告発する力が弱くなっていると思います。
 特に、ラストで主人公が思い切って神田さんの家を訪問するシーンで終わっているのは、主人公の勇気は評価できるものの、書き手としてはその後(おそらく修羅場になることが予想される)を目をそらさずに書くべきなのではないでしょうか。
 このラストシーンも含めて書き方が全体的に情緒に流れすぎているのが、作品を弱くしています。
 現代の問題を告発するためには、もっと冷徹に現実を見据える視線が必要だと思います。
 また、子どもの視点ではなく、大人の視点で書かれたために一般文学になっていますが、抑圧されている神田さんの視点で描く、あるいは教師と両者の視点で描くなど、子どもにも手渡される形にする工夫も必要だったのではないでしょうか。
 これらの問題は大人だけでなく、抑圧される側の子どもたちにとっても大きな問題なのですから。

きみはいい子 (一般書)
クリエーター情報なし
ポプラ社
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芝田勝茂「佐藤さとる・作 村上勉・絵 だれも知らない小さな国」

2018-01-07 10:23:06 | 参考文献
 「児童文学の魅力 いま読む100冊―日本編」所収の作品論です。
 芝田は、前に読んだ時には、「主人公セイタカさんとおちび先生の、小人という秘密を通してのふれあい。自然破壊に対する小人たちのゆかいなたたかい。小人たちのキャラクターのおもしろさ。」などの点をあげて、素晴らしい作品だと思っていたといいます。
 しかし、再読していろいろな問題があることに気がついたと述べています。
 芝田が問題だと指摘した第一の点は、小人たちのいる小山が「自分だけの閉じた世界」であることです。
 このことは芝田に限らずこの作品で議論される最大のポイントで、「だれも知らない小さな国」という題名にもあらわされているように、この作品世界は主人公ないしはその理解者たち(これは佐藤さとるとこの作品を支持する読者たちと、等号で結ばれています)だけのものであり、理解しないものは受け入れない排他性につながっていると思われます。
 芝田が指摘した第二の点は、「戦争とのかかわり」です。
 これも必ず議論になる点ですが、この作品での戦争中の描写はほんの数行だけで済まされているのです。
 好意的に評すれば「戦争を通しても変わらぬ価値(小山や小人の存在)を主人公(作者)は持ち続けた」となりますが、芝田は作者が戦争を封印していると指摘し、それだけ佐藤さとるにとって戦争の傷は深かったのかもしれないと推測しています。
 しかし、芝田も述べているように、この作品で作者が戦争体験を忌避していることは明らかで、作者の「戦争」に対する意見の表明は留保されたままです。
 最後の問題点として、芝田は「現実とのかかわり」をあげています。
 ここでも、作者の姿勢は現実からの逃避(これは、佐藤さとるがモデルにしているイギリスのファンタジー、例えばケネス・グレアムの「楽しい川辺」などとも共通しています)であるともいえます。
 この作品ではまだはっきりしていませんが(続編の作品群では明らかになっています)、芝田が指摘しているように、佐藤さとるが創造したコロボックルの社会は、人間社会の遅れてきたモデルにすぎなかったのかもしれません。

児童文学の魅力―いま読む100冊 日本編
クリエーター情報なし
文溪堂
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