現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

はじまりのうた

2023-08-30 09:22:10 | 映画

 キーラ・ナイトレイが主演の音楽映画です。
 ストーリー自体はありがちなハッピーエンドなのですが、オリジナル曲やかつての名曲など、さまざまなポップスのメロディーにあふれていて、洋楽好きにはたまらない映画になっています。
 特に、携帯音楽プレイヤーの曲をスプリッターで分岐して男女が一緒に聞きながら町をさまようシーンや、ニューヨークのあちこちの名所でゲリラ録音してアルバムを制作するシーンなどは、音楽がいかに生活と切り離せない存在になっているかをうまく象徴しています。
 完成したアルバムは、大手の音楽プロダクションとの印税10パーセントの契約(10ドルならば1ドルがアーチストの取り分)を蹴って、1ドル(すべてがアーチストの取り分なので手取りは一緒)で自主的にインターネットで販売する事を選択するラストは、音楽業界のみならず本の世界でも電子書籍によって将来的に主流になるであろう自己出版の姿を予見させて、非常に興味深かったです(映画では友人の大物ミュージシャンがSNSで広めてくれたので、初日だけで1万ダウンロード以上売れましたが、一般的には現時点ではこううまくはいかないでしょう)。
 キーラ・ナイトレイの歌声が、ややぎこちなさがあるもののなかなか味わいがあって魅力的なのには驚きました。
 スターになってしまって別れた彼女の恋人役を演じたのはマルーン5のアダム・レヴィーンなので、彼が歌うシーンは当然ですが圧巻でした。
 児童文学でも、音楽を生かした作品(例えば津村記久子の「ミュージック・ブレス・ユー」など)が、もっと書かれてもいいと思います。


Begin Again - Soundtrack
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Imports
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朝井リョウ「何者」

2023-08-29 09:48:04 | 参考文献

 2013年上期の直木賞の受賞作品です。
 新就職氷河期の就活を通した青春小説という、まさに旬な題材を描いた作品です。
 ツイッターを中心に、スカイプ、フェイスブック、ライン、スマホなど現代の風俗を巧みに取り入れていて、2011年という瞬間を見事に切り取っています。
 これらの通信関連の世界は5年もたてば様変わりするので作品が古くなってしまうのですが、それらをふんだんに使っているのはむしろ潔いでしょう。
 作者自身も、まさにこの作品の設定である2011年に就活をやっていたわけで、作品に描かれている世界は実体験(友人たちの体験も含めて)に基づいていると思われます。
 たまたま私の下の息子は作者と同じ大学で同じ学年なので、登場人物たちの様子は息子の大学生活や友人の男女の大学生たちや彼らの就活とほぼ同じで(息子の場合は三年生の十二月ではなく九月から就活を始めていましたが)、非常にリアリティがありました。
 デビュー作を読んだ時も感じましたが、作者の創作能力は実体験があると(デビュー作の場合はバレーボール部の様子など)、非常に力が発揮されるようです。
 もちろん作者の場合は、題名通りの「(他者とは違う)何者」なわけで、そのネームバリューは就活には有利に働いたと思います。
 登場人物たちのように留年(いろいろな理由で)もせずに四年で卒業していますし、就活に対してかっこ悪くもがくこともなかったでしょう。
 でも、作者の周囲には登場人物たちのような友人も多くいたはずですから、それを冷徹にながめながら作品化した腕前はデビュー作よりも明らかに進歩しています。
 バンド活動を大学時代のいい思い出として一転して要領よく就活に対応する男子、アンチ就活を装っているが陰で活動している男子、留学やインターン経験などを振りかざしながら懸命にもがいている女子、家の都合で転勤のある総合職をあきらめてエリア採用の内定先に決めようとしている女子、そしてそれらを観察しながらなかなか就活に打ち込めない主人公の男子と、すごくバランスよく配置して、就活を通して青春の終わりの姿を描いています。
 いつの時代も就職活動は一種の通過儀礼(自分が「何者」にもなれないことを自覚させられる)なのですが、リーマンショック以来の新就職氷河期の就活は、それがインターネットなどを使ってシステム化されて、ますます非人間的になっているようです。
 ただ、作者の描いた世界は、まだ恵まれている方のグループ(彼のデビュー作の言葉を借りるならばカースト制度の上の方)で、実際にはもっとひどい目にあっている学生たちの方が大勢でしょう。
 作者の学校は私立とはいえ有名校ですし、男子たちはバンド活動や演劇活動に打ち込め、女子たちは留学経験もあります。
 住んでいる部屋も、二人でシェアしているとはいえ、十分に広くて便利な場所にあるようです。
 作品に出てくるのはいわゆる「リア充」な子たちばかりで、実際の就活生(特に地方在住)からは羨ましい存在に違いありません。
 作者はこれから会社での体験を生かした小説を書いていくのでしょうが、会社を退職してしまった芥川賞作家の津村記久子に代わって、新しいワーキング小説の誕生を期待したいと思います。
 ただ、津村と違って、作者はいわゆる有名企業に就職しているので、ここでも「カースト制度」の上の方の会社生活ばかりを書かないでもらいたいと思います。

何者
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新潮社
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津村記久子「ウェストウィング」

2023-08-28 09:26:15 | 参考文献

 駅のターミナルの反対側の不便な場所にある、古い大きな商業ビルが舞台です。
 ネゴロは三十代前半の長身の独身女性(津村の分身か?)で、あまり景気の良くない小さな会社の支所に勤めています。
 フカボリは二十代後半の独身男性で、やはり不景気で給料がカットされてしまう建築関係の計測会社の支社に勤めています。
 ヒロシは小学六年生で、ビルの中にある塾に通っていますが、コインロッカー屋でアルバイトもしています。
 この全く関係のない三人が、ビルの四階にある物置き場で、別々に息抜きをしています。
 ひょんな事で、三人はお互いに正体を知らないまま、手紙や物をやりとりします。
 一読して、「これは作者の今までの「仕事小説(あるいは学生小説)」の集大成なんだな」という気がしました。
「ワーカーズ・ダイジェスト(その記事を参照してください)」での複数主人公がすれ違うように生きる姿の書き方。
「まとまな家の子はいない(その記事を参照してください)」での現代の子どもたちの生きづらさ。
「とにかくうちに帰ります(その記事を参照してください)」での、大雨による帰宅困難シーン。
 そういったすべての要素が、この作品には詰め込められています。
 三人が感染症にかかって入院したり、ビルが解体されそうになるなどのピンチが、最後は一応回避されてひと段落という感じですが、今までの作品に比べると、仕事などへの将来の展望の暗さは一段と増したように思えます。
 それに代わって、人との結びつきの重要さが強調されています。
 ネゴロは、ビルで働いているいろいろな同性の人たちの存在が救いになっています。
 フカボリは、ひょんなことからビルで知り合った女性と再会できます。
 ヒロシは、勉強に向いていない(その一方で物語作りや手仕事(スケッチや消しゴムハンコなど)には才能を示しています)ので塾へ行きたくないことを、ようやく母親に打ち明けられます。
 こういったラストでは、今までの作品よりも、仕事や勉強に対する作者の否定的な見方が強くなっています。
 これは、作者が会社を退職して、作家専業になったことが影響しているかもしれません。

ウエストウイング
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朝日新聞出版
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津村記久子「まともな家の子供はいない」

2023-08-27 16:14:02 | 作品論

 2009年に「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞した津村が、2011年8月に出した中学三年生を主人公にした小説です。
 題名通りに、登場する子どもたちはすべてそれぞれの家庭に問題を抱えています。
 主人公のセキコは、身勝手な理由で仕事が長続きせず働いていない父親、その父親を容認して子どもにもおおっぴらに父親とセックスをする母親、それらを見て見ぬふりをしている妹、といった家族に我慢できずに、夏休みなのに家にいられません。
 セキコは、父親が無職だという経済的な理由で、希望する私立大学の付属高校へ進めないのではと心配しています。
 セキコは中学生でまだバイトができないのでお金がなく、コーヒーショップにも入れずに、しかたなく図書館で時間をつぶしたり、友だちの家に行ったりしています。
 セキコと仲がいいナガヨシ(女子)の家では、母親がテレビショッピングにはまっていて、それに愛想をつかした父親は家を出ていってしまいます。
 そんなナガヨシが興味を持って尾行している大和田(男子)は、父親がいなくて水商売をしている母親の店で前に働いていた女の人のことが好きです。
 大和田は、若い男と関係して今は母の店を追い出された、その女の人が今いる店の周りをうろついています。
 ナガヨシとセキコは、そんな大和田を見張っています。
 セキコと塾で席次が近い(その塾は成績順に並ぶので席も隣になることが多い)クレ(男子)も、母親が家の食器を全部割って家を出て行ってしまい、父親と二人で暮らしています。
 クレは、最近学校や塾へ来なくなって家に引きこもっていて、得意の料理ばかりしているので太ってしまっています。
 とっつきにくいと思ってセキコが敬遠していた室田(女子)も、家で帰省している大学生の兄が彼の彼女と一緒に、両親と仲良しごっこをしているのが耐えきれず、セキコと同じように家にいられずに図書館へ来ていることがわかります。
 図書館が臨時休館の日に、セキコは室田の家に誘われます。
 裕福で一見恵まれているように見える室田から、実は母親が不倫をしていたんだと、セキコは打ち明けられます。
 このまったくバラバラに悩んでいる子どもたちは、一人ではこなせないほどたくさんの塾の宿題を助け合ってやっていくという、本当にか細いつながりで結ばれていきます。
 セキコとナガヨシを除いては本当にかすかだった彼らの結びつきは、綱渡りで宿題の回答を皆でそろえていくうちにだんだんと強くなっていきます。
 新学期になって、それぞれにこれからもなんとか現実と折り合って生きていくためのかすかな希望のようなもの(クレは塾にやってきます。もう二度と話すこともないと思っていた大和田がセキコに話しかけてきます。室田は相変らすマイペースで図書館通いを続けています。セキコの父親はコンビニで働き始めたようです。ナガヨシの父親は家に帰ってきて母親と話し合いを始めました)が見えてきます。
 ルビなしでバンバン難しい漢字を多用したいわゆる純文学ですが、最近の商業主義にからめとられた児童文学作品などよりも、はるかに今を生きている子どもたちの姿を捉えています。
 もちろんこの作品は、作者独特な執拗なまでに細部を描く描写や性的表現など、子どもが読みやすい作品ではありません。
 しかし、この作品で描かれたいわゆる「家庭」が崩壊している現代社会の姿は、児童文学でももっともっと描かれなくてはいけないのではないでしょうか。
 もうサザエさんやチビマルコちゃんやドラエモンで描かれているような家庭は、どこにも存在しないのです。
 ほとんどすべての家庭で少なからず問題を抱えていて、そのために子どもたちは悩んでいます。
 サザエさんのようなアニメやAlwaysのような映画が人気なのは、おそらく昔あったと思われる家庭(それもたんなる幻想にすぎないかもしれませんが)への郷愁のようなものでしょう。
 子どもだけでなく大人のファンが多い点も、それを裏付けています。
 今まで、問題に直面している子どもたちに対して、現代児童文学ではどのように描いてきたでしょうか。
 戦争、飢餓、貧困といった近代的不幸に対しては、1950年代から1970年代にかけて、連帯による社会変革を目指す作品が多く書かれていました。
 アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さといった現代的不幸が問題になってくると、1970年代から1990年代にかけて、子どもたちが生きていくことへの共感、励まし、癒しといった作品が多く描かれました。
 しかし、経済格差、世代間格差、家庭崩壊、ネグレクト、虐待などに直面している現代の子どもたちには、また新たな児童文学が必要になってきていると思われます。
 これらの文学では、問題を子どもたちだけに解決させるのではなく、困難に直面している子どもたちを描くことによって「大人たち(あるいは彼らが作った社会)を撃つ」文学にならなくてはならないと思っています。
 なぜなら、責任は子どもたち(若者たちも含めて)にあるのではなく、大人たち(あるいは彼らを育てた高齢者たち)にあるのです。
 特に、団塊ジュニアが親になり始めたころから、これらの問題は加速度的に深刻化しているので、彼らを育て今の社会を作り上げた団塊世代(かつての全共闘世代でもあります)の責任は特に大きいでしょう。
 それらに対応する児童文学は、まだいい作品があまり生み出されていないように思えます。
 むしろ、主演した少年がカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞して評判になった映画「誰も知らない」などの、他分野の作品の方が敏感に反応しているように思えます。
 児童文学も現在量産されている甘っちょろい現実肯定的な作品ではなく、真摯に子どもたちの現実に向き合った作品をもっと提出しなけれなならないのではないでしょうか。
 そのためには、短期間的には、商業主義の蔓延している児童文学の出版社を通した作品ではなく、一般文学として出版された方がこれらの問題を抱えた子どもたちを捉えた作品を世の中に出すチャンスが多いように感じています。
 「まともな家の子供はいない」は、その可能性を感じさせてくれる作品の一つだと思いました。

まともな家の子供はいない
クリエーター情報なし
筑摩書房

 





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村田沙耶香「コンビニ人間」文学界2016年6月号所収

2023-08-24 15:04:38 | 参考文献

 芥川賞を受賞した作品です。
 コンビニという極めて今日的な場所でしか生きられない、三十代の独身女性を描いた作品です。
 この作品を通常のリアリズム作品として読むと、発育段階から明らかに精神に障害があるように描かれているので、なぜ周囲の人間が適切な治療をうけさせるなり保護するなりしないか、読者は不思議に思えるでしょう。
 実際のこの作品は通常のリアリズム作品ではなく、主人公をコンビニだけで生きるという特殊な状況においてデフォルメすることによって、現代の同世代の多数の人間たちの状況に迫っています。
 「コンビニ」を「会社」に置き換えれば、多くの若い世代、特に経済的理由で結婚できない非正規雇用の人たちに当てはまるでしょう。
 主人公も彼女が途中で自宅で「飼う」三十代の独身男性も、一般的な見方では社会不適合者なのですが、程度の差こそあれ「自分は社会に適合していない」という感覚を持つ若い世代の人々は多数いることでしょう。
 そして、彼らは、主人公の「コンビニ」のような適合できる場所を求めています。
 ただし、この作品では、この二人をこれもまたデフォルメされた社会適合者たちの群れで囲むことによって、両者の差異を強調していますが、実際には「社会不適合者」はずっと多く、それなりにコミュニティを形成していると思われます。
 もうひとつのこの作品の特長は、コンビニのシーンが異常なほどリアリティがある点です。
 作者は実際に今でもコンビニでアルバイトをしているそうなので、その経験が十二分にいかされています。
 かつての津村記久子の作品群と同じように、この作品を優れたワーキング小説として読むこともできます。
 この作品は、芥川賞を受賞することにより多くの読者を得ることになるでしょう。
 「火花」と違って、このような純文学作品が読まれること自体は、決して悪いことではありません。

コンビニ人間
クリエーター情報なし
文藝春秋

 

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トイ・ストーリー3

2023-08-23 10:21:01 | 映画

 2010年に公開された人気アニメ映画の第三作です。
 初めは子ども向けに作られていたこのシリーズが、持ち主の成長と共に次第にどちらかというと大人向けに変化しています。
 トイ・ストーリーと共に育った観客たちはそれ以上の速さで成長しているので、この設定はビジネス的には必然かもしれません。
 この作品では、児童文学の大きなテーマのひとつである「子ども時代にサヨナラする日」が、非常にうまく描かれています。
 具体的には、主人公のウッディたちの持ち主のアンディが他の都市にあるカレッジに入学する時に、おもちゃたち(子ども時代の象徴)とサヨナラします。
 アンディがいつも彼と一緒だったウッディ(彼の子ども時代に獲得した重要な価値観(友情、優しさ、勇気、あきらめないこと、思いやりなど)の象徴)だけは一緒に連れていき、他の仲間たちは屋根裏部屋に保存しようとします。
 彼のおもちゃたちに対する思いの深さにも感動しますが、ウッディ以外のおもちゃたちが自分たちの役目が終了したことを受け止め、自分たちの今後の運命を受け入れる姿に心を打たれました。
 このシーンには、ミルンの「プー横丁にたった家」のラストで、クリストファー・ロビンが、プーさん以外のおもちゃたちとサヨナラするシーンとピタリと重なります。
 手違いで廃棄されそうになったり、独裁者が支配する保育園へ寄贈されたりしたことから、ウッディたちの戦いが始まるのですが、その冒険活劇をとおして、観客は前述した重要な価値観を十二分に追体験できます。
 ラストで、アンディ自身の手で、おもちゃたちは新しい持ち主に手渡されます。
 そして、ウッディも自分自身の意志で、アンディと一緒に行ける特権的な立場を捨てて、仲間たちと新しい持ち主と暮らす人生を選択します。
 アンディとウッディのお別れのシーンでは、本当の意味での「子ども時代にサヨナラする」時なので、二人の気持ちを思うと涙がおさえられませんでした。
 このシリーズは、持ち主側は児童文学で言うところの成長物語なのですが、おもちゃたちは年を取らないピーターパン的な存在です。
 そのため、この人気シリーズを続けるためには、新しい持ち主に移行するのは必要な手法です。
 ご存じのように、2019年に「トイ・ストーリー4」(その記事を参照してください)が公開されて、日本でも大ヒットしました。


トイ・ストーリー3(吹替版)
サラ・マッカーサー
メーカー情報なし








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真夜中のカーボーイ

2023-08-22 12:25:34 | 映画

 1969年公開のアメリカ映画です。

 当時アメリカン・ニューシネマと呼ばれた、低予算の新しい感覚を持った映画群の代表作の一つです。

 アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚色賞を受賞しました。

 テキサスから、女性相手の売春を目当てに長距離バスでニューヨークに出てきたカウボーイ姿の青年と、都会のどん底で暮らすネズミというあだ名をった足の悪い男との奇妙な友情を描いています。

 極寒のニューヨークで体調を崩したネズミは、暖かいフロリダへ行くことを夢見ます。

 カウボーイは、売春相手(男性)を殺す(?)までして、フロリダ(マイアミ)行きのバス賃を手に入れます。 

 あれほど夢見たフロリダ(マイアミ)に到着する一歩手前で、ネズミは亡くなります。

 目を開いたままで死んだネズミの目を閉じてやって、彼の体を支えながら、バスに乗ったまま終点のマイアミに向かうカウボーイの、放心したような表情が忘れられません。

 この作品では、二人芝居と言ってもいいほど、ジョン・ボイト(カウボーイ)とダスティン・ホフマン(ネズミ)の二人の名優(この映画では残念ながらノミネートだけだったのですが、その後アカデミー賞主演男優賞をそれぞれ受賞しています)の演技が、全編にわたって繰り広げられます。

 特に、ダスティン・ホフマンの演技は、あざといとさえ言えるほど上手く、こすっからしい小男を演じていて、見ていて圧倒されます。

 一方、ジョン・ボイトの方は、少しマヌケなお人よしの大男を、まるで本当の彼自身かのように、すごく自然に演じています。

 ニューヨークの廃墟ビルに暮らす二人の底辺での生活が、これらの演技によって恐ろしいほどのリアリティをもって描かれています。

 全編に流れるニルソンの「うわさの男」も、作品の雰囲気にピッタリで、心に残ります。

 

 

 

 

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台風クラブ

2023-08-20 10:57:30 | 映画

 1985年公開の日本映画です。

 台風がやってくる数日前から始まり、台風直撃時にピークを迎え、台風一過の晴天で映画は終わります。

 それに合わせて高まっていく田舎の中学生たち(男子三名、女子五名)の熱狂を描いています。

 それぞれに、日常生活や学校や将来に不満や不安を抱いている彼らが、台風の猛烈な風雨の中でそれらを解き放っていく姿が、子どもたちの持つ計り知れないエネルギーを感じさせてくれます。

 特に、ラストの少し前で、土砂降りの中で下着姿(やがてはそれも脱ぎ捨てて)で踊り狂うシーンは、当時評判になりました。

 また、学校に残ったグループ(男子二名、女子四名)とは別行動で、都内にプチ家出をした少女を演じた工藤夕貴の清新な演技も魅力的です。

 

 

 

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彼女は夢で踊る

2023-08-19 10:17:13 | 映画

 2019年公開(広島において。全国公開は2020年)の日本映画です。

 2019年まで広島に実在していたストリップ劇場を舞台に、そこに若い頃から勤めて閉館時は社長だった男性を主役にして、踊り子たちやスタッフたちとの人間関係を描いています。

 男性の過去(劇場に勤めはじめる頃や踊り子の一人への失恋など)と現在(閉館か存続かの間に苦悩する姿、かつて恋した踊り子の幻を見るなど)を自由に行き来して、彼とストリップとの関わりを浮き彫りにしていきます。

 ストリップのシーンも含めて全体に幻想的な映像が美しく、観客を主人公と一体化させることに成功しています。

 また、全編に流れるラジオヘッドの「クリープ」が雰囲気にぴったりで痺れます。

 男性に限らず女性にも、このような劇場が今でもあるなら、ストリップを見てみたいという気にさせます。

 

 

 

 

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岩瀬成子「迷い鳥とぶ」

2023-08-18 12:05:10 | 作品論

 主人公の小学生の女の子りんは、偶然出会った迷いインコを飼うことになります。
 りんの周りには、次々に風変わりな人物が登場します。
 いつも妄想を話す友だちの羊子。
 出会った子どもの写真を撮りたがる自称プロの写真家の男。
 アメリカからルーツを訪ねに来たと言いながら、実は洗剤を売ろうとしている日系人のおじいさんのミスター・カラキ。
 インコの飼い主で学校を良くサボる守男。
 迷子のインコは、物語の途中でリンに放たれて、早々に山に向かって飛んでいってしまいます。
 しかし、不思議な登場人物たちは、いつまでもりんにまとわりつきます。
 そう、彼らこそ、本当の「迷い鳥」なのでしょう。
 最後まで、これらの「迷い鳥」たちが飛べるのかどうははっきりしないもやもやとした気分で作品は終わります。
 この本が出た1994年は児童書出版のバブルがはじけたころですが、まだこんな純文学風の本が出版されていました。

迷い鳥とぶ (童話パラダイス)
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理論社
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森忠明「花をくわえてどこへゆく」

2023-08-17 15:56:55 | 作品論

「美しい足」をした岸昌子先生が、自分の担任の矢崎先生と結婚することを知って、学級委員で優等生だった森壮平は強いショックを受けます。
 さらに周囲の状況によって愛犬のテツを捨てなくてはならなくなった森少年は、逆にテツに見捨てられてしまいます。
「美しい足」と「好きな犬」という自分がもっとも大事にしていたものが、もう手に入らないのだと感じた森少年は、生きていく気力を失ってしまいます。
 「なんのために生きていくのか」「なんのために学校で勉強しなくてはいけないのか」ということに強い疑問をもった森少年は、両親にしばらくの間の休学を申し入れます。
 森少年の苦しみは、両親や先生、医者たちからはまったく理解を得られません(この本が出版された1981年当時では、まだこういった少年たちは今よりも少数派で、周囲の理解も現在より不十分だったと推測されます)。
 ただ、幸運なことに母方の祖父だけは森少年に理解があり、自宅のはなれや山梨の湯治場で、森少年を好きなだけ休ませてくれます。
 森少年を取り巻く状況は最後まで好転しませんが、ラストシーンで急死した祖父を抱きかかえる森少年は、それでもこれからも生きていかねばならないことを自覚します。
 1975年の「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)から、主人公のアイデンティティの喪失はさらに深くなっています。
「きみはサヨナラ族か」の主人公は、それでも絵を描くことで自分のアイデンティティを回復させようとしていましたが、この作品ではそれも完全に失われています。
 「生き続けていくこと」に対して諦念にも似た主人公の気持ちに、現代の子どもたち(あるいは若者たちも含めて)の置かれている生きていくことが困難な(あるいはその裏返しで非常に安易な生き方しかできない)状況を先取りした作品だと言えると思います。
 一連の森作品は、一方に熱烈な愛読者は持ちつつも、いわゆる「現代児童文学」論者からは、その「変革の意志」の欠如を批判されました。
 しかし、今になって振り返ってみると、すでに既存の「現代児童文学」の創作理論では、その当時の子どもたちの状況をとらえきれなくなっていたのかもしれません。
 また同様に、いわゆる社会主義リアリズムを偏重していた「現代児童文学」の批評理論では、このような作品は正当に評価できなかったと思われます。

花をくわえてどこへゆく (文研じゅべにーる)
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文研出版
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宮沢賢治学会イーハトーブセンター冬季セミナー in 東京 「宮沢賢治と映画」

2023-08-16 11:47:01 | 参考情報

 今回のセミナーのねらいは、案内文によると以下の通りです。
「リュミエール兄弟による映画(シネマトグラフ)の発明から一年後に生まれた宮沢賢治の生涯は、映画が手品めいた見せ物からモンタージュの発展をへてトーキーにいたる歴史とぴたりと重なる。賢治はどのような映画の影響を受けたのか。映画はどのような影響を文学に与えたのか。そして文学はどのような影響を映画に与えうるのか。
 あえて原作の映画化(アダプテーション)という主題をはずし、映画と文学の関係を問う。」
 コーディネーターの岡村民夫の冒頭挨拶によると、今回の題目に適した人ということで、ジブリの宮崎駿に依頼したが、映画作成中なので断られたとのことでした。
 次に、宮沢賢治研究 Annual Vol.22に掲載された蔡 宜静の論文を中心にやるということで、以下の講演内容になったとの説明がありました。

 講演① 『氷河鼠の毛皮』の〈鉄道〉空間の設定と列車映画との関連
  蔡 宜静(さい せんせい)
  (台湾康寧大学応用外国語学科准教授。日本近代文学・日本語教育・台湾の日本映画受容史)
 1975年、台湾台中市に生まれる。新潟大学大学院現代社会文化研究科卒業。台湾康寧
大学応用外国語学科准教授。日本近代文学・日本語教育・台湾の日本映画受容史。
 著書『日本近代文学と活動写真の比較研究』(致良出版社、2009年)、『萩原朔太郎、
堀ロ大学、宮沢賢治および北川冬彦における映画の感受性』(康寧大学応用日本語学科出
版、2011年)。
 2011年から、早福田大学演劇映像学連携研究拠点テーマ研究海外研究分担者。
現在、早稲田大学演劇博物館訪問学者。
 
 講演② サイレント映画と近代文学者たち
  安 智史 (やす さとしI
  (愛知大学短期大学部教授・日本近代文学。日本近代詩、文化・メディア論)
 1964年、茨城県生まれ。立教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
愛知大字短大部教授。日本近代文学・文化。
 著書に萩原朔太郎というメディア一ひき裂かれる近代/詩人』(森話社、2008年)。
 編著に『新編 丸山薫全集』(角川学芸出坂、2009年)、『コレクション・モダン都市文
化 第75巻 歌謡曲』(ゆまに書房、2011年)。共著に『和歌をひらく第5卷 帝国の和歌』(岩波書店、2006年)。論文に「三島由紀夫VS.増村保造一映画「からっ風野郎」とその後の三島の身体イメージをめぐって」(『大衆文化』第7号、2012年)などがある。
また2006年宮沢翼冶冬季セミナーでは、シンポジウム「宮沢賢治と温泉」のパネリス卜を務めた。 

 講演③ 宮沢賢治と映画 アダプテーションではなく……
  岡村民夫(おかむら たみお)
  (法政大学国際文化学部教授・表象文化論。映画評論)
 1961年、横浜市に生まれる。立教大学大学院文学研究科单位取得満期退学。法政大学国際文化学部教授。表象文化論、場所論。
 著書『旅するニーチェ リゾ一卜の哲学』(白水社、2004年)、『イーハ卜一ブ温泉学』(みすず書房、2008年)、『柳田国男のスイス一渡欧体験と一国民俗学』など。訳書『デュラス、映画を語る』(みすず書房、2003年)、共訳『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局、2006年)など。
 第19回(2009年)宮沢賢治奨勋賞受賞。宮沢賢治学会イーハ卜ーブセンターの花巻での映画上映をたびたびコーディネー卜している。現在、宮沢賢治学会イーバ卜一フセンター副代表理事。

 パネルディスカッション・質疑応答

 プレゼンテーションは題目のせいもあってか、パワーポイントやDVDやブルーレイディスクをうまく使って、視覚にも十分に訴えかけるものでした。
 また、講演者をサポートするパソコンなどのオペレーターがいて、プレゼンテーションはスムーズに行われました。
 このあたりは、レジュメを読むだけのことが多い日本児童文学学会の大会などでも見習った方がいいと思いました。
 最後の挨拶で宮沢賢治学会の代表理事が言っていたように、宮沢賢治の研究者だけでなく、新旧の映画に関心がある人にも興味深い内容だったので、もっと学会外部にも宣伝して、多くの人に参加してもらった方が良かったと思いました(しかも、懇親会に参加しなければ会員以外でも無料でした)。

宮沢賢治―驚異の想像力 その源泉と多様性
クリエーター情報なし
朝文社



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エーリヒ・ケストナー「ケストナーがケストナーについて」子どもと子どもの本のために所収

2023-08-15 16:01:32 | 参考文献

 スイスのチューリヒのペンクラブで行った、自己紹介のテーブルスピーチです。
 皮肉や諧謔がふんだんにちりばめられていますし、私は第二次世界大戦前後のドイツの状況に疎いので、なかなか正しく理解するのは難しいですが、以下のようなキーワードをピックアップすることができます。
「長く除外されていた(注:12年間のナチスによる執筆禁止をさします)ので、コンディションについては正確に判断が下せません」
「風刺詩集」
「子どもの本」
「ファビアン(注:反モラル小説の傑作と言われる彼の一般文学の代表作)」
「ユーモア娯楽小説(注:「雪の中の三人男」など)」
「新聞のための文化政策論説」
「キャバレーのためのシャンソンや寸劇」
「演劇」
「教師」
「道徳家」
「合理主義者」
「ドイツ啓蒙主義」
「詩人や思想家の「深刻さ」を嫌い」
「感情の率直」
「思索の明澄」
「語と文の簡潔」
「良識」
「いつも変わらぬ、日当りのよいユーモア」
「第三帝国で執筆を禁止されていたにもかかわらず、自発的にドイツにとどまっていたこと」
 こうしたケストナーの多面性について、これからも継続的(断続的といった方が正しいですが)に考察していきたいと思っています。
 これは、四十年以上前に大学を卒業する時に隠居したらしようと思っていたことの一つなので、嬉しくてたまりません。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
クリエーター情報なし
岩波書店
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宮沢賢治「序」注文の多い料理店所収

2023-08-14 08:46:34 | 作品論

 賢治が生前に出版した唯一の童話集(他に詩集の「春と修羅」がありますが、いずれも自費出版です)の序文です。
 短い文章ですので、全文を引用します。

 わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕がたを、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたがないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになることもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

  大正十二年十二月二十日
                                        宮沢賢治

 この短い文章の中に、詩人で童話作家であった賢治の創作の秘密が語られています。
 それと同時に、九十年以上前に書かれたにもかかわらす、読者である子どもに対して児童文学者のあるべき姿をこれほど端的に表した文章を私は他に知りません。

注文の多い料理店-宮沢賢治童話集1-(新装版) (講談社青い鳥文庫)
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講談社
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宮沢賢治「『注文の多い料理店』新刊案内」

2023-08-13 09:27:56 | 参考文献

 賢治は生前、詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の二冊を自費出版しただけでした(ただし、引用した文章中にあるように童話集は全十二巻のシリーズの第一巻の予定でしたし、「春と修羅」も第一集であり、その後の作品も書かれていました)。
 この新刊案内には、賢治の作品の背景や童話観が彼自身の言葉で書かれていて興味深いので、以下に全文引用します。
「イーハトーヴは一つの地名である。しいて、その地点を求むるなればそれは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスがたどった鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠のはるかな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。
じつはこれは著者の心象中に、このような状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雪の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている。
深い椈の森や風や影、肉之草や、不思議な都会、べーリング市まで続く電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。この童話集の一列はじつに作者の心象スケッチのー部である。それは少年少女期の終りごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。
この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する。
一 これは正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。しかもけっして既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によって純真な心意の所有者たちに欺き与えんとするものではない。
ニ これは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しようとはする。けれどもそれは全く、作者の未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であって、けっして畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。
三 これらはけっして偽でも仮空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても、たしかにこのとおりその時心象の中に現われたものである。ゆえにそれは、どんなに馬鹿げていても、難解でも必ず心の深部において万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解なだけである。
四 これは田圃の新鮮な産物である。われらは田園の風と光との中からつややかな果実や、青い蔬菜といつしょにこれらの心象スケッチを世間に提供するものである。
注文の多い料理店はその十二卷のセリ一ズの中の第一冊でまずその古風な童話としての形式と地方名とをもって類集したものであって次の九編からなる。
1 どんぐりと山猫
山猫拝と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必ず比較されなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。
2 狼森と笊森、盗森
人と森との原始的な交渉で、自然の順違ニ面が農民に与えた永い間の印象です。森が子供らや農具をかくすたびに、みんなは「採しに行くぞお」と叫び、森は「来お」と答えました。
3 烏の北斗七星
戦うものの内的感情です。
4 注文の多い料理店
二人の青年紳士が猟に出て路に迷い、「注文の多い料理店」にはいり、その途方もない経営者からかえって注文されていたはなし。糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。
5 水仙月の四日
赤い毛布を被ぎ、「カリメラ」の銅鍋や青い焔を考えながら雪の高原を歩いていたこどもと、「雪婆ンゴ」や雪狼、雪童子とのものがたり。
6 山男の四月
四月のかれ草の中にねころんだ山男の夢です。「烏の北斗七星」といっしょに、一つの小さなこころの種子を有ちます。
7 かしわばやしの夜
桃色の大きな月はだんだん小さく青じろくなり、かしわはみんなざわざわ言い、画描きは日分の靴の中に鉛筆を削って変なメタルの歌をうたう、たのしい「夏の踊りの第三夜」です。
8 月夜のでんしんばしら
うろこぐもと鉛色の月光、九月のイーハトヴの鉄道線路の内想です。
9 鹿踊りのはじまり
まだ倒れない巨きな愛の感情です。すすきの花の向い火やきらめく赤褐色の樹立のなかに、鹿が無心に遊んでいます。ひとは自分と鹿との区別を忘れ、いっしょに踊ろうとさえします。」
 この短い文章の中に、たくさんの賢治作品理解のためのキーワード(「イーハトーヴ」、「心象スケッチ」、「循環」、「宗教」、「ユートピア」など)がちりばめられ、彼の作品に託した願いが込められています。
 中でも注目すべきは、この童話集が「少年少女期の終りごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。」と明示している点でしょう。
 アドレッセンス中葉とは青年期中ごろつまり思春期を意味しますので、この童話集は現在の学校制度では小学校高学年から高校生あたりを対象として考えていたのでしょう。
 しかも、賢治の全十二巻構想の第一巻であるこの「注文多い料理店」は、「まずその古風な童話としての形式と地方名とをもって類集したもの」としているわけですから、シリーズ全体としては「子どもから大人まで」(賢治と同世代の児童文学者であるエーリヒ・ケストナーの言葉を借りるならば、「八歳か八十歳までのこどもたち」)の広範な読者を対象にしていたと思われます。
 賢治は、この本を自費出版する前年に、「婦人画報」編集部に童話原稿多数を持ち込みますが、掲載を断られています。
 「赤い鳥」などの童話伝統の固定観念にとらわれていた雑誌の編集者には、この「新しい童話」が理解できなかったのでしょう。
 しかし、賢治は出版社に迎合して「お子様向け」の童話などは書かずに、自費出版の途を選びました。
 そのおかげで、当時「婦人画報」などに掲載されていた童話群があっさりと歴史に淘汰されてしまったにもかかわらず、賢治の作品たちは今でも多くの読者を獲得しています。
 これと同様のことを現代でやるならば、商業主義に凝り固まった出版社などには頼らずに、ネットを利用して、直接読者のスマホなどに作品を届けることなのかもしれません。

『注文の多い料理店』広告文
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