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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ルーヴル美術館展

2019-11-29 14:12:58 | 展覧会
 国立新美術館で開催されている肖像芸術に絞った展覧会です。
 肖像芸術に絞ったという狙いは面白いのですが、なぜルーヴルなのかが十分に表現されていない感じを受けました。
 確かに、ルーヴルならば、エジプト時代から19世紀までの広範な時代の美術品を所蔵していますし、絵画に限らずに彫刻や様々な装飾品などの多様な肖像芸術をカバーできるでしょう。
 しかし、その膨大な所蔵品の中から、展示されている110点に絞り込んだ意図がもう一つはっきりしませんでした。
 網羅性を重視したために、かえって肖像の持つ意味や芸術としての変遷をうまくとらえきれずに、全体としてあいまいな印象を受けました。
 また、展示品も概して小粒(しいて目玉といえば、ヴェロネーゼの「美しきナーニ」やアルチンボルドの「春」と「秋」や古代エジプトの棺用マスクでしょうか)で、ずっと鑑賞していたいという気を起こさせるような魅力的な作品は少なかったです。

ルーヴル美術館 (別冊太陽)
クリエーター情報なし
平凡社
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くらもちふさこ「ダブルフェイス」

2019-11-21 08:49:51 | コミックス
 1996年にブーケに掲載された掌編です。
 ボーリングが嫌いな男子とカラオケが嫌いな女子が、それぞれささいなきっかけ(偶然ストライクを出す、嫌々ながら一曲歌わされる)で、豹変する姿が描かれています。
 こうした高校生の日常への視点が、同じ時期にかかれていた長編「天然コケッコー」に生かされたのでしょう。
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くらもちふさこ「パラパラ」

2019-11-19 08:36:02 | コミックス
 高度成長期のころに子どもだった記憶(作者は1955年生まれなので、自分自身の記憶に基づいているかもしれません)を描いています。
 当時の子どもたちの遊びや生活をバックに、子ども欲しさの誘拐未遂事件に巻き込まれた自分の記憶を、現在(40才前後)の自分自身(バツイチでおそらく子どもなし)と誘拐犯の女を重ね合わせて描いています。
 純文学的なコミックスなのですが、作者の本線であるエンターテインメント系の作品世界の背景を知ることができて興味深いです。
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くらもちふさこ「性格の良(字が逆さま)い大沢くん」

2019-11-16 14:48:52 | コミックス
 1993年にコーラスに掲載された、作者の代表作のひとつ(映画化もされました)「天然コケッコー」の元となった短編です(別冊マーガレットで活躍していた作者が、初めて年齢層がやや高いコーラスに発表するので、おそらくプロトタイプとして描かれたのでしょう)。
 山あい(この作品には描かれていませんが、海も近い)の過疎地域の分校(小学校と中学校が併設されています)に、東京からの転校生がやってきたことから、互いのカルチャーの違いから起こる騒動が描かれています。
 背が高くかっこいいが、性格に難のある大沢くんと、主人公の右田そよとの出会い(この時は中二ですが、その後高校時代まで続きます)が中心ですが、それ以外の個性的な登場人物たちの紹介や少人数なために兄弟姉妹同然で育った子どもたちの結び付きが巧みに描かれ、一年後の1994年からの「天然コケッコー」の連載へと繋がります。
 この作品の魅力は、なんといっても、美人だが訛りがバリバリある右田そよのキャラクターでしょう。
 作者は、リアルな女の子の主人公(「いろはにこんぺいとう」のチャコや「おしゃべり階段」の花菜など)の描写で定評がありますが、この右田そよ(映画では夏帆が演じました)が最大の成功例でしょう。
 かなり美人なのに自分では全く自覚がなく、子どもたちのお姉さん役として、みんなの面倒を見ている優しいがしっかりしていて、それでいてどこか抜けているそのキャラクターは秀逸で、この作品の成功に繋がりました。
 また、作者の描く男性主人公は、女の子たちに比べると、理想化されたイケメンタイプが多いのですが、その中では、この作品の大沢広海(映画では岡田将生が演じました)はおっちょこちょいで三枚目的要素があるので、比較的魅力があります。
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主人公の視点と作者の視点

2019-11-15 17:52:13 | 考察
 一般の文学と違って児童文学の場合は、例え一人称を使ったとしても、作者(大人)と主人公(子ども)は完全に一体にはなり得ません。
 そのため、作品世界を眺めている視点が、主人公の場合と作者自身の場合とが混在してしまいます。
 書き手側はほとんど意識していない事が多いのですが、読者に「大人の視点を感じる」という印象を与えてしまった場合は、多くは作者自身の視点が主人公の視点を上回って作品の中に登場してしまっているのでしょう。
 読者が主人公に寄り添って(共感して)読み進めていくためには、書き手は自分自身の視点をより自覚して抑制していかなければなりません。

小説の技法―視点・物語・文体
クリエーター情報なし
旺史社
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ジョーズ

2019-11-15 17:42:33 | 映画
 1975年に公開され、スティーブン・スピルバーグの名を不朽のものにしたパニック映画の傑作です。
 言い古された話ですが、サメが姿を見せない前半の恐怖の盛り上げ方(音楽、カメラ・アングルなど)が、他の恐怖映画とは一線を画しています。
 後半も、姿を現したサメと三人の男たち(海が苦手な島の警察署長、お金持ちのボンボンの海洋学者、サメ漁師の荒くれ男といった個性豊かな役どころを、それぞれロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファス、ロバート・ショーという名優たちが演じています)との死闘もスリリングです。
 封切り時にはそのころ好きだった女の子と渋谷で見たのですが、前半は急な場面転換で怖いシーンが出てくるので、隣の女の子をかばいながら見るのに最適な映画だったことを今でも覚えています。
 そのころは、スピルバーグか、フランシス・コッポラか、ジョージ・ルーカスの映画(ジョーズ、インディ・ジョーンズ・シリーズ、E.T.、ゴッド・ファーザー・シリーズ、地獄の黙示録、アメリカン・グラフィティ、スター・ウォーズ・シリーズなど)さえ見れば、まずはずれはなかったので、女の子とのデートにはもってこいでした。

ジョーズ (字幕版)
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
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ターミネーター:ニュー・フェイト

2019-11-14 15:57:36 | 映画
 ターミネーター・シリーズの最新(最終?)作です。
 ターミネーターやターミネーター2で活躍した今年63才のリンダ・ハミルトンや72才のアーノルド・シュワルツェネッガーが頑張っている映画です。
 いろいろな大人の事情で、この作品世界ではなかったことになっている3以降は無視して、2の続編として、生みの親のジェームス・キャメロンのもとで製作されました。
 1984年製作のオリジナルや1991年製作の2と一番違うところは、CGによるアクション・シーンのグレード・アップですが、他の映画の記事にも書きましたが、CGなら何でもありなので、かえってリアリティが薄れています。
 それとともに大きく変わったのが、ジェンダー観やマイノリティへの配慮です。
 この映画で活躍するいい側は三人の女性で、シュワちゃんは添え物的扱いです。
 また、アンチ・トランプのハリウッドらしく、みんなが守る人類の未来を担うリーダーはメキシコ人の若い女性です。
 オリジナルでは人類の未来のリーダー(男性)を生むことになるために若い女性(リンダ・ハミルトン)が狙われ、2ではその子ども(未来のリーダー)が狙われ、そして、とうとう狙われる若い女性自体が未来の人類のリーダーなのです。
 それぞれの記事に書きましたが、最近かつてのヒット作の続編を年取ったオリジナル・キャストを使って描く映画が続いています。
 「スター・ウォーズ」のマーク・ハミル、キャリー・フィッシャー、ハリソン・フォード、
「プレード・ランナー」のハリソン・フォード、そして、この映画のアーノルド・シュワルツェネッガーやリンダ・ハミルトンを見ていると、懐かしさとともに、彼らの年取った姿に自分を重ね合わせて感傷的な気分にさせられます。
 この映画でも、ラストでシュワちゃんのオリジナル・ターミネーターが死ぬ(?)時には、寂しさで少し涙が出てきてしまいました。
 こうした映画が次々に作られている背景には、ハリウッドの才能(キャメロンだけでなく、かつてのスピルバーグやルーカスやコッポラなどの映画は、すべて今までにない魅力に溢れていました)の枯渇や、スターが小粒になったことがあげられるでしょう。
 また、アメリカではブーマー世代、日本では団塊の世代と呼ばれる多数派の世代が一線を退き、金と暇をもて余していて、現在の映画の観客層でもマジョリティの存在であることも無視できません。
 ビジネスに敏感なハリウッドが、女性、外国人(特に中国人)といった映画の観客のマジョリティに過剰な配慮をしていることは、日本で封切られている映画を見ただけでも明らかですが、古い企画でオールド・スターを登場させて高齢者も取り込もうとしているのでしょう。
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動物ファンタジーの擬人化度

2019-11-13 08:50:05 | 考察
 動物ファンタジーにおいて擬人化は重要な問題です。
 それは、人間と動物の関係性を表すだけでなく、作品世界の質まで規定してしまうからです。
 動物ファンタジーにおいては、生態はほぼその動物本来のもので心理だけが擬人化されているもの(リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」など)から、一応登場人物(?)は動物として設定されているもののその生態は全く人間と変わらないもの(ケネス・グレアム「楽しい川辺」など)まで、さまざまな擬人化度を持った作品があります。
 一つの作品でその擬人化度が統一されているべきことは言うまでもありませんが、短編集ではひとつひとつの短編が異なる擬人化度を持っていても許容されると思われます(あまり極端に違っている場合は違和感が生じますが)。


動物絵本をめぐる冒険―動物‐人間学のレッスン
矢野 智司
勁草書房
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最上一平「山のちょうじょうの木のてっぺん」

2019-11-10 09:58:07 | 作品論
 小学校低学年ぐらいの、おっちょこちょいで元気ないがらしくんを主人公にしたシリーズの第一作です。
 いがらしくんと仲良しのにしやんは、対照的に運動が苦手で泣き虫なおとなしい子です。
 いがらしくんは、そんなにしやんをついかまいたくなって、くすぐったり、プロレス技をかけたりします。
 ある日、にしやんが、いつもと違った様子で登校してきます。
 愛犬のごんすけが、年をとったのと病気のために死にそうなのです。
 ごんすけは、にしやん(いがらしくんも)が生まれる前に、亡くなったおじいちゃんの家からもらわれてきた人間だと100才ぐらいの老犬で、にしやんは何をするのにもずっと一緒だったのです。
 学校が終わって、いつもとまるで違って全速力で家へ走って帰るにしやんを、いがらしくんは追いかけます。
 静かに死んでいくごんすけを、優しく見守るにしやんといがらしくん。
 おかあさんにごんすけが生まれた雪深い故郷の様子(にしやんも行ったことがあります)を聞きながら、二人はごんすけが死んだら、故郷の山の頂上の木のてっぺんに吹く風になることを想像します。
 幼い子どもにとっての、死ぬこと、年をとること、そして、そうした前提で生きていくために大事なことを考えさせてくれる作品です。

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「印象派からその先へー」三菱一号館美術館

2019-11-07 17:02:17 | 展覧会
 吉野石膏という会社の一族のコレクションを、山形美術館から持ってきた美術展です。
 個人のコレクションなので、全体的には散漫な印象を受けますが、バルビゾン派から、ルノアールやモネなどの印象派を経て、カンディンスキーやピカソまでの様々な絵を、すいている場所でゆっくり見られます。
 特に、シャガールは、質量ともに一番充実しています。
 また、常設展示のこの美術館ご自慢のルドンのグランブーケは、何度見てもゴージャスです。
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「シャルル=フランソワ・ドービニー展」損保ジャパン日本興亜美術館

2019-11-07 16:39:09 | 展覧会
 「バルビゾン派から印象派への架け橋」という副題の付いた展覧会です。
 この画家の事はほとんど知らなかったのですが、副題に魅かれて見に行きました。
 彼自身は、バルビゾン派(彼が住んでいたところは、バルビゾンからは少し離れていましたが)に属するサロンでは著名な風景画家ですが、作品自体にはあまり感心しませんでした。
 芸術家というよりは職人(父親も風景画家ですし、息子も風景画家です)といった感じで、当時の新興の富裕層が好む田園地帯の風景(彼らはパリ市内に住みながらそういった場所に郷愁を抱いていました)を量産して、経済的にも成功したようです。
 しかし、彼は頑迷ないわゆる職人気質の人ではなく、印象派などの新しい技法(特に光の取扱い)にも柔軟で、自分の作品にも取り入れています。
 そういった目で見ると、年代順に並べられた彼の風景画を見ると、明らかに技術的にも向上し作品が成熟していっていることが分かります。
 また、モネ、ゴッホ、マネ、ピサロなどの次世代の画家が世に出ることにも、おおいにバックアップしたようです。
 彼の作品の最大の特長は、フランス北部のオワーズ川やセーヌ川にボート(小さなアトリエ兼寝室の小屋がついています)を浮かべて、上流や下流に旅しながら多くの水辺の作品を描いたことです。
 そして、それを「船の旅」という版画集にまとめています。
 彼の絵画は風景に徹していて物語性はほとんどないのですが、版画の方は船や川辺(宿屋や食堂など)での暮らしが克明に描かれていて、ユーモアやメルヘンもあり、児童文学の世界と非常に近いものを感じました。
 特に、彼のボートは、初期は手漕ぎの小さなもので(後に帆もかけられるやや大きなボートになっています)、時には岸辺にいる見習水夫(後に同じ風景画家になる彼の息子のようです)がロープで引っ張るシーンがあり、私には動物ファンタジーの古典であるケネス・グレアムの「楽しい川辺」(原題は「柳に吹く風」ですが、石井桃子の付けたこの邦題は作品世界の本質をとらえていて秀逸です)の世界(ヒキガエルが脱走の途中で乗った引き船は馬が引いていましたが)を彷彿とさせてくれました。
 時代(「船の旅」は1862年の作品で、「楽しい川辺」は1908年出版です)と国(「船の旅」はフランスで、「楽しい川辺」はイングランドです)の違いはありますが、当時は現代よりも時間の流れがゆっくりしていましたし、お隣同士の国なので、ほとんど同じ世界だったのでしょう、

 
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白土三平「山盗りの巻」カムイ伝所収

2019-11-07 16:29:06 | コミックス
 ついに日置藩は幕府に取り潰され、領主も、城代家老も、江戸家老も、目付も殺されました。
 しかし、それは正義が行われたのではなく、さらに大きな権力(幕府)のため(家康がの出であることを隠ぺいする)のものでした。
 主な登場人物も、それぞれの夢に行き詰まり、窮地に立たされていきます。
 カムイ(元の忍者)は抜け忍となり、追手に追い詰められていきます。
 正助(百姓)は、夢屋七兵衛(商人)の裏切りにより、隠し銀山に閉じ込められます。
 夢屋自身も、夢、夢と大きなことを言っていますが、単なる金の亡者である本心が明らかになっていきます。
 赤目(カムイの忍者としての師で抜け忍)も、夢屋の正体を知って袂を分かちます。
 草加竜之進(武士)は念願の日置藩滅亡は果たしますが、それは単に権力者の交代にすぎないことを悟ります。
 カムイ伝(第一部)の連載は1964年から1971年ですが、この漫画の人気と作品自身の魅力の背景には、60年代後半の革新勢力の隆盛と高揚がありました。
 これらは、70年安保の革新側の敗退を境に衰退していくのですが、それと時を同じくするように、「カムイ伝」の主人公たちの未来も行き詰まりを見せています。
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板垣巴留「BEASTARS4」

2019-11-07 16:27:44 | コミックス
 巻を追うごとに、話は複雑さを増します。
 この巻では、主役のハイイロオオカミのレゴシを慕う一年生の同じハイイロオオカミ(なぜか毛が茶色)の美少女ジュノが登場して、アカシカのルイ、ドワーフウサギのハルも含めて、複雑な四角関係(草食動物の異種、肉食獣と草食動物、肉食動物の同種(レゴシとジュノの関係だけが、この世界でのノーマルな関係とされています))が形成されて、LGBTなどで同様に複雑化している現代の人間の男女関係をデフォルメさせています。
 また、ジュノにアイドル的なカリスマ性を持たせて、学園の王者であるビースターの座をルイと競わせます。
 一方で、ルイの暗黒の過去(裏市で肉食獣の生餌として売られていたのを、大富豪のアカシカに買われて跡継ぎになった)も明らかになります。
 ここまで風呂敷を拡げてしまってどう収束させるか、作者の腕前が問われます。
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金原瑞人「訳者あとがき」このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年所収

2019-11-07 16:26:19 | 参考文献
 2018年に出た新訳のサリンジャーの本の訳者による「あとがき」です。
 サリンジャーが2010年に亡くなって注目を浴びてから、このような新訳本が出るようになったのは、サリンジャーを研究するためにはありがたいことです。
 構成としては、サリンジャーの代表作の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の主人公であるホールデン・コールフィールドやその兄弟や妹の原型と思われる登場人物が出てくる六篇と、デビュー作の「若者たち」、それに訳者が当時の若者たちを鮮やかに描いていると評した「ロイス・タゲットのロングデビュー」、それに一般的には失敗作とされている最後の作品の「ハプワース16、1924年」を選んでいます。
 評者は児童文学にも造詣が深いので、アリエスの「<子ども>の誕生」の発想を受けて、戦後アメリカで高度経済成長とベビーブームにより「若者」が誕生し、彼らに向けた音楽や映画と並んで文学を生まれ、サリンジャーはその先駆けとしている指摘は、非常に優れています。
 また、サリンジャーの戦争体験をもとにした作品群も、それらをサリンジャーのようには言語化できなかった当時の若者たちが、老齢に達して当時を振り返った時に評価されているとの指摘も重要です。
 さらに、サリンジャーの評伝本に関しても、要点をまとめて紹介されているので参考になります。
 ただ、「ハプワース16、1924年」に関する訳者自身の評価はあいまいな印象を受けました。
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アルフレッド・ケイジン「『みんなのお気に入り』」アメリカ文学作家論選書J.D.サリンジャー所収

2019-11-07 16:23:50 | 参考文献
 1962年に出版された批評論文集に収められた、「フラニーとズーイ」(その記事を参照してください)を中心とした論文です。
 一見、サリンジャーがこれだけ広範な読者を獲得したことをさまざまな理由を上げて評価しているように見せかけて、次第にサリンジャーないしはグラス家兄妹の閉鎖性や社会を構成するマジョリティの人々への優越感を指摘して、結果としてはサリンジャーの成功が表面的な技巧によるものであるとの批判を巧妙に展開しています。
 広範な読者を獲得した理由としては、短編小説の書き手としての玄人的な専門的技術を身に付けていること、「ニューヨーカー」誌の編集者の関与、事物に対する洞察力などをあげています。
 一方、著者は、グラス家兄妹(サリンジャー)が、「知識をひけらかすインテり」(例えば、「フラニー」に出てくるボーイフレンド)を軽蔑していながら、結果として膨大な数の「知的に洗練された人々」に読まれていることの矛盾を指摘しています。
 つまり、グラス家兄妹(サリンジャー)の愛は、「一部の限られた人々への愛」だとし、「それ以外の者に対しては許すということしかない」としています。
 著者は、ここで「インテリ」という言葉を「知的に洗練された人々」という意味で使っています。
 これは、フランク・カーモードの論文(その記事を参照してください)で使われていた「教養のある」人々とは違うことに注意が必要です。
 カーモードのいう「教養のある」人々とは、「すでに評価が確立した「哲学書」や「宗教書」や「古典(文学も含みます)」を身に付けた人々のことで、私はその記事で便宜的に「真の教養」と名付けました。
 それに対して、著者のいう「知的に洗練された人々」とは、「その時代に流行している「芸術(文学も含めて)」や「学問」や「思想」」を追いかけている人々のことで、私は「流行の教養」と名付けました。
 それゆえ、同じフラニーの恋人を、カーモードは「教養のない」アイヴィ・リーグの学生といい、著者は「知的洗練をしきりに追い求める」インテリと呼ぶのです。
 私は、これら以外に、「その時代に必要とされる「知識」や「常識」」を身に付けた人々もまた、「教養」があると言っていいと思っています(便宜的に、「生活の教養」と名付けました)。
 そして、著者が軽蔑して、グラス家兄妹も軽蔑しているとした、「太っちょのおばさま」たちは、こうした「生活の教養」(その中には、サリンジャーのプライバシーを侵さないことも含まれているでしょう)は身に付けていて、グラス家兄妹(サリンジャー)は彼らを「許して」いるのではなく、愛しているのです。
 また、作者はサリンジャー作品の人気を支えているキーワードが、「可愛い」であると主張しています。
 ホールデン・コールフィールドも、シーモァも、すべての彼らの行為は「可愛い」ので、多くの読者を魅了しているとしています。
 筆者は、「思春期の子供にとって、可愛いということは、相対的な弱さから生じる、子供たちの正常な自己憐憫を、大人の世界に向かい合った時に相対的な強さに変えることである。それは、それ以外に強みをもたぬ少年たちが演じることのできる役割なのである」としています。
 このように、「子どもの世界」に対して、「大人の世界」の方が絶対的に価値のあるものだと考える著者には、サリンジャー世界を本質的に理解することは不可能だと思われます。





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